第一章 筋書きは誰が書いた
第一話 果ての大陸のおっさん
[深夜のオフィス 残業中の男]
その夜も、吉村学はモニターの前にいた。
時計の針は、とっくに日付をまたいでいる。
フロアに残っているのは、学ひとりだけだった。
「……よし。表示、これで直ったな」
画面の中で、ようやくボタンと商品の画像が正常に動作するようになった。
四十五歳にもなって、他人が壊したプログラムを直すために終電を逃している。
乾いた目をこすり、椅子の背にもたれた。
「まったく、エグい壊し方をしてくれたもんだな」
肩も腰も、きしむように痛む。
鏡を見るたびに、年相応どころか、年以上にくたびれた顔が映る。
もっとも、その冴えない顔が、それほど嫌いではなかった。
「さて、帰るか」
立ち上がったところで、まばたきをした。
次に目を開けたとき、蛍光灯の白い光は消えていた。
◇
[見知らぬ草原 学]
風が頬をなでていた。
見渡すかぎりの草原に、立っていた。
空は抜けるように青く、雲が驚くほど低いところを流れている。
足もとでは、見たこともない色の花が揺れていた。
「……は?」
自分の頬をつねった。
痛い。
夢にしては、草の匂いが生々しすぎる。
着ているのはくたびれたワイシャツとスラックスで、首には社員証がぶら下がったままだった。
「いやいやいや。待ってくれよ。僕、さっきまで会社にいたんだぞ」
誰にともなく言ってみても、返事をするのは風の音だけだった。
そのとき、頭上を大きな影が横切った。
見上げたまま、口を開けて固まった。
空を覆うほどの翼と、鱗に覆われた長い首。
日の光を受けて、全身が赤銅色に輝いている。
それは悠々と空を旋回し、遠くの山の向こうへ消えていった。
「ドラゴン……だよな、今の」
答える者はいない。
代わりに、地面が揺れた。
ずしん、と腹に響く音が、一定の間隔で近づいてくる。
地平線の向こうで、山が動いていた。
いや、山ではない。
人の形をしている。
雲に届きそうな巨人が、ゆっくりと草原を横切っていく。
巨人が足を下ろすたびに、丘がひとつ平らになった。
その場に、へたり込んだ。
「……ドラゴンが飛んで、巨人が地面をならしてる。なるほど。なるほどね」
何がなるほどなのか、自分でもわからなかった。
ただ、ここが日本でないことだけは、いやというほどよくわかった。
◇
[草原のはずれの森 学]
どれくらい呆然としていたのか。
日が傾きはじめたころ、ようやく立ち上がった。
喉がからからに渇いている。
異世界だろうが何だろうが、人間は水がなければ死ぬのだ。
草をかき分けて歩くうちに、森の入口が見えてきた。
木々のあいだを、小さな光がいくつも舞っている。
蛍にしては大きく、夕暮れの光の中でも、はっきりわかるほど明るかった。
光は輪になって、笑い声のような音を立てながら踊っていた。
「……今度は何だよ」
近づこうとすると、光はぱっと散って、木々の奥へ消えた。
入れ替わるように、せせらぎの音が聞こえてくる。
「水だ!」
音のするほうへ駆けだした。
木の根を飛び越え、茂みを抜ける。
目の前に、澄んだ小川が流れていた。
膝をつき、両手で水をすくおうとした。
指先が、乾いた土をかいた。
「……あれ?」
もう一度、手を伸ばす。
水面に手を入れたはずなのに、濡れた感触がない。
目に見えるのは確かに川で、耳に聞こえるのも確かに水の音だ。
それなのに、手のひらには土と小石しか残らなかった。
思いきって、顔ごと川に突っ込んだ。
ごつん、と額が地面にぶつかった。
「あっははははは!」
頭の上で、甲高い笑い声が弾けた。
額を押さえて顔を上げると、小川は跡形もなく消えていた。
そこにあるのは、ただの乾いた窪地だった。
そしてその上に、小さな少女が浮かんでいた。
大きさは、学の手のひらほどしかない。
背中では、透き通った羽が日の光を受けてきらめいている。
少女は腹を抱え、空中で転げまわるように笑っていた。
「見た? 今の顔! 顔から突っ込んだ! ごつんって!」
「……君がやったんですか、今の」
「そうよ。あたしの幻術、なかなかのもんでしょ?」
少女は得意げに胸を張った。
妖精、という言葉が学の頭に浮かんだ。
ドラゴンがいて、巨人がいるのだ。
妖精がいたところで、もう驚くことでもない。
言葉が通じることを不思議に思う余裕も、今はなかった。
「いやあ、見事にやられましたよ。喉がからからの人間に、水の幻を見せる。性格がいいにもほどがありますね」
「でしょ? あんたみたいな変な格好の人間、初めて見たもの。からかわずにいられないじゃない」
額をさすりながら、ひきつった笑みを浮かべた。
腹は立つ。
だが、相手は手のひらほどの少女だ。
つかみかかるわけにもいかない。
「ねえ、もう一回やっていい? 次はもっとすごいの見せてあげる」
学が答える前に、少女はくるりと指を回した。
足もとから、無数の蛇が湧き出した。
「うわっ!」
飛びのいた拍子に、背中が木の幹にぶつかる。
蛇は一匹残らず、煙のように消えた。
少女はまた、空中で笑い転げている。
「あははは! うわっ、だって!」
――この野郎。
学の中で、何かがぷつりと切れた。
二十年、理不尽な仕様変更にも、深夜の障害対応にも耐えてきた。
それでも、やられっぱなしは性に合わない。
やり返す手段があれば、の話だが。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが脈打った。
体の内側に、今まで知らなかった感覚がある。
手を握れば指が曲がることを知っているように、それの使い方を、知っていた。
数えてみると、二つあった。
ひとつは、体の奥深くに静かに沈んでいるもの。
時間をさかのぼるような、ぬるい水のような感触がする。
なんとなく、今は関係なさそうだった。
もうひとつは、指先まで満ちて、外に出たがっているもの。
頭の中に思い描いたものを、そのまま目の前に映し出す力。
そこの妖精が使っているのと、たぶん同じものだ。
「……ああ、なるほど。これ、表示するやつだ」
口に出すと、しっくりきた。
二十年、毎日のように使ってきた言葉だ。
思い描いたとおりの形を、見る人の目の前に置くこと。
仕事でやってきたのは、ずっとそういうことだった。
さっき見たドラゴンの姿を、思い浮かべた。
赤銅色の鱗、長い首、空を覆うほどの翼。
細部まで、はっきりと思い出せる。
仕様書を見なくても、画面の完成形が頭に浮かぶのと同じだ。
「あんた、どうしたの? 固まっちゃって。怖くて動けない?」
ゆっくり顔を上げ、にやりと笑った。
「いやね。お返しをしないのは、失礼かと思いまして」
右手を、妖精のほうへ向ける。
「――表示」
次の瞬間、妖精の背後に巨大な影が立ち上がった。
赤銅色の鱗が、木漏れ日を照り返す。
牙の並んだ顎が大きく開き、金色の瞳が妖精をにらみつけた。
「きゃあっ!」
妖精は悲鳴を上げて、学の胸もとに飛び込んできた。
小さな手が、ワイシャツをぎゅっとつかむ。
内心で、拳を握った。
勝った。
四十五年の人生で、これほど気持ちのいい勝利があっただろうか。
「どうです? なかなかのもんでしょう」
さっき言われた言葉を、そっくり返してやった。
妖精は震えながら、おそるおそる振り返った。
そして、ぴたりと動きを止めた。
「……ねえ」
「何です? 降参ですか?」
「これ、なんか変じゃない?」
妖精は学の胸を離れ、ドラゴンのまわりをふわりと飛んだ。
正面から、斜めへ。
斜めから、真横へ。
真横に回り込んだところで、妖精は止まった。
つられて、横に回り込んだ。
そこにドラゴンはいなかった。
あるのは、宙に引かれた一本の細い線だけだった。
「……あれ?」
正面に戻ると、ドラゴンはそこにいる。
横に回ると、線になる。
厚みが、まったくなかった。
作ったのは、ドラゴンの絵だったのだ。
ほんの一瞬、森が静まり返った。
「――ぷっ」
妖精の肩が震えた。
「あっはははははは! 何これ! 薄っ! ぺらっぺら! あはははは!」
妖精は空中で腹を抱え、さっきよりもずっと激しく笑い転げた。
羽をばたつかせ、木の葉を散らし、しまいには涙まで流している。
顔が熱くなるのを感じた。
「いや、ちょっと待ってください。正面から見れば完璧でしょう。ユーザーは普通、正面からしか見ないんですよ」
「ゆーざー? 何それ、あはははっ! ドラゴンを横から見ない生き物なんて、どこにいるのよ!」
「……ごもっともで」
がっくりと肩を落とした。
長いこと、平らな画面の中のものばかり作ってきたのだ。
奥行きのことなど、考えたこともなかった。
まあ、いい。
大笑いされたのは癪だが、一度は悲鳴を上げさせたのだ。
引き分けということにしておこう。
そう自分を納得させたころ、妖精はようやく笑いをおさめた。
目尻の涙をぬぐい、学の顔の前まで飛んでくる。
「ねえ、あんた。名前は?」
「吉村……いえ、学です。吉村学」
「ふうん、変な名前。あたしはモルガーナ」
モルガーナは、まじまじと学の顔をのぞき込んだ。
その瞳は、さっきの幻の川よりも澄んでいた。
そして、にいっと口の端を吊り上げた。
「決めた。あんた、気に入ったわ」
それが良い知らせなのか悪い知らせなのか、このときの学には、まだわからなかった。