御伽噺の真の黒幕
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御伽噺の真の黒幕

(著者名) / 全104話 / 271,050字(表示確認用)

第一章 筋書きは誰が書いた

第一話 果ての大陸のおっさん

[深夜のオフィス 残業中の男]


 その夜も、吉村(よしむら)学(まなぶ)はモニターの前にいた。

 時計の針は、とっくに日付をまたいでいる。

 フロアに残っているのは、学ひとりだけだった。


「……よし。表示、これで直ったな」


 画面の中で、ようやくボタンと商品の画像が正常に動作するようになった。

 四十五歳にもなって、他人が壊したプログラムを直すために終電を逃している。

 乾いた目をこすり、椅子の背にもたれた。


「まったく、エグい壊し方をしてくれたもんだな」


 肩も腰も、きしむように痛む。

 鏡を見るたびに、年相応どころか、年以上にくたびれた顔が映る。

 もっとも、その冴えない顔が、それほど嫌いではなかった。


「さて、帰るか」


 立ち上がったところで、まばたきをした。

 次に目を開けたとき、蛍光灯の白い光は消えていた。


     ◇


[見知らぬ草原 学]


 風が頬をなでていた。

 見渡すかぎりの草原に、立っていた。

 空は抜けるように青く、雲が驚くほど低いところを流れている。

 足もとでは、見たこともない色の花が揺れていた。


「……は?」


 自分の頬をつねった。

 痛い。

 夢にしては、草の匂いが生々しすぎる。

 着ているのはくたびれたワイシャツとスラックスで、首には社員証がぶら下がったままだった。


「いやいやいや。待ってくれよ。僕、さっきまで会社にいたんだぞ」


 誰にともなく言ってみても、返事をするのは風の音だけだった。


 そのとき、頭上を大きな影が横切った。

 見上げたまま、口を開けて固まった。

 空を覆うほどの翼と、鱗に覆われた長い首。

 日の光を受けて、全身が赤銅色に輝いている。

 それは悠々と空を旋回し、遠くの山の向こうへ消えていった。


「ドラゴン……だよな、今の」


 答える者はいない。

 代わりに、地面が揺れた。

 ずしん、と腹に響く音が、一定の間隔で近づいてくる。


 地平線の向こうで、山が動いていた。

 いや、山ではない。

 人の形をしている。

 雲に届きそうな巨人が、ゆっくりと草原を横切っていく。

 巨人が足を下ろすたびに、丘がひとつ平らになった。


 その場に、へたり込んだ。


「……ドラゴンが飛んで、巨人が地面をならしてる。なるほど。なるほどね」


 何がなるほどなのか、自分でもわからなかった。

 ただ、ここが日本でないことだけは、いやというほどよくわかった。


     ◇


[草原のはずれの森 学]


 どれくらい呆然としていたのか。

 日が傾きはじめたころ、ようやく立ち上がった。

 喉がからからに渇いている。

 異世界だろうが何だろうが、人間は水がなければ死ぬのだ。


 草をかき分けて歩くうちに、森の入口が見えてきた。

 木々のあいだを、小さな光がいくつも舞っている。

 蛍にしては大きく、夕暮れの光の中でも、はっきりわかるほど明るかった。

 光は輪になって、笑い声のような音を立てながら踊っていた。


「……今度は何だよ」


 近づこうとすると、光はぱっと散って、木々の奥へ消えた。

 入れ替わるように、せせらぎの音が聞こえてくる。


「水だ!」


 音のするほうへ駆けだした。

 木の根を飛び越え、茂みを抜ける。

 目の前に、澄んだ小川が流れていた。

 膝をつき、両手で水をすくおうとした。


 指先が、乾いた土をかいた。


「……あれ?」


 もう一度、手を伸ばす。

 水面に手を入れたはずなのに、濡れた感触がない。

 目に見えるのは確かに川で、耳に聞こえるのも確かに水の音だ。

 それなのに、手のひらには土と小石しか残らなかった。


 思いきって、顔ごと川に突っ込んだ。


 ごつん、と額が地面にぶつかった。


「あっははははは!」


 頭の上で、甲高い笑い声が弾けた。

 額を押さえて顔を上げると、小川は跡形もなく消えていた。

 そこにあるのは、ただの乾いた窪地だった。


 そしてその上に、小さな少女が浮かんでいた。

 大きさは、学の手のひらほどしかない。

 背中では、透き通った羽が日の光を受けてきらめいている。

 少女は腹を抱え、空中で転げまわるように笑っていた。


「見た? 今の顔! 顔から突っ込んだ! ごつんって!」

「……君がやったんですか、今の」

「そうよ。あたしの幻術、なかなかのもんでしょ?」


 少女は得意げに胸を張った。

 妖精、という言葉が学の頭に浮かんだ。

 ドラゴンがいて、巨人がいるのだ。

 妖精がいたところで、もう驚くことでもない。

 言葉が通じることを不思議に思う余裕も、今はなかった。


「いやあ、見事にやられましたよ。喉がからからの人間に、水の幻を見せる。性格がいいにもほどがありますね」

「でしょ? あんたみたいな変な格好の人間、初めて見たもの。からかわずにいられないじゃない」


 額をさすりながら、ひきつった笑みを浮かべた。

 腹は立つ。

 だが、相手は手のひらほどの少女だ。

 つかみかかるわけにもいかない。


「ねえ、もう一回やっていい? 次はもっとすごいの見せてあげる」


 学が答える前に、少女はくるりと指を回した。

 足もとから、無数の蛇が湧き出した。


「うわっ!」


 飛びのいた拍子に、背中が木の幹にぶつかる。

 蛇は一匹残らず、煙のように消えた。

 少女はまた、空中で笑い転げている。


「あははは! うわっ、だって!」


 ――この野郎。


 学の中で、何かがぷつりと切れた。

 二十年、理不尽な仕様変更にも、深夜の障害対応にも耐えてきた。

 それでも、やられっぱなしは性に合わない。

 やり返す手段があれば、の話だが。


 そう思った瞬間、胸の奥で何かが脈打った。

 体の内側に、今まで知らなかった感覚がある。

 手を握れば指が曲がることを知っているように、それの使い方を、知っていた。

 数えてみると、二つあった。


 ひとつは、体の奥深くに静かに沈んでいるもの。

 時間をさかのぼるような、ぬるい水のような感触がする。

 なんとなく、今は関係なさそうだった。


 もうひとつは、指先まで満ちて、外に出たがっているもの。

 頭の中に思い描いたものを、そのまま目の前に映し出す力。

 そこの妖精が使っているのと、たぶん同じものだ。


「……ああ、なるほど。これ、表示するやつだ」


 口に出すと、しっくりきた。

 二十年、毎日のように使ってきた言葉だ。

 思い描いたとおりの形を、見る人の目の前に置くこと。

 仕事でやってきたのは、ずっとそういうことだった。


 さっき見たドラゴンの姿を、思い浮かべた。

 赤銅色の鱗、長い首、空を覆うほどの翼。

 細部まで、はっきりと思い出せる。

 仕様書を見なくても、画面の完成形が頭に浮かぶのと同じだ。


「あんた、どうしたの? 固まっちゃって。怖くて動けない?」


 ゆっくり顔を上げ、にやりと笑った。


「いやね。お返しをしないのは、失礼かと思いまして」


 右手を、妖精のほうへ向ける。


「――表示」


 次の瞬間、妖精の背後に巨大な影が立ち上がった。

 赤銅色の鱗が、木漏れ日を照り返す。

 牙の並んだ顎が大きく開き、金色の瞳が妖精をにらみつけた。


「きゃあっ!」


 妖精は悲鳴を上げて、学の胸もとに飛び込んできた。

 小さな手が、ワイシャツをぎゅっとつかむ。

 内心で、拳を握った。

 勝った。

 四十五年の人生で、これほど気持ちのいい勝利があっただろうか。


「どうです? なかなかのもんでしょう」


 さっき言われた言葉を、そっくり返してやった。

 妖精は震えながら、おそるおそる振り返った。

 そして、ぴたりと動きを止めた。


「……ねえ」

「何です? 降参ですか?」

「これ、なんか変じゃない?」


 妖精は学の胸を離れ、ドラゴンのまわりをふわりと飛んだ。

 正面から、斜めへ。

 斜めから、真横へ。

 真横に回り込んだところで、妖精は止まった。


 つられて、横に回り込んだ。

 そこにドラゴンはいなかった。

 あるのは、宙に引かれた一本の細い線だけだった。


「……あれ?」


 正面に戻ると、ドラゴンはそこにいる。

 横に回ると、線になる。

 厚みが、まったくなかった。

 作ったのは、ドラゴンの絵だったのだ。


 ほんの一瞬、森が静まり返った。


「――ぷっ」


 妖精の肩が震えた。


「あっはははははは! 何これ! 薄っ! ぺらっぺら! あはははは!」


 妖精は空中で腹を抱え、さっきよりもずっと激しく笑い転げた。

 羽をばたつかせ、木の葉を散らし、しまいには涙まで流している。

 顔が熱くなるのを感じた。


「いや、ちょっと待ってください。正面から見れば完璧でしょう。ユーザーは普通、正面からしか見ないんですよ」

「ゆーざー? 何それ、あはははっ! ドラゴンを横から見ない生き物なんて、どこにいるのよ!」

「……ごもっともで」


 がっくりと肩を落とした。

 長いこと、平らな画面の中のものばかり作ってきたのだ。

 奥行きのことなど、考えたこともなかった。


 まあ、いい。

 大笑いされたのは癪だが、一度は悲鳴を上げさせたのだ。

 引き分けということにしておこう。


 そう自分を納得させたころ、妖精はようやく笑いをおさめた。

 目尻の涙をぬぐい、学の顔の前まで飛んでくる。


「ねえ、あんた。名前は?」

「吉村……いえ、学です。吉村学」

「ふうん、変な名前。あたしはモルガーナ」


 モルガーナは、まじまじと学の顔をのぞき込んだ。

 その瞳は、さっきの幻の川よりも澄んでいた。

 そして、にいっと口の端を吊り上げた。


「決めた。あんた、気に入ったわ」


 それが良い知らせなのか悪い知らせなのか、このときの学には、まだわからなかった。

第一章 筋書きは誰が書いた

第二話 妖精の友と十年

「モルガーナって、長くて呼びにくいでしょ。モナでいいわ。特別に、そう呼ばせてあげる」


 妖精は、学の肩にちょこんと腰を下ろした。

 勝手に友達にされたらしい。

 もう、逆らう気力も残っていなかった。


「はあ。じゃあ、モナさんで」

「さんはいらない。それで、あんたは……マナブ、だっけ? 言いにくいわね。マーナでいいわ」

「待ってください。それ、女の子の名前みたいじゃないですか」

「いいじゃない。マナに似てて素敵よ。魔法の源と同じ響きなんて、幻術使いにぴったりだわ」


 学の抗議は、羽音ひとつで聞き流された。

 こうして、異世界で二つ目の名前を手に入れた。

 本人の希望とは、まったく関係なく。


     ◇


 翌朝から、モナの授業が始まった。


 自分の中にある二つの感触を説明すると、モナは眉をひそめた。


「魔法ってのはね、人間でも妖精でも、持てるのは二つまでって決まってるの。血筋の魔法と、生まれつきの魔法」

「二つまで、なんですか」

「そうよ。三つ目なんて、どこの誰にも使えないわ。それに、生まれつきの魔法なんて、持ってない人間のほうがずっと多いんだから。それなのに、あんたはせっかく二つとも持ってて、その二つがどっちも戦えないなんて。信じられない」


 幻術ではないほう、体の奥に沈んでいたあの感触は、「不老」という魔法らしい。

 長命なエルフがよく使う魔法で、使えば体が若返るのだという。


「炎も出ない、水も出ない。身を守る魔法も、空を飛ぶ魔法もなし。こんな物騒なところで、よく生きてたわね」

「昨日来たばかりなんで、生きてたも何もないですけどね」

「……ま、いいわ。幻術があるなら、それで十分よ。幻術こそが至高の魔法なんだから」


 モナは小さな胸を張った。


「ただし、ぺらっぺらのドラゴンは論外。まずは厚みからね」


 最初の一年は、ほとんどそれだけで終わった。

 林檎を一つ、裏も表もある形で出す。

 それができると、木を一本。

 次は岩を、その次は小屋を。

 横から見ても線にならないものを作れるようになるまで、何百回も笑われた。


「立体ってのは、要するに全方位から見た画面を同時に出すってことか……いや、そうじゃないな。奥に、ちゃんと中身があると思い込むんだ」


 ぶつぶつと考えながら試しているうちに、言葉づかいはいつの間にか崩れていった。

 毎日顔を合わせ、毎日笑われていれば、遠慮もなくなる。


「おいモナ、今の見たか。裏側まで木目が入ってるぞ」

「見た見た。でも、その木、葉っぱが一枚も揺れてないじゃない。風が吹いてるのに」

「……細かいな、おまえ」

「細かくないと、幻術はすぐばれるの」


     ◇


 二年目には、もう一つ大事なことを叩き込まれた。


 ある日、巨人の通り道に、幻の大岩を置いた。

 巨人は足を止め、首をかしげ、迂回して去っていった。

 得意になって振り返った学の額を、モナが小さな指で弾いた。


「あの巨人がまたここを通ったら、どうなると思う?」

「どうって……岩がないな、と思うだろうな」

「そう。昨日あった岩が、今日はない。そしたら、誰かが自分を騙したって気づくでしょ」


 モナは、くるりと宙で一回転した。


「幻術は、解けたあとがいちばん大事なの。解けても辻褄が合うように使うこと。合わないなら、本物で埋め合わせること。それができないなら、そもそも使わないこと」

「……地味だな」

「地味でいいのよ。ばれない嘘がいちばん上等なんだから」


 それからというもの、幻の炎を見せたら本当に焚き火の跡を作り、幻の落石を見せたら本当に石を転がしておくようになった。

 我ながら、涙ぐましい努力だと思った。


     ◇


 三年目には、言葉を口にしなくても幻術が出せるようになった。

 四年目には、幻に音をつけられるようになった。

 五年目には、モナのいたずらに幻術でやり返し、三回に一回は勝てるようになった。

 六年目には、触れても本物と区別がつかない幻を作れるようになった。


 ただ、見せたい相手にだけ見せる技だけは、どうしても身につかなかった。

 見せる相手が、モナしかいないのだ。


 七年目には、昼寝中のドラゴンの鼻先に幻の獲物をちらつかせ、森の奥へ逃がして半日追いかけさせたうえで、見失わせることに成功した。

 ドラゴンが疲れ果てて眠ったあと、学とモナは腹を抱えて笑い転げた。

 それは、前の世界の四十五年では味わったことのない種類の楽しさだった。


 不老の魔法は、それより前、四年目の冬から使っていた。

 きっかけは、長年のデスクワークで固まった腰の痛みだ。

 一度使うと、体が一年分ほど軽くなった。

 腰が痛むたびに使ううちに、肩の痛みも消え、目のかすみも消えた。

 数年が過ぎるころには、水面に映る顔は、二十代のころの自分に戻っていた。


「……うわ。誰だよ、これ」


 水面をのぞき込み、顔をしかめた。

 若い。

 若すぎる。

 社会に出たばかりの、何も知らなかったころの顔だ。


「いいじゃない、そっちのほうがずっといいわよ」

「よくない。なんか落ち着かないんだよ。四十五年かけて作った顔だぞ、あれは」


 体が軽いのはありがたい。

 だが、あの少しくたびれて冴えない顔のほうが、自分らしく思えた。

 だから、自分に幻術をかけた。

 朝起きてから眠るまで、ずっと四十五歳の顔でいられるように。


「もったいない。あたしには、ちゃんと見えてるけどね」


 モナだけは、にやにやしながら本当の顔を眺めていた。


     ◇


 十年目の春の夜だった。


 妖精の森のはずれで、星を見上げていた。

 この十年、話し相手はほとんどモナだけだった。

 ほかの妖精たちは気まぐれで、ドラゴンも巨人も、話が通じる相手ではない。

 楽しかった。

 本当に楽しかった。


 それでも、ときどき思い出すのだ。

 コンビニの店員の、気の抜けた「いらっしゃいませ」。

 隣の席の同僚が、ため息まじりにこぼす愚痴。

 誰かと並んで、くだらないことで笑う夜。


「……人に会いたいな」


 ぽつりとこぼした言葉を、隣でモナが拾った。


「人間の大陸に行きたいの?」

「人間の大陸? ここのほかにも、大陸があるのか」

「あるわよ。ずっと遠く離れたところに、人間がたくさん住んでる大陸がね」


 モナは、夜の闇の向こうを指さした。


「人間たちは、ここのことを『果ての大陸』って呼んでるわ。世界の果てにある、ドラゴンと巨人と妖精の土地、ってね」

「果ての大陸、ねえ。ずいぶん大げさな名前だな」

「大げさでもないわよ。遠すぎて、人間がここまでたどり着くことなんて、ほとんどないもの」


 この十年、一度も人間を見かけなかったわけだ。

 ようやく、腑に落ちた。


「じゃあ、どうやって行くんだよ」

「あたしを誰だと思ってるのよ。転移くらい、お茶の子さいさいだわ」


 モナは得意げに羽を鳴らした。

 そういえば、モナが使うもう一つの魔法は空間転移だった。

 十年、ほとんど見せてくれたことはなかったが。


「でもさ、向こうで本名を名乗るのはやめたほうがいいわ。あんたの名前、きっと浮くもの」

「マーナよりはましだと思うけどな。じゃあ、何がいい?」


 モナは少し考えて、学の顔の前でぴたりと止まった。


「シモン。どう?」

「シモン……」


 口の中で転がしてみる。

 悪くない。

 いや、正直に言えば、本名よりずっと格好いい。


「気に入った。それにする」

「でしょ?」


 モナは満足げにうなずき、それから、少しだけ真面目な顔になった。


「言っとくけど、妖精が名前を贈るのって、特別なことなんだからね。粗末にしたら、妖精をばかにしたのと同じなんだから。大事にしなさいよ」

「マーナは?」

「あれは、ただのあだ名」


 思わず笑ったが、モナの目は笑っていなかった。

 その名前を大事にしようと、心に決めた。


「それで、あたしもついていってあげる。あんた一人じゃ、三日で騙されて身ぐるみはがされそうだし」


 モナは、きらきらと目を輝かせた。


「それに、久しぶりに人間をからかって遊びたいのよね」

「……後半が本音だろ」

「両方本音よ」


     ◇


 旅立ちの朝、モナは一着の服を持ってきた。

 妖精の織物で仕立てた上着とズボンだ。

 光の加減で淡く色を変える、不思議な布だった。

 十年着続けたワイシャツは、とうにぼろ布になっていた。


 荷物は小さな袋が一つだけだった。

 中には、森で拾い集めたドラゴンの鱗が何枚か入っている。

 抜け落ちて地面に転がっていたものだ。


「それ、向こうで売れば、しばらく困らないと思うわよ」

「ただの落とし物だぞ?」

「向こうではね、そうじゃないの」


 モナはくすりと笑い、学の肩に乗った。

 モナの輪郭が、一瞬だけ陽炎のように揺らいだ。


「あたし、向こうではあんた以外に見えないようにしておくから。人前で話しかけないでよね。独り言のおっさんだと思われるわよ」

「それは困るな」

「じゃ、行くわよ、マーナ」


 景色が、ぐにゃりと歪んだ。


     ◇


[人間の大陸・城壁の門の前 学]


 石畳の匂いがした。

 人の声がした。

 馬のいななきと、車輪のきしむ音と、どこかで誰かが値切る声。


 目の前を、見上げた。

 灰色の石を積み上げた、巨大な城壁がそびえている。

 その真ん中で、大きな門が口を開け、人々を飲み込んでいた。


「シュタインマルク王国の王都、シュタインブルクよ」


 学にしか見えないモナが、耳もとでささやいた。


「ようこそ、人間の世界へ。シモン」

第一章 筋書きは誰が書いた

第三話 お上りさんと女騎士

[王都シュタインブルク・大通り 学]


 人が多い。

 とにかく、人が多い。


 門をくぐってから、ずっと大通りの端で立ち尽くしていた。

 荷車が行き交い、物売りが声を張り上げ、子どもが足もとをすり抜けていく。

 十年ぶりに見る人の群れは、果ての大陸のどんな魔物よりも目まぐるしかった。


「……すごいな。満員電車みたいだ」


 思わずこぼした独り言に、すれ違った女がちらりと振り返った。

 咳払いをして、口をつぐんだ。


 パン屋の店先から、焼きたての匂いが漂ってくる。

 腹が鳴った。

 十年ぶりのパンだ。

 ぜひとも食べたい。

 だが、問題が一つあった。


 人間の金を、一枚も持っていなかった。


「ねえマーナ、いいこと思いついた」


 肩の上で、学にしか見えないモナが楽しそうに足をぶらつかせている。


「幻術でお金を作っちゃえば? あんたなら、本物そっくりのが作れるでしょ」

「それ、偽金じゃん」


 即答だった。

 ついでに、声も大きかった。

 パン屋の女将が、こね台から顔を上げて学を見た。

 通りがかりの男が、気味悪そうに距離をとった。


 何でもないふうを装って、空を見上げた。

 肩の上では、モナが腹を抱えて笑っている。

 文句の一つも言ってやりたい。

 だが、ここで言い返せば、ますます独り言の怪しいおっさんだ。


 ――覚えてろよ。


 心の中でだけ、毒づいた。


     ◇


 それから半刻ほど、大通りを行ったり来たりした。

 ドラゴンの鱗を売らなければならない。

 それはわかっている。

 わからないのは、どこで売ればいいのか、だった。


 八百屋で鱗を出しかけて、さすがに違うだろうと引っ込めた。

 鍛冶屋の前で立ち止まり、親方ににらまれて逃げた。

 同じ角を三回曲がり、同じ噴水の前に三回出た。


「――おい。そこの者」


 背後から、張りのある声がかかった。


 振り返ると、若い女が立っていた。

 黒髪を高い位置でひとつに結び、腰には剣を下げている。

 胸当てに刻まれた紋章は、たぶん騎士か何かのものだろう。

 切れ長の目の奥で、青い瞳が学をじっと見据えていた。


「先ほどから、同じところを何度も回っているな。……いや、回っていますね。何かお困りですか?」


 言い直した。

 今、明らかに言い直した。


「あ、いえ。お気遣いどうも。実は、この街に来たばかりでして」

「やはりそうか。その身なりで、きょろきょろと噴水ばかり眺めているから、気になったのだ」


 女は学の上着に目をやった。

 妖精の織物は、日の光を受けて淡く色を変えている。

 女の眉が、わずかに上がった。


「上等な服だ。商人か? それにしては、ずいぶん……」

「お上りさん、ですかね」

「……そう、それだ。失礼」


 女は少しばつが悪そうに咳払いをした。

 悪い人ではなさそうだ、と思った。

 言葉の端々が妙に偉そうなのは、たぶん育ちのせいだろう。


「私はカタリナ。騎士です。まだ任官したばかりで、研修として街の見回りをしています」

「シモンです。どうぞよろしく」


 自然に、その名前が口から出た。

 悪くない。

 いや、やはり本名よりずっといい。


     ◇


「売りたい物がある、と?」

「ええ。ちょっと珍しい素材でして。どこに持っていけばいいのか、さっぱりわからないんですよ」


 カタリナは少し考えてから、うなずいた。


「それなら、素材の買取商がいい。信用できる店を知っています。ついてきなさい」


 ついてきなさい、と来た。

 苦笑しながら、そのあとに続いた。


「ついてきなさい、だって。ずいぶん偉そうな騎士さんね」


 耳もとで、モナが面白そうに言った。

 言い返したいのはやまやまだが、目の前にはカタリナがいる。

 聞こえないふりをした。


 カタリナが案内したのは、大通りから一本入った、落ち着いた店構えの買取商だった。

 店の奥には、獣の牙や魔物の皮、見たこともない色の石が並んでいる。

 白髪まじりの店主が、眼鏡の奥から学を値踏みするように見た。


「で、お売りになりたい品というのは」

「これなんですが」


 袋から、鱗を一枚取り出した。

 手のひらより一回り大きい、赤銅色の鱗だ。

 果ての大陸では、森を歩けばたまに落ちている。


 店主の手が、ぴたりと止まった。


 眼鏡を外し、かけ直す。

 鱗を光にかざし、指で弾き、もう一度光にかざす。

 その手が、だんだんと震えはじめた。

 やがて店主は、ゆっくりと椅子から滑り落ちた。


「ど、ど、ドラゴンの……」

「店主!?」


 カタリナが慌てて駆け寄った。

 店主は床に座り込んだまま、鱗を胸に抱きしめて震えている。


「ほ、本物だ……抜け落ちた鱗だ……傷もない……まさか生きているうちに、この手で……」

「シモン殿。これを、どこで?」


 カタリナが、信じられないものを見る目で学を見た。

 学は頭をかいた。


「いやあ、拾ったんですよ。森で」

「森で」

「ええ、森で」


 嘘は言っていない。

 どこの森かを言っていないだけだ。


 視界の端で、モナが声を殺して笑い転げていた。


     ◇


 結局、店主は店の金庫を空にして、それでも足りないと頭を下げた。

 足りない分は、後日あらためて支払うという。

 学が受け取ったのは、ずっしりと重い革袋だった。

 中には、明らかに大きな金貨が詰まっていた。


「……その袋ひとつで、何年か遊んで暮らせる額ですよ」


 店を出たところで、カタリナが額を押さえながら言った。


「何年か、ですか」

「何年か、です。あなたは、ご自分が何を持ち歩いているのか、わかっているのですか」

「いやあ、今わかりました」


 カタリナは深いため息をついた。


「いやあ、おかげさまで。それにしてもカタリナさん、街のことにずいぶんお詳しいんですね」

「研修で、毎日この辺りを見回っていますから。どの店が信用できるかくらいは、自然と覚えます」


 カタリナは、行き交う人々に目をやった。

 パンを抱えた子ども、荷を下ろす商人、井戸端で笑い合う女たち。

 それを眺める横顔が、ふと遠くを見るような目になった。


「……もっとも、それもあと少しです。研修が終われば、こうして街を歩くこともなくなる」

「研修が終わると、どうなるんです?」

「近衛騎士団に入ることになっています。王宮の、奥のほうに」


 近衛というのは、たぶん王様の護衛のようなものだろう。

 騎士としては、出世の道のはずだ。

 それなのに、カタリナの声は少しも嬉しそうではなかった。


「……すみません。会ったばかりの方に、話すことではありませんでした」


 カタリナは表情を引き締め、大通りの先を指さした。


「あの先が、市場の入口です。食べ物も道具も、たいていの物はそこで手に入る。私は見回りに戻らねばなりません。それと、その袋は懐の奥にしまっておけ。市場はスリが多い。……しまっておいてください」


 また言い直した。

 笑いをこらえながら、言われたとおり革袋を上着の内側にしまった。


「本当に助かりました。このご恩は、いずれ」

「礼には及びません。民を助けるのは、騎士の務めです」


 カタリナは小さく会釈をすると、背筋を伸ばして人混みの中へ消えていった。

 ポニーテールが、最後まで真っすぐに揺れていた。


     ◇


[王都・市場の入口 学]


 市場の入口で、革袋から金貨を一枚つまみ出した。

 手のひらに、ずしりと重い。

 パンを一つ買うのに、これを出したらどうなるだろうか。

 パン屋の女将が、さっきの店主のように椅子から滑り落ちる姿が目に浮かんだ。


「……これ、どこで使えばいいんだ?」


 途方に暮れてつぶやいた学の耳もとで、モナが吹き出した。


「お金持ちになったのに困ってる人、初めて見たわ」


 ひとしきり笑ってから、モナは小さな指で市場の一角を指し示した。

 そこには、天秤と分銅を並べた小さな店があった。


「ねえマーナ、あそこで両替すれば?」

第一章 筋書きは誰が書いた

第四話 緑青

「ねえマーナ、その格好のまま、あの金貨を出すつもり?」


 両替商の店へ向かいかけた学の耳もとで、モナが言った。


「何かまずいのか」

「まずくはないけど、目立つわよ。さっきの買取商みたいに、また腰を抜かされるかも」


 上着の内側の革袋に、手を当てた。

 確かに、そうかもしれない。

 上等な服を着たお上りさんが、とんでもない金貨を出す。

 それは、どう考えても騒ぎの種だ。


「だからさ、貴族のふりをしていけばいいのよ。大きな金貨を崩しに来る貴族なんて、珍しくもないでしょ」


 モナは、いたずらっぽく目を細めた。


「それにあんた、好きでしょ? そういうの」


 好きだ。

 否定はできない。

 悪役の、それも裏で糸を引く黒幕の役どころなど、いちばん好きなものだった。

 十年、果ての大陸で磨いた幻術がある。

 それを人前で試せる日が、とうとう来たのだ。


 人通りの少ない路地に入り、壁際で足を止めた。


「――表示」


 小さくつぶやく。

 言葉にしなくても幻術は使えるが、こういうときは気分の問題だ。


 妖精の織物の上着が、夜のように深い色の外套へと変わった。

 光の加減で、黒とも紺とも紫ともつかない色に揺らめく。

 何で織られたのか、誰にも見当がつかないような美しい布だ。

 襟もとには、銀糸の刺繍が細く走っている。


 四十五歳の冴えない顔も、別人のものに描き換えた。

 艶のある黒髪を、整髪料で撫でつけたように後ろへ流す。

 切れ長の目に、赤い瞳を据える。


 肌は白く、血が通っていないかと思うほど冷たい色にした。

 最後に背筋を伸ばし、顎をわずかに上げる。


 路地の水たまりに、見知らぬ紳士が映っていた。

 三十代ほどに見えるが、角度によっては、もっと若くも見える。

 それでいて、その立ち姿には、妙に年経た風格が漂っていた。


「……悪くない」

「悪くないどころか、どこから見てもいけ好かない貴族よ」


 モナが、ころころと笑った。


     ◇


[王都・市場 学]


 外套を翻して市場に戻ると、人波が自然と左右に割れた。

 物売りが声を落とし、荷車の男が帽子に手をやる。

 さっきまで誰も気に留めなかったおっさんに、今は誰もが道を譲っていた。

 服と顔と背筋だけで、人の態度はこうも変わるものらしい。


 両替商の店は、市場の一角にある小さな店だった。

 台の上には天秤と分銅が並び、奥には頑丈そうな鉄の箱が置かれている。


 ちょうど、先客が両替を終えたところだった。

 地味な身なりの男が、銀貨の詰まった袋を台に置き、代わりに金貨を何枚か受け取っている。

 男は金貨を懐に押し込むと、周りを気にするように足早に去っていった。


 台の向こうで、若い両替商が銀貨を数え直していた。

 年は二十歳そこそこだろうか。

 そばかすの残る顔に、真剣な色が浮かんでいる。


 台の前に立ち、ゆっくりと口を開いた。


「両替を頼みたい。私は少々、急いでいてね」


 若い両替商は顔を上げ、学の外套を見て、背筋をぴんと伸ばした。


「は、はい! 両替商のヨナスと申します。何をお崩しいたしましょう」


 懐から金貨を一枚取り出し、台の上に置いた。

 ヨナスの目が、まん丸に見開かれた。


「こ、こんなに大きな金貨……!」

「細かくしてもらえるかな。銀貨でかまわない」

「た、ただいま! 大金貨でございますから、銀貨で百枚になります。……細かいものも、少しお混ぜしましょうか。銀貨一枚で、銅貨が二十枚でございます」


 銀貨百枚。

 市場のパンなら、銅貨数枚で買えるはずだ。

 手のひらの金貨一枚が、とんでもない額だということだけは、よくわかった。


 ヨナスは震える手で天秤を確かめ、さっき数えたばかりの銀貨を台に積み上げはじめた。

 どれも傷ひとつなく、日の光を受けてぴかぴかと光っている。

 新品のように、きれいな銀貨だった。


「ねえマーナ」


 耳もとで、モナがささやいた。


「せっかく貴族なんだからさ。その銀貨に、ちょっと難癖つけてみたら? 黒幕っぽく」


 積み上げられていく銀貨に、目を落とした。

 難癖。

 つけるのは簡単だ。


 問題は、銀貨のことなど何ひとつ知らないことだった。

 銀が黒ずむことくらいは知っている。

 だが、どう黒ずめば怪しいのかは、見当もつかない。


 それでも、硬貨が古くなったときの色なら、一つだけ知っている。

 十円玉の、あの青緑色のさびだ。


 いちばん上の銀貨を、じっと見つめた。

 その縁に、うっすらと青緑色の曇りを浮かべる。


「――待ちたまえ」


 ヨナスの手が、ぴたりと止まった。


「その銀貨。私の目には、妙な曇り方をしているように見えるが」

「えっ」


 ヨナスは慌てて銀貨をつまみ上げ、目の前にかざした。

 その顔から、さっと血の気が引いていく。


「ろ、緑青(ろくしょう)……? そんな、さっきまでは何も……」

「ほう。銀貨に緑青とは、珍しいこともあるものだ」


 さも興味深そうに、眉を上げてみせた。

 内心では、こっちの世界でも緑青は緑青なのか、と妙なところに感心していた。


「貸してみたまえ」


 銀貨を受け取ると、外套の袖口で、縁を軽く拭った。

 拭うと同時に、幻術を解く。

 青緑色の曇りは、跡形もなく消えた。


「……おや。ただの汚れだったようだ」

「は、はあ……よかった……」


 ヨナスは胸をなで下ろした。

 学は銀貨を台に戻し、指先でとん、と叩いた。


「だが、念のため、確かめておかれるとよろしい。私なら、そうする」


 ヨナスは、ごくりと唾をのんだ。


「た、確かめる、と申しますと……」

「さて。それを考えるのは、私ではなく、両替商である君の仕事だろう」


 意味ありげに、微笑んでみせた。

 何を確かめればいいのかなど、もちろん学にもわからない。

 わからないが、黒幕というのは、こういうときに答えを言わないものなのだ。


 ヨナスの顔が、また青くなった。

 肩の上で、モナが口を押さえて震えている。

 笑いをこらえているのだ。


     ◇


「――何の騒ぎだ」


 背後から、聞き覚えのある声がした。


 振り返ると、黒髪のポニーテールが揺れていた。

 カタリナだ。

 見回りの途中なのだろう。


 さっき別れたばかりの女騎士は、学の顔を見ても眉ひとつ動かさなかった。

 当然だ。

 今の自分は、彼女の知らない男なのだから。


「騎士団のカタリナ・フォン・ヴァイスフェルトと申します。両替の場で、何か揉め事でも?」


 声も、口調も、さっきとはまるで違った。

 一分の隙もない、貴族同士の物言いだ。


「いや、揉め事というほどのことではない。少々、銀貨の曇りが気になっただけのこと。私の気のせいだったようだがね」

「銀貨の、曇り」


 カタリナは台の上の銀貨にちらりと目をやった。

 すかさず、ヨナスが身を乗り出す。


「さ、先ほど、縁に緑青のようなものが見えまして……拭いたら、消えたのですが……」

「緑青……?」


 カタリナは眉を寄せ、銀貨と学を見比べた。

 それから、何かを確かめるように、ゆっくりと学に向き直った。


「失礼ですが、お名前をうかがっても?」

「シモンだ」

「シモン殿。家名は」


 学は、ゆっくりと笑みを浮かべた。

 この台詞は、いつか言ってみたいと思っていたのだ。


「市井で爵位を振りかざすなど、無粋だろう」


 カタリナの眉が、かすかに動いた。

 相手が貴族である以上、それ以上は踏み込めないのだろう。

 カタリナは口を引き結び、小さく頭を下げた。


「……失礼いたしました」

「かまわんよ。職務、ご苦労。この街の銀貨が健やかであるよう、私も願っている」


 ヨナスは青い顔のまま銀貨を脇へ寄せ、奥の鉄の箱から別の銀貨を出して袋に詰め直した。

 学は、ヨナスが差し出した銀貨の袋を受け取り、外套を翻した。

 人混みへと歩き出しながら、こっそり拳を握った。

 決まった。

 今のは、我ながら完璧に決まった。


「決まってたわよ、マーナ。今の、すっごく悪い貴族っぽかった」


 耳もとで、モナがはしゃいだ声を上げた。

 学は、まんざらでもない顔で鼻を鳴らした。


 背後で、カタリナが小さくつぶやく声がした。


「シモン……?」


 学は、気にも留めなかった。

第一章 筋書きは誰が書いた

第五話 駆け出しの両替商

[王都・市場の両替商の店 ヨナス]


 日が傾き、市場の喧騒が少しずつ引いていく。

 物売りたちが荷を片づけはじめるなか、まだ店の台に張りついていた。


 台の上には、銀貨が一枚だけ置かれている。

 昼間、あの貴族が指先で叩いていった銀貨だ。


「……何も、ないよな」


 銀貨を光にかざし、縁をなぞった。

 青緑色の曇りなど、どこにもない。

 傷ひとつなく、新品のようにきれいな銀貨だ。


 拭けば消えた。

 ただの汚れだった。

 あの貴族自身も、そう言っていた。

 それなのに、去りぎわの一言が、どうしても頭から離れない。


『念のため、確かめておかれるとよろしい』


 何を、とは言わなかった。

 言わずに、意味ありげに笑っただけだった。

 その笑みを思い出すたびに、背筋がひやりと冷たくなる。


     ◇


 市場に自分の店を構えて、まだ一年にもならない。

 両替商の仕事は、信用がすべてだ。

 天秤の目盛りをごまかさないこと。

 受け取った硬貨を、きちんと検めること。

 そして何より、贋金をつかまされないこと。


 天秤を引き寄せた。

 例の銀貨を片方の皿に、自分の財布から出した古い銀貨をもう片方に載せる。

 天秤は、ぴたりと釣り合った。


「重さは、同じ……」


 次に、銀貨の縁に爪を立ててみた。

 硬さも、手触りも、古い銀貨と何も変わらない。

 大きさも、刻まれた意匠も、何ひとつ変わらない。


 両替商が教わる検め方は、ひととおり試した。

 どれも、この銀貨が本物だと告げている。

 それでも、胸のざわつきは消えなかった。


 あの貴族の姿を、思い出した。

 夜のように深い色の外套と、襟もとに光っていた銀糸の刺繍。

 光の加減で色を変えるあの布は、両替商として品物を見慣れたヨナスでさえ、見たことのない代物だった。


 撫でつけた艶のある黒髪に、白く冷たい肌。

 こちらを見下ろす、切れ長の赤い瞳。

 年は三十そこそこに見えたが、物腰はずっと年かさの貴族のようだった。


 そして、家名を問われたときの、あの涼しげな声。


『市井で爵位を振りかざすなど、無粋だろう』


 問いかけたのは、あの女騎士だった。

 カタリナ・フォン・ヴァイスフェルト。

 騎士はたしかに、そう名乗った。


 ヴァイスフェルトの名なら、平民の自分でも知っている。

 建国のころから王家を支えてきた名門で、「王国の盾」と呼ばれる家だ。

 その家の娘に家名を問われて、あの貴族は顔色ひとつ変えず、はぐらかしてみせた。

 いったい、どれほどの家の人間なのだろう。


 名と家名のあいだに「フォン」をはさんで名乗るのは、貴族だけだ。

 貴族の位は、上から公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵と続く。

 王国の盾の娘を前に、平然と家名を伏せられるのは、よほど上の家の者に違いない。

 考えるほどに、胃が重くなった。


 しばらく銀貨をにらんでいたが、やがて大きく息をついた。

 一人で考えていても、答えは出ない。

 こういうときに頼れる相手は、一人しかいなかった。


     ◇


[夕暮れの市場 ヨナス]


 銀貨を布にくるみ、懐の奥にしまって店を出た。


 夕暮れの市場は、昼間とはまるで別の場所のようだった。

 屋台の骨組みだけが並び、石畳には踏まれた野菜くずが散らばっている。

 すれ違う男の目つきが、なぜか今日はやけに気になった。

 懐の銀貨が、実際よりずっと重く感じられる。


 もし、これが贋金だったら。

 受け取った袋の中身が、全部そうだったら。

 それを知らずに、明日からの客に渡していたら。

 頭を振り、足を速めた。


 ゲルハルトの店は、市場のいちばん奥にある。

 看板は煤けて文字も読めず、台は何十年も使い込まれて黒光りしている。

 市場で最も古い両替商で、この道四十年になるという。

 自分が店を構えてから、何かあるたびに相談に通っている相手だった。


「なんだ、ヨナス。店じまいの時刻に、辛気くさい顔をしおって」


 白い眉の下から、鋭い目がこちらをにらんだ。

 ゲルハルトは、ちょうど帳簿を閉じたところだった。


「すみません、ゲルハルトさん。ちょっと、見てもらいたいものがあって」

「金の話なら明日にしろ。わしは腹が減っとる」

「銀貨の話なんです」


 昼間の出来事を、話した。

 地味な身なりの客が、銀貨の詰まった袋を金貨に替えていったこと。

 その直後に、身なりのいい貴族が現れたこと。

 貴族が銀貨の縁に妙な曇りを見つけ、拭うと消えたこと。

 そして、去りぎわに「念のため」と言い残していったこと。


 ゲルハルトは黙って聞いていた。

 ヨナスが話し終えると、太い指で顎をなでた。


「曇り、と言ったな。どんな色だった」

「青緑です。うっすらと、縁のところに。まるで――」


 口ごもった。

 口にするのも、ばかばかしい気がしたのだ。


「まるで、緑青みたいな」


 ゲルハルトの指が、止まった。


「……銀貨に、緑青?」


 低い声だった。

 さっきまでの不機嫌さが、きれいに消えていた。


「おまえ、緑青ってのが何から出るか、知っとるか」

「え? ええと……銅の、さびですよね。鍋とか、銅貨とかの」

「そうだ。銀からは出ん。銀は黒ずむだけだ。銀貨に緑青が浮くとしたら――」


 ゲルハルトは、そこで言葉を切った。

 皺だらけの手が、ヨナスに向かって突き出される。


「よこせ」


 慌てて、銀貨を差し出した。

 ゲルハルトはそれを受け取ると、台の引き出しから、もう一枚の銀貨を取り出した。

 擦り切れて、すっかり黒ずんだ古い銀貨だ。


「いいか。よく聞いとけ」


 ゲルハルトは、古い銀貨を台の上に軽く落とした。

 澄んだ音が、細く長く響いた。

 耳の奥にまで染み通るような、きれいな音だった。


 次に、ヨナスの持ってきた銀貨を、同じ高さから落とす。


 かつん、と音がした。


 思わず、瞬きをした。

 響かないわけではない。

 だが、さっきの音より、ほんのわずかに短い。

 ほんのわずかに、濁っている。

 言われなければ、絶対に気づかなかっただろう。


 ゲルハルトは、もう一度落とした。

 それから、もう一度。

 三度目の音が消えるまで、店の中は静まり返っていた。


「……ヨナス。その客が持ち込んだ銀貨は、まだあるか」

「は、はい。袋ごと、店の箱に」

「全部か」

「全部です。あの貴族には、別の箱から出し直しましたから」


 ゲルハルトは、長く息を吐いた。

 その顔から、血の気が引いていくのがわかった。

 四十年この道でやってきた男の顔が、ヨナスの見たこともない色に変わっていた。


 両替商にとって、贋金はただの損ではない。

 それをつかまされたとなれば、店の信用が地に落ちる。

 知らずに客へ渡せば、両替商自身が贋金使いの片棒を担いだことになる。

 贋金とは、両替商が最も忌むべきものなのだ。


「銀貨の袋をまとめて金貨に替えて、足早に帰った客、か」


 ゲルハルトは、誰にともなくつぶやいた。


「その貴族は、何と名乗った」

「シモン、と。家名は、はぐらかされました」

「シモン……」


 ゲルハルトは、その名前を確かめるように繰り返した。

 それから、手のひらの銀貨を強く握りしめた。


「……組合に持っていく」

第一章 筋書きは誰が書いた

第六話 両替商組合

[両替商組合の会館 ゲルハルト]


 両替商組合の会館は、王都の商人街の外れにある。

 古い石造りの建物で、表向きはただの集会所にしか見えない。

 だが、王都の両替商たちは、ここで取り決めを交わし、揉め事を裁き、互いの信用を守ってきた。

 両替商にとっては、ここが信用の最後の砦だった。


 翌朝、会館の奥の一室に、古株の両替商たちが集められた。

 長机の上には、銀貨が一枚と、銀貨の詰まった袋が一つ置かれている。

 腕を組み、黙ってそれを見下ろしていた。

 部屋の隅では、ヨナスが青い顔で縮こまっている。


「――話は、わかった」


 上座に座った組合長が、重々しく口を開いた。

 白髪をきっちりと後ろに束ねた、痩せた老人だ。


「だが、ゲルハルト。音だけで贋金と決めるわけにはいかん」

「わかっとる。だから持ってきた」


 袋から銀貨を一枚取り出し、机の上に落とした。

 かつん、と短い音がした。

 続けて、自分の古い銀貨を落とす。

 こちらは澄んだ音が、細く長く響いた。


 部屋の空気が、ぴんと張りつめた。


「……聞こえたか」

「聞こえたような、聞こえんような」

「わしには、同じに聞こえたがな」


 古株たちが、口々に言った。

 何度か落とし比べるうちに、首をかしげる者と、顔をしかめる者に分かれていった。

 四十年この道でやってきた自分の耳でも、ようやく拾える程度の違いなのだ。

 無理もない。


「重さは」

「同じだ。天秤はぴたりと釣り合う」

「硬さは」

「同じだ。見た目も、意匠も、何ひとつ変わらん」


 組合長は、長い指で机を叩いた。


「本物と区別のつかん贋金、か。そんなものがあるとすれば、ただ事ではないぞ」

「だから、ただ事ではないと言っとる」


 低い声で、言った。


「銀貨に、緑青が浮いたそうだ」


 部屋が、しんと静まり返った。

 誰もが、その言葉の意味をすぐに理解した。

 銀からは、緑青は出ない。

 出るとすれば、銀でないものが混ぜられているときだけだ。


「拭けば消えた、と聞いたが」

「ああ。消えた。だが、浮いたのは確かだ。こいつも見とる」


 ゲルハルトに顎で示され、ヨナスは慌ててうなずいた。


     ◇


 結局、組合の手では断定できなかった。


 銀の含有量を正確に調べるには、銀貨を溶かして、中の銀だけを取り出すしかない。

 だが、それには炉と、薬品と、合金の扱いに通じた者の腕がいる。

 両替商にあるのは、天秤と、耳と、長年の勘だけだ。


「学院に頼むしかあるまい」


 組合長が、最後にそう言った。


 王立リュケイオン学院。

 王都にある、国で一番の学府だ。

 金属や合金を研究している者もいると聞く。

 組合が詳しい鑑定を頼むときは、昔からそこと決まっていた。


「では、依頼状を書く。持ち込まれた銀貨の袋は、そのまま学院へ預ける」

「待ってくれ。このことは、表に出すのか」


 古株の一人が、声を上げた。

 小太りの、気の小さそうな男だった。


「贋金が出回っているなどと噂になれば、市場は大騒ぎだ。客は銀貨を信用しなくなる。わしらの商売はあがったりだぞ」

「だからこそ、鑑定が済むまでは伏せておく」


 組合長は、静かに言い切った。


「この部屋の外では、誰も口にするな。各々の店では、新しく持ち込まれた銀貨に気をつけておけ。音を聞け。妙な客には、深入りするな」


 古株たちは、重々しくうなずいた。


 組合長は書記を呼び寄せ、事の次第を記録させはじめた。

 持ち込まれた日時、店の名前、銀貨の枚数。

 そして、相談のきっかけになった人物のこと。


「その貴族風の男というのは、何者だ」

「わからん。シモンと名乗ったそうだ。家名は、はぐらかした」

「家名を、はぐらかした……」


 書記の筆が、少しだけ止まった。

 それから、几帳面な字で書きつける。


 ――家名不詳の貴族風の男。

 シモンと名乗る。

 銀貨の異状を指摘し、確認を勧めて立ち去る。


 その記録を、じっと見つめていた。


 拭けば消える緑青。

 答えを言わずに去った男。

 まるで、最初から何もかも知っていたかのようではないか。

 首を振り、その考えを追い払った。

 両替商は、勘で物を言ってはならないのだ。


 会館を出ると、ヨナスが小走りに追いついてきた。


「ゲルハルトさん。あの、僕の店は……」

「心配するな。おまえは、怪しいと思って持ってきた。それで十分だ」


 ヨナスの肩を、どんと叩いた。


「その貴族に感謝しとけ。あれがなけりゃ、おまえは今ごろ、贋金を客にばらまいとった」

「……そう、ですね」


 ヨナスは、ぎこちなく笑った。

 その笑顔が、どこか引きつっているように見えた。


     ◇


[王都の大商会・奥まった一室 商会の男]


 同じ日の夕刻。

 王都でも指折りの大商会の、奥まった一室。


 分厚い絨毯の上に、ひとりの男が立っていた。

 上質だが目立たない服を着て、穏やかな笑みを口もとに浮かべている。

 商会の者たちは、その男をユリウス・ノイマンと呼んでいた。


「両替商組合が、学院に鑑定を頼むそうです。鑑定が済むまでは、表に伏せておくと決めたようですが」


 部下の報告にも、笑みは崩さなかった。

 ただ、手の中で転がしていた銀貨が、ぴたりと止まった。


「伏せておく、か。組合の口も、案外軽いものだ。……それで、学院に何を、どこまで」

「市場の両替商が受け取った銀貨を、袋ごと。溶かして、銀の量を調べるつもりのようです」

「きっかけは」

「音です。古株の両替商が、打ち鳴らした音に違和感を覚えたとか。それと……」


 部下は、少し言いよどんだ。


「それと、銀貨に緑青が浮いた、と」

「緑青?」


 初めて、眉をひそめた。


「浮くはずがない。あれは、そういうものではない」

「はい。ですが、組合の記録にはそう残っています。拭けば消えたそうですが」

「拭けば、消えた」


 その言葉を、ゆっくりと繰り返した。


「それを見つけたのは、両替商か」

「いえ。たまたま居合わせた、貴族風の男だそうです。シモンと名乗り、家名は明かさなかったと」

「……シモン」


 窓辺に歩み寄り、暮れていく王都を見下ろした。

 石造りの屋根が、夕日を浴びて赤く染まっている。

 しばらくのあいだ、男は何も言わなかった。


「その男のことは、調べておけ。家名を名乗らない貴族など、そう多くはない」

「はっ」

「それと、学院のほうだ。依頼を受けるのが誰か、わかり次第知らせろ」

「学院に、手を回しますか」

「まずは穏便にだ。騒ぎを大きくしては、元も子もない」


 窓の外に、目を戻した。


「あそこには、余計なことに鼻の利く者が多い。……できれば、関わりたくなかったのだがな」


 部下が一礼して出ていくと、部屋には静けさが戻った。

 手の中の銀貨を、親指に載せた。

 傷ひとつなく、新品のように光る銀貨だった。


 ぴん、と指先で弾く。

 銀貨は夕日を受けてきらめき、ふたたび手のひらに落ちてきた。


「学院か。……面倒なところに持ち込んでくれたものだ」

第一章 筋書きは誰が書いた

第七話 鍛冶屋の息子

[王立リュケイオン学院・東棟 研究員]


 王立リュケイオン学院の東棟は、いつも焦げ臭い。

 炉と薬品を使う研究室が、ここに押し込められているからだ。

 その中でもいちばん奥の、いちばん狭い部屋が、テオドール・シュミットの研究室だった。


 机の上には、試し打ちした金属片が山のように積まれている。

 どれも、途中で割れたり、ひびが入ったりした失敗作だ。

 そのうちの一つを指でつまみ上げ、目の下の隈をこすった。


「……また、焼き入れでひびか」


 痩せぎすの体を椅子に沈め、天井をにらむ。

 指先は、薬品と煤で黒く汚れていた。

 何度洗っても落ちない。

 落ちないまま、もう何年もたつ。


 鉄よりも硬く、鉄よりも粘り強く、鉄よりもさびにくい金属。

 それが、自分の追いかけているものだった。

 そんなものがあれば、剣も鍬も鍋も、今よりずっと長持ちする。

 そして何より、あの頑固な親父に、文句のひとつも言わせずに済む。


     ◇


 実家は、王都の下町の鍛冶屋だ。

 親父は腕のいい職人で、その腕に誰よりも誇りを持っている。

 だからこそ、息子の言うことには一度も耳を貸さなかった。


「炉の温度を、もう少し上げてみたらどうだ」

「鉄に混ぜるものを変えれば、もっと割れにくくなるかもしれない」


 子どものころから、何度そう言っただろう。

 そのたびに親父は、黙って槌を振るい続けた。

 鍛冶屋の息子が、鍛冶屋の仕事に口を出すな。

 背中が、そう言っていた。


 鉄について教えてくれたのは、むしろ近所の商店の、隠居した老人だった。

 鉄をよくしたい一心で通いつめるうちに、老人はついでとばかりに、文字も、算術も、金属の性質も、片っ端から教え込んでくれた。

 気がつけば、学院の入学試験に受かっていた。

 平民の、それも鍛冶屋の息子としては、ほとんど例のないことだった。


 学院を優秀な成績で卒業し、研究員として残らないかと誘われた。

 だが、学院の廊下を歩くたびに、思い知らされる。

 すれ違う研究員たちは、みな上等な服を着ている。

 貴族の子弟か、大商人の息子か、そのどちらかだ。

 煤だらけの指をしているのは、自分ひとりだった。


 ついこのあいだも、廊下で伯爵家の次男坊に声をかけられた。


「やあ、シュミット君。今日も炉の番かい。さすがは鍛冶屋の息子だ。火の扱いは、僕らよりずっと手慣れている」

「おほめにあずかり光栄です。もっとも、火に近づくと汚れるのが嫌だという方々には、一生わからない手際でしょうが」


 言い返してやると、次男坊は鼻白んで去っていった。

 胸がすっとしたのは、ほんの一瞬だけだった。

 あとに残ったのは、いつもの苦い味だ。

 どれだけ皮肉を言い返しても、自分の指が煤で汚れていることは変わらない。


     ◇


「シュミット君。少しいいかね」


 研究室の戸口に、上役の教授が顔を出した。

 手には、封蝋を押した書状と、ずしりと重そうな革袋を持っている。


「両替商組合から、鑑定の依頼だ。銀貨の銀の含有量を調べてほしいそうだ」

「銀貨の、鑑定」


 思いきり、眉をひそめた。


「それは、研究員の仕事ですか。両替商に、天秤の使い方でも教えて差し上げればよろしいのでは」

「天秤では、わからんらしい。重さも硬さも、本物と変わらんそうだ」


 教授は、革袋を机の上に置いた。

 銀貨の触れ合う、重たい音がした。


「今、合金を扱えるのは、この棟では君くらいだ。組合とは、昔からの付き合いでね。頼んだよ」


 そう言うと、教授はさっさと戸口から消えた。

 返事を聞く気など、最初からなかったのだろう。


 机の上の革袋を、にらみつけた。


「……銀貨の鑑定など、研究員の仕事か」


 誰もいない部屋で、もう一度つぶやく。

 金持ちの子弟たちは、今ごろ自分の好きな研究に没頭しているはずだ。

 平民の研究員には、こういう面倒な雑用が回ってくる。

 いつものことだった。


 それでも、書状の封を切った。

 引き受けた仕事は、きちんとやる。

 それが、鍛冶屋の息子の流儀だった。


     ◇


 数日がたった。


 自分の研究の合間に、少しずつ鑑定の支度を進めていた。

 銀を取り出すための炉を空け、薬品をそろえる。

 だが、焼き入れの実験がちょうど佳境で、銀貨の袋は机の隅に置かれたままになっていた。


 その日の午後、研究室の戸が控えめに叩かれた。


「失礼いたします。こちらに、両替商組合の銀貨が届いていると伺いまして」


 戸口に立っていたのは、身なりのきちんとした男だった。

 物腰は柔らかく、口もとには愛想のいい笑みを浮かべている。

 男は、さる商会の使いだと名乗った。

 商会の名前も告げたが、覚える気にもならなかった。


「実は、その銀貨は手違いで市場に渡ってしまったものでして。本来は、私どもの商会の銀貨なのです」

「ほう」

「つきましては、お手数ですが、こちらでお返しいただけないかと。もちろん、鑑定のお手間賃は、私どもでお支払いいたします」


 男は、懐から小さな袋を取り出した。

 袋の口はわずかに開いていて、中の金貨がのぞいている。


 その袋を、ちらりと見た。

 それから、男の顔を見た。

 愛想のいい笑みは、少しも崩れていない。


「お断りします」

「……は」

「依頼主は、両替商組合です。商会に返す筋合いはありません」


 ことさら、丁寧に言った。


「手違いで渡ったというなら、組合に掛け合えばいい。こちらに金を積むより、そのほうがよほど筋が通るでしょう。商会ともあろうお方が、そんなこともご存じないとは驚きですね」

「いえ、私どもは、ただ――」

「それとも、組合には掛け合えない事情でも?」


 男の笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。

 それを、見逃さなかった。


「……出直してまいります」


 男は丁寧に頭を下げ、静かに戸を閉めた。

 足音が遠ざかっていく。

 最後まで、物腰は柔らかいままだった。


     ◇


 しばらく、閉じた戸を眺めていた。


 金を積んで、鑑定を取り下げさせようとした。

 わざわざ、学院の研究室まで足を運んで。

 ただの銀貨に、そこまでする理由があるだろうか。


 机の隅の革袋を、引き寄せた。

 口を開け、中の銀貨を何枚か、手のひらに出してみる。

 窓から差し込む日の光に、一枚ずつかざしていった。


 傷ひとつない。

 曇りひとつない。

 どれも、鋳造所から出てきたばかりのように、ぴかぴかと光っている。


 実家の店先を、思い出した。

 親父が客から受け取る銀貨は、どれも多少はくすんでいた。

 人の手から手へと渡るうちに、銀は少しずつ黒ずんでいく。

 それが当たり前のはずだった。


 手のひらの銀貨を光にかざしたまま、眉をひそめた。


「……全部、新しすぎないか?」

第一章 筋書きは誰が書いた

第八話 同じ名前の男

[王都の街なか 学]


 王都に来て、五日がたった。


 市場の近くに安くはない宿をとり、毎日あちこちを歩き回っていた。

 パンを買い、串焼きを買い、露店の果物を買った。

 両替した銀貨のおかげで、もう店先で途方に暮れることもない。

 十年ぶりの人間の街は、何を見ても面白かった。


 その日の夕方、噴水の広場で、見覚えのあるポニーテールが目に入った。


「カタリナさん」


 声をかけると、カタリナは足を止めて振り返った。

 学の顔を見て、ほんの少しだけ表情をゆるめる。


「シモン殿。まだ王都にいたのか。……いたのですね」


 相変わらず、言い直している。

 笑いをこらえて、頭をかいた。


「おかげさまで、なんとかやってます。それで、この前のお礼をしたいと思ってたんですよ。よかったら、夕飯でもご馳走させてもらえませんか」

「礼には及ばないと言ったはずですが」

「僕の気が済まないんです。それに、まだこの街でまともな店をひとつも知らないもので。助けると思って」


 カタリナは少し迷ってから、小さくため息をついた。


「……わかりました。ただし、店は私が選びます」


「やるじゃない、マーナ。騎士さんとお食事だなんて」


 肩の上で、モナが楽しそうにからかった。

 学は、聞こえないふりをした。


     ◇


[王都・大通り裏の店 学]


 カタリナが案内したのは、大通りから一本入った、落ち着いた石造りの店だった。

 入口の上には、琥珀色の硝子をはめた灯りがともっている。

 看板には、琥珀の灯亭(こはくのともしびてい)とあった。


 扉をくぐると、思わず足を止めた。

 磨き込まれた木の床に、厚い絨毯。

 壁際には、ゆったりとしたソファー席が並んでいる。

 客はみな身なりがよく、話し声も控えめだった。


「……ずいぶん、立派なお店ですね」

「平民向けの店では、私は目立ちすぎるので」


 カタリナは、なんでもないことのように言った。

 給仕が恭しく頭を下げ、二人を奥の個室へと案内する。


 こっそり献立を開いた。

 そして、そっと閉じた。

 もう一度開いた。

 値段は変わっていなかった。


「何か?」

「いえ、何も」


 上着の内側の革袋に手を当てた。

 大丈夫だ。

 鱗を売った金は、まだたっぷりある。

 この店で毎晩食べても、当分は困らないはずだ。

 ……たぶん。


     ◇


 料理は、どれも驚くほどうまかった。

 香草をきかせた鶏の焼き物に、木の実を混ぜたパン、深い色の葡萄酒。

 十年ぶりの、ちゃんとした店の料理に、危うく泣きそうになった。


 この店には、絶対にまた来よう。

 鶏の焼き物を頬張りながら、固く心に決めた。

 値段のことは、このさい考えないことにする。


「そういえば、シモン殿」


 葡萄酒を一口飲んで、カタリナが言った。


「先日、あなたと別れたあとで、妙な男に会いました」

「妙な男、ですか」

「市場の両替商で、銀貨の曇りがどうとか言って、若い両替商を青ざめさせていた貴族風の男です。家名を尋ねたら、はぐらかされました」


 学の手が、ぴたりと止まった。


「へ、へえ。そんな人がいたんですか」

「ええ。妙に冷たい目をした男でした。それで、名前を尋ねたら――」


 カタリナは、まっすぐに学を見た。


「シモン、と名乗ったのです。あなたと同じ名前ですね」


 学は、葡萄酒を吹き出しそうになった。


 ――しまった。


 頭の中が、真っ白になった。

 名前。

 名前を、分けるのを忘れていた。

 普段の姿でもシモン、黒幕の姿でもシモン。

 どっちにも、同じ名前を名乗っていたのだ。


 視界の端で、モナが腹を抱えて震えている。

 声を殺して、笑い転げているのだ。

 文句を言いたい。

 今すぐ言いたい。

 だが、目の前にはカタリナがいる。


「シモン殿? どうかしましたか」

「い、いえ。ちょっと、葡萄酒が気管に」


 咳払いをして、なんとか体勢を立て直した。

 ここで慌てて名前を変えたら、かえって怪しまれる。

 それに、今さら別の名前を考えるのも面倒だ。

 こうなったら、押し通すしかない。


「いやあ、奇遇ですね。シモンって、こっちじゃよくある名前なんですかね」

「珍しくはありませんが……。あの男とあなたでは、何もかもまるで違いますから。名前が同じというだけで、妙に気になってしまって」


 カタリナは首をかしげた。

 どうやら、同一人物だとは露ほども思っていないらしい。

 ほっと胸をなで下ろした。


「まあ、世の中には同じ名前の人間なんて、いくらでもいますよ。ヴァイス――」


 言いかけて、口をつぐんだ。

 ヴァイスフェルト。

 彼女がその家名を名乗ったのは、黒幕の姿の自分に対してだけだ。

 普段の姿の自分は、まだ聞いていない。


「ヴァイス?」

「……いや、ほら、ヴァイスなんとかって名前の人も、きっとたくさんいるでしょうし」


 我ながら、苦しすぎる言い訳だった。

 カタリナは、不思議そうに瞬きをした。

 肩の上のモナは、もはや息も絶え絶えだった。


     ◇


 デザートの焼き菓子が運ばれてくるころには、カタリナの口もいくらか軽くなっていた。


「……前に、近衛騎士団に入ると言いましたね」

「ええ。王宮の奥のほうに、って」

「本当は、入りたくないのです」


 カタリナは、手の中の杯を見つめた。


「私は、市井に立つ騎士になりたかった。困っている人がいれば、すぐに駆けつけられるような。でも、父は反対しています。騎士になるのはかまわない、だが、せめて危険の少ないところにいろと。近衛なら、王宮の奥で、少しは安全に過ごせるから」

「お父さんは、カタリナさんのことが心配なんですね」

「わかっています。わかっているから、余計に腹が立つのです」


 カタリナは、少しだけ笑った。

 騎士の顔ではなく、年相応の娘の顔だった。


「だから、研修のあいだだけは、できるかぎり外の任務に出たいと思っています。次の任務も、もう決まりました」

「次は、どちらへ?」

「ジルバータールという鉱山町です。王都から、馬で何日かかかります。最近、そこで鉱夫が何人も姿を消しているそうで。分隊長の命令で、その調査に行くことになりました」


 鉱夫の失踪。

 物騒な話だ。

 少し眉を寄せた。


「お気をつけて」

「ご心配なく。私は騎士ですから」


 カタリナは胸を張った。


「鉱山町かあ。あたし、人間の銀山って見たことないのよね」


 耳もとで、モナが独り言のようにつぶやいた。

 学は、葡萄酒の杯を口に運んだ。


     ◇


[王都・宿の部屋 学]


 宿に戻るなり、寝台に倒れ込んだ。


「……おいモナ。笑いすぎだろ」

「だって、あんた、ヴァイスなんとかって! ヴァイスなんとかって何よ!」


 モナは空中で転げまわり、ひとしきり笑ったあと、ふと動きを止めた。

 それから、学の顔の前まで飛んできて、目をきらきらと輝かせた。


「ねえマーナ、銀山って見てみたくない?」

第一章 筋書きは誰が書いた

第九話 銀の谷

[ジルバータールへ向かう乗合馬車 学]


 乗合馬車に揺られて、四日目の昼だった。


「見えてきたわよ、マーナ」


 肩の上で、モナが身を乗り出した。

 学は痛む腰をさすりながら、幌のすき間から外をのぞいた。


 両側から険しい山が迫る、細長い谷だった。

 谷底を、灰色の川が流れている。

 その川沿いに、石と木でできた家々がへばりつくように並んでいた。

 山の中腹には、黒い口を開けた坑道がいくつも見える。

 谷の奥では、大きな建物の煙突から、細い煙が立ちのぼっていた。


 ジルバータール。

 銀の谷、という意味らしい。


「あんた、ジルバータールは初めてかい」


 向かいの席から、行商人の男が声をかけてきた。

 王都からずっと同じ馬車に乗ってきた、陽気な小男だ。


「ええ。銀山を見物しようと思って」

「物好きだねえ。まあ、見るだけならいいさ。近ごろはあそこの山、銀がよく出るって評判だからな」


 男は、そこで首をひねった。


「もっとも、そのわりに町は妙にしけてるんだ。銀が出りゃ、普通は町も潤うもんだがね。おれの品も、去年の半分も売れやしない」


 男は、そう言うと、懐をごそごそと探った。


「そうだ、旦那。銀山に行くなら、こいつを持っていきな。銀山の守り石だ。坑道で道に迷わない。今なら銀貨一枚でいい」


 手のひらに載せられたのは、紐を通した、灰色の小さな石だった。

 断ろうとして、口ごもった。

 前の職場でも、取引先に勧められた付き合いの品を、断れたためしがない。

 気がつくと、銀貨を一枚渡していた。


 幌のすき間から、もう一度、谷を眺める。


 ――思ってたより、地味だな。


 口には出さなかったが、顔には出ていたらしい。

 耳もとで、モナが言った。


「銀なんて、掘り出して磨くまでは、ただの石ころでしょ」


 モナは、知ったふうに胸を張った。


 馬車を降りると、冷たい風が頬を打った。

 王都よりずっと空気が冷たく、どこか金気くさい。

 大きく伸びをして、凝り固まった体をほぐした。


「さて、観光といきますか」

「それと、マーナ。その守り石も、ただの石ころよ」

「……知ってるよ」


 守り石をそっと懐の奥にしまった。


     ◇


 正直に言えば、ただの観光というわけでもなかった。


 学の頭の片隅には、あの市場の銀貨のことが引っかかっていた。

 傷ひとつない、新品のようにぴかぴかの銀貨。

 そこに幻術で緑青を浮かべて、若い両替商を青ざめさせた。

 あれは少し、やりすぎだったかもしれない。


 人通りの途切れた道ばたで、小声で言った。


「なあモナ。あの両替商の兄ちゃん、大丈夫だったかな」

「大丈夫でしょ。でも、あの子の顔ったら! 真っ青になって、銀貨を握りしめちゃって」

「笑いごとじゃないだろ。……いや、まあ、ちょっと面白かったけど」


 モナは、思い出したように、また腹を抱えて笑い出した。


 ともあれ、銀貨の銀がどこでどうやって掘られているのか、少し気になったのは確かだ。

 それに、十年ぶりの人間の世界だ。

 見られるものは、何でも見ておきたい。

 だから、モナに銀山へ誘われたとき、二つ返事でうなずいたのだった。


     ◇


[ジルバータール・町の大通り 学]


 町の大通りは、王都の市場とはまるで違っていた。


 店は少なく、人通りもまばらだ。

 すれ違うのは、煤と土にまみれた鉱夫らしい男たちばかりだった。

 誰もが口数少なく、うつむき加減に歩いている。

 目を向けると、すっと視線をそらした。


 口の中で小さくつぶやいた。


「……なんか、空気が重くないか」

「重いわね。山の中だからってだけじゃなさそう」


 学は、通りに面した小さな食堂に入った。

 昼どきだというのに、客は二、三人しかいない。

 奥から出てきたのは、恰幅のいい中年の女将だった。


「いらっしゃい。……見ない顔だね」

「ええ、王都から来ました。銀山を見てみたくて。どこか、見物できるところはありますか?」


 女将の顔から、愛想が消えた。


「見物ねえ。坑道は組合のもんだからね。よそ者は入れないよ」

「組合、ですか」

「ジルバータール採鉱精錬組合さ。この町じゃ、みんな組合って呼んでる。山も、製錬所も、荷車も、ぜんぶ組合のもんだ」


 女将は、学の前に黒パンと煮込みの皿を置いた。


「この町に住んでる者は、たいてい組合の世話になってる。うちだって、客の半分は組合の鉱夫さ」

「なるほど。じゃあ、組合の人に頼めば、見せてもらえたりは――」

「やめときな」


 女将は、ぴしゃりと言った。

 それから、少しだけ声を落とした。


「悪いことは言わないよ。用が済んだら、さっさと王都に帰りな。今はちょっと、よそ者がうろうろしていい時じゃないんだ」


 それきり、女将は厨房に引っ込んでしまった。

 ほかの客たちも、黙々と皿をつついている。

 誰一人、学と目を合わせようとしなかった。


 煮込みを一口すすった。

 味は悪くない。

 だが、店の中の空気は、煮込みよりずっと重かった。


 皿に顔を伏せるようにして、ごく小さくつぶやいた。


「……今の、どういう意味だと思う」

「さあ。でも、何かあるのは確かね」


 耳もとで、モナが楽しそうに足をぶらつかせた。


「ねえマーナ。こういうの、あんた好きでしょ?」


 学は答えなかった。

 答えなかったが、口の端が少しだけ上がるのは止められなかった。


     ◇


[ジルバータール・谷の奥の道 学]


 食堂を出て、谷の奥へ向かって歩いた。


 小さな広場の片隅に、古びた掲示板が立っていた。

 何枚もの紙が、釘で打ちつけられている。

 近づいてみると、どれも手書きの貼り紙だった。


 ――夫を探しています。

 ――息子が、山から戻りません。

 ――見かけた方は、川沿いの青い戸の家まで。


 黙ってそれを見つめた。

 文字は震え、ところどころ滲んでいる。


 そこへ、組合の印を腕に巻いた男が二人、足早にやって来た。

 男たちは学には目もくれず、貼り紙を一枚ずつ乱暴にはがしていく。

 はがした紙は、丸めて懐に押し込んだ。

 最後の一枚をはがし終えると、男たちは何事もなかったように去っていった。


 あたりに人がいないのを確かめてから、小声で言った。


「……今の、見たか」

「見たわよ。ずいぶん、手慣れてたわね」


 モナの声からは、いつもの笑いが消えていた。


 製錬所らしい大きな建物は、町のいちばん奥にあった。

 高い石塀にぐるりと囲まれ、門の前には見張りが二人立っている。

 煙突からは、相変わらず細い煙がのぼっていた。


 のんびり近づくと、見張りの一人がじろりとにらんだ。


「何の用だ」

「いえ、ただの観光でして。立派な建物だなあ、と」

「見せ物じゃない。帰れ」


 取りつく島もなかった。

 肩をすくめて、来た道を引き返した。


 坂道を下りながら、山の中腹の坑道を見上げる。

 坑道は、いくつも並んでいる。

 だが、どの入口にも人影はなかった。

 銀山というのは、もっとこう、男たちがつるはしを担いで行き来しているものではないのか。


 人影のない坂道で、ぽつりと言った。


「なあモナ。銀山って、こんなに静かなもんなのか」

「さあ。あたしも、人間の銀山はよく知らないもの」


 そのときだった。


「――止まれ。そこの者」


 坂の下から、張りのある声が飛んできた。

 聞き覚えのある声だった。

 それも、ついこのあいだ、葡萄酒を挟んで聞いたばかりの声だ。


 顔を上げると、騎士の装いをした女が、坂道を登ってくるところだった。

 黒髪のポニーテールが、谷の風に揺れている。

 腰の剣に手をかけたまま、青い瞳でこちらを見据えていた。


 その足が、ぴたりと止まった。


 切れ長の目が、まん丸に見開かれる。


「シモン殿? なぜこんなところに」

第一章 筋書きは誰が書いた

第十話 口を閉ざす組合

[ジルバータールの町 カタリナ]


「銀山の見物、ですか」


 思わず額を押さえた。

 目の前のシモン殿は、悪びれもせずに頭をかいている。

 王都で別れたときと同じ、人のよさそうな、少しくたびれた笑顔だった。


「ええ。せっかく人間の……いえ、この国に来たんですから、いろいろ見ておきたくて」

「ここは、物見遊山で来るような町ではありません。今は、特に」

「みたいですね。食堂の女将さんにも、早く帰れと言われました」


 シモン殿は、それから、感心したように言った。


「騎士団の方も、大変ですね。こんな遠くまで。……出張手当とか、出るんですか」

「シュッチョウ……テアテ?」


 カタリナは、真顔で聞き返した。


「い、いえ。何でもないです」


 シモン殿は、慌てて手を振った。


 まったく、この人は。

 小さくため息をついた。

 金はありそうなのに、どこか抜けている。

 王都で初めて会ったときから、放っておけない人だった。


「宿は、もう決まっていますか」

「いえ、まだです」

「なら、川沿いの宿屋がいい。一緒に来たハルトマン殿――先輩の騎士が、この町ではいちばんまともだと言っていました。夜はなるべく出歩かないように」

「わかりました。カタリナさんも、お気をつけて」


 シモン殿は素直にうなずいて、坂道を下りていった。

 その背中を見送りながら、ふと首をかしげた。

 今、誰かと小声で話していたような気がしたのだ。

 だが、彼のまわりには誰もいない。

 気のせいだろう、と思い直した。


     ◇


[ジルバータール・組合の詰め所 カタリナ]


 ジルバータール採鉱精錬組合の詰め所は、町の中ほどにある石造りの建物だった。

 入口には、組合の印を染め抜いた旗が下がっている。

 扉をくぐると、中にいた男たちの話し声が、ぴたりとやんだ。


「王国騎士団のカタリナ・フォン・ヴァイスフェルトです。鉱夫の失踪の件で、話を聞きに来ました」


 奥の机から、痩せた中年の男が立ち上がった。

 組合の事務方を取り仕切っているという男だ。

 口もとには笑みを浮かべていたが、目は少しも笑っていなかった。


「これはこれは、騎士様。遠いところをわざわざ。ですが、失踪などと大げさな。鉱夫というのは、気の荒い連中でしてね。ふらりと町を出ていく者など、珍しくもないのですよ」

「何人もが、家族に何も告げずに出ていったと?」

「よくあることです」


 男は、肩をすくめた。


「では、組合の名簿を見せていただきたい。姿を消した鉱夫が、最後にどこで働いていたのか知りたいのです」

「名簿は、組合の大事な記録でして。外の方にお見せするわけには」

「私は、王国騎士団の命で来ている」


 カタリナの声が、一段低くなった。


「この町が誰の領地であろうと、王国の法の外にあるわけではない。名簿を出しなさい。今すぐに」


 詰め所の空気が、凍りついた。

 男たちが顔を見合わせる。

 事務方の男の笑みが、わずかに引きつった。


「……騎士様。ここは、ハーゼンバッハ伯爵様の御領地です。あまり強いお言葉は、伯爵様のお耳に入っても――」

「入って困ることでもあるのですか」


 まっすぐに男を見据えた。

 つい先ごろまで、ここは父の所領だった。

 その町で、新しい領主の名を盾に取られて、引き下がるわけにはいかなかった。


 男は、しばらく黙っていた。

 やがて、渋々といった顔で、後ろの棚から分厚い帳簿を取り出した。


「……どうぞ。ただし、この場でご覧になるだけにしていただきたい」


     ◇


 帳簿をめくるうちに、カタリナの眉間の皺は深くなっていった。


 名簿では、確かに何人かの鉱夫の名前に線が引かれていた。

 理由の欄には、どれも同じ言葉が書かれている。

 ――自己都合により離職。

 それ以上のことは、何もわからなかった。


 だが、カタリナの目を引いたのは、名簿ではなかった。

 帳簿の後ろのほうに綴じられた、銀の産出量の記録だ。


「……ずいぶん、出ているのですね」

「ええ、ええ。おかげさまで、ここ数年は山の機嫌がよいのです」


 事務方の男は、少しだけ誇らしげに言った。

 記録の数字は、年を追うごとに増えている。

 去年の産出量は、五年前のほぼ倍だった。


 帳簿を閉じた。


「ありがとうございました。もう結構です」

「お役に立てたなら、何よりで」


 男は、いかにもほっとしたように頭を下げた。

 カタリナは、その顔を一瞥しただけで、詰め所を出た。


 谷の冷たい風が、頬を打った。

 こわばった肩から、ゆっくりと力を抜いていく。


『研修任務だ。無理はするな』


 王都を発つ前、分隊長はそう言った。

 ありがたい言葉だと思う。

 だが、カタリナに残された時間は、そう長くない。

 研修が終われば、近衛騎士団に入る。

 王宮の奥で、外の任務とは縁のない日々が始まるのだ。


 だからこそ、この任務だけは、自分の手でやり遂げたかった。

 姿を消した鉱夫たちを、待っている家族のもとへ帰したい。

 それができたなら、たとえ王宮の奥に入ることになっても、きっと胸を張っていられる。


     ◇


[ジルバータール・山の坑道 カタリナ]


 それから、山へ向かった。


 坂道を登り、坑道の入口が並ぶ中腹までたどり着く。

 そこで、足を止めた。


 静かだった。

 つるはしの音も、鉱夫たちの掛け声も聞こえない。

 坑道の入口の前には、さびた手押し車が放り出されたままになっていた。

 しばらく待ってみたが、出てくる者も、入っていく者もいなかった。


 ひとつの坑道の入口に近づき、中をのぞいた。

 冷たい風が、奥から吹き上げてくる。

 足もとの土には、人の足跡がほとんど残っていなかった。


「……産出量が、五年前の倍?」


 この坑道から、どうやって。

 谷の奥を振り返った。

 製錬所の煙突からは、今日も細い煙がのぼっている。

 山は眠っているのに、製錬所だけが目を覚ましていた。


     ◇


[ジルバータールの町 カタリナ]


 日が傾くころ、町へ戻った。


 川沿いの道を歩いていると、ふいに後ろから足音が近づいてきた。

 振り返ると、やつれた顔の女が、息を切らして立っていた。

 年は三十前後だろうか。

 粗末な前掛けをつけ、腕には幼い子どもを抱いている。


「騎士様……騎士様ですよね。王都から来た」

「ええ。そうですが」

「お願いです。話を、聞いてください」


 女は、カタリナの腕にすがりついた。

 指先が、白くなるほど力がこもっている。

 女の肩越しに、川沿いの家の青い戸が見えた。


「組合の人たちは、夫は勝手に出ていったと言うんです。でも、違うんです。あの人は、子どもを置いて出ていくような人じゃありません」

「落ち着いてください。ご主人は、いつから」

「ひと月前です。その少し前から、様子がおかしかったんです。夜、帰ってきても、ずっと何か考え込んでいて」


 女の目から、涙がこぼれた。


「一度だけ、言っていました。組合の仕事は、何かおかしいって。それ以上は、何を聞いても教えてくれませんでした」


 カタリナは、息をのんだ。


 女は、震える声で言葉を絞り出した。


「夫は、組合の仕事に疑問を持ってから、帰ってこないんです」

第一章 筋書きは誰が書いた

第十一話 口の重い町

[ジルバータール・川沿いの宿屋 学]


 カタリナに教わった川沿いの宿屋は、確かにまともだった。

 寝台は硬いが清潔で、出てくる朝食も悪くない。

 ただ、宿の主人もまた、ほかの町の人間と同じように口が重かった。


 前の職場で鍛えた雑談の技を、ひととおり試してみた。


「今日は、いい天気ですねえ」

「はあ」

「この朝食、うまいですね。パンが香ばしくて」

「まあ」

「ご主人は、ずっとこの町で?」

「さあねえ」


 最後に「お、お仕事、長いんですか」と聞くと、主人は無言で皿を下げていった。

 銀山のことなど、切り出す隙もなかった。


「マーナの得意技、全滅ね」


 肩の上で、モナが笑い転げている。


「……この町、本当に誰もしゃべらないな」

「ふふ。いいじゃない。謎めいてて」


 モナは、すぐにご機嫌な顔に戻って、羽を揺らした。


     ◇


[ジルバータールの町 学]


 その日は、一日じゅう街をぶらついて過ごすことにした。

 川沿いを歩き、古い石橋を渡り、谷の入口のほうまで足を延ばす。

 観光といっても、見るものはほとんどない。

 それでも、王都とはまるで違う山の景色は、それなりに目を楽しませてくれた。


 昼過ぎ、谷の入口の街道で、荷車の列とすれ違った。


 四頭立ての大きな荷車が、五台ほど。

 どの荷台にも、分厚い幌がしっかりと掛けられている。

 御者の腕には、組合の印が巻かれていた。

 荷車は重そうに車輪をきしませながら、谷の奥へ、製錬所のほうへと上っていく。


 道の端に寄ってそれを見送った。


「……なあモナ。鉱山って、物を運び込むものなんだっけ?」

「さあ。どうだったかしら」

「普通、逆じゃないか? 掘った銀を、外に運び出すんだろ」

「掘るための道具とか、食べ物とかじゃないの?」

「ああ、なるほど。そういうもんか」


 あっさり納得した。

 あれだけの大きな荷車に、何台分も道具や食べ物を運び込むものなのかどうか。

 そこまで考えるほどの興味は、学にはなかった。


 最後の荷車が通り過ぎるとき、車輪が石を踏んで、荷台が大きく揺れた。

 幌のすき間から、鈍い灰色の塊がちらりとのぞく。

 金属のような、石のような、よくわからないものだった。


「ふうん」


「ねえ、今の見た? なんか灰色の石みたいなのが入ってたわよ。石なんて運び込んで、どうするのかしら」

「さあな。石垣でも積むんじゃないか」


 学は、それきり忘れた。


     ◇


[ジルバータール・宿の近くの酒場 学]


 日が暮れると、宿の近くの酒場に入った。


 食堂の女将の店とは違い、こちらはそれなりに客が入っていた。

 煤けた顔の男たちが、安い麦酒をあおりながら、低い声で話し込んでいる。

 隅の席に腰を下ろし、麦酒を一杯頼んだ。

 よそ者だと気づいた何人かが、ちらりとこちらを見て、すぐに目をそらした。


 学は気にせず、麦酒をすすった。

 苦くて薄い。

 だが、この町の空気には、よく合っていた。


 しばらくすると、隣の席の男たちの声が、少しずつ大きくなってきた。

 酒が回ってきたのだろう。


「……最近、山の様子がおかしいと思わねえか」

「おかしいも何も、もう何年も、まともに掘ってねえだろうが。坑道に入る奴なんざ、ほとんどいやしねえ」

「それでいて、給金だけは出る。妙な話だぜ」

「しっ。声がでけえ」


 一人が、慌てて周りを見回した。

 学は、麦酒の杯に目を落としたまま、聞こえないふりをした。


「……青い戸の家の亭主、まだ戻らねえのか」

「戻らねえ。製錬所に呼ばれて、それっきりだ」

「あいつ、組合に何か言ったんだろ。帳面の数字がおかしいとかなんとか」

「余計なことを言うからだ。おれたちは、黙って給金をもらってりゃいいんだよ」


 男たちは、それきり口をつぐんだ。

 重たい沈黙が、テーブルの上に落ちた。


 学は、杯を静かに置いた。


 製錬所に呼ばれて、戻らない。

 組合に何か言った者が、いなくなる。

 あの貼り紙を、組合の男たちがはがしていった光景が、頭に浮かんだ。


「……なるほどねえ」


 小さくつぶやくと、隣の男がぎょっとしたように振り向いた。

 学は、何でもないふうを装って麦酒を飲み干した。


「今のあんた、完全に怪しい人だったわよ」


 肩の上で、モナが笑いをこらえながら言った。


     ◇


[ジルバータール・宿の部屋 学]


 宿の部屋に戻ったのは、夜もだいぶ更けてからだった。


 寝台に腰を下ろし、ぼんやりと考えた。

 正直に言えば、この町で何が起きているのか、学にはさっぱりわからない。


 鉱夫がいなくなる。

 組合が隠している。

 製錬所が怪しい。

 わかるのは、せいぜいそのくらいだ。


 だが、事件の真相などというものに、あまり興味がなかった。

 興味があるのは、もっと別のことだった。


 ――これ、黒幕が出てくる場面だよな。


 怪しい組合。

 口をつぐむ町の人々。

 夜の闇に紛れて動く、何か。

 こういう舞台には、たいてい裏で糸を引く誰かがいる。

 そして、その「誰か」の役をやるのが、何よりも好きなのだった。


「ねえ、さっきの酒場の話、あの騎士さんに教えてあげないの?」


 寝台の枕もとに腰かけて、モナが聞いた。


「教えないよ。黒幕ってのは、騎士に親切に情報を渡したりしないもんなんだ」

「なにそれ」

「物語の黒幕が、主人公に『犯人はあっちです』なんて教えてやる場面、見たことあるか?」

「ないけど。……ほんとは、どこで聞いたのかって問い詰められるのが面倒なだけでしょ」

「……それも、ちょっとある」


 モナは、けらけらと笑いながら、ふわりと窓辺へ飛んでいった。


「マーナ、ちょっとこっち来て」


 窓辺から、モナが手招きをした。

 学が窓に近づくと、モナは谷の奥を指さした。


 夜の闇の中に、ぽつんと明かりが灯っていた。

 製錬所だ。

 煙突からは昼間と同じように煙がのぼり、窓という窓が赤く光っている。


「こんな夜中に、まだ火を焚いてるのね。山には誰もいないのに」

「……確かに、妙だな」


 しばらく眺めていると、谷の入口のほうから、小さな灯りがいくつも近づいてきた。

 荷車だ。

 昼間に見たのと同じ、幌を掛けた荷車の列が、松明を掲げて製錬所へ向かっていく。

 こんな夜更けに、人目を避けるように。


 ゆっくりと口の端を吊り上げた。


「なあモナ。ちょっと、散歩に行かないか」

「いいわね。夜の散歩、大好きよ」


 モナは、待っていましたとばかりに目を輝かせた。


 学は、部屋の灯りを吹き消した。

 次の瞬間、学の姿は、ふっと闇に溶けた。


 谷の道を、松明を掲げた荷車の列が上っていく。

 その最後尾から少し離れて、誰の目にも映らない影が、静かについていった。

第一章 筋書きは誰が書いた

第十二話 氷結

[ジルバータール・製錬所の門の前 学]


 製錬所の門が、重たい音を立てて開いた。


 松明を掲げた荷車の列が、一台ずつ中へ吸い込まれていく。

 門の内側で、男たちが手際よく幌をはずし、灰色の塊を下ろしはじめた。

 誰も口をきかない。

 聞こえるのは、荷を下ろす鈍い音と、炉の唸りだけだった。


 門のすぐ脇の暗がりに立っていた。

 もちろん、誰にも見えてはいない。

 すぐそばを荷を担いだ男が通り過ぎていったが、こちらには目もくれなかった。


 門のすき間から、製錬所の中がのぞけた。

 奥では大きな炉が赤々と燃え、その前で何人もの男たちが働いている。

 ふいごを踏む者、灰色の塊を炉に放り込む者、流れ出たものを型に受ける者。

 炉の照り返しに浮かぶ顔は、どれもひどくやつれていた。

 その周りを、棍棒を提げた男たちがゆっくりと歩き回っている。


「……働いてるっていうより、働かされてるって感じだな」


 思わず、小さな声がもれた。


「すごいわね。だあれも気づいてない」


 肩の上で、モナが楽しそうにささやいた。

 学は返事をしなかった。

 さすがに、こんな場所で独り言をこぼすほど、うかつではない。

 ……たぶん。


     ◇


[製錬所の裏手 学]


 最後の荷車が門をくぐると、門は再び閉ざされた。

 塀沿いに、製錬所の裏手へと回った。


 裏手には、小さな通用口があった。

 その前で、ひとりの男がランタンを提げて立っている。

 腕には、組合の印が巻かれていた。

 見張りの交代を待っているのか、男はしきりにあくびをかみ殺していた。


 ちょうどいい。

 口の端を吊り上げた。


 心臓が、少しだけ速くなっている。

 市場で銀貨に難癖をつけたのとは、わけが違う。

 相手は、何かを隠している組合の男だ。

 もし相手が魔法を使える人間だったら、と思わなくもない。


 だが、それ以上に胸が躍っていた。

 夜の製錬所。

 怪しい組合。

 そこに、正体不明の黒幕が現れる。

 こんな場面を、十年間、ずっと思い描いてきたのだ。


「……やるの?」


 モナが、目をきらきらさせて聞いた。

 学は、小さくうなずいた。


 まずは、姿を整える。

 ゆっくりと息を吸った。


「――表示」


 妖精の織物の上着が、夜のように深い色の外套に変わる。

 撫でつけた黒髪、白く冷たい肌、切れ長の赤い瞳。

 市場の両替商の前に立ったときと同じ、あの貴族の姿だ。


     ◇


 男が、何度目かのあくびをかみ殺したときだった。


「良い夜ですね」


 すぐ背後から、声がした。


 男は飛び上がるように振り返った。

 ランタンの明かりの中に、いつの間にか、ひとりの紳士が立っていた。

 夜の色をした外套に、銀糸の刺繍。

 白い顔の中で、赤い瞳だけが、ランタンの火を映して光っている。


「だ、誰だ、あんた! どこから――」

「どこから来たかなど、些細なことでしょう」


 紳士は、穏やかに微笑んだ。


「少し、お話を伺いたいだけです。ご心配なく。すぐに済みますよ」


 男は、腰の短剣に手をかけようとした。

 だが、その手が途中で止まった。

 足もとから、異様な冷たさが這い上がってきたのだ。


 足が、動かなかった。


 男は、自分の足もとを見下ろした。

 靴の先から、白い霜が這い上がってきていた。

 霜はみるみるうちに厚い氷となり、足首を覆い、すねを這い上っていく。

 骨にまで染み込むような冷たさが、男の全身を貫いた。


「ひっ……!」

「動かないほうがよろしい。無理に動けば、足ごと砕けてしまうかもしれませんので」


 もちろん、本当に砕けることはない。

 氷も、冷たさも、すべて学の幻術だ。

 だが、男にそれを知る術はなかった。

 男の顔から、みるみる血の気が引いていく。


「ねえ、それ、すっごく悪役っぽい」


 耳もとで、モナが感心したように言った。

 学は、表情ひとつ変えなかった。

 内心では、かなり得意になっていたが。


     ◇


「さて」


 紳士は、凍りついた男の前に、ゆったりと歩み寄った。


「この製錬所で、何が行われているのか。君の口から、聞かせていただけますか」

「な、何のことだか……俺は、ただの見張りで……」

「ほう」


 氷が、膝まで這い上がった。

 男は、声にならない悲鳴を上げた。


「お、俺は何も知らねえ! 本当だ! 言われたとおり、門の番をしてるだけで――」

「言われたとおり。誰に?」

「組合の、上の……」


 男は、そこで口をつぐんだ。

 それから、何かに気づいたように、紳士の顔をまじまじと見上げた。


「……あんた、まさか、上の方の……」


 学は、答えなかった。

 肯定も、否定もしない。

 ただ、うっすらと微笑んでみせた。

 こういうとき、黒幕は余計なことを言わないものだ。


 男の喉が、ごくりと鳴った。

 歯の根が合わず、かちかちと震えている。

 ほんの一瞬だけ男の顔色を確かめた。


『幻術で、体が壊れることはないわ。思い込みで息が乱れても、せいぜい気を失うくらいよ』


 果ての大陸で、モナに何度もそう教わった。

 それでも、凍えて震える人間を目の前にすると、さすがに少し落ち着かない。

 氷の冷たさをほんの少しだけゆるめた。


 さて、どうしたものか。

 内心で頭をひねった。

 何を聞けばいいのか、実のところ、学にもよくわかっていない。


 わかっているのは、酒場で聞いた話くらいだ。

 もう何年も、まともに掘っていない山。

 それでいて、出ているはずの銀。

 掘っていない山から、銀が出るはずがない。

 だとすれば、いちばん簡単な答えは一つだ。


 少しだけ身をかがめ、男の顔をのぞき込むようにして、ささやいた。


「あの山からは、もう何も出ないのでしょう?」


 男の目が、限界まで見開かれた。


「な……なんで、それを……」


 震える唇から、かすれた声がこぼれた。


「それを知ってるのは、組合でも、ほんの一握りのはずだ……」


 当たった。

 思わず拳を握りそうになるのをこらえた。

 やはり、そうだったのだ。

 我ながら、見事な推理ではないか。


「……あのね、マーナ。酒場であれだけ聞かされたら、子どもでもわかるわよ」


 耳もとで、モナがあきれたように言った。


「そこだけ当てて、いい気にならないの。顔に出てるわよ」


 学は、眉ひとつ動かさなかった。

 わかっている。

 わかってはいるが、当たったものは当たったのだ。

 口の端が、ほんの少しだけゆるんだ。


「君たちのしていることなど、私はすべて知っている」


 紳士は、ゆっくりと身を起こした。

 もちろん、何も知らない。


「隠し事は、ためになりませんよ。さあ、続きを聞かせていただきましょうか。山から何も出ないのなら、あの製錬所では、いったい何を――」


 男が、がたがたと震えながら口を開きかけた、そのときだった。


「――そこまでだ!」


 背後から、鋭い声が夜気を裂いた。

第一章 筋書きは誰が書いた

第十三話 またあなたですか

[ジルバータール・製錬所の塀の外 カタリナ]


 夜の製錬所を見張ろうと決めたのは、日が暮れてからだった。


 組合の仕事に疑問を持った鉱夫が、帰ってこない。

 人の出入りのない坑道と、増え続ける産出量。

 山は眠っているのに、昼も夜も火を絶やさない製錬所。

 どれも、まだ証拠と呼べるものではない。

 だが、人目を避けて何かをするなら、それは夜だ。


 同行の先輩騎士、ヒルデ・ハルトマンは、地元の衛兵の詰め所に話を通しに行っている。

 ひとり、製錬所の塀沿いの暗がりに身をひそめていた。

 シモン殿には夜は出歩くなと言っておきながら、自分はこれだ。

 少しだけ苦笑した。


     ◇


 塀に沿って裏手へ回ろうとしたときだった。


 通用口の前に、ランタンの明かりが揺れていた。

 その明かりの中に、人影が二つある。

 一人は組合の印を腕に巻いた男で、もう一人は――。


 思わず、息をのんだ。


 夜の色をした外套。

 襟もとの銀糸の刺繍。

 ランタンの火を映して光る、赤い瞳。


 見覚えがあった。

 忘れようにも、忘れられない。

 市場の両替商で、若い両替商を青ざめさせていた、あの男だ。


 視線を組合の男へ移したとき、背筋が冷たくなった。

 その両足が、膝まで氷に覆われていたのだ。

 組合の男はがたがたと震え、真っ青な顔で、目の前の紳士を見上げている。


「隠し事は、ためになりませんよ。さあ、続きを聞かせていただきましょうか。山から何も出ないのなら、あの製錬所では、いったい何を――」


 考えるより先に、体が動いていた。

 剣の柄に手をかけ、暗がりから飛び出す。


「――そこまでだ!」


     ◇


 紳士が、ゆっくりと振り返った。


 赤い瞳が、カタリナを捉える。

 一瞬、その目がわずかに見開かれたように見えた。

 だが、それはほんの一瞬のことだった。


「おや」


 紳士は、口もとにうっすらと笑みを浮かべた。


「また君か」

「またあなたですか!」


 声が、思わず大きくなった。

 剣の柄を握りしめたまま、紳士をにらみつけた。


「市場で両替商を脅していたかと思えば、今度は鉱山町で組合の者を氷漬けにしている。いったい、何をしているのですか」

「人聞きの悪い。少し、お話を伺っていただけですよ」

「それを世間では、脅しと言うのです」


 紳士は、肩をすくめた。

 それから、ふと、何かを振り払うように、ちらりと横に目をやった。

 口もとが、ほんのわずかに引きつったように見えた。

 誰もいない暗がりだ。

 そちらを見たが、何もなかった。


「……どうかしましたか」

「いや。少々、気の散ることがあってね」


 紳士は、何事もなかったように向き直った。


「それで。この者から、何を聞き出そうとしていたのです」

「それは、騎士殿もお知りになりたいことではありませんか。この製錬所で、何が行われているのか」


 カタリナは、言葉に詰まった。

 今夜ここへ来たのは、まさにそれを確かめるためだ。

 紳士は、凍りついた男を指先で示した。


「この者は、その答えを知っている。私に聞くより、よほど確かですよ」


 カタリナは、紳士と組合の男を見比べた。

 この得体の知れない男の素性も、問いたださねばならない。

 だが、姿を消した鉱夫たちの行方を知っているかもしれないのは、組合の男のほうだ。

 どちらを先にすべきかは、考えるまでもなかった。


「……いいでしょう。この者の尋問は、私がします」


 凍りついた組合の男を顎で示した。


「王国騎士団の名において命じます。その氷結を解きなさい」


 紳士は、しばらくカタリナを見ていた。

 その赤い瞳からは、何を考えているのか、まるで読み取れない。

 やがて、紳士は小さく息をついた。


「騎士殿のご命令とあれば」


 紳士が指先を軽く振ると、組合の男の足を覆っていた氷が、跡形もなく消えた。

 溶けたのではない。

 まるで最初からなかったかのように、ふっと消えたのだ。


 魔法の氷が消えること自体は、珍しくもない。

 だが、膝まで覆うほどの氷を、指先ひとつで、霜ひとつ残さず消してみせるとなれば話は別だ。

 よほど魔法の扱いに長けていなければ、こうはいかない。

 組合の男は支えを失ったようにその場にへたり込み、自分の両足を抱えてがたがたと震えている。

 氷は消えても、骨に染みた冷たさまでは消えないらしい。


「では、私はこれで」

「待ちなさい」


 紳士の前に立ちはだかった。


「あなたは、何者です。今度こそ、家名を名乗っていただきます」

「前にも申し上げたはずですが。市井で爵位を振りかざすなど、無粋でしょう」

「ここは市井ではありません。夜の製錬所の裏手です」

「なるほど。では、なおさら名乗るような場所ではありませんね」


 紳士は、楽しげに目を細めた。

 はぐらかされている。

 それも、明らかに楽しまれている。

 カタリナの頬が、かっと熱くなった。


「夜更かしは、お肌に毒ですよ。騎士殿」

「話をそらさないで――」


 言い終える前に、紳士は一歩、闇のほうへ下がった。

 ランタンの明かりの外に出た、と思った。

 次の瞬間、その姿は、どこにも見えなくなっていた。


 組合の男の足もとに転がっていたランタンを拾い上げ、暗がりを照らした。

 塀と、地面と、夜の闇。

 足音ひとつ、聞こえなかった。


「……シモン」


 その名を口の中でつぶやいた。

 市場で、あの男はそう名乗った。

 同じ名前の、お上りさんの顔が頭をよぎる。

 そういえば、シモン殿も、今この町に――。


 すぐに首を振った。

 あの人のよさそうな、少しくたびれた人と、今の男が同じであるはずがない。

 姿も、声も、物腰も、何もかもまるで違う。

 名前が同じというだけで、つい結びつけてしまう自分が、少しばかばかしかった。


     ◇


 へたり込んだ組合の男の前に膝をついた。


「さて。あの男に何を話したのです」

「な、何も……何も話してねえ……」

「では、私に話しなさい。山から何も出ないのなら、この製錬所では、何をしているのです」


 男は、震えながら首を振った。

 カタリナは、黙って男を見下ろした。

 男の視線が、さっき紳士が消えた暗がりへ、怯えたように流れる。


「あの男が戻ってくる前に話したほうが、身のためではありませんか」


 ほんの少しの、はったりだった。

 だが、効果は覿面だった。

 男の顔が、くしゃりと歪んだ。


「……は、話す。話すから、あいつだけは……」


 男の口から、言葉がぽつりぽつりとこぼれはじめた。


 製錬所の中で何をしているのか、下っ端の自分は詳しく知らない。

 ただ、組合のやり方に疑問を口にした鉱夫たちは、製錬所に呼ばれて、それきり帰ってこなかった。

 口封じのために、製錬所の奥で、昼も夜も働かされているのだという。


「お、俺は、言われたとおりに見張ってただけだ……本当だ……」


 カタリナは、ゆっくりと立ち上がった。


 塀の向こうでは、炉の火が赤々と夜空を照らしている。

 あの火の前に、姿を消した鉱夫たちがいる。

 青い戸の家の女が、子どもを抱いて待っている夫が。


 剣の柄を握り直した。


「……製錬所に踏み込む」

第一章 筋書きは誰が書いた

第十四話 製錬所の真実

[ジルバータール・衛兵の詰め所 カタリナ]


 衛兵の詰め所の戸を開けると、ハルトマン殿が振り返った。


「遅かったな。こっちは話がついたぞ」


 短く刈った栗色の髪に、日に焼けた顔。

 カタリナより頭ひとつ背が高く、肩幅も広い。

 並んで歩けば、どちらが場数を踏んだ騎士で、どちらが新米なのか、誰の目にも明らかだろう。


「ハルトマン殿。製錬所に、行方知れずの鉱夫たちがいます。組合の者が白状しました」


 連れてきた組合の男を前に押し出した。

 男はまだ両足を抱えるようにして、がたがたと震えている。

 ハルトマン殿は男の顔をじろりと眺め、それからこちらに目を戻した。


「……ひとりで製錬所に近づいたのか」

「様子を見に行っただけです」

「それを、ひとりで近づいたと言うんだ」


 ハルトマン殿は、大きく息をついた。

 叱る口ぶりだったが、目は怒っていなかった。


「まあいい。で、今夜やるつもりか」

「はい。夜が明ければ、組合に気づかれます」

「だろうな」


 ハルトマン殿は、詰め所の奥に目をやった。

 集まった衛兵は、六人。

 どの顔にも、ためらいの色が浮かんでいる。

 この町で組合に逆らえばどうなるか、彼らはよく知っているのだ。


 一歩前に出た。


「王国騎士団の命令です。責めは、私たちが負います」


 衛兵たちが、顔を見合わせる。

 その沈黙を、ハルトマン殿の低い声が破った。


「聞いたな。腹をくくれ。先頭には、私たちが立つ」


 衛兵たちは、ようやく槍を握り直した。


     ◇


[ジルバータール・製錬所 カタリナ]


 製錬所の門は、固く閉ざされていた。


 ハルトマン殿が拳で門を叩き、王国騎士団の名を告げる。

 返事はない。

 もう一度叩くと、門の向こうで慌ただしい足音が入り乱れた。


「……逃げる気だな。破るぞ」


 衛兵たちが丸太を抱え、門にぶつける。

 二度、三度。

 閂が折れる音とともに、門が内側へ倒れ込んだ。


 途端に、熱気が顔を打った。


 奥では大きな炉が赤々と燃えていた。

 その前に、やつれた顔の男たちが立ち尽くしている。

 彼らを取り囲むように、棍棒を提げた見張りたちが散らばっていた。


 剣を抜いて一歩踏み込んだ。


「王国騎士団だ! 全員、その場を動くな!」


 見張りたちが、いっせいにこちらを向いた。

 その中の一人が、さっと右手を掲げる。

 手のひらの上で、赤い火の玉が膨れ上がった。


「――炎弾!」


 火の玉が、うなりを上げて飛んできた。

 狙いは、門をくぐったばかりの衛兵たちだ。


 考えるより先に、体が前に出ていた。

 衛兵たちの前に立ち、左手を突き出した。


「――鉄壁!」


 空気が、きしむような音を立てた。

 目の前に、淡い光の壁が立ち上がる。

 幅は、大人が三人、腕を広げて並んだほど。

 父の壁には、遠く及ばない。

 それでも、背後の衛兵たちを守るには十分だった。


 鉄壁。

 ヴァイスフェルトの家に代々受け継がれてきた、人を守るための、血筋の魔法だ。


 炎弾が、壁にぶつかってはじけた。

 火の粉が四方に散り、焦げたにおいが鼻をついた。

 光の壁は、揺らぎもしなかった。


「なっ……」


 見張りの男が、目を見開いた。


 その横を、黒い影が駆け抜けた。

 ハルトマン殿だ。

 壁の端を回り込み、一息に男との間合いを詰める。

 剣の柄が、男のみぞおちにめり込んだ。

 男は、声もなく崩れ落ちた。


「かかれ!」


 ハルトマン殿の号令で、衛兵たちがなだれ込んだ。

 見張りの何人かは棍棒を振り回したが、騎士二人と衛兵六人を相手に、長くはもたなかった。

 棍棒が床に転がり、男たちが次々と縄をかけられていく。


 壁を解いた。

 額に汗が浮かんでいる。

 ほんの短いあいだ張っただけなのに、腕がしびれていた。


 縄をかけ終えたハルトマン殿が、こちらへ歩いてきた。


「……悪くない壁だった。いや――見事でした、ヴァイスフェルト殿」


 言い直して、ハルトマン殿は照れくさそうに頭をかいた。

 カタリナは思わず笑いそうになり、あわてて表情を引き締めた。


     ◇


 炉の前にいた男たちは、誰ひとり逃げようとしなかった。

 ただ、信じられないものを見るように、騎士たちを見つめている。


「あなたたちは、この町の鉱夫ですね」


 問いかけると、一人の男がよろよろと進み出た。

 頬はこけ、髭は伸び放題で、腕には火傷の痕がいくつもある。


「……あんたら、本当に、騎士様なのか」

「王国騎士団のカタリナ・フォン・ヴァイスフェルトです。あなたたちを、助けに来ました」


 男の顔が、くしゃりと歪んだ。

 その場に膝をつき、声を上げて泣き出す。

 それにつられたように、ほかの男たちも、次々と崩れ落ちていった。


 男たちの話から、事情はおおよそ見えてきた。


 この製錬所では、外から運び込まれた灰色の塊を溶かし、銀の延べ棒にしている。

 山からは、もう何年もまともな銀が出ていない。

 坑道に入る鉱夫は減る一方なのに、組合の帳面の産出量だけが、年々増えていく。

 夜ごとに、幌を掛けた荷車が谷の外から何かを運び込んでいる。


 鉱夫たちの中にも、そのおかしさに気づく者は少なくなかった。

 そうして組合に問いただした者が、ひとり、またひとりと製錬所に呼ばれた。

 口をふさぐために、そのまま炉の前で働かされていたのだ。


「元からここで働いていた者たちは、どうなったのです」

「炉の番を長くやってりゃ、扱ってるのが本物の銀じゃねえことくらい、わかっちまう。だから、何も知らなくて済む奥の仕事に回された奴もいる。……金をもらって、おれたちに炉の扱いを教える役になった奴もいる」


 男は、縄をかけられた者たちの中の何人かを、苦々しげに見やった。

 かつての仲間だった顔も、そこには混じっているのだろう。


「家は、どちらです」

「……川沿いの、青い戸の家です」


 カタリナは、はっと顔を上げた。

 男は、恥じ入るようにうつむいた。


「女房と、子どもを置いてきちまった。ひと月も、何も言えずに……」

「奥様は、待っています。毎日、あなたを探していました」


 男の肩が、大きく震えた。

 横で聞いていたハルトマン殿が、黙って男の背を叩いた。


     ◇


 夜が明けるころには、製錬所の調べもあらかた片づいていた。


 捕らえられていた鉱夫たちは、全員が解き放たれた。

 見張りと、それに加担していた者たちは、残らず縄をかけられた。

 ハルトマン殿が衛兵たちを指図して後始末に当たるあいだ、製錬所の事務室で、押収した帳簿を一冊ずつ確かめていた。


 ほとんどは、運び込んだ塊の量や、炉の稼働の記録だった。

 その数字は、組合の詰め所で見た産出量の記録と、ぴたりと合っている。

 山から何も出ていないのなら、あの数字はすべて、この炉で作られた偽の銀だということになる。


 だとすれば、その偽の銀は、どこへ行ったのか。


 出荷の記録をめくった。

 精錬した延べ棒は、毎月、決まった量がどこかへ送り出されている。

 送り先の欄には、同じ言葉が繰り返し書かれていた。


 その文字を読んだ瞬間、指が止まった。


 ――ヴァイスフェルト伯爵領、鋳造所。


 見間違いではなかった。

 何度読み返しても、そこには自分の家の名前があった。

 王族の信任の証として、父が領内に預かっている、銀貨の鋳造所。

 偽の銀は、そこへ送られ、銀貨に変えられていたのだ。


 父の手を離れたばかりの町から、父の鋳造所へ。

 かつて父の寄子だった男の領地が、父の信用を隠れみのにして、偽りの銀貨を作らせていた。


 ふと、王都の市場の光景がよみがえった。

 あの紳士は、銀貨の曇りが気になった、と言っていた。

 若い両替商は、縁に緑青のようなものが見えた、と。

 あのときは、ただの言いがかりにしか見えなかった。

 だが、今夜もまた、あの男は製錬所の前にいた。


 偶然だろうか。

 それとも、あの男は最初から、何もかも知っていたのだろうか。


 カタリナの顔から、血の気が引いていった。


「……父上の、鋳造所に?」

第一章 筋書きは誰が書いた

第十五話 父への手紙

[ジルバータール・宿の一室 カタリナ]


 宿の小さな机の上で、蝋燭の火が揺れていた。


 ペンを握ったまま、もう長いこと白い紙を見つめていた。

 書かなければならないことは、わかっている。

 わかっているのに、最初の一行が出てこない。


 ――父上。


 ようやく、それだけを書いた。


 ジルバータールの製錬所で、偽の銀が作られていたこと。

 その偽の銀の延べ棒が、毎月、ヴァイスフェルト領の鋳造所へ送られていたこと。

 鋳造所の者たちは、おそらく何も知らずに、それを銀貨に変えていたこと。

 押収した帳簿の写しを、この手紙に添えること。


 書き進めるうちに、ペンを握る指に力がこもった。

 父は、嘘を何より嫌う人だ。

 その父が王族から預かった鋳造所で、偽りの銀貨が、何も知らないまま作られていた。

 これを知ったとき、父がどんな顔をするのか。

 考えただけで、胸の奥が冷たくなった。


 それでも、知らせないわけにはいかない。

 一日でも早く、父の耳に入れなければ。


 最後に署名を入れ、封をして、蝋で固めた。

 ヴァイスフェルト家の紋章を押す手が、わずかに震えていた。


「……ハルトマン殿。これを、早馬で」


 戸口に控えていたハルトマン殿が、黙って手紙を受け取った。

 封蝋の紋章に目を落とし、それからカタリナの顔を見る。


「家への手紙か」

「はい。急ぎで、父に届けなければならないことがあって」


 ハルトマン殿は、それ以上何も聞かなかった。

 ただ、手紙を懐に大事そうにしまい込むと、ぶっきらぼうに言った。


「少し寝ろ。顔色がひどいぞ。……いや、お休みになったほうがいい」


 言い直したハルトマン殿に、小さく笑ってみせた。

 うまく笑えたかどうかは、わからなかった。


     ◇


[ジルバータール・谷の入口 学]


 二日後の朝、谷の入口で、王都行きの乗合馬車を待っていた。


 鉱山町の空気は、来たときとはずいぶん変わっていた。

 通りには人の話し声が戻り、食堂の女将も、昨日はほんの少しだけ愛想がよかった。

 川沿いの青い戸の家の前を通りかかったときには、小さな子どもを肩車した男が、女と並んで戸口に立っているのが見えた。


「……よかったな」


 誰にともなくつぶやいた。


「シモン殿!」


 後ろから、聞き覚えのある声がした。

 振り返ると、カタリナが坂道を駆け下りてくるところだった。

 目の下に、うっすらと隈ができている。


「もう、王都へ戻るのですか」

「ええ。銀山も見られましたし、そろそろ帰ろうかと。カタリナさんは?」

「私は、もう少し後始末が残っています。……ひとこと、礼を言いたくて」

「礼?」

「あなたが来てくれていたことが、なんとなく、心強かったので」


 カタリナは、少し照れくさそうに視線をそらした。


「事件は、片づきました。組合が、ずいぶんと不正を働いていたのです。捕らえられていた鉱夫たちも、みんな家に帰れました」

「そうですか。それは、本当によかった」


 心からそう言った。

 青い戸の家の前の光景が、まだ目に焼きついている。


「ただ……」


 カタリナの声が、ふいに低くなった。


「また、あの男が現れたのです」

「あの男、ですか」

「市場の両替商で会った、あのシモンです。今度は、製錬所の裏で組合の者を氷漬けにしていました。それも、まるで最初から何もかも知っていたような顔で」


 学の背筋を、冷たいものが走った。

 ――まさか、ばれたのか。

 同じシモンという名の男が、同じ時に、同じ町にいた。

 疑われても、おかしくはない。

 カタリナの青い瞳が、まっすぐにこちらを見ている。


 思わずつばを飲み込んだ。

 だが、よく見れば、その顔に浮かんでいるのは疑いではなく、ただの憤りだった。

 どうやら、誰かに愚痴をこぼしたかっただけらしい。


「へ、へえ。物騒な人ですねえ」

「物騒どころではありません。家名は名乗らない。目を離した隙に消える。挙げ句の果てに、夜更かしはお肌に毒だなどと」


 カタリナは、ぷりぷりと怒っている。

 肩の上で、モナが声を殺して笑い転げていた。


「次に会ったら、今度こそ、首根っこを捕まえてやります」

「が、頑張ってください」


 引きつった笑顔でうなずいた。


     ◇


[王都へ向かう乗合馬車 学]


 乗合馬車が谷を離れると、ようやく大きく息をついた。


「……心臓に悪い」

「あはははは! 首根っこ捕まえてやります、だって! 目の前にいるのに!」


 モナは、幌の中で転げまわっていた。

 ほかの乗客は眠りこけていて、学の独り言に気づく者はいない。


「笑いごとじゃないだろ。あの子、本気で捕まえる気だぞ」

「いいじゃない。捕まえられるもんなら、ね」


 学は、苦笑いしながら座席にもたれた。

 窓の外を、灰色の山がゆっくりと遠ざかっていく。


 正直に言えば、この町で何が起きていたのか、いまだによくわかっていない。

 わかっているのは、組合が悪いことをしていて、それが片づいて、鉱夫たちが家に帰れた、ということくらいだ。

 それで十分だった。


「でもさ、今回も黒幕っぽかったよな、僕」

「氷のところは、けっこう悪役っぽかったわね」

「だろ?」


 満足げに目を閉じた。

 夜の製錬所、凍りつく男、正体不明の紳士。

 思い返すほどに、口もとがゆるんでくる。


「……子どもでもわかることを当てて、調子に乗ってたけどね」

「推理は推理だ」


 モナは、また腹を抱えて笑い出した。


 この町に、もう銀は戻らない。

 だが、それは学にはどうしようもないことだった。


     ◇


[王都・大商会の奥まった一室 ユリウス]


 大商会の奥まった一室に、夕日が差し込んでいた。


「ジルバータールの組合から、報告です」


 部下が差し出した書状を、ユリウス・ノイマンは無言で受け取った。

 目を走らせるうちに、穏やかな笑みが、少しずつ口もとから消えていく。


 製錬所に、王国騎士団が踏み込んだ。

 捕らえていた鉱夫たちは解放され、組合の者が何人も縄をかけられた。

 帳簿も押収された。


 それだけなら、まだいい。

 手の打ちようはある。

 ユリウスの指を止めたのは、報告の最後に書き添えられた一文だった。


 ――踏み込みの直前、正体不明の男に、銀山の秘密を言い当てられた。

 男は貴族風の身なりで、赤い目をしていた。

 組合の者を氷漬けにし、何でも知っているような口ぶりで尋問した。

 騎士が現れると、目の前で闇に消えた。


「……貴族風の男」


 書状を机に置いた。

 市場の両替商で、銀貨の緑青を見つけた男。

 家名を明かさず、シモンと名乗った男。

 その男も、貴族風の身なりだったと聞いている。


 窓の外では、王都の屋根が赤く染まっていた。

 指先で机をゆっくりと叩いた。


「市場の件に続いて、二度目か」


 低い声が、静かな部屋に落ちた。


「……何者だ」

第一章 筋書きは誰が書いた

第十六話 炉に火を入れる

[王立リュケイオン学院・東棟の研究室 テオドール]


「……くそ」


 手にしていた銀貨を机の上に放り出した。

 乾いた音を立てて、銀貨が転がる。

 傷ひとつない表面が、窓からの日を受けて、憎らしいほどきれいに輝いていた。


 商会の使いを追い返した翌日から、雑用が雪崩のように降ってきた。

 学期末の試験に使う試料の支度。

 東棟の古い炉の修繕の立ち会い。

 貴族の子弟たちが失敗した実験の後片づけ。

 上役の教授の論文の清書まで、なぜか自分のところに回ってきた。


「平民の研究員は、便利な雑用係か何かだと思われているらしい」


 ぼやきながら片づけるうちに、気づけば半月近くがたっていた。

 自分の焼き入れの実験すら、手つかずのままだ。

 ようやく手が空いたこの三日で、思いつくかぎりの検査をした。


 天秤で重さを量った。

 本物の銀貨と、ぴたりと釣り合った。

 水を張った器に沈め、あふれた水の量から、重さと大きさの釣り合いを確かめた。

 これも、本物と変わらなかった。


 やすりで縁を削り、硬さを見た。

 本物と同じ手応えだった。

 刻まれた意匠を拡大鏡でのぞき込み、一本一本の線を見比べた。

 鋳造所の型から生まれた、正真正銘の王国の銀貨だった。


 どの検査も、口をそろえて同じことを言う。

 これは、本物の銀貨だ、と。


「本物なら、なぜ商会の使いが、わざわざ金を積みに来る」


 机に頬杖をついて、転がった銀貨をにらんだ。

 半月ほど前にここへ来た、あの愛想のいい男の顔を思い出す。

 組合には掛け合えない事情でも、と問うたとき、男の笑みは確かに一瞬固まった。

 本物の銀貨を返してもらうのに、あんな顔をする者はいない。


     ◇


 両替商組合の依頼状を、もう一度広げた。


 依頼の経緯が、几帳面な字で書き連ねてある。

 市場の両替商が受け取った銀貨。

 音の響きに、わずかな違和感があったこと。

 そして、末尾の一文。


 ――持ち込まれた銀貨の一枚に、緑青が浮いたとの報告あり。

 拭えば消えた由。


「緑青、ね」


 鼻で笑った。

 組合の誰かの見間違いだろう。

 銀貨に銅が混ぜてあったとしても、表に緑青が浮くほどなら、とっくに誰かが気づいている。

 そもそも、この銀貨は緑青どころか――。


 そこで、テオドールの指が止まった。


 緑青どころか、くすみひとつない。


 この銀貨は、市場の両替商が受け取ったものだ。

 人の手から手へと渡ってきたはずの銀貨だ。

 それなのに、袋の中のどの一枚をとっても、鋳造所から出てきたばかりのように光っている。

 半月ほど前に感じた違和感が、はっきりとした形を持ちはじめていた。


     ◇


 棚の奥から、口の広いガラス瓶を二つ取り出した。


 片方には、実家から持ってきた古い銀貨を一枚。

 もう片方には、依頼の袋から出した銀貨を一枚。

 それぞれの瓶の底に、ひとつまみの硫黄を置いて、小さな火をつける。

 黄色い煙が立ちこめたところで、蓋をして固く閉めた。


 銀は、硫黄の煙にさらせば黒ずむ。

 人の手を渡るうちに銀貨がくすんでいくのと、同じことが、早く起こるだけだ。

 子どものころ、近所の商店の隠居が、そう教えてくれた。


 一晩置いて、翌朝、二つの瓶の蓋を開けた。


 古い銀貨は、黒々と曇っていた。

 依頼の銀貨は、うっすらと色が沈んだだけだった。

 同じ煙に、同じだけさらしたにもかかわらず、だ。


「……くすまない銀貨、か」


 思わず乾いた笑いをもらした。

 組合は、緑青が浮いたと言ってきた。

 だが、この銀貨の本当の異常は、その逆だ。

 くすむはずのものが、くすまない。

 何かが浮くどころか、何も浮かないことこそが、異常だったのだ。


 これは、銀だけでできた銀貨ではない。

 銀よりもさびにくい何かが、混ぜ込まれている。


     ◇


 最後の手段だった。


 空けておいた炉に火を入れた。

 ふいごを踏むたびに炭が赤く燃え上がり、狭い研究室に熱がこもっていく。

 煤で汚れた指が、汗ですべった。


 依頼の銀貨を数枚、鉛と一緒にるつぼへ放り込む。

 溶けた金属を、骨灰を固めた皿に流し、さらに火を当てる。

 鉛と、銀以外の金属は、焼かれるうちに灰の皿へ吸い込まれていく。

 最後に皿の上に残るのは、銀だけだ。


 長い時間がたった。

 炉の火を落とし、皿が冷めるのを待って、それをのぞき込んだ。


 皿の真ん中に、小さな銀の粒がひとつ、ころんと残っていた。


 その粒を天秤に載せた。

 反対の皿に、分銅をひとつずつ足していく。

 天秤が釣り合ったところで、手が止まった。


「……少なすぎる」


 銀貨数枚分の銀が、この粒ひとつ。

 王国の銀貨に、本来あるべき銀の量には、遠く及ばない。

 足りない分は、すべて銀ではない何かで埋められていたのだ。


 それも、ただの銅や錫ではない。

 ただ銅を混ぜただけなら、色も、重さも、硬さも、とっくに本物と違ってくる。

 それが、重さも硬さも本物と変わらず、くすみさえしない。


 背筋が冷たくなるのを感じた。


「こんなものを作れるのは……相当な技術を持った者だけだ」


 自分の知らない合金だった。

 学院の誰に聞いても、おそらく知らないだろう。

 銀に似せて、銀よりさびにくく、それでいて銀ではない金属。

 いったい誰が、何のために、こんなものを。


 そして、ほんの一瞬だけ、別の思いが胸をよぎった。


 ――これを、作り方ごと知ることができたら。


 鉄よりも硬く、粘り強く、さびにくい金属。

 自分がずっと追いかけてきたものの答えが、この粒の向こうにあるような気がした。

 慌ててその考えを振り払った。

 これは、贋金だ。

 誰かを騙すために作られた金属だ。


     ◇


 鑑定の結果を書き上げたのは、日が暮れてからだった。


 検査の手順、硫黄の煙の結果、そして銀の粒の重さ。

 それを封筒に収め、学院の使い走りの少年に託した。


「両替商組合へ。明日の朝いちばんに、組合長の手に渡るようにしてくれ」


 少年は、封筒を抱えて駆けていった。

 その背中を見送ってから、ようやく大きく息をついた。


 これで、自分の仕事は終わりだ。

 あとは組合が、騎士団なり何なりに話を持っていくだろう。

 雑用にしては、ずいぶん骨の折れる仕事だった。


 研究室の戸に鍵をかけ、学院の門を出た。

 下宿までは、歩いてしばらくかかる。

 夜の王都は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 石畳に、自分の足音だけが響く。

 角を曲がり、人通りの絶えた路地に入る。


 ふと、足音が多い気がした。


 歩きながら耳を澄ませた。

 自分の足音と、それとは少しずれた、いくつもの足音。

 試しに足を止めると、それもぴたりとやんだ。


 振り返る勇気は、なかった。

 月明かりに伸びる自分の影の後ろで、いくつもの影が、静かにテオドールをつけていた。

第一章 筋書きは誰が書いた

第十七話 夜道の襲撃

 歩く速さを上げた。


 背後の足音も、同じだけ速くなった。

 もう、気のせいだとは思えなかった。


 心臓が、耳のすぐそばで鳴っている。

 物盗りだろうか。

 だが、こんな身なりの研究員を、わざわざ何人もでつけ回す物盗りがいるだろうか。

 懐にあるのは、研究室の鍵と、わずかな小銭だけだ。


 頭に浮かんだのは、あの商会の使いの、愛想のいい笑顔だった。


 次の角を曲がれば、大通りに出る。

 大通りなら、夜でもまだ人がいるはずだ。

 ほとんど駆け足になって角を曲がった。


 そこに、男が二人立っていた。


 暗がりに溶け込むような、黒っぽい服。

 顔の下半分を布で覆い、目だけがこちらを見ている。

 大通りへ続く道は、その二人の体でふさがれていた。


 反射的に踵を返した。

 だが、来た道からも、三つの影がゆっくりと近づいてくる。

 大通り側に二人、来た道に三人。

 挟まれた。


「……何の用だ」


 声が、裏返った。

 自分でも情けないほど、細い声だった。


 来た道の三人のうち、真ん中の男が一歩前に出た。

 岩のようにがっしりとした体つきで、首が太い。

 布で覆った顔の上で、細い目が笑っていた。


「学院の研究員、テオドール・シュミットだな」

「人違いだ。俺は――」

「煤だらけの指をした、痩せぎすの若造。学院の東棟から、たった今出てきた。人違いのしようがない」


 男は、楽しそうに肩を揺らした。


「俺は、シュヴァルツ。覚えなくていい。どうせ、すぐに必要なくなる」


 シュヴァルツ。

 いかにも、偽名くさい名前だった。

 夜の闇に紛れて人を襲う男が、わざわざそんな名前を名乗るのか。

 テオドールの頭の片隅で、いつもの皮肉な自分がそうつぶやいた。

 だが、それを口に出す余裕は、どこにもなかった。


     ◇


「銀貨を、ずいぶん熱心に調べていたそうじゃないか」


 シュヴァルツが、ゆっくりと距離を詰めてくる。

 テオドールは後ずさった。

 背中が、冷たい石の壁にぶつかった。


「商会の使いが、穏便に返してくれと頼んだはずだ。お前は、それを断った」

「依頼主は、組合だ。俺の知ったことじゃ……」

「ああ、そうだな。お前の知ったことじゃない」


 シュヴァルツは、うなずいた。


「だから、これ以上は知らなくていい」


 その言葉の意味を理解した瞬間、膝から力が抜けそうになった。


 大きく息を吸い込んだ。

 誰か、と叫ぼうとした。


 その口を、横から伸びてきた手がふさいだ。

 いつの間にか、大通り側にいた男の一人が、すぐ脇まで来ていたのだ。

 汗と土のにおいのする手のひらが、顔の半分を押さえつける。

 後頭部が、壁にごつんとぶつかった。


「静かにしとけ。どうせ、誰も来やしない」


 男が、耳もとで低く笑った。

 手が離れても、もう、声を出すことができなかった。


 口封じ。

 商会の使いの、あの固まった笑み。

 鑑定を取り下げさせようと、わざわざ金を積みに来た理由。

 すべてが、一本の線でつながった。

 自分は、知ってはいけないものを知ってしまったのだ。


 壁に背中を押しつけたまま、震える指を握りしめた。


 何か、言い返さなければ。

 いつものように、相手の弱いところを突いて、皮肉の一つでも浴びせてやらなければ。

 学院の廊下で、金持ちの子弟たちにそうしてきたように。


 だが、唇はただ震えるだけで、言葉が出てこなかった。


 ――情けない。


 学院の連中に、何を言われても言い返してきた。

 平民の、鍛冶屋の息子だと見下されるたびに、口だけは負けまいとしてきた。

 それが、どうだ。

 本当に危ない目に遭った途端、このざまだ。


 剣のひとつも握ったことのない、煤だらけの手。

 皮肉しか取り柄のない、ひょろ長い体。

 貴族の子弟なら、こういうときのために、剣の稽古くらいはしているのだろう。

 自分には、それすらない。

 恐怖の底から、腹立たしさがじわじわと込み上げてきた。


 誰に対してなのかは、自分でもわからなかった。


     ◇


「シュヴァルツさん。さっさと済ませましょう」


 手下の一人が、焦れたように言った。

 シュヴァルツは、小さく顎をしゃくった。


 手下の男が、テオドールの前に進み出る。

 右手を、胸の前に掲げた。


「――炎弾」


 男の手のひらの上に、ぽっと小さな火が灯った。

 それは見る間に膨れ上がり、人の頭ほどもある火の玉になった。

 赤い光が、路地の石壁を照らし出す。

 炎の熱が、離れていてもじりじりと頬を焼いた。


 息をのんだ。

 逃げ場はない。

 壁と、男たちと、火の玉。

 あれをまともに受ければ、どうなるかは、考えるまでもなかった。


「悪く思うなよ、学者先生」


 シュヴァルツが、退屈そうに言った。


「恨むなら、余計なものを調べた自分を恨め」


 火の玉が、ぐっと大きくなった。

 男の腕に、力がこもるのがわかった。


 テオドールは、目をつぶった。


 ――そのときだった。


「この者は私の駒だ。手を出さないでいただこうか」


 路地の入口のほうから、声がした。


 場違いなほど、落ち着いた声だった。

 夜会の席で、葡萄酒の銘柄でも尋ねるような、ゆったりとした声。

 火の玉の唸りも、男たちの殺気も、まるで聞こえていないかのような。


 おそるおそる目を開けた。

第一章 筋書きは誰が書いた

第十八話 炎弾

[王都・宿の部屋 学]


「ねえマーナ。夜の王都って、まだちゃんと歩いたことなかったわよね」


 ジルバータールから戻って、数日がたった夜のことだった。

 宿の窓辺で、モナがそんなことを言い出した。

 琥珀の灯亭で夕飯を済ませ、あとは寝るだけだったので、寝台に寝転がったまま、顔だけを向けた。


「夜の散歩なら、銀山でさんざんしただろ」

「あれは、仕事でしょ。今度は観光よ。王都の夜は、昼間とぜんぜん違うんだから」

「いや、待て。夜の王都なんて、人通りも少ないだろ。そんなところを、おまえとしゃべりながら歩いてみろ」


 寝台の上で身を起こした。


「はたから見たら、夜中にひとりでぶつぶつ言ってるおっさんだぞ。完全にやばいやつだろ」

「じゃあ、あんたも消えちゃえばいいじゃない」


 モナは、あっさりと言った。


「姿さえ見えなきゃ、誰にも変な目で見られないでしょ。ほら、これで解決」

「……それはそれで、声だけ聞こえたら怪談だけどな」

「夜中にそんな道、誰も歩いてないわよ。ほら、行きましょ」


 結局、押し切られた。

 腹ごなしにはちょうどいいか、と自分に言い聞かせて、宿の部屋で姿を消す。

 そうして、誰の目にも映らない男と妖精は、夜の王都へと出ていった。


 石畳の大通りを抜け、学院のある界隈まで足を延ばしたところで、モナがふいに羽を止めた。


「……ねえ、あれ」


     ◇


[王都・夜の路地 学]


 細い路地の奥に、赤い光が揺れていた。


 足音を殺して近づいた。

 姿が見えなくても、足音までは消していない。

 覗き込んだ路地の先で、痩せた若い男が壁に背中を押しつけられていた。

 それを、顔を布で覆った男たちが取り囲んでいる。

 その中の一人の手のひらの上で、人の頭ほどもある火の玉が、ごうごうと燃えていた。


「ちょっと、マーナ。あれ、まずいんじゃない?」


 モナの声から、いつもの笑いが消えていた。

 さすがに顔をしかめた。


 物盗りにしては、人数が多すぎる。

 囲まれている男の格好は、どう見ても金を持っていそうには見えない。

 それに、あの火の玉。

 あれをまともに受けたら、ただでは済まない。


 助けなければ。

 そう思った次の瞬間には、もう体が動いていた。


 ――どうせ助けるなら。


 学の口の端が、わずかに吊り上がった。


 夜色の外套。

 撫でつけた黒髪と、白く冷たい肌。

 暗がりの中で、赤い瞳が炎の明かりを映して光る。

 足を止めることなく、姿を整えた。


「この者は私の駒だ。手を出さないでいただこうか」


     ◇


 路地の空気が、凍りついた。


 男たちが、いっせいにこちらを振り向く。

 火の玉を構えていた男の腕が、ぴたりと止まった。

 壁際の若い男が、おそるおそる目を開けるのが見えた。


 路地の入口に立つ紳士の姿が、ふっと揺らいだ。

 次の瞬間、その姿は、壁際の若い男の前に立っていた。

 外套の裾が、ふわりと石畳に落ちる。

 まるで、最初からそこにいたかのように。


 もちろん、学にそんな芸当はできない。

 声をかけた直後から、入口に紳士の幻を残したまま、姿を消して全力で路地を駆けていたのだ。

 足音は、幻術でかき消した。

 男たちの脇をすり抜け、若い男の前にたどり着いたところで、入口の幻を消し、自分の上に紳士の姿を重ねる。

 上がった息を悟られないよう、奥歯をかみしめた。


「……誰だ、あんた」


 いちばん体の大きな男が、低い声で言った。

 岩のような体つきの、首の太い男だった。


「名乗るほどの者ではありませんよ」

「駒、と言ったな。その学者が、あんたの駒だと?」

「ええ。私の盤の上の、大切な駒です。勝手に取られては困る」


 男たちが、顔を見合わせた。

 布の上の目に、はっきりと動揺の色が浮かんでいる。


「……まさか、上の」


 誰かが、小さくつぶやいた。

 学は、何も答えなかった。

 ただ、うっすらと微笑んでみせた。


 どうやら、何かを勘違いしてくれているらしい。

 ジルバータールの組合の男と、同じ反応だ。

 この手の連中には、どうも「上」というものがいるらしかった。


「シュヴァルツさん、どうします」


 手下の一人が、まとめ役らしい大男に指示を仰いだ。


 ――シュヴァルツ。


 学の頭の中で、何かがきらりと光った。


 いいな、その名前。

 黒、だぞ。

 いかにも、夜の闇で暗躍する者の名前じゃないか。

 シモンも悪くはないが、正直に言えば、こっちのほうがずっと黒幕っぽい。


「マーナ。顔」


 耳もとで、モナが冷ややかに言った。

 学は、はっと我に返った。

 いけない。

 一瞬、気が散っていた。


     ◇


「……上の者だろうと、何だろうと」


 シュヴァルツと呼ばれた大男が、低くうなるように言った。


「俺たちが受けた指示は、この学者の口をふさげ、だ。それ以外は聞いていない」

「それは、困りましたね」

「困るのは、あんたのほうだ。――おい」


 シュヴァルツが、顎をしゃくった。


 火の玉を構えていた男の腕に、ふたたび力がこもる。

 その狙いが、壁際の学者から、ゆっくりと学のほうへ移った。


 心臓が、どくんと跳ねた。


 まずい。

 あれは、本物の炎弾だ。

 幻術の氷とはわけが違う。

 まともに受ければ、黒焦げになる。


「くたばれ!」


 男が腕を振り抜いた。

 火の玉が、うなりを上げて飛んできた。


 考えている暇はなかった。

 ゆったりと右手を持ち上げた。

 指先に、意識を集める。


 あれよりも、大きな炎。

 もっと熱く、もっと明るく、すべてを呑み込むような炎。

 路地の壁を赤く染め上げるほどの、圧倒的な火の玉を。


 学の手のひらから、巨大な炎が噴き上がった。


 それは、男の炎弾の三倍はあろうかという火の玉だった。

 路地の空気が揺らぎ、石壁が真っ赤に照らし出される。

 肌を焼くような熱気が、男たちの顔を打った。

 もちろん、その熱さも、すべて幻だ。


 二つの炎が、路地の真ん中でぶつかった。


 学の炎が、男の炎弾を呑み込んだ。

 小さな火の玉は、大きな炎の中で、ふっとかき消えた。

 そのまま学の炎は男たちの頭上をかすめ、向かいの石壁に叩きつけられて、轟音とともに弾け飛んだ。


 炎弾を放った男が、尻もちをついた。


「お、俺の炎弾が……消された……」


 男は、自分の手のひらを呆然と見つめている。

 そこには、もう何も灯っていなかった。


 外套の裾を軽く払った。

 表情ひとつ変えず、男たちを見下ろす。

 内心では、膝が笑い出しそうだった。


 ――消えた。

 本当に、消えた。


 モナに、何度も聞かされてはいた。

 魔法は感覚で使うもの。

 自分の魔法が消されたと、術者自身が心の底から信じれば、その魔法は本当に消える。

 理屈では、わかっていた。

 だが、本物の炎弾を相手に試したのは、これが初めてだった。


「……まだ、続けますか」


 静かに言った。

 声が震えていないか、自分でもよくわからなかった。


     ◇


 シュヴァルツは、しばらく学をにらみつけていた。

 やがて、ちっと舌打ちをした。


「……引き上げるぞ」

「シュヴァルツさん、でも」

「上に確認を取る。話はそれからだ」


 男たちは、尻もちをついた仲間を引きずり起こすと、路地の闇の中へと消えていった。

 足音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなる。


 路地に、静けさが戻った。


 ゆっくりと息を吐いた。

 背中に、汗がびっしょりと浮いている。


「……すっごい。今の、すっごく黒幕っぽかったわよ、マーナ」


 耳もとで、モナがはしゃいだ。


 学は、それに答えず、向かいの石壁に目をやった。

 炎が弾けたはずの壁には、焦げ跡ひとつない。

 当然だ。

 あの炎は、幻なのだから。


 ――危ない、危ない。


 壁に向かって指先を軽く振った。

 石の壁に、黒々とした焦げ跡が浮かび上がる。

 炎が弾けた形に、放射状に煤が広がった。

 これなら、誰がのぞき込んでも、ここで炎がぶつかったようにしか見えない。


 もちろん、これも幻だ。

 これだけの騒ぎになれば、夜のうちにも誰かが調べに来るかもしれない。

 本物の焦げ跡を作るまでは、この幻をかけ続けておかなければならなかった。

 眠ってしまえば、幻は解ける。

 今夜のうちに、こっそり松明を持って戻ってきて、それらしく焼いておくしかない。


 幻術は、解けたあとがいちばん大事なのだ。

 我ながら、涙ぐましい努力だと思った。


 背後で、ずるずると何かがすべり落ちる音がした。

 壁にもたれていた若い男が、その場に座り込んだのだろう。


 ゆっくりと振り返った。


 痩せた若い男が、石畳にへたり込んでいた。

 煤で汚れた手が、まだ小刻みに震えている。

 大きく見開かれた目が、まっすぐにこちらを見上げていた。


 とびきり芝居がかった笑みを浮かべてみせた。

第一章 筋書きは誰が書いた

第十九話 ロキ

[王都・夜の路地 テオドール]


 石畳にへたり込んだまま、目の前の男を見上げていた。


 夜の色をした外套。

 白い顔に、赤い瞳。

 男は、芝居がかった笑みを浮かべて、こちらを見下ろしている。


 助けられた。

 それは、わかる。

 だが、なぜ。


「……あんたは、誰だ」


 かすれた声で、どうにかそれだけを聞いた。


 あの男は、自分のことを「私の駒」だと言った。

 だが、自分はこの男を知らない。

 会ったこともなければ、名前を聞いたこともない。

 駒だの盤だの、すべて口から出まかせだ。

 襲撃者たちを引き下がらせるために、平然と嘘をついてみせたのだ。


 男は、問いには答えなかった。

 代わりに、くつくつと喉の奥で笑った。


 その輪郭が、ぐにゃりと揺らいだ。


 外套の色が抜け、背丈が縮んでいく。

 撫でつけた黒髪がほどけて、くしゃくしゃの癖毛になる。

 瞬きひとつのあいだに、そこに立っていたのは、十を少し過ぎたくらいの、見知らぬ少年だった。


 少年は、首をかしげて、にっと歯を見せた。

 さっきまでの慇懃な口ぶりが嘘のような、無邪気な子どもの声だった。


「へへっ。なんだか、おもしろくなってきたね、お兄さん」


 ぞっとするほど、屈託のない笑顔だった。

 そして少年は、目の前で、ふっと消えた。


     ◇


 路地には、テオドールひとりが残された。


 どれくらい、そうしていただろう。

 夜風が汗を冷やし、ようやく自分が震えていることに気がついた。

 ゆっくりと立ち上がり、壁に手をついて、路地を見回す。


 誰もいない。

 襲撃者たちの姿も、あの男の姿も。

 向かいの石壁には、炎が弾けた跡が、黒々と焦げついている。

 あれは、夢ではなかったのだ。


 頭の中で、見たものを順に並べてみた。


 まず、炎。

 襲撃者の炎弾を呑み込んだ、あの巨大な火の玉。

 離れていても、肌が焼けるほどの熱があった。


 次に、姿を変えたこと。

 紳士から、少年へ。

 背丈も、顔も、声も、まるきり別人になっていた。


 そして、消えたこと。

 最後には、目の前で、かき消すように姿を消した。


 炎の魔法。

 変身の魔法。

 姿を消す魔法。


「……三つ、だと?」


 声に出して、自分で背筋が冷たくなった。


 人が使える魔法は、多くても二つまでだ。

 血筋の魔法と、生得の魔法。

 三つ目を使える人間など、いるはずがない。

 学院で学ぶ者なら、子どもでも知っている常識だ。


 そこで、はっと顔を上げた。


 いや、それだけではない。

 最初に声がしたとき、あの男は路地の入口にいたはずだ。

 それが、瞬きひとつのあいだに、自分の目の前に立っていた。

 歩いたのでも、走ったのでもない。

 あれは、離れた場所へ一瞬で移る魔法だ。


「……四つ」


 三つでさえ、人の身にはありえない。

 それが、四つ。

 もはや、見間違いや思い違いで片づけられる数ではなかった。

 肌を焼いたあの熱も、目の前で変わっていった顔も、確かにこの目で見たのだ。


 あの男は、人ではない。

 少なくとも、尋常な存在ではない。

 そう確信した。


 子どものころ、母親から聞かされた話がよみがえる。

 姿を変え、ありとあらゆる魔法を使い、嘘で人を惑わせては、騒ぎの裏で笑っていた神の話。

 誰にも正体をつかませず、最後にはいつも、煙のように消えてしまう。


「……御伽噺(おとぎばなし)のロキみたいなやつだったな」


 口に出してから、自嘲気味に鼻を鳴らした。

 研究者が、御伽噺を本気にしてどうする。


 それでも、震えはなかなか止まらなかった。

 壁に手をつきながら、よろよろと大通りのほうへ歩き出した。


     ◇


[路地の入口の暗がり 学]


 路地の入口の暗がりで、固まっていた。


 もちろん、帰ったわけではない。

 目の前で消えてみせたのは、ただ姿を消しただけだ。

 本物の焦げ跡を作るまでは、この場を離れるわけにはいかない。

 学者が立ち去るのを、息を殺して待っていたところだった。


 ――ロキ?


 思わず耳を疑った。


 ロキって、北欧神話のロキだよな。

 悪戯好きで、嘘つきで、姿を変えては神々を引っかき回す、あのトリックスターの神。

 なんで、こっちの世界の人間が、その名前を知っているのか。


 こっちにも、似たようなやつがいるのか。

 ……まあ、北欧のほうが、だいぶ悪辣な気がするが。


「ロキですって、マーナ。有名人じゃない」


 耳もとで、モナがけらけらと笑った。

 学は、それどころではなかった。

 何がどう転んで、自分が神様と比べられているのか、さっぱりわからない。


 学者の足音が、大通りのほうへ遠ざかっていく。

 それが聞こえなくなったところで、ようやく大きく息を吐いた。


「なあ、モナ。こっちのロキって、どういうやつなんだ」

「御伽噺の神様よ。いたずら好きで、ありとあらゆる魔法を使いこなすの。人の国の昔話には、たいてい、どこかにロキが顔を出すわ」

「……悪いやつなのか」

「さあ。悪いこともするし、いいこともする。何を考えてるのか、誰にもわからない神様よ」


 悪役なのか、そうでないのかも、はっきりしないらしい。

 北欧のロキと、そう変わらない気がした。


「……よし。今のうちだ」

「ねえ、その前にひとつ聞いていい?」


 モナが、学の顔の前にふわりと回り込んだ。


「なんで最後、子どもになったの?」

「え?」

「わざわざ少年に化けて、『へへっ、お兄さん』って。あれ、何の意味があったの」


 学は、言葉に詰まった。


「……いや、なんとなく。去り際に、まるっきり別人になって消えるの、謎の男っぽいだろ」

「それだけ?」

「それだけだ。意味はない。かっこいいだけだ」

「かっこよかったかしら、あの『へへっ』」

「やるなら、とことんやるんだよ。半端に子どもっぽいほうが、よっぽど恥ずかしいだろ」


 モナは、こらえきれずに吹き出した。

 学は、聞こえないふりをして、松明を探しに歩き出した。


     ◇


 松明は、一本向こうの通りで見つかった。


 閉まった宿屋の戸口に、鉄の金具で掛けてある。

 それをそっと外すと、松明ごと、炎の明かりまで幻術で覆い隠した。

 姿の見えない男が、燃える松明を持って夜道を歩いていたら、それこそ怪談だ。


 路地に戻り、向かいの石壁の前に立つ。

 壁には、自分でかけた幻の焦げ跡が、黒々と広がっていた。


「……これと同じ形に焼くのか」

「がんばって、マーナ」


 モナが、壁の前でふわふわと浮かびながら、面白そうに言った。


 学は、松明の炎を壁に押し当てた。

 じゅっ、と石に染みた湿り気が鳴る。

 少しずつ炎を動かしながら、幻の焦げ跡の縁をなぞっていく。


 思ったより、ずっと難しかった。

 石は、なかなか黒くならない。

 一か所に長く当てすぎると、そこだけ濃くなりすぎる。

 幻のほうは放射状にきれいに煤が広がっているのに、本物はどうにもまだらになる。


「そこ、はみ出してる」

「わかってるよ」

「あ、今度は薄い。そっちの端、もっと」

「わかってるって」


 額に汗がにじんだ。

 さっき、襲撃者の炎弾と向き合ったときより、よほど神経を使っている気がする。

 黒幕というのは、案外地味な仕事なのだ。


 炎を動かしながら、ふと口を開いた。


「それにしても、シュヴァルツか。いい名前だったなあ」

「ん?」

「黒、だぞ。いかにも夜の黒幕って感じじゃないか。僕も、ああいう名前がよかったなぁ」


 その瞬間、空気が変わった。


「……今、なんて言ったの」


 モナの声が、いつもよりずっと低かった。

 学は、ぎくりとして手を止めた。


 モナは、学の顔の前で、ぴたりと宙に止まっていた。

 いつもの笑みは、どこにもない。

 小さな体から、肌がひりつくような怒りが立ちのぼっていた。


「シモンって名前、誰がつけてあげたと思ってるの」

「あ、いや、モナ、そういう意味じゃ……」

「妖精が人に名前を贈るのが、どういうことかわかってるの? それを、あんな人を襲うような連中の、いかにもな偽名のほうがいいですって?」


 羽が、ぶるぶると震えている。

 自分がとんでもない地雷を踏んだことを、ようやく悟った。


「ご、ごめん。悪かった。シモンがいちばんだ。本当に」

「ほんとに?」

「ほんとだって。もう二度と言わない」


 モナは、しばらく学をにらみつけていた。

 やがて、ふんと鼻を鳴らして、そっぽを向いた。


「……今度言ったら、マーナって名前を国じゅうに広めてやるから」

「それだけは勘弁してくれ」


 平謝りしながら、黙々と壁を焼き続けた。


     ◇


 ようやく焼き終えたのは、思ったより手間取ってからだった。


 一歩下がり、幻の焦げ跡を、そっと解いた。

 その下から、本物の焦げ跡が現れる。

 放射状とはいかないが、炎がぶつかって弾けた跡に見えなくもない。


「……まあ、夜なら、ばれないだろ」

「明るくなったら、ちょっと怪しいけどね」


 モナは、まだ少しすねた声で言った。


 そのときだった。

 大通りのほうから、慌ただしい足音が近づいてきた。


 とっさに松明を足もとの水たまりに突っ込んで火を消し、壁際の暗がりに身を寄せた。

 濡れた松明は、幻術で隠したまま握りしめる。

 もちろん、自分の姿も消したままだ。


 路地に飛び込んできたのは、ランタンを掲げた騎士だった。

 黒髪のポニーテールが、肩で弾んでいる。


 カタリナだ。

 ジルバータールから戻っていたらしい。

 その後ろには、さっきの学者が、青い顔でついてきていた。

 震える足で、大通りの先の詰め所まで知らせに行ったらしい。


「この路地ですね。あなたが襲われたのは」

「……ええ。正確には、襲われかけた、ですが。あそこの焦げ跡が、そのときのものです」


 学者は、向かいの壁の焦げ跡を指さした。

 学は、暗がりの中で息を止めた。

 焼いたばかりの焦げ跡に、カタリナのランタンの明かりが当たる。

 カタリナは、それをちらりと見ただけで、すぐに学者に向き直った。


 学者は、ここで起きたことを、もう一度順を追って話しはじめた。


 顔を隠した男たちに、口封じをされかけたこと。

 そこに、夜の色の外套を着た、赤い目の男が現れたこと。

 自分のことを「私の駒だ」と言い張り、炎の魔法で襲撃者の炎弾を打ち消したこと。

 最後には、少年の姿に変わり、目の前で消えたこと。


 話が進むにつれて、カタリナの顔が、みるみるこわばっていった。


「……その男は、名乗りましたか」

「いや。名乗るほどの者じゃない、とか言っていた」


 カタリナは、ランタンを持ったまま、片手で額を押さえた。

 深く、長いため息が、夜の路地に落ちた。


「……また、あの男か」

第一章 筋書きは誰が書いた

第二十話 潰れた面子

[王都 シュヴァルツ]


 シュヴァルツという名前は、自分でつけた。


 本当の名前は、もっと平凡で、口にするのも忌々しいほどありふれている。

 この仕事を始めるときに、何かそれらしい名前が要ると思った。

 夜の闇に紛れて、汚れ仕事を片づける男。

 それなら、黒だ。

 我ながら、悪くない名前だと思っていた。


 その名前に、あの夜、泥を塗られた。


     ◇


[王都・大商会の裏口 シュヴァルツ]


 襲撃の翌朝、大商会の裏口を叩いた。


 出てきたのは、いつもの連絡役の男だった。

 仕立てのいい服を着た、愛想のいい男。

 商会の中で、自分たちに仕事を回してくる窓口だ。

 その上に誰がいるのか、知らない。

 知らなくていいと言われているし、知りたいとも思わなかった。


「しくじったのか」


 連絡役は、シュヴァルツの顔を見るなり、そう言った。


「しくじっちゃいない。邪魔が入った」

「邪魔?」

「貴族風の男だ。真っ黒な外套に、赤い目。いきなり現れて、あの学者は自分の駒だから手を出すな、と言いやがった」


 ゆうべのことを手短に話した。

 炎弾を、それより大きな炎で呑み込まれたこと。

 男が、まるで何もかも知っているような口ぶりだったこと。

 手下の一人が「上の」とつぶやいたとき、男が否定もせずに笑ったこと。


「……確かめたい。あれは、あんたたちの上から来た男なのか」


 連絡役は、しばらく黙っていた。

 笑みは崩さなかったが、目の奥が少しだけ硬くなった。


「確認しておく。数日、待て」


     ◇


 数日後、ふたたび裏口に呼び出された。


 連絡役は、前と同じ愛想のいい顔で立っていた。

 ただ、その声には、隠そうともしない冷たさがあった。


「上に確認した。そんな男は知らないそうだ」

「……何だと」

「学者から手を引けという指示も、出していない。誰も、お前たちのところへ人をやってはいない」


 シュヴァルツは、言葉を失った。


 知らない。

 指示など、出していない。

 つまり、自分たちは、どこの誰とも知れない男のはったりに怯えて、仕事を放り出して逃げ帰ったということだ。


「それと、あの学者のことは、もういい」

「もういい、だと」

「鑑定の結果は、とっくに組合に届いている。今さら口をふさいだところで、何の意味もない」


 連絡役は、それだけ言うと、裏口の戸を閉めた。

 最後に、ちらりとシュヴァルツを見た目には、はっきりと蔑みの色が浮かんでいた。


 閉じた戸の前に、しばらく立ち尽くしていた。


 奥歯が、ぎりぎりと鳴った。

 あの男の、余裕たっぷりの笑み。

 まだ続けるのか、とこちらを見下ろした、あの赤い目。

 すべて、はったりだったのだ。

 それに気づかず、尻尾を巻いて逃げた。


 自分でつけた名前が、急に安っぽく聞こえた。


「……覚えてろよ」


 誰に向けたのかもわからない言葉を吐き捨てて、裏通りの闇に消えた。


     ◇


[王都の酒場や井戸端]


 同じころ、王都の酒場や井戸端では、妙な噂がささやかれはじめていた。


 学院のそばの路地で、夜中に大きな火の玉が上がった。

 ごろつきに囲まれた学者を、見知らぬ貴族が助けた。

 その貴族は、炎を操り、子どもの姿に化けて、煙のように消えた。


「まるで、御伽噺のロキじゃないか」


 誰かが、そう言った。

 噂は、それを合図にしたように広まっていった。

 王都のどこかに、ロキのような男がいる。

 姿を変え、嘘をつき、騒ぎの裏で笑っている男が。


     ◇


[王都・大商会の奥まった一室 ユリウス]


 大商会の奥まった一室で、机の上に三通の報告書を並べていた。


 一通目は、王都の市場。

 両替商の店先で、銀貨に緑青が浮いていると言い立てた男。

 家名を名乗らず、シモンと名乗った。


 二通目は、ジルバータール。

 製錬所の裏で、組合の者を氷漬けにし、銀山の秘密を言い当てた男。

 ランタンの明かりの中で、赤い目が光っていたという。


 三通目は、王都の夜道。

 学者の口をふさぎに行った者たちの前に現れた男。

 路地の入口から、瞬く間に学者の前へ移り、炎弾をより大きな炎で呑み込んだ。


 どれも、貴族風の、正体不明の男だった。


 指先で三通の報告書をゆっくりとなぞった。


 偶然ではない。

 同じ男だ。

 市場で銀貨を突き、銀山で組合を揺さぶり、学院の鑑定を守った。

 計画の要所に、必ず現れている。

 しかも、その男は、我々の上から来た者だと思わせて、手下どもを追い払ったという。


 学院の連中が、ついに口を出してきたのか。

 一瞬、そんな考えが頭をかすめた。

 だが、それにしては、やり口が派手すぎる。

 あの連中が、わざわざ姿を現して名を残すような真似をするとは思えない。


 戸が叩かれ、部下が入ってきた。


「街で、妙な噂が広まっております。学院のそばの路地の件です」

「噂?」

「火の玉を操り、子どもに化けて消えた貴族がいた、と。王都の者たちは、その男を……ロキのようだ、と」


 ユリウスの指が、報告書の上で止まった。


「ロキ。御伽噺の、あのロキか」

「はい」


 ユリウスは、しばらく黙っていた。

 それから、乾いた笑いを短くもらした。


「くだらん。……だが、名前がないよりはましだ」


 部下が下がると、三通の報告書を、ひとつに重ねた。


「……何者だ」


 その問いに答える者は、誰もいなかった。

 窓の外では、ロキの噂を口にする王都の人々が、何も知らずに行き交っていた。


     ◇


[ヴァイスフェルト伯爵領・館の一室 ヴァイスフェルト家の当主]


 時は、少しさかのぼる。


 王都から遠く離れた、ヴァイスフェルト伯爵領。


 古い石造りの館の一室で、ひとりの男が、届いたばかりの手紙を手にしていた。


 白いものの混じりはじめた髪を、きっちりと後ろへ撫でつけている。

 背筋は、剣を握っていたころと少しも変わらず、まっすぐに伸びていた。

 ヴィルヘルム・フォン・ヴァイスフェルト。

 建国のころから王家を支え、「王国の盾」と呼ばれてきた家の、当主である。


 封蝋には、見慣れた紋章が押されていた。

 末の娘の、カタリナからだ。

 研修の任務で、鉱山町へ出ていると聞いていた。


 わずかに目もとをゆるめた。

 それから、静かに封を切った。

第一章 筋書きは誰が書いた

第二十一話 王国の盾

[ヴァイスフェルト伯爵領・館の執務室 ヴィルヘルム]


 その日の午後も、執務室で書類の山に向かっていた。


 春の家畜の調べの報告が、村ごとにまとめて上がってきている。

 牛と羊と豚の数、生まれた子の数、冬を越せずに死んだ数。

 その数をもとに、秋に納める分担が決まる。

 一枚ずつ目を通し、去年の帳面と突き合わせていった。


 その手が、ある村の報告の上で止まった。


「この村の羊は、去年より三割も減っているな」

「はい。冬のあいだに、病が出たと届け出ております」


 傍らに控えた家令が、静かに答えた。


「近隣の村には、病の話はひとつも出ていない。羊毛の取引の帳面も、去年と変わらぬ量だ。……調べさせろ」


     ◇


 二日後、調べの結果が上がってきた。


 羊は、減っていなかった。

 代わりに、村が当家から預かっていた貸し牛が、冬のうちに何頭も死んでいた。

 村長は、それを伏せたまま、羊の数を偽って届け出ていたのだ。


 呼び出された村長は、執務室の床に額をこすりつけた。


「お許しください。お預かりした牛を死なせたと知れれば、村が償わねばなりません。せめて分担だけでも軽くできれば、と……」


 ヴィルヘルムは、しばらく村長を見下ろしていた。


「お前の役を解く。今日限りだ」


 村長の肩が、がくりと落ちた。

 ヴィルヘルムは、家令に目を向けた。


「牛が死んだのは、いつだ」

「冬のいちばん冷えた頃と、聞いております。近隣の村でも、牛舎の弱い家では何頭か」


 ヴィルヘルムは、筆を取って、分担の欄に新しい数字を書き入れた。


「寒さで死んだ牛なら、村の落ち度ではない。償いは求めん。分担も、牛の損を入れて、これでいい」


 村長が、信じられないものを見るように顔を上げた。


「偽りは、許さん。ありのままを届け出ていれば、それで済んだことだ。……新しい村長にも、そう伝えておけ」


 民を数字で扱う、冷たい領主だと陰で言う者もいる。

 それを否定しない。

 数字を見誤れば、人が死ぬ。

 だからこそ、数字を偽る者を許すことはできない。

 国境を預かる者は、そうやって何代も、この地を守ってきたのだ。


     ◇


 建国のころ、ヴァイスフェルト家の祖は、王の左腕として戦場に立った。

 王の盾となって敵の刃を受け止め、この国の東の守りを任された。

 以来二百七十年、ヴァイスフェルト家は「王国の盾」と呼ばれている。


 領地を広げよという話は、これまで何度もあった。

 そのたびに、歴代の当主は首を横に振った。

 盾は、守るべきものの前に立つものだ。

 自ら領地を広げて肥え太る盾など、盾ではない。


 自分も、その考えを受け継いでいる。

 それだけに、あの男のことが、今でも胸の奥に引っかかっていた。


 ハーゼンバッハ。

 長く、ヴァイスフェルトの所領の一部を預かってきた寄子の家だ。


 寄親と寄子。

 大きな家が、小さな家に所領の一部を預けて治めさせ、その代わりに守り、取り立ててやる。

 王国の貴族のあいだで、建国のころから続いてきたつながりだ。


 それが、寄親の自分を飛び越えて王家に莫大な上納をし、伯爵の位を手に入れた。

 新しい伯爵領は、ほとんどがヴァイスフェルトの所領から割かれることになった。

 書類の上では、もう済んだ話だ。


 裏切られた、とは口にしなかった。

 王家がお決めになったことに、異を唱えるつもりもない。

 ただ、あの男の顔を思い浮かべると、どうしても腹の底が冷えた。


     ◇


 そこへ、家令が一通の手紙を持ってきた。


「カタリナ様から、早馬でございます」


 封蝋には、見慣れた紋章が押されていた。

 鉱山町へ研修に出ている、あの娘からだ。

 騎士として生きるのなら、せめて王宮の近衛のような、少しでも危険の少ないところにいてほしい。

 そんな父の願いを、あの娘はいつも真っ向からはねつける。

 それでも、こうして手紙をよこすところは、まだかわいいものだ。


 家令を下がらせ、ひとりになってから、封を切った。


 ――父上。


 几帳面な字が、紙の上に並んでいた。

 だが、読み進めるうちに、ヴィルヘルムの目もとから、ゆるみが消えていった。


 ジルバータールの製錬所で、偽の銀が作られていたこと。

 鉱夫たちが捕らえられ、無理やり働かされていたこと。

 そして、その偽の銀の延べ棒が、毎月、ヴァイスフェルト領の鋳造所へ送られていたこと。


 手紙を持つ手に、力がこもった。


 ジルバータール。

 つい先ごろまで、自分の所領だった町だ。

 寄子のハーゼンバッハが預かり、その銀は昔から、当家の鋳造所へ運ばれてきた。

 信用してきたがゆえに、鋳造所は、運ばれてくる延べ棒を疑いもしなかったのだろう。


 その信用を、隠れみのにされた。


 王家の信任の証として預かっている鋳造所で、偽りの銀貨が作られていた。

 しかも、それを作らせていたのは、かつて自分が後見してきた男だ。

 嘘と裏切り。

 自分が、この世で最も嫌うものが、ふたつ同時に突きつけられていた。


     ◇


 手紙の最後には、こう書かれていた。


 ――帳簿の写しを添えます。

 どうか、ご自身の目でお確かめください。

 父上の鋳造所の者たちは、何も知らなかったはずです。


 しばらく手紙を見つめていた。


 製錬所に踏み込んだのは、カタリナ自身だという。

 手紙には、自分の働きについては、ほとんど書かれていない。

 それでも、行間から娘の奮闘は読み取れた。

 騎士として、見事な働きだ。

 誇らしく思う気持ちが、確かにある。


 だが、それ以上に、背筋が冷たくなった。

 あの娘は、贋金という、国の根を腐らせる事件の核心に触れてしまったのだ。

 偽の銀を作り、それを王国の銀貨に変えさせるような連中が、ただの鉱山町の組合だけで済むはずがない。

 その手が、娘に伸びないとは限らない。


 だから、市井や戦場になど立たせたくなかったのだ。


 手紙をたたみ、ゆっくりと立ち上がった。

 父としての思いは、今は胸の奥にしまっておく。

 今やるべきは、当主としての務めだ。


「鋳造所の頭を呼べ。今すぐにだ」


     ◇


 ほどなくして、鋳造所の頭が館に駆けつけた。

 銀貨を作り続けて三十年になる、白髪の職人だ。


「蔵に残っている延べ棒を、ひそかに調べさせろ。重さや硬さではない。溶かして、中の銀の量を確かめるのだ」

「延べ棒を、溶かして……でございますか」


 職人は、目を丸くした。

 運ばれてくる延べ棒は、重さを量り、硬さを確かめ、見た目を検める。

 それが、鋳造所の決まりだった。

 いちいち溶かして銀の量まで調べることなど、まずない。


「どこから来た延べ棒も、すべてだ。誰にも気取られるな。結果が出たら、私に直接知らせろ」

「……かしこまりました」


 職人は、何も問わなかった。

 主の顔を見れば、ただ事でないことは、わかったのだろう。


     ◇


 それから、三日がたった。


 その間も、いつもどおりに執務をこなした。

 村々の家畜の報告に目を通し、国境の砦からの知らせを読み、新しい村長の任命を済ませた。

 誰にも、何も気取らせなかった。


 三日目の夕刻、執務室の戸が叩かれた。


 入ってきたのは、鋳造所の頭だった。

 その顔は、紙のように青かった。

 手には、小さな布の包みを握りしめている。


「申し上げます」


 職人の声は、かすれていた。


「延べ棒のうち、銀が、ひどく足りないものがございました。本来あるべき量に、まるで届かないものが」

「……どこから来たものだ」


 職人は、震える手で包みを開いた。

 中には、小さな銀の粒がひとつ、転がっていた。

 延べ棒ひと山を溶かして、ようやく取り出せた銀だという。

 職人は、しばらく言葉が出てこないようだった。

 やがて、絞り出すように言った。


「……ハーゼンバッハ領からの延べ棒です」

第一章 筋書きは誰が書いた

第二十二話 盾の決断

[王都・ヴァイスフェルト家の屋敷 ヴィルヘルム]


 王都のヴァイスフェルト家の屋敷は、王城からほど近い、古い石造りの館だった。


 建国のころから、当主が王都に詰めるときの住まいとして使われてきた。

 飾り気のない灰色の壁に、手入れの行き届いた庭。

 華やかな貴族の屋敷が建ち並ぶ通りにあって、どこか砦のような佇まいをしている。


 ここに着いたのは、領地を発って四日目の夕刻だった。

 鋳造所の頭の報告を聞いた翌朝には、もう馬上の人になっていた。

 鋳造所には、延べ棒と帳簿の照合を急ぐよう言いつけてある。

 家令ひとりを供にして、ほとんど休まずに馬を走らせてきた。


 先触れも出さずに着いたので、屋敷の者たちはずいぶん慌てていた。

 妻のゾフィーは、社交の集まりに出ていて留守だという。

 ちょうど社交の季節で、王都に来ているのは知っていた。

 旅装を解く間も惜しんで、まっすぐ執務室に入った。


 王都には、王宮がある。

 そして、王に申し上げるべきことが、ヴィルヘルムにはあった。


     ◇


 屋敷に着いて三日後、両替商組合の長が、ひそかに屋敷を訪ねてきた。


 贋金が出回っているのなら、真っ先に気づくのは両替商だ。

 ヴァイスフェルトの名で問い合わせを出したところ、組合長は、自ら書類を携えてやってきた。

 学院に頼んでいた銀貨の鑑定が、ちょうど届いたばかりだという。


「王都の市場で見つかった銀貨です。銀の量が、本来あるべき量に、まるで足りておりません」


 組合長は、学院の研究員が書いたという鑑定書を、ヴィルヘルムの前に広げた。

 几帳面な字で、検査の手順と結果が並んでいる。

 重さも、硬さも、見た目も、本物と変わらない。

 だが、溶かして取り出した銀は、ひどく少なかった。


「この銀貨は、どこから」

「さる大商会の使いの者が、市場の両替商に持ち込んだものだそうです」


 ヴィルヘルムは、黙って鑑定書を見つめた。


 鋳造所の帳簿には、ハーゼンバッハの延べ棒から作った銀貨を、どこへ引き渡したかも記されている。

 延べ棒の持ち主の求めに応じて、取引先の大商会へ。

 そして、その大商会の使いが持ち込んだ銀貨から、銀が抜かれていた。


 線は、まっすぐハーゼンバッハを指している。


 だが、まだそれを口にしなかった。


 王国の銀貨には、鋳造所の刻印がない。

 市場の銀貨が、当家の鋳造所で作られたものだと、確かに言い切ることはできない。

 ハーゼンバッハが延べ棒を偽ったと示すことはできても、それが市場に出回った贋金そのものだと結びつけるには、まだ足りない。


「……礼を言う。この件は、しばらく伏せておいてもらいたい」

「心得ております」


 組合長は深く頭を下げ、来たときと同じように、人目を避けて帰っていった。


     ◇


 その夜、執務室で、ひとり考えていた。


 机の上には、カタリナが送ってきた帳簿の写しと、学院の鑑定書。

 それに、鋳造所から早馬で届いた、照合の途中経過の報告がある。


 公表すれば、どうなるか。


 ハーゼンバッハは、偽の延べ棒を送り込んだ罪に問われるだろう。

 だが、それだけでは済まない。

 贋金を実際に鋳造したのは、当家の鋳造所なのだ。

 知らなかったとはいえ、王家の信任を受けた鋳造所が、偽りの銀貨を世に出した。

 王国の盾が、王国を欺いた、と言い立てる者が、必ず出てくる。


 黙っていれば、どうなるか。


 延べ棒の受け入れを、何も言わずに止める。

 鋳造所に残る偽の延べ棒を、ひそかに処分する。

 そうすれば、ヴァイスフェルトの名に傷がつくことはない。

 ハーゼンバッハも、何が起きたのかを悟って、手を引くかもしれない。


 静かに目を閉じた。


 それは、嘘だ。


 偽りの銀貨は、もう世に出ている。

 市場で、誰かがそれを銀だと信じて受け取っている。

 それを知りながら口をつぐむのは、偽りに偽りを重ねることだ。


 つい先日、村長の偽りを裁いたばかりの自分が、それをするのか。


 目を開けた。


 隠すのではない。

 証拠を固めて、正面から暴く。

 当家の鋳造所が通したことも含めて、すべてを王に申し上げる。

 それで当家が疑われるというのなら、それも引き受けるしかない。


 盾は、守るべきものの前に立つものだ。

 自分の身を守るために、偽りの陰に隠れる盾など、盾ではない。


 筆を取り、鋳造所への指示を書きはじめた。

 照合を急げ。

 ハーゼンバッハの延べ棒から作った銀貨の数と、引き渡した先を、一枚残らず洗い出せ。

 王への上奏書の下書きも、今夜のうちに始めなければならない。


     ◇


 翌日の昼過ぎ、カタリナが屋敷に顔を見せた。


 騎士団の任務の合間に、少しだけ抜けてきたのだという。

 騎士の装いのまま、背筋を伸ばして執務室に入ってくる。

 その顔を見て、ほんの少しだけ息をついた。

 怪我はなさそうだ。


「父上。王都にいらしていたとは」

「急ぎの用でな」

「母上から伺いました。もう何日も前にお着きだと」


 カタリナは、じとりと父を見た。


「それなのに、同じ屋敷にいらして、まだ一度も母上と顔を合わせていないそうですね」

「……向こうは毎晩、社交の集まりだ。私は私で、片づけねばならんことがある」

「母上は、朝食の席で、父上の分まで用意された誰も座らない席を、ずっと眺めていらっしゃるそうですよ。使用人たちが、気をもんでおりました」


 ヴィルヘルムは、咳払いをひとつした。


「……今夜は、顔を出す」

「ぜひ、そうなさってください」


 カタリナは、少しだけ口もとをゆるめた。

 それから、表情を引き締めた。

 ヴィルヘルムも、書類から顔を上げた。


「……手紙は、読んだ」


 カタリナの表情が、わずかにこわばった。


「鋳造所のことは」

「調べさせた。お前の書いたとおりだった」


 カタリナは、唇を噛んだ。

 それから、まっすぐに父を見た。


「父上は、どうなさるおつもりですか」

「王に申し上げる。すべてをな」

「当家の鋳造所のことも、ですか」

「そうだ」


 カタリナは、何か言いかけて、口をつぐんだ。

 父の性格を、誰よりもよく知っている娘だ。

 それ以外の答えが返ってくるとは、思っていなかったのだろう。


 ヴィルヘルムは、机の上の書類をそろえながら、何気ない調子で言った。


「研修は、あとどれくらいだ」

「……まだ、しばらくは」

「そうか。終われば、近衛だな」


 カタリナの肩が、ぴくりと動いた。


「父上。その話は」

「製錬所に踏み込んだそうだな。鉄壁を張って、炎弾を防いだと」

「どなたから、それを」

「同行した騎士の報告が、騎士団から回ってきた」


 書類から目を上げた。


「見事だった。だが、一歩間違えば、お前は焼かれていた」

「騎士とは、そういうものです」

「だから、近衛に行けと言っている」

「近衛に行けば、ジルバータールの鉱夫たちは、誰が助けたのですか」


 執務室に、短い沈黙が落ちた。


 娘の顔をじっと見つめた。

 母親譲りの青い瞳が、少しも揺らがずに、こちらを見返している。

 その目に宿る頑固さは、自分によく似ていた。


「……その話は、また今度だ」


 先に目をそらした。


     ◇


 カタリナが帰り支度を始めたところで、机の引き出しを開けた。


 中から、一通の封書を取り出す。

 金の縁取りのある、仰々しい招待状だった。


「ハーゼンバッハが、陞爵祝いの夜会を開くそうだ。屋敷に、これが届いていた」


 カタリナは、招待状を見て、眉をひそめた。


「出席なさるのですか」

「元の寄親が顔を出せば、祝いの場が白ける。それに、まだ確証がない以上、こちらから事を荒立てたくもない」


 しばらく招待状を指先で叩いていた。

 それから、それを娘の前に差し出した。


「お前が行け」

「私が、ですか」

「当家の名代としてな。……事情を知る者の目で、あの男を見てこい」

第一章 筋書きは誰が書いた

第二十三話 ナハトラーベ男爵

[王都・宿の部屋 学]


「ねえマーナ。夜会って、行ってみたくない?」


 宿の部屋で、モナが唐突に言った。

 学は、寝台に寝転がって、市場で買った干し果物をつまんでいるところだった。


「夜会?」

「今日、市場で聞いたのよ。新しく伯爵になった人が、お祝いの夜会を開くんですって。今夜」

「へえ。伯爵ねえ」

「貴族がいっぱい集まって、きれいな服着て、踊ったり飲んだりするんでしょ。あたし、人間の夜会って見たことないのよね」


 モナは、目をきらきらさせて、学の顔の前をくるくる回った。


 学は、干し果物を口に放り込んだ。

 夜会。

 映画やアニメでしか見たことのない世界だ。

 シャンデリアの下で、着飾った貴族たちがグラスを片手に腹の探り合いをする。

 黒幕が出てくる場面としては、これ以上ないほどの舞台である。


 だが、問題がある。


「行きたいのは山々だけどさ。招待状なんか持ってないぞ」

「そんなの、貴族のふりして行けばいいじゃない。あんた、得意でしょ」

「ふりって言ってもな。どこの誰って聞かれたら、困るだろ」


 モナは、少し考えてから、ぽんと手を打った。


「ナハトラーベ、って名乗ればいいのよ」

「ナハト……何だって?」

「ナハトラーベ。男爵の家の名前よ。今は誰も名乗ってないから、ちょうどいいでしょ」

「誰も名乗ってないって、どういう家なんだよ」

「それは、行ってからのお楽しみ」


 モナは、いたずらっぽく笑って、それ以上は教えてくれなかった。

 名乗ったときに、相手がどんな顔をするのか。

 それを想像して、今から楽しんでいるような笑い方だった。


 まあ、男爵くらいなら、急に顔を出しても、そう怪しまれはしないだろう。


 口の中で転がしてみた。


 ナハトラーベ。

 シモン・フォン・ナハトラーベ。


 悪くない。

 いや、かなりいい。

 どこか夜の匂いがする響きだ。

 シュヴァルツほどではないにせよ、いかにも黒幕っぽい。


 ――と思いかけて、あわてて首を振った。

 シモンの名前を否定するようなことを考えては、またモナに怒られる。


「……まあ、人生経験だよな。行ってみるか」

「やった!」


 モナは、空中でくるりと一回転した。


     ◇


 それからが、大変だった。


「まずは、服ね」


 モナに言われて、姿を整えた。

 夜のように深い色の外套に、銀糸の刺繍。

 撫でつけた黒髪に、白い肌、赤い瞳。

 いつもの貴族の姿だ。


「だめ。夜会にその格好は、地味すぎるわ」

「地味か? これ、けっこう気に入ってるんだけどな」

「街を歩くならそれでいいけど、夜会なのよ。もっと、こう、きらきらさせなきゃ」


 学は、外套の下に、仕立てのいい上着を重ねた。

 襟もとの刺繍を少し増やし、袖口に銀のボタンを並べる。

 胸もとには、小さな宝石の留め具をひとつ。

 もちろん、すべて幻だ。


「……六十点」

「辛くないか」

「宝石が安っぽい。それ、本物を見たことないでしょ」

「ないよ。見たことあるのは、ガラス玉くらいだ」


 モナは、ため息をついた。


     ◇


 服の次は、立ち居振る舞いだった。


「はい、お辞儀して」

「こうか?」

「深すぎ。それじゃ、どこかの使用人よ。男爵だって貴族なんだから、もっと浅く。背筋は伸ばしたまま、堂々と」


 堂々と、か。

 胸を張って顎を上げ、相手を見下ろすようにして、軽く頭を下げた。


「……四十点」

「さっきより下がってないか」

「今のは、偉そうなだけ。品がないの」


 学は、頭を抱えた。

 偉そうなのと、品があるのと、何が違うのか、さっぱりわからない。


 グラスの持ち方を直された。

 歩き方を直された。

 笑い方は、三回直された。


「その笑い方、悪巧みしてる顔よ。夜会は、悪巧みの場じゃないの」

「黒幕なんだから、悪巧みしてる顔でいいだろ」

「夜会の最初から黒幕の顔してたら、ただの怪しい人でしょ」


 ぐうの音も出なかった。


     ◇


 最後は、受け答えの練習だった。


「伯爵に挨拶されたら、何て言うの」


 モナが、伯爵になりきって、すまし顔で宙に浮かんだ。

 学は、外套の裾を払い、うっすらと笑みを浮かべた。


「ご機嫌よう、伯爵。今宵の筋書きは、私が――」

「ちょっと待って。それ、何の筋書きよ」

「いや、言ってみたくてさ」

「祝いの席なのよ。まずは『おめでとうございます』でしょ」


 学は、渋々言い直した。


「……ご陞爵、まことにおめでとうございます」

「声が小さい。それと、目が泳いでる」

「慣れてないんだよ、こういうの」

「あと、余計なことは言わないこと。何か聞かれたら、意味ありげに笑ってごまかしなさい」

「それなら得意だ」

「知ってる」


 モナは、当然でしょ、とでも言いたげに肩をすくめた。

 これまで、意味ありげに笑ってごまかしてきた場面なら、数えきれないほどある。

 少しだけ気が楽になった。


 日が傾くころには、くたくたになっていた。

 窓の外では、王都の空が茜色に染まりはじめている。

 モナは、学の周りをぐるりと一周して、ようやくうなずいた。


「……七十点。まあ、合格にしてあげる」

「ようやくか」

「あとは、しゃべらなければ、それなりに見えるわよ」

「それ、褒めてるのか」


     ◇


[ハーゼンバッハ伯爵家の屋敷・門の前 学]


 夜の帳が下りるころ、宿を出た。


 姿を消したまま、王城の近くの、貴族の屋敷が建ち並ぶ通りを歩く。

 通りの先に、ひときわ明るい屋敷が見えてきた。

 窓という窓から光があふれ、門の前には、馬車が何台も列をなしている。

 降りてくるのは、色とりどりの衣装に身を包んだ紳士と淑女ばかりだ。


 ハーゼンバッハ伯爵邸。


 門の両脇には、篝火が焚かれていた。

 その奥の玄関では、背筋のぴんと伸びた執事が、客を一人ずつ迎えている。


 学は、門から少し離れた暗がりで足を止めた。

 ここで姿を現して、門をくぐる。

 あとは、モナに叩き込まれたとおりに振る舞えばいい。


 深呼吸をひとつした。

 外套の襟を正し、顎をわずかに上げる。

 暗がりの中に、夜色の外套の紳士が姿を現した。


 そこで、ふと、動きを止めた。


 これから名乗る家名のことを、自分は何ひとつ知らない。

 今さらながら、それに気がついたのだ。

 行ってからのお楽しみ、と笑ったモナは、結局、最後まで教えてくれなかった。


 篝火に照らされた門を見上げたまま、小さくつぶやいた。


「……ナハトラーベって、結局、何なんだ?」

第一章 筋書きは誰が書いた

第二十四話 夜会

[ハーゼンバッハ伯爵家の屋敷・玄関 執事]


 ハーゼンバッハ伯爵家の執事として、今夜ほど気を張った夜はなかった。


 主が伯爵になって、初めての夜会である。

 王都じゅうの名のある家に招待状を送り、名簿は三度確かめた。

 誰をどの順に迎え、どの部屋へ案内するか、すべて頭に入っている。

 粗相があってはならない。

 今夜は、ハーゼンバッハ家が、真の上流の仲間入りを果たす夜なのだ。


 篝火の向こうから、またひとり、客が歩いてきた。


 背筋を伸ばして迎えた。

 そして、わずかに眉を動かした。


 馬車から降りてきた客ではなかった。

 暗がりから、ひとりで歩いてきたのだ。

 夜のように深い色の外套に、銀糸の刺繍。

 撫でつけた黒髪と、白い肌。

 篝火を映して、赤い瞳が光っている。


 身なりは、まぎれもなく貴族のものだった。

 だが、その顔に、見覚えはない。


「ようこそおいでくださいました。お名前を、うかがってもよろしいでしょうか」


 紳士は、ゆったりと微笑んだ。


「シモン・フォン・ナハトラーベ」


 執事の手から、名簿が滑り落ちそうになった。


     ◇


 ナハトラーベ。


 その名を知らない貴族の家の者は、まずいない。


 かつて、王国の暗部を束ねていたという男爵家だ。

 目立たぬよう、あえて男爵にとどめられていた。

 だが、あまりに働きすぎたせいで、暗部の家であることが、貴族のあいだで公然の秘密になってしまった。

 そして、方々から恨みを買い、一家もろとも根絶やしにされた。


 暗部の家が知れ渡るほど、国が乱れていた時代の話だ。

 今でも、貴族たちは声をひそめてその名を口にする。


 しかも、その爵位は、空位のまま王族の預かりになっている。

 王族預かりの空位の爵位を名乗る者は、たいてい、表に出せない血を引いている。

 王族の、隠し子だ。


 執事の頭の中で、ふたつの意味が、ぐるぐると渦を巻いた。


 暗部の家の名を、堂々と名乗る男。

 王族の血を引いているかもしれない男。


 名簿を、もう一度見る。

 どこにも、その名はない。

 当然だ。

 こんな名を書く者が、いるはずがない。


 追い返すべきか。

 だが、もし本当に、王族の隠し子だったら。

 今夜は、主が伯爵になって初めての夜会なのだ。

 王族の縁者を門前払いにしたなどと知れたら、どうなるか。


 紳士は、何も言わなかった。

 ただ、うっすらと笑みを浮かべて、執事の答えを待っている。

 その目は、執事の迷いのすべてを、見透かしているようだった。


「……どうぞ、お入りくださいませ」


 気がつけば、深々と頭を下げていた。


     ◇


[ハーゼンバッハ伯爵家の屋敷・広間 カタリナ]


 広間の隅で、何杯目かの果実水を手にしていた。


 父の名代として、陞爵祝いの夜会に出る。

 それが、どれほど気まずいことか。

 元の寄親の娘が来たと知って、ハーゼンバッハはさっきから、こちらと目を合わせようとしない。

 招待客たちも、ちらちらとこちらをうかがっては、ひそひそと何かをささやいている。


 事情を知る者の目で、あの男を見てこい。


 父の言葉を思い出し、広間の中央に目をやった。


 ハーゼンバッハは、恰幅のいい体を派手な衣装に包み、客に囲まれて上機嫌に笑っていた。

 指には、大きな宝石の指輪がいくつも光っている。

 だが、その目だけは、落ち着きなくあちこちを泳いでいた。


「いやいや、私など、陛下のお心に少しでもお応えしようと、精一杯尽くしてきただけのこと。それが、このような身に余る位を賜るとは」


 謙遜の言葉とは裏腹に、声は弾んでいる。

 客の一人が持ち上げるたびに、ハーゼンバッハの顎は、少しずつ上がっていった。


 その輪の少し外に、ひとりの老人が立っていた。

 銀色の髪を整え、穏やかな笑みを浮かべている。

 周りの貴族たちが、一歩下がって道を空けているのがわかった。

 ゴルトシュタイン公爵だ。


 伯爵の陞爵祝いに、公爵が顔を出すとは。

 ハーゼンバッハの得意げな顔の理由が、少しわかった気がした。


 そのときだった。


 広間の入口で、執事が客の名を告げた。


「シモン・フォン・ナハトラーベ様、ご到着でございます」


 広間の空気が、一瞬で凍りついた。


 談笑の声が、ぴたりとやむ。

 グラスを口に運びかけていた手が、宙で止まる。

 ナハトラーベ、とささやく声が、波のように広がっていった。


 入口を振り返った。


 夜のように深い色の外套。

 撫でつけた黒髪と、赤い瞳。


 手にしていた果実水を、危うく取り落としそうになった。


     ◇


 紳士は、静まり返った広間を、ゆったりと見回した。

 集まる視線など、少しも意に介していない様子だった。

 やがて、その赤い瞳が、広間の隅のカタリナを捉えた。


 紳士は、わずかに目を細めた。

 それから、まっすぐにこちらへ歩いてきた。


「また君か」

「またあなたですか!」


 思わず声が大きくなり、慌てて口を押さえた。

 周りの客が、ちらりとこちらを見る。

 作り笑いで会釈を返してから、声をひそめた。


「……ナハトラーベとは、どういうおつもりですか」

「どういう、とは」

「その名がどういう家のものか、ご存じないとは言わせません。それとも、本当に、そちらの家の方だとでも」

「さて」


 紳士は、うっすらと笑みを浮かべただけだった。

 否定もしない。

 肯定もしない。

 答える気など、はじめからないのだ。


 紳士の顔をにらみつけた。

 市場で、銀貨の曇りを言い立てた男。

 製錬所の裏で、組合の者を氷漬けにしていた男。

 そして今夜は、偽りの銀の出どころと思われる男の屋敷に、暗部の家の名を名乗って現れた。


 偶然であるはずがない。


「あなたは、何を知っているのです」

「今夜は、祝いの席でしょう。野暮な話は、やめにしませんか」


 紳士は、ふと横に目をやった。

 口もとが、ほんのわずかに引きつったように見えた。

 製錬所の裏でも、こんな顔をしていた気がする。


「それに、私よりも、騎士殿が見るべき方は、あちらでしょう」


 紳士の視線の先には、ハーゼンバッハがいた。

 ナハトラーベの名を聞いて、顔色を失った伯爵が、こちらを見ていた。

 目が合うと、ハーゼンバッハは、慌てて顔をそむけた。


 視線を戻したとき、紳士の姿は、もう人混みの中に紛れていた。


     ◇


 それから先、夜会は何事もなかったかのように続いた。


 楽団が曲を奏で、客たちは踊り、葡萄酒の杯が重ねられた。

 ナハトラーベの名をささやく声は、いつまでも消えなかった。

 だが、それを当の紳士に問いただそうとする者は、誰ひとりいなかった。


 広間の隅から、ずっとハーゼンバッハを見ていた。


 伯爵は、時おり、人混みの向こうに目をやっていた。

 そのたびに、顔がこわばる。

 夜色の外套を探しているのだと、カタリナにはわかった。


 夜も更けたころ、ようやく客たちが帰りはじめた。

 名代の務めを終えて、伯爵に型どおりの挨拶をした。

 ハーゼンバッハは、最後まで、カタリナの目を見ようとしなかった。


 屋敷を出る前に、一度だけ振り返った。


 広間の奥の階段を、ハーゼンバッハが上っていくところだった。

 残りの客の見送りは、家の者に任せたのだろう。

 その足取りは、さっきまでの怯えが嘘のように軽かった。

 上機嫌に、鼻歌まで聞こえてきそうなほどだった。


 伯爵は、私室のある二階へと、姿を消した。

第一章 筋書きは誰が書いた

第二十五話 飲み直し

[ハーゼンバッハ伯爵家の屋敷・私室 ハーゼンバッハ]


 私室の扉を閉めると、オットー・フォン・ハーゼンバッハは、ようやく大きく息を吐いた。


 ずっと張りつめていた肩から、力が抜けていく。

 重たい上着を脱ぎ捨て、指輪をひとつずつ外して、卓の上に並べた。

 宝石が、燭台の明かりを受けてきらきらと光る。

 それを眺めながら、ゆっくりと笑みを広げた。


 終わった。

 陞爵祝いの夜会は、無事に終わったのだ。


「……くく」


 思わず、笑い声がもれた。


 棚から葡萄酒の瓶を取り出し、杯になみなみと注ぐ。

 夜会で出したものよりも、ずっと上等な酒だ。

 客に飲ませるには、もったいない。

 これは、自分のために取っておいた酒だった。


     ◇


 ハーゼンバッハ家は、長いあいだ、ただの子爵家だった。


 銀山を預かる家として、子爵家の中では裕福なほうだった。

 だが、所詮はヴァイスフェルトの所領の一部を預かる寄子にすぎない。

 寄親の顔色をうかがって生きてきた。


 何をするにも、まずヴァイスフェルトにお伺いを立てる。

 先代も、その先代も、そうやって頭を下げ続けてきた。

 自分もそうなるのだと、ずっと思っていた。


 王都の夜会に出れば、伯爵や侯爵の家の者たちは、子爵のことなど目にも入れない。

 同じ貴族と名乗っていても、まるで別の生き物のように扱われる。

 悔しいとは思った。

 だが、逆らう度胸もなかった。


 強い者には逆らわず、長いものには巻かれる。

 それが、寄子の家が生き延びる知恵なのだと、父からも教わってきた。


 それが、変わったのは、数年前のことだ。


 ある日、ひとりの男が訪ねてきた。

 大商会の使いだと名乗り、儲け話を持ちかけてきた。


 ジルバータールの銀山は、もうほとんど何も出なくなっている。

 その銀山から、銀がたくさん出ていることにすればいい。

 材料は、こちらで用意する。

 あなたは、ただ、いつもどおりにヴァイスフェルトの鋳造所へ延べ棒を送ればいいのだ、と。


 最初は、恐ろしかった。

 贋金だ。

 露見すれば、首が飛ぶ。

 その夜は、一睡もできなかった。


 だが、男は言った。

 この話には、さる公爵閣下と、大商会の後押しがついている。

 そして、うまく運べば、あなたを「アレテイア」に迎えたい、と。


 アレテイア。


 聞いたことのない名だった。

 だが、古い言葉の名を持つ秘密の会が、王都の上流にいくつもあることは、噂に聞いていた。

 真の上流に連なる者たちだけが集い、外の者には、その名すら明かされないという。

 伯爵以上の、本物の貴族は、みなこうした会に名を連ねているものだと聞く。

 子爵のままでは、一生、入口にも立てない世界だった。


 首を縦に振った。


 公爵と、大商会。

 自分よりはるかに大きな者たちが、後ろについている。

 長いものに巻かれるなら、これほど太いものはない。

 そう思った瞬間、恐ろしさは、甘い期待に変わっていた。


     ◇


 それからの数年は、夢のようだった。


 金が、面白いように入ってきた。

 その金を、王家に上納した。

 寄親のヴァイスフェルトを飛び越えて、直接に。

 周りの貴族たちにも、惜しみなく配った。


 そして、ついに、伯爵の位を手に入れたのだ。


 葡萄酒をあおった。

 喉を焼く熱さが、心地よかった。


 寄親を飛び越えたことに、後ろめたさがないわけではない。

 今夜も、ヴァイスフェルトの娘が名代として来ていた。

 父親に似た、まっすぐな目をした娘だった。

 あの目に見られていると、どうにも落ち着かない。

 最後まで、まともに顔を見ることができなかった。


 だが、それがどうした。


 自分は、もう伯爵なのだ。

 ヴァイスフェルトと、同じ位なのだ。

 今さら、子爵だったころのように頭を下げる必要などない。


 それに、今夜は、公爵閣下までお見えになった。

 伯爵になりたての家の祝いに、公爵がわざわざ足を運ぶなど、聞いたことがない。

 後押しの話は、本当だったのだ。

 自分は、確かに、大きな流れの中にいる。


 卓の引き出しから、一枚の銀貨を取り出した。


 傷ひとつない、真新しい銀貨だ。

 燭台の明かりにかざすと、まるで鋳造所から出てきたばかりのように光った。

 ジルバータールの延べ棒が、初めて銀貨になって戻ってきた月のうちの一枚だった。

 記念に、ひとつだけ取っておいたのだ。


 これが、自分を伯爵にした。


 銀貨を指先で転がしながら、静かに笑った。


     ◇


 ふと、ナハトラーベの男の顔が、頭をよぎった。


 夜会の最中に、あの名を聞いたときは、心臓が止まるかと思った。

 暗部の家の名を名乗る、正体の知れない男。

 あれは、誰だったのか。

 王族の隠し子か。

 それとも、ただの気のふれた男か。


 結局、何をするでもなく、いつの間にか姿を消していた。


 首を振った。

 考えすぎだ。

 今夜は、祝いの夜なのだ。

 つまらない影に怯えて、せっかくの酒をまずくすることはない。


 杯に、二杯目を注ぐ。


 背後で、かすかに扉の閉まる音がした気がした。

 振り返ったが、扉の前に人はいない。

 使用人には、朝まで誰も通すなと言いつけてある。

 気のせいだろう。


 ふたたび銀貨を燭台にかざした。


 アレテイアの一員になれば、もう誰にも頭を下げずに済む。

 ヴァイスフェルトにも。

 誰にも。

 その日は、そう遠くない。


 うっとりと目を細めた。


 そのときだった。


 すぐ耳もとで、穏やかな声がした。


「ずいぶんと、きれいな銀貨ですね」


 指先から、銀貨がするりと抜き取られた。


 凍りついた。

 振り返ることもできなかった。

 背中に、誰かの気配がある。

 さっきまで、この部屋には、自分ひとりしかいなかったはずなのに。


 燭台の明かりの中に、白い手が見えた。

 その指が、奪った銀貨を、もてあそぶように軽く弾いた。


「ジルバータールの銀は、ずいぶんと軽いようですね」

第一章 筋書きは誰が書いた

第二十六話 震える兎

 ゆっくりと振り返った。


 燭台の明かりの中に、男が立っていた。

 夜のように深い色の外套に、銀糸の刺繍。

 白い顔の中で、赤い瞳が、炎を映して光っている。


 ナハトラーベの男だった。


 喉の奥で、ひゅっと音が鳴った。

 杯が手から滑り落ち、絨毯の上に葡萄酒が広がっていく。

 だが、それを気にする余裕もなかった。


 扉は、閉じたままだった。

 窓にも、鍵がかかっている。

 使用人には、朝まで誰も通すなと言いつけてある。

 それなのに、この男は、いつの間にか自分の背後に立っていた。


「……な、なぜ、ここに」


 男は答えなかった。

 奪った銀貨を指先でもてあそびながら、うっすらと笑みを浮かべている。


『ジルバータールの銀は、ずいぶんと軽いようですね』


 さっきの言葉が、頭の中で何度も響いた。


 知っている。

 この男は、銀貨のことを知っている。

 ジルバータールのことも、延べ棒のことも、何もかも。


 そう思った瞬間、ハーゼンバッハの中で、すべてがひとつにつながった。


 ナハトラーベ。

 かつて王国の暗部を束ねた家の名。

 そんな名を堂々と名乗り、招かれてもいない夜会に平然と現れる者が、ただの貴族であるはずがない。

 誰にも気づかれずに、この部屋に入り込める者が、ただの人間であるはずがない。


 あの方々だ。


 アレテイアの、上の方々が、自分を見に来たのだ。


     ◇


「ち、違うのです」


 気がつけば、床に膝をついていた。


「あの件は、私のせいではありません。ジルバータールの組合の者が、しくじったのです。騎士団に踏み込まれるなど、私は、まったく……」


 男は、黙ってこちらを見下ろしていた。


「延べ棒は、言われたとおりに送っておりました。毎月、欠かさず、ヴァイスフェルトの鋳造所へ。材料も、商会の方から届いたものを、そのまま製錬所に回しておりました。私は、何ひとつ、余計なことはしておりません」


 言葉が、次から次へとあふれ出てくる。

 止めようとしても、止まらなかった。

 黙っていれば、何を見抜かれるかわからない。

 その恐ろしさのほうが、ずっと大きかった。


「ほう」


 男が、短く言った。


 それだけだった。

 だが、その一言に、背筋が凍る思いがした。

 何を言っても、この男はすべて承知のうえで聞いているのだ。


「上納の金も、あなた方のおかげです。いただいた分は、すべて陛下への上納と、周りの家への付け届けに回しました。私腹など、肥やしておりません」

「それで」

「そ、それで、ついに伯爵の位を賜ったのです。これも、あなた方の、あの方々のお力添えあってのこと。閣下にも、今夜、わざわざお越しいただきました」


 閣下、と口にしてから、慌てて口をつぐんだ。

 誰の名も、出してはならない。

 相手は、あの方々の上に立つ者かもしれないのだ。

 その前で、軽々しく名を口にするなど、無礼にもほどがある。


 男は、ちらりと横に目をやった。

 誰もいない部屋の隅だ。

 ほんの一瞬、口もとがわずかに引きつったように見えた。


 全身の肌が、ざわりと粟立った。


 この男には、自分には見えない何かが見えているのか。

 それとも、すでにこの部屋のどこかに、配下の者を潜ませているのか。


     ◇


「ヴァイスフェルトの娘のことも、存じております」


 ハーゼンバッハは、床に額をこすりつけた。


「製錬所に踏み込んだのは、あの娘だと聞きました。ですが、娘ひとりに何ができましょう。父親のヴィルヘルムも、まだ何も申し立ててはおりません。今夜も、名代をよこしただけで――」


 男が、ふっと笑った。


 言葉を失った。


 何がおかしいのか、わからなかった。

 わからないことが、何より恐ろしかった。

 この男は、自分の知らない何かを知っている。

 ヴァイスフェルトのことか。

 それとも、自分の行く末のことか。


「お、お願いいたします」


 這うようにして男の足もとににじり寄った。


「私は、あなた方のお役に立ちます。どのようなことでも、いたします。どうか、この身を、あなたにお預けさせてください」


 長いものには、巻かれる。

 今、目の前にいるのは、これまで自分を引き上げてきた者たちよりも、さらに上に立つ者だ。

 この男にすがるしかない。


 男は、しばらくのあいだ、何も言わなかった。

 やがて、手の中の銀貨を、燭台の明かりにかざした。


「この銀貨は、預かっておきましょう」


 穏やかな声だった。


「銀の重さは、いずれ、正しく量られることになるでしょう。そのときまで、どうぞ、ごゆっくりお休みください。ハーゼンバッハ伯」


 燭台の炎が、ふっと揺れた。


 顔を上げたとき、男の姿は、もうどこにもなかった。


     ◇


 その夜、一睡もできなかった。


 寝台に入っても、目を閉じることができない。

 部屋の隅の暗がりが、ひどく恐ろしかった。

 あの男が、まだそこに立っているような気がしてならない。


『銀の重さは、いずれ、正しく量られることになるでしょう』


 あの言葉は、どういう意味だったのか。

 褒美か。

 それとも、裁きか。


 窓の外が、白みはじめた。

 鳥の声が、どこか遠くで聞こえる。

 寝台の上で膝を抱えたまま、ぼんやりと窓を見ていた。


 そのときだった。


 屋敷の外が、にわかに騒がしくなった。

 馬のいななき。

 いくつもの蹄の音。

 甲冑の触れ合う、重たい音。


 よろよろと窓辺に寄った。


 朝もやの中、屋敷の門の前に、騎士たちが並んでいた。

 先頭の騎士が掲げる旗には、王家の紋章が描かれている。

 その手には、封蝋の押された一通の書状があった。


 王命だ。

第一章 筋書きは誰が書いた

第二十七話 寄親と寄子

[騎士団の詰め所・取り調べの部屋 ヴィルヘルム]


 騎士団の詰め所の奥に、窓の小さな石造りの部屋がある。


 ふだんは、罪を犯した貴族の取り調べに使われる部屋だという。

 飾りといえば、粗末な机と椅子が数脚あるきりだ。

 壁際の燭台が、昼間だというのに灯されていた。


 その部屋の隅に立っていた。


 訴えた者として、取り調べへの立ち会いを許されている。

 机の向こうでは、分隊長になって間もないという騎士が、緊張した面持ちで調書の紙をそろえていた。

 額に、うっすらと汗がにじんでいる。

 これほどの事件を任されるとは、思ってもいなかったのだろう。


 王に上奏したのは、夜会の前日のことだった。

 ハーゼンバッハ領から送られてきた延べ棒に、銀がまるで足りていなかったこと。

 それが当家の鋳造所で、何も知らぬまま銀貨にされていたこと。

 鋳造所の帳簿の照合で、その数と行き先が、すべて明らかになったこと。


 隠さずに、すべてを書いた。

 当家の鋳造所が偽の延べ棒を通したことも、一字も削らずに。


 そして、今朝、王命が下った。


     ◇


 扉が開き、騎士たちに伴われて、ハーゼンバッハが入ってきた。


 昨夜の夜会の衣装のまま、上着も羽織らずに連れてこられたらしい。

 だが、指輪はひとつもはめていない。

 顔は青白く、目の下には黒い隈ができていた。

 一睡もしていないのだろう。


 部屋に入ったハーゼンバッハは、隅に立つヴィルヘルムに気づいて、びくりと足を止めた。


「……ヴァイスフェルト、伯」


 かすれた声だった。


 何も言わずにハーゼンバッハを見た。

 長いあいだ、自分の所領の一部を預けてきた男だ。

 その父も、祖父も、ヴァイスフェルトの寄子として仕えてきた。

 婚礼にも、葬儀にも、顔を出してきた。

 その男が、今、罪人として目の前に立っている。


 ハーゼンバッハは、椅子に座らされた。

 分隊長が、咳払いをひとつして、口を開いた。


「ハーゼンバッハ伯。ジルバータールの製錬所で精錬された延べ棒について、お尋ねします」


     ◇


 はじめのうち、ハーゼンバッハは強気だった。


「何のことか、わかりませんな。延べ棒は、ジルバータールの銀山から出た銀で作ったものです。何十年も、そうしてきた」

「製錬所の帳簿は、すでに押収してあります」

「帳簿など、いくらでも書き換えられる。組合の者が、勝手に何かしたのでしょう。私の知ったことではない」


 ヴィルヘルムは、懐から小さな布の包みを取り出し、机の上に置いた。

 包みを開くと、小さな銀の粒がひとつ、転がり出た。


「当家の蔵に残っていた、お前の領地からの延べ棒を溶かしたものだ。延べ棒ひと山から、これだけしか銀が出なかった」


 ハーゼンバッハの目が、銀の粒に釘付けになった。


「鋳造所の帳簿も、照合させた。お前の延べ棒から作った銀貨の数と、引き渡した先は、すべてわかっている。それに、王都の市場に出回った銀貨を、学院が溶かして調べた鑑定書もある。こちらも、銀がまるで足りていなかった」

「そ、それも、組合が……」

「組合が、毎月決まった量の偽の延べ棒を作り、毎月決まった量の上納金を、お前の名で王家に納めていたというのか」


 ハーゼンバッハは、口を開けたまま、何も言えなかった。


 やがて、開き直ったように、ちらりとヴィルヘルムを見た。

 それから、わずかに顎を上げた。


「だいたい、これは、ヴァイスフェルト伯の私怨ではありませんか。寄親を飛び越えて陞爵した私が、気に入らないのでしょう。ですが、私は、もう伯爵なのです。ヴァイスフェルト伯と、同じ位の」


 分隊長が、困ったようにヴィルヘルムを振り返った。


 ヴィルヘルムは、ゆっくりと机の前に歩み出た。


「位は、同じだ」


 静かな声だった。

 だが、その声に、狭い部屋の空気が張りつめた。


「だが、背負っているものの重さが違う」


 ハーゼンバッハが、言葉に詰まった。


「ヴァイスフェルトの家は、二百七十年、この国の東を守ってきた。領地を広げよと言われても、断ってきた。だから、位も上がらなかった。それでいい。盾は、守るべきものの前に立つものだからだ。……お前は、何を背負って、その位に就いた」


 ハーゼンバッハの唇が、震えた。


「お前の家も、長くこの国のために働いてきた。お前の父も、祖父も、実直な男だった。私は、それを知っている」


 机に手をついた。


「その家の名で、偽りの銀を作らせた。その偽りを、当家の鋳造所に通させた。そして、王家の信任の証を、贋金で汚した」


 声は、少しも荒らげていなかった。

 それが、かえって恐ろしかった。

 分隊長でさえ、息を詰めてヴィルヘルムを見ていた。


「私が許せぬのは、寄親を飛び越えたことではない。偽りだ。そして、お前を信じてきた者たちへの、裏切りだ」


     ◇


 ハーゼンバッハの額に、汗が浮かんでいた。


 強気の仮面は、もうどこにもなかった。

 目が落ち着きなく泳ぎ、指先が、膝の上で小刻みに震えている。


「ち、違う……私は、ただ……」

「ただ、何だ」

「私は、言われたとおりにしただけだ。延べ棒を、いつもどおりに送れと言われて……」

「誰に」


 ハーゼンバッハは、口をつぐんだ。


 ヴィルヘルムは、黙って待った。

 分隊長も、筆を止めて待った。

 燭台の炎が、かすかに揺れる音さえ聞こえそうな沈黙だった。


 ハーゼンバッハの目が、部屋の隅の暗がりへと泳いだ。

 何かを探すように。

 何かに怯えるように。


 昨夜、何かがあったのだ。

 そう直感した。

 この男は、取り調べの騎士でも、元の寄親でもない、別の何かを恐れている。


「言え。誰の指図だ」


 一歩踏み出した。


 その瞬間、ハーゼンバッハの中で、何かが切れたようだった。

 椅子を蹴るようにして立ち上がり、甲高い声で叫んだ。


「わ、私の後ろには、アレテイアが……公爵閣下がついているのだ!」

第一章 筋書きは誰が書いた

第二十八話 アレテイア

[騎士団の詰め所 分隊長]


 ベルトルト・フォン・クラインベルクは、胃のあたりを押さえていた。


 子爵家の五男に生まれた。

 上に兄が四人もいれば、家を継ぐ見込みなど、まずない。

 食い扶持を自分で稼ぐために騎士になった。

 正義に燃えていたわけでも、剣に憧れていたわけでもない。

 ただ、生きていくための職業として、騎士を選んだのだ。


 新人のころは、夜警ばかりやらされた。

 生まれつき、光の玉を灯す魔法が使えたからだ。

 暗い路地を照らすのに、これほど便利な魔法はない。

 おかげで、十年近く、夜の王都を歩き回る羽目になった。


 それでも、真面目に勤めてきた。

 不正に手を染める度胸もなかったし、手柄を焦るほどの野心もなかった。

 こつこつと下積みを重ねて、つい先月、ようやく分隊長に任じられたのだ。


 その矢先に、これである。


 贋金。

 伯爵家の取り調べ。

 訴えたのは、王国の盾と呼ばれるヴァイスフェルト伯。

 しかも、自分の部下には、そのヴァイスフェルト伯の娘がいる。


 無意識に額へ手をやった。

 近ごろ、生え際がまた少し後退した気がする。


     ◇


「わ、私の後ろには、アレテイアが……公爵閣下がついているのだ!」


 ハーゼンバッハがそう叫んだあとは、早かった。


 一度口を割ると、伯爵は堰を切ったようにしゃべりはじめた。

 数年前、大商会の使いを名乗る男が訪ねてきたこと。

 偽の延べ棒の材料は、その商会が用意したこと。

 うまく運べば、アレテイアという会に迎えると約束されたこと。

 そして、この話には、さる公爵の後押しがあると聞かされていたこと。


「その公爵とは、どなたです」

「し、知らん。名前は、教えられなかった」

「その商会の名は」

「使いの者は、名乗らなかった。だが、大きな商会だと……」

「アレテイアとは、何です」

「秘密の会だ。真の上流の方々だけが集う、古い言葉の名を持つ会だと……」


 調書に書きつけながら、だんだん頭が痛くなってきた。


 公爵の名は、知らない。

 商会の名も、知らない。

 アレテイアが何なのかも、知らない。

 この男は、肝心なことを何ひとつ知らされないまま、使われていただけなのだ。


 部屋の隅では、ヴァイスフェルト伯が、黙って伯爵を見下ろしていた。

 その目は、氷のように冷たかった。


 取り調べが終わり、伯爵が連れ出されたあと、ヴァイスフェルト伯はベルトルトの前に立った。


「分隊長。ひとつ、頼みがある」

「は、はい」

「公爵の話は、確かな証が出るまで、外に漏らさぬようにしてもらいたい。名も知れぬ相手を、噂だけで追えば、罪のない家まで巻き込むことになる」

「心得ております」


 ヴァイスフェルト伯は、短くうなずいて部屋を出ていった。

 その背中を見送ってから、ようやく息を吐いた。

 同じ部屋にいるだけで、肩が凝る。


 その日の夕刻には、騎士団の上役から呼び出しを受けた。

 王命の件、くれぐれも遺漏のないように。

 陛下も、宰相閣下も、事の次第を気にかけておいでだ。

 一日も早く、伯爵の背後を明らかにせよ。


 一日も早く、と言われても。

 上役の前で直立したまま、心の中で天を仰いだ。


     ◇


[王立リュケイオン学院 ベルトルト]


 翌日、王立リュケイオン学院を訪ねた。


 古い言葉の名を持つ会。

 ならば、古い言葉に詳しい者に聞くのがいちばんだ。

 学院には、古い書物を専門に扱う学者たちがいる。


 案内されたのは、書物の匂いが立ちこめる、薄暗い研究室だった。

 白い髭を長く伸ばした老教授が、分厚い本から顔を上げた。


「アレテイア、ですか」

「ご存じですか」

「ええ。古い言葉で、真理、という意味ですな。大昔に、そう名乗った学派がありました」


 老教授は、すらすらと答えた。


「真理を探究する者たちの集まりだったと言われております。ですが、ずっと昔に絶えております。今は、古い書物の中に名前が残っているだけですな」

「では、今それを名乗る会があるとすれば」

「さて。古い言葉の名を借りる会は、珍しくもありません。商人の寄り合いにも、貴族の社交の会にも、いくらでもある。古い名をつけると、なにやら格式が出るように見えますからな」


 老教授は、穏やかに笑った。


 ベルトルトは、礼を言って研究室を辞した。


 廊下を歩きながら、深いため息をつく。

 大昔の学派の名前。

 今は絶えている。

 古い言葉の名を借りる会など、いくらでもある。


 手がかりにならない。


     ◇


[騎士団の詰め所・執務室 ベルトルト]


 その夜、詰め所の執務室で、ひとり頭を抱えていた。


 机の上には、伯爵の調書と、学院で聞いた話を書きつけた紙。

 どこから手をつければいいのか、まるで見当がつかない。


 公爵の名は、わからない。

 王国に公爵は、四人しかいない。

 だが、まさか、四人の公爵閣下にひとりずつ、贋金に関わっておいでですかと聞いて回るわけにもいかない。

 首が、いくつあっても足りない。


 商会の名も、わからない。

 王都で大商会と呼ばれる店は、両手の指では足りない。


 アレテイアに至っては、絶えた学派の名前を、誰かが借りているだけかもしれない。


 机に突っ伏した。


「……胃が痛い」


 明日の朝は、捜査会議だ。

 部下たちを集めて、これからの方針を決めなければならない。

 その方針が、まったく立たない。


 カタリナ・フォン・ヴァイスフェルトの顔が、頭に浮かんだ。

 あの真面目な新人は、きっと誰よりも熱心に意見を出してくるだろう。

 父親がこの件を訴え出た当人だというのに、少しも引く気配がない。

 頼もしいのは確かだが、その熱意をどこへ向けさせればいいのかも、わからない。


 もう一度、額に手をやった。

 生え際は、やはり少し後退していた。


     ◇


 翌朝。


 重い足取りで詰め所の廊下を歩いていた。

 会議の部屋は、廊下の突き当たりだ。

 夜通し考えたが、方針はまとまらなかった。

 せめて、分隊長らしい顔だけはしておかねば。


 廊下の途中には、古い物置がある。

 掃除の道具や、使われなくなった鎧がしまわれている、誰も気に留めない小部屋だ。


 その前を通り過ぎた。


 その背後で、物置の扉が、音もなくそっと開いた。

第一章 筋書きは誰が書いた

第二十九話 成り代わり

[王都・宿の部屋 学]


 話は、二日前の朝にさかのぼる。


「ねえマーナ。あの伯爵、どうなったか気にならない?」


 宿の部屋で、モナがそんなことを言い出した。

 夜会の翌朝、王命を携えた騎士たちが、ハーゼンバッハの屋敷を取り囲んだという。

 その噂は、朝のうちに市場まで届いていた。


「気にはなるけどさ。騎士団の取り調べなんか、覗けるもんじゃないだろ」

「あの子の上の人が、この件を調べてるみたいよ。分隊長って人。この前、詰め所の前で、あの子と話してるのを見たわ」

「よく見てるな、おまえ」

「暇なときは、あちこち飛び回ってるもの」


 モナは、くるりと宙で一回転した。


「その分隊長に化けちゃえば? そしたら、全部聞けるじゃない」


 学は、天井を見上げた。


 成り代わり。

 他人の顔、他人の声、他人の仕草を、そっくりそのまま写し取る。

 果ての大陸で、モナ相手に何度も練習したことはある。

 だが、本物の人間を相手に試したことは、まだなかった。


「……面白そうだな」


 学の口の端が、ゆっくりと吊り上がった。


     ◇


[騎士団の詰め所のあたり 学]


 それから二日、姿を消して、分隊長の後をつけた。


 ベルトルト・フォン・クラインベルク。

 三十を少し過ぎたくらいの、真面目そうな騎士だった。

 取り調べの部屋に立ち会い、上役に呼び出されて直立し、学院へ足を運んで、夜はひとりで頭を抱えていた。

 歩き方も、しゃべり方も、ため息のつき方も、ひとつ残らず目に焼きつけた。


 そして、何より目を引いたのが、額だった。


「……なあ、モナ。あの人の生え際、気にしてるよな」

「すっごく気にしてるわね。一日に何回、額を触ったと思う?」

「昨日だけで、十四回だ。数えた」

「数えたの」


     ◇


[騎士団の詰め所・古い物置 学]


 そして、今朝。


 詰め所の廊下の途中にある、古い物置の中にいた。

 掃除の道具と、使われなくなった鎧に囲まれて、息をひそめる。

 もちろん、姿は消してある。


 足音が、近づいてきた。

 重い足取り。

 この二日で、すっかり聞き慣れた足音だ。


 足音が、物置の前を通り過ぎた。


 そっと扉を開けた。

 それから、喉の奥で、この二日のあいだに聞いた騎士の一人の声を作った。


「分隊長。少し、よろしいですか」


 足音が、ぴたりと止まった。


「……ん? 誰だ」


 ベルトルトが、怪訝そうに振り返った。

 開いた物置の扉の向こうは、薄暗くて何も見えない。


「こちらです。会議の前に、お見せしたいものが」

「物置で、か?」


 ぶつぶつと言いながらも、ベルトルトは物置の中に足を踏み入れた。

 真面目な人なのだ。

 部下に呼ばれれば、無視できない。


 背後で、扉が静かに閉まった。


 薄暗い物置の奥に、一枚の姿見が立てかけてあった。

 古びた、背の高い鏡だ。

 もちろん、さっきまでそんなものはなかった。

 たった今、幻術で置いたのだ。


「……鏡?」


 ベルトルトは、姿見の前で足を止めた。

 そこに、自分の姿が映っている。

 少しくたびれた騎士服と、真面目そうな顔。

 そして、生え際。


 その生え際から、髪が一本、はらりと落ちた。


 ベルトルトの動きが、止まった。


 もう一本。

 さらに、もう一本。

 鏡の中で、髪が、はらはらと抜け落ちていく。

 額が、見る見るうちに広がっていく。

 前髪が消え、こめかみが消え、頭のてっぺんまでが、つるりと光りはじめた。


「あ……あ……」


 ベルトルトは、震える手で自分の頭に触れ、そのまま凍りついた。

 その手のひらに、髪の感触が返らないよう、幻術をかけている。

 本当は、髪は一本も抜けていない。


 鏡の中で、最後の一本が、ゆっくりと落ちていった。


「……私の……髪が……」


 ベルトルトは、白目をむいて、その場に崩れ落ちた。


     ◇


「……効きすぎた」


 床に伸びた分隊長を見下ろした。

 いくらなんでも、と思わなくもない。

 だが、幻術で人が傷つくことはない。

 思い込みで、気を失うだけだ。

 しばらくすれば、目を覚ますだろう。


「ひどいことするわね、マーナ」

「おまえが化けろって言ったんだろ」

「髪を全部抜けとは言ってないわよ」


 学は、物置の隅にあった古い縄で、ベルトルトの手足を縛った。

 目を覚まして騒がれては困る。

 口には、手ぬぐいを軽く噛ませた。

 最後に、鎧の陰に、そっと寝かせておく。


「……ごめんな、分隊長」


 小さく手を合わせた。

 それから、ゆっくりと息を吸った。


「――表示」


 学の姿が、揺らいだ。


 背丈が少し伸び、肩幅が広がる。

 顔の輪郭が変わり、目もとに疲れのにじむ皺が刻まれる。

 騎士服の皺のひとつ、剣帯の擦り切れたひとつまで、見てきたとおりに。

 そして、生え際。

 二日のあいだ、穴が開くほど見つめた生え際を、一本の狂いもなく。


「どうだ」

「……生え際の再現度だけは、満点ね」

「だけって何だよ」

「立ち方が違う。分隊長は、もっと胃のあたりを押さえてるわ」


 学は、慌てて胃のあたりを押さえた。


     ◇


[騎士団の詰め所・捜査会議の部屋 学]


 捜査会議の部屋には、すでに騎士たちが集まっていた。


 六人ほどの騎士が、長机を囲んでいる。

 その中に、見慣れた黒髪のポニーテールがあった。

 カタリナだ。

 隣には、栗色の髪を短く刈った、背の高い女騎士が座っている。


 胃のあたりを押さえながら、上座の椅子に腰を下ろした。


「……では、始めようか」


 ベルトルトの声だった。

 少なくとも、そのつもりだった。


 騎士の一人が立ち上がり、昨日までの取り調べの経過を読み上げはじめた。

 ハーゼンバッハは、偽の延べ棒のことを認めた。

 材料は、大商会の使いを名乗る男が用意した。

 その背後には、さる公爵の後押しがあると聞かされていた。


 公爵。

 内心で目を丸くした。

 話が、ずいぶん大きくなっている。


「伯爵は、うまく運べば、ある会に迎えられる約束だったと申しております」


 騎士は、調書に目を落とした。


「会の名は、アレテイア」


 学の指が、ぴくりと動いた。


 アレテイア。


 なんだ、その響きは。

 妙に、胸の奥をくすぐる。

 十四歳のころの自分が、ノートの隅に書きつけていそうな名前だ。

 秘密結社とか、闇の組織とか、そういう言葉が、ずらりと頭に浮かんでくる。


 どこかで聞いたことがある気がした。

 ゲームだったか。

 漫画だったか。

 確か、ギリシャ語で……真理、とか、そんな意味だった気がする。


 真理。

 秘密の会。

 闇に潜む組織。


 学の胸が、どくん、と高鳴った。


「学院に問い合わせましたが、大昔の学派の名前だそうで、今は絶えていると。手がかりにはなりそうもありません」


 騎士の報告が、遠くに聞こえた。

 上の空でうなずいた。


「……うむ。続けたまえ」

「分隊長?」


 カタリナが、眉をひそめてこちらを見ていた。


「何だね、ヴァイスフェルト君」

「……分隊長、今日はなにか変です」


 学の背中を、冷たい汗が伝った。

 隣の背の高い女騎士も、怪訝そうに首をかしげている。

 耳もとで、モナが腹を抱えて笑っていた。


 学は、咳払いをひとつした。

 胃のあたりを、ぎゅっと押さえる。


「……少し、胃の具合が悪くてな」


 それで、どうにかごまかせたらしい。

 カタリナは、まだ納得のいかない顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。


 学は、うつむいて、調書の紙に目を落とすふりをした。


 アレテイア。

 真理を名乗る、秘密の会。


 その口元が、ゆっくりと、にやりと吊り上がった。

第一章 筋書きは誰が書いた

第三十話 真理、ですか

[騎士団の詰め所・捜査会議の部屋 カタリナ]


 今日の分隊長は、やはりおかしい。


 調書をめくるふりをしながら、上座の分隊長をそっとうかがった。


 胃の具合が悪い、と言っていた。

 確かに、さっきから何度も胃のあたりを押さえている。

 だが、それ以外のところが、どうにも腑に落ちない。


 分隊長は、部下を呼ぶとき、いつも家名を呼び捨てにする。

 ヴァイスフェルト君、などと呼ばれたのは、今日が初めてだ。

 報告を聞くときは、いつも眉間に皺を寄せて、いちいち書きつける人なのに、今日は上の空でうなずくばかりだった。

 そして、アレテイアという名が出たとき。

 ほんの一瞬だけ、分隊長の目が、妙に輝いたように見えた。


 隣で、ハルトマン殿が小さくささやいた。


「……やっぱり変だろ、今日の分隊長」

「ハルトマン殿も、そう思われますか」

「ああ。あの人が、続けたまえ、なんて言うのは初めて聞いた」


     ◇


 報告が終わり、騎士たちが分隊長の言葉を待った。


 これからの方針を、決めなければならない。

 公爵の名もわからない。

 商会の名もわからない。

 アレテイアは、大昔に絶えた学派の名前だという。

 どこから手をつければいいのか、誰にも見当がつかなかった。


 分隊長は、しばらく黙ったまま、机の上の調書を見つめていた。


 それから、ゆっくりと顔を上げた。


「アレテイア、か」


 低い声だった。

 いつもの分隊長の声だ。

 だが、その響きが、どこか違って聞こえた。


 分隊長の輪郭が、ふっと揺らいだ。


 息をのんだ。


 騎士服の色が抜け、夜のように深い色の外套に変わっていく。

 疲れのにじむ顔が、白く冷たい顔立ちへと描き換えられていく。

 撫でつけた黒髪。

 燭台の明かりを映して光る、赤い瞳。


 分隊長が座っていたはずの上座に、あの男がいた。


     ◇


「――またあなたですか!」


 椅子を蹴って立ち上がっていた。

 隣で、ハルトマン殿が剣の柄に手をかける。

 ほかの騎士たちも、口々に叫びながら立ち上がった。


 男は、少しも動じなかった。

 上座の椅子に腰かけたまま、ゆったりと足を組む。

 それから、カタリナを見て、わずかに目を細めた。


「また君か、と言うのは、今回はやめておこう」


 男は、うっすらと笑みを浮かべた。


「今回は、私のほうが、君たちの場に邪魔をしたのでね」

「分隊長は、どこです!」

「ご心配なく。少しばかり、休んでいただいているだけですよ」


 カタリナは、奥歯を噛みしめた。


 市場の両替商。

 製錬所の裏。

 ハーゼンバッハの夜会。

 そして今度は、騎士団の捜査会議の、それも分隊長の席に。


 どこにでも現れる。

 誰にでも化ける。

 この男には、入れない場所などないのか。


「……お前、何者だ」


 ハルトマン殿が、低くうなるように言った。

 剣は、まだ抜いていない。

 抜けば、それが合図になる。

 狭い部屋で、正体の知れない男を相手に斬り合いを始めるのは、得策ではないとわかっているのだ。


 男は、ハルトマン殿の問いには答えなかった。

 代わりに、机の上の調書に、ちらりと目を落とした。

 アレテイア、と書かれた行の上で、その視線が止まる。


「真理、ですか」


 男は、小さくつぶやいた。


「愚かにも、まだ名乗っているのですね」


 部屋の空気が、凍りついた。


 次の瞬間、男の姿は、上座の椅子から消えていた。


     ◇


 しばらくのあいだ、誰も口をきかなかった。


 男が座っていた空の椅子を見つめていた。

 今の言葉が、頭の中で何度も響く。


 まだ、名乗っている。


 学院の老教授は、言っていたという。

 アレテイアは、大昔に絶えた学派の名前だと。

 今は、古い書物の中に名前が残っているだけだと。


 だが、あの男は、まだ、と言った。


 まるで、絶えたはずの学派が、今も続いていることを知っているかのように。

 今も、どこかでアレテイアを名乗っている者たちがいることを、当たり前のように知っているかのように。

 しかも、それを、愚か、と切り捨てた。


「……あの男は、アレテイアを知っている」


 かすれた声でつぶやいた。


「知っているだけじゃない。見下ろしている」


 ハルトマン殿が、ゆっくりと剣の柄から手を離した。


「アレテイアより、上の何か、ってことか」

「わかりません。でも、そうとしか……」


 騎士の一人が、震える声で言った。


「……噂の、ロキのような男って、あれのことじゃないのか」


 誰も、笑わなかった。


 学院のそばの路地で、火の玉を操り、子どもに化けて消えたという男。

 姿を変え、どこにでも現れ、目の前で消える。

 王都の酒場でささやかれている噂が、カタリナの頭の中で、あの男の姿に重なった。


 これまでのことを思い返した。


 市場の両替商で、あの男が銀貨の曇りを言い立てた。

 それがきっかけで、市場の銀貨が調べられ、贋金だとわかったと聞いている。

 製錬所の裏で、あの男が組合の者を問い詰めていた。

 その夜、捕らわれていた鉱夫たちが見つかった。


 ハーゼンバッハの夜会に、あの男が現れた。

 その翌朝、伯爵は捕らえられた。


 あの男が姿を見せるたびに、自分たちは、一歩ずつ真相に近づいてきた。

 偶然だと思っていた。

 だが、もし、そうではないのだとしたら。


 まるで、道を示されているようだった。

 見えない盤の上で、駒を動かされているかのように。


     ◇


 我に返ったのは、ハルトマン殿だった。


「分隊長を探すぞ。休んでいただいている、と言ってたな。遠くには行ってないはずだ」


 騎士たちが、いっせいに部屋を飛び出した。

 ハルトマン殿のあとに続いた。


 詰め所じゅうを探し回り、ようやく見つけたのは、廊下の途中にある古い物置だった。


 扉を開けると、掃除の道具と使われなくなった鎧のあいだに、分隊長が転がっていた。

 手足を縄で縛られ、口には手ぬぐいを噛まされている。

 目を閉じたまま、すうすうと寝息を立てていた。


「分隊長!」


 駆け寄り、手ぬぐいをほどいた。

 ハルトマン殿が、手際よく縄を切る。


 分隊長のまぶたが、ゆっくりと持ち上がった。


 ぼんやりとした目が、宙をさまよう。

 自分とハルトマン殿の顔を順に見て、それから、物置の奥の暗がりに向けられた。


 分隊長は、震える手を、そろそろと自分の額へ伸ばした。


「……私の髪は、無事か」

第一章 筋書きは誰が書いた

第三十一話 梟たちの会議

[大商会の奥の隠し部屋 ユリウス]


 大商会の奥には、店の者でさえ存在を知らない部屋がある。


 窓はなく、厚い扉は二重になっている。

 壁には上等な織物が掛けられ、声が外に漏れないよう工夫されていた。

 中央の円卓を囲んで、五つの椅子が並んでいる。

 そのうち、上座のひとつだけが、今夜も空いていた。


 ユリウス・ノイマンは、円卓から一歩下がった場所に立っていた。


 この部屋で、椅子に座ることは許されていない。

 拠点を預かる者として報告に呼ばれただけで、この円卓に連なる身ではないのだ。

 それでも、ここに呼ばれること自体が、ほかの拠点の者たちには望んでも得られない栄誉だった。


 円卓には、四人の男が座っていた。

 王都でも指折りの大商人が二人。

 古い家の貴族が二人。

 いずれも、表の顔だけでも王国を動かせるほどの者たちだ。


「――以上が、ハーゼンバッハの取り調べの経過でございます」


 報告を締めくくって頭を下げた。


     ◇


「つまり、あの男は、知っていることを洗いざらいしゃべったわけか」


 恰幅のいい大商人が、指輪だらけの指で円卓を叩いた。


「アレテイアの名も、公爵の後押しの話も、商会の使いが来たことも、か」

「は。ですが、肝心な名は何ひとつ知らされておりません。商会の名も、あの御方の名も」

「当たり前だ。あのような小物に、教えるはずがなかろう」


 痩せた貴族が、鼻を鳴らした。


「うまく運べば、末席に加えてやるつもりではあった。だが、しくじった駒に用はない。伯爵の位をくれてやっただけでも、過ぎた褒美だ」

「切り捨てる、ということでよろしいか」


 もう一人の、まだ若い大商人が、確かめるように一同を見回した。

 誰も、反対しなかった。


 年かさの貴族が、短く命じた。


「ハーゼンバッハとの繋がりを示すものは、すべて処分しろ。使いに出した者も、しばらく王都から遠ざけておけ」

「かしこまりました」


 深く頭を下げた。

 ハーゼンバッハのことは、もうどうでもよかった。

 伯爵ひとりが消えたところで、計画の根は揺るがない。

 問題は、別のところにあった。


     ◇


「それで、もうひとつの件だが」


 年かさの貴族が、静かに口を開いた。

 白い髭をたくわえた、穏やかな物腰の男だ。

 四人の中でも、いちばん発言に重みがある。


「例の、正体の知れぬ男のことだ。報告を聞こう」


 ユリウスは、手もとの書類をめくった。


「市場の両替商で、銀貨に緑青が浮いていると言い立てた男。そこから学院の鑑定に回り、銀の量が足りないことが知れました」


 一枚目。


「ジルバータールで、組合の者を氷漬けにし、銀山の秘密を言い当てた男。その夜のうちに、製錬所に騎士団が踏み込みました」


 二枚目。


「学院の研究員の口をふさぎに行った者たちの前に現れ、上の者を装って追い払った男。その学者の鑑定書は、すでに組合の手に渡っております」


 三枚目。


「ハーゼンバッハの夜会に、ナハトラーベの名を名乗って現れた男。その翌朝、伯爵は捕らえられました」


 四枚目。


「そして、昨日。騎士団の捜査会議に、分隊長の姿で紛れ込んでいた男」


 円卓の空気が、ぴんと張りつめた。


「騎士団の中にも、我々の耳はございます。その者の話では、男は会議のさなかに本来の姿を現し、アレテイアの名を聞いて、こう言ったそうです」


 書類の文字を、ゆっくりと読み上げた。


「真理、ですか。愚かにも、まだ名乗っているのですね、と」


     ◇


 しばらくのあいだ、誰も口をきかなかった。


「……愚か、だと」


 恰幅のいい大商人が、顔を赤くして身を乗り出した。


「我々の名を、愚かだと言ったのか。どこの馬の骨とも知れぬ男が」

「まだ、という言い方も気になる」


 痩せた貴族が、眉をひそめた。


「まるで、我々がアレテイアを名乗っていることを、昔から知っているかのような口ぶりだ」

「そんなことを知る者が、外にいるはずがない」

「だから、気味が悪いと言っている」


 若い大商人が、声をひそめた。


「学院の連中ではないのか。古い話にやたらと詳しいのは、あそこの者たちだ。鑑定を守ったのも、その男だというではないか」

「あの連中が、わざわざ姿をさらして、名乗りまで残すと思うか。やり口が派手すぎる。それに、利になることが何もない」

「では、何者だ」


 その問いに、答えられる者はいなかった。


 黙って円卓を見つめていた。


 市場。

 銀山。

 学院の学者。

 伯爵。

 そして、騎士団。


 このひと月近くのあいだに、計画のあらゆる要所に、あの男が現れている。

 そのたびに、何かが崩れていく。

 偶然であるはずがなかった。


「……我々を、見ている者がいる」


 年かさの貴族が、低くつぶやいた。


     ◇


「まさか、グラウクスの――」


 若い大商人が、ふと言いかけた。


 年かさの貴族が、露骨に顔をしかめた。


「その呼び名は、やめろ」


 静かな声だった。

 だが、若い大商人は、はっとしたように口をつぐんだ。


「我々は、アレテイアだ。グラウクスなどと、陰気な名で呼ぶな」

「……失礼いたしました」


 目を伏せた。


 グラウクス。

 聞き慣れない名だった。

 古い言葉で、梟を指す響きだったような気もする。

 だが、問い返せる空気ではなかった。


 梟が飛ぶのは黄昏だ、と昔から言う。

 一つの時代が終わるときに、梟は飛び立つのだと。


 年かさの貴族は、空いた上座の椅子に、ちらりと目をやった。


「この件は、あの御方のお耳にも入れておく。王宮での動きには、あちらも気を配っておられる」


 その名を口にする者は、誰もいなかった。

 自分も、その椅子に座る者の顔を、一度も見たことがない。

 ただ、その者の一言で、この円卓の誰もが口をつぐむことだけは知っていた。


「ユリウス。その男の正体を探れ。どれほど金を使ってもかまわん」

「かしこまりました」


     ◇


 会合が終わり、男たちが席を立ちかけたときだった。


 痩せた貴族が、ふと思い出したように言った。


「ハーゼンバッハを切り捨てるのはいい。だが、あの男が王家に納めた金は、どうする」


 円卓の空気が、また重くなった。


 ハーゼンバッハは、伯爵の位を得るために、王家に莫大な上納をしていた。

 上納金の多くは、あの鋳造所を通った銀貨で納められていた。

 王家の国庫には、贋金そのものが積まれているのだ。


 恰幅のいい大商人が、苦々しげに首を振った。


「上納金の件は、もう止められん。王宮が気づくのも時間の問題だ」

第一章 筋書きは誰が書いた

第三十二話 酒場の愚痴

[王都・琥珀の灯亭 学]


 捜査会議の騒ぎから、三日がたっていた。


 琥珀の灯亭の奥のソファー席で、鶏の焼き物をつついていた。

 すっかり通い慣れた店だ。

 給仕も、もう何も言わずに、いつもの葡萄酒を運んでくる。

 ドラゴンの鱗を売った金がなければ、とっくに破産しているところだった。


「ねえマーナ。あの分隊長、髪は大丈夫だったかしら」


 杯のふちに腰かけて、モナが言った。


「大丈夫に決まってるだろ。一本も抜いてないんだから」

「でも、きっと毎朝、鏡の前で数えてるわよ」

「……それは、ちょっと悪いことしたな」


 声をひそめて答えた。

 奥の席なので、周りの客にはまず聞こえない。

 聞こえたところで、酔ったおっさんの独り言だと思われるだけだ。


 アレテイア。

 真理を名乗る、秘密の会。

 あの名前を聞いてから、ずっと上機嫌だった。

 闇の組織に、意味深な捨て台詞。

 十四歳の自分が見たら、きっと泣いて喜ぶ。


「シモン殿?」


 聞き覚えのある声に、顔を上げた。


     ◇


 カタリナが、店の入口に立っていた。


 騎士服のままだった。

 ポニーテールが、少しほつれている。

 目の下には、ジルバータールで見たときよりも濃い隈ができていた。


「カタリナさん。お久しぶりです」

「まだ王都にいたのですね。……てっきり、もう旅に出たものと」

「この店の料理が忘れられなくて。カタリナさんこそ、お一人ですか」

「ええ。少し、ひとりで食べたい気分だったので」


 そう言いながら、カタリナは学の向かいの席を見た。

 それから、学の顔を見た。


「……ですが、知った顔のほうが、いいかもしれません」


 給仕が、すぐに個室を用意してくれた。

 カタリナは、席に着くなり葡萄酒を頼み、運ばれてきた杯を半分ほど一息に空けた。

 学は、黙ってそれを見ていた。

 伯爵家の令嬢の飲み方ではない。

 詰め所で先輩たちに混じって覚えたような、騎士の飲み方だった。


「……また、あの男が現れたのです」


 杯を置いて、カタリナが言った。


     ◇


「あの男、というと」

「市場の両替商で会った、あのシモンです。ジルバータールの製錬所にも現れた」

「ああ、首根っこを捕まえるって言ってた人ですね」

「捕まえ損ねました。何度も」


 カタリナは、悔しそうに唇を噛んだ。


「さる貴族の夜会に、あの男が現れたのです。私も、父の名代で出ていました。広間の隅から、ずっと見ていたのに、気がついたら消えていて」


 学は、鶏の焼き物を口に運んだ。

 味が、急にしなくなった。


「それだけではありません。三日前には、騎士団の会議に紛れ込んでいたのです。それも、私の上役の、分隊長の姿に化けて」

「ば、化けて?」

「ええ。顔も、声も、そっくりでした。私の隣に座っていた先輩騎士でさえ、しばらくは本物だと思っていたくらいです」


 それ、僕です。


 心の中で深々と頭を下げた。

 顔には、驚いたような表情を貼りつけておく。

 卓の上で、モナが口を押さえて震えていた。


「ただ、どこか変だったのです。いつもは呼び捨てにする人が、急にヴァイスフェルト君などと呼んだり、上の空でうなずいたり。おかしいと思っていたら、目の前で、あの男の姿に戻りました」

「そりゃあ、驚いたでしょう」


 普段の姿で、その家名を聞くのは初めてだった。

 これで、ようやく堂々と知っていられる。


「驚くどころではありません。しかも、そのあと、本物の分隊長が物置で見つかったのですが」


 カタリナは、そこで少し言いよどんだ。


「目を覚ました分隊長の第一声が、私の髪は無事か、だったのです」


 ちょうど口に含んでいた葡萄酒に、むせた。


「シモン殿?」

「い、いえ。ちょっと、気管に」

「……前にも、同じことをしていませんでしたか」

「この店の葡萄酒、喉に来るんですよ」


 咳払いでごまかした。

 モナは、ひいひいと笑っている。

 笑い転げるうちに、卓の端から落ちそうになっていた。


     ◇


 カタリナは、しばらく黙って杯を見つめていた。


「……シモン殿。私は、間違えたのかもしれません」


 ぽつりと、カタリナが言った。


「間違えた、ですか」

「最初は、市場の銀貨が少し曇っていた、それだけのことでした。それが、ジルバータールで、もっと大きなことだとわかって。私は、父に手紙を書きました」


 カタリナの指が、杯のふちをなぞった。


「父は、すぐに動いてくれました。嘘の嫌いな人ですから、何ひとつ隠さずに。そのおかげで、悪事を働いていた者は捕らえられました。それは、正しかったと思っています」

「ええ」

「でも、事件は、少しも小さくならないのです。調べれば調べるほど、後ろに何かが出てくる。私などが名前を口にするのもはばかられるような、大きなものまで」


 カタリナは、そこで言葉を切った。

 それ以上は、話せないということなのだろう。


「このままでは、我が家門も、無傷ではすまないかもしれません。私が手紙を書かなければ、父をこんなことに巻き込まずにすんだのではないかと。……それに」


 カタリナは、顔を上げた。


「あの男が現れるたびに、事件は大きくなっていくのです。まるで、あの男の書いた筋書きの上で、私たちが踊らされているような気がして」


 学は、杯を置いた。


     ◇


 正直に言えば、筋書きなど、何ひとつ書いていない。

 面白そうなほうへ、行き当たりばったりに顔を出しただけだ。

 だが、それを言うわけにはいかなかった。


 前の職場のことを思い出していた。

 見て見ぬふりをした不具合ほど、後になって、とんでもない形で火を噴いた。

 小さいうちに声を上げた者が、いちばん面倒を背負わされる。

 それでも、声を上げなかった者のほうが、結局はもっと高くつくのだ。


「僕は、難しいことはわかりませんけど」


 言葉を選びながら言った。


「黙ってたら、その銀貨は、今も市場に出回ってたんでしょう。困るのは、僕みたいな、何も知らずに受け取る人間です。カタリナさんが手紙を書いたから、それが止まった。それは、間違いじゃないと思いますよ」


 カタリナは、黙って学を見ていた。


「あとのことは、悪事を働いた連中のせいです。カタリナさんのせいじゃない。踊らされてるっていうなら、なおさら。踊らせてるほうが悪いに決まってます」


 言ってから、少し後ろめたくなった。

 踊らせているほう、の心当たりが、ないわけではない。


 カタリナは、ふっと小さく笑った。


「……シモン殿は、ときどき、妙に頼もしいことを言いますね」

「ときどき、は余計です」

「褒めているのです。少しだけ、楽になりました」


 カタリナは、ほつれたポニーテールを結び直した。

 騎士の顔が、少しだけ戻ってきていた。


     ◇


 ふと、モナが静かなことに気づいた。


 いつもなら、こういうときこそモナが茶々を入れてくる。

 妙に頼もしいだって、と耳もとで笑い転げているはずだ。

 見ると、モナは学の杯のそばに座り込んで、杯の中の赤い水面をぼんやりと眺めていた。


 酒の匂いにでも酔ったのだろうか。

 首をかしげたが、カタリナの前で声をかけるわけにもいかない。


 デザートの焼き菓子が運ばれてきた、そのときだった。


 個室の外で、慌ただしい足音がした。

 給仕の制止する声。

 扉が、乱暴に開け放たれる。


 息を切らした若い騎士が、戸口に立っていた。


「ヴァイスフェルト殿! 王宮から急ぎの使いが――」

第一章 筋書きは誰が書いた

第三十三話 汚れた国庫

[王宮・宰相の執務室 宰相]


 その報告書が宰相の執務室に届いたのは、昼を少し過ぎたころだった。


 コンラート・フォン・エーレンフェルスは、眼鏡をかけて、報告書の封を切った。

 六十を一つ過ぎた、痩せた長身の男だ。

 灰色の髪はきっちりと整えられ、目の下には深い皺が刻まれている。

 王国の宰相として、もう十年以上、この部屋で書類の山と向き合ってきた。


 報告書は、財務の役人からのものだった。


 ハーゼンバッハ伯が捕らえられたあと、念のためにと一つ命じておいた。

 伯爵が王家に納めた上納金を、いくらか抜き出して調べよ、と。

 市場に贋金が出回っていたのなら、伯爵の手もとを通った金にも、混じっているかもしれない。

 そうでなければいい、と思いながらの命令だった。


 報告書の数字に、目を走らせた。

 一度読み、眼鏡を押し上げて、もう一度読んだ。


 数字は、変わらなかった。


     ◇


 上納金の銀貨を溶かしたところ、取り出せた銀は、本来の量の何分の一にも満たなかった。

 抜き出した袋の、どれを調べても同じだった。

 重さも、見た目も、鳴らした音も、本物と変わらない。

 それでいて、中身は銀ではない何かだった。


 いや、と思い直した。

 市場の贋金に最初に気づいたのは、年季の入った両替商だったという。

 打ち鳴らした音が、わずかに違う、と。

 本当に耳のよい者には、音だけは聞き分けられたのだろう。


 眼鏡を外して、目頭を押さえた。


 上納金は、王家の財の一部として、国庫に納められている。

 その一部は、すでに王宮の費えとして使われ、役人や兵の俸給として払い出されているはずだ。

 つまり、王家そのものが、知らぬうちに贋金を受け取り、贋金を世に流していたことになる。


 王の信任を受けた者だけが、銀貨を打つことを許される。

 その王の金庫に、贋金が眠っていた。

 これほどの恥辱は、王国の二百七十年の歴史でも、聞いたことがない。


「……宰相閣下」


 扉の外から、秘書官の遠慮がちな声がした。


「陛下がお呼びです。至急、とのことです」


 もう、陛下の耳にも入ったのか。

 小さく息を吐いた。

 王宮では、悪い知らせほど足が速い。

 日が傾くころには、役人たちの廊下での立ち話も、この件で持ちきりになるだろう。


     ◇


 国王の執務室へ向かう前に、机の上の書類をまとめた。


 一番上に、もう一枚、別の報告が載っていた。

 ハーゼンバッハの夜会について、屋敷の執事や招待客から聞き取ったものだ。


 夜会のさなか、夜のように深い色の外套をまとった紳士が現れ、伯爵と言葉を交わした。

 紳士は、ナハトラーベ男爵と名乗ったという。


 眉をひそめた。


 ナハトラーベ。

 数世代前に断絶し、いまは空位のまま王族預かりになっている爵位だ。

 王族預かりの爵位を名乗るのは、たいていは王族の隠し子だ。

 しかも、かつて王国の暗部を束ねた家の名である。

 冗談で名乗れるような名ではない。


 だが、王族に、そのような者がいるとは聞いていない。

 いたとしても、宰相の耳に入らぬはずがない。


「……何者だ」


 つぶやいてから、首を振った。

 今は、それどころではない。

 報告を書類の束の下に差し込み、いずれ調べさせる、とだけ心に留めた。


 国王の執務室へ向かう廊下の角で、足を止めた。


 法務卿が、若い侍女の前で、壁に片手をついていた。

 何やら熱心にささやいている。

 侍女のほうは、盆を抱えたまま困り果てた顔だ。


 表情ひとつ変えずに、その脇を通り過ぎた。


「法務卿。奥方が、先ほど財務卿の部屋でお待ちでしたが」


 法務卿の顔から、さっと血の気が引いた。

 次の瞬間には、廊下の向こうへ駆け出していた。


 もちろん、嘘である。


「まったく。あれがなければ、本当に良い法務卿なのだがな……」


 侍女に小さくうなずいてみせてから、何事もなかったように歩き続けた。


     ◇


[王宮・国王の執務室 エーレンフェルス]


 国王ルートヴィヒ四世は、執務室の窓辺に立っていた。


 五十二歳。

 白いものが混じった金褐色の髪に、短く整えた顎ひげ。

 王家の家名に違わぬ鷲鼻と、鋭い目もとをしている。

 ふだんは穏やかな表情を崩さない王だが、今は、その目もとが険しかった。


「来たか、コンラート」

「陛下。お騒がせをいたしております」

「話は聞いた。……余の金庫に、贋金があったそうだな」


 エーレンフェルスは、黙って報告書を差し出した。

 王は、それを受け取り、長いあいだ目を落としていた。


「ハーゼンバッハめ」


 王の声は、低く押し殺されていた。


「余に頭を下げ、伯爵の位を願って差し出したその金が、偽りの銀だったというのか」

「残念ながら」

「あの男の陞爵を許したのは、余だ」


 王は、報告書を机に置いた。

 その手が、かすかに震えていた。


「寄親を飛び越えての上納と聞いて、いささか眉をひそめはした。だが、それほどまでに王家に尽くしたいのならと、許した。……余は、贋金で買われた忠義に、伯爵の位を与えたのだな」

「陛下のせいではございません。偽りを見抜けなかったのは、我ら臣下も同じです」

「慰めはいい」


 王は、首を振った。


「ヴィルヘルムが訴え出てくれなければ、今も気づかずにいたところだ。あれの父も、そういう男だった。王に耳の痛いことを、平気で言う。余が若いころには、ずいぶんと叱られたものだ」


 王の目もとが、わずかにゆるんだ。

 先代のヴァイスフェルト伯を、王が深く敬っていたことは、よく知っている。


 だが、王の顔は、すぐにまた険しくなった。


「コンラート。この件、どう収める」

「まずは、国庫に残る贋金を洗い出させます。すでに払い出してしまった分は、どこへ流れたか、財務卿に追わせましょう」

「貴族たちは、どう出る」


 エーレンフェルスは、すぐには答えなかった。


 王家の財政が、贋金で汚された。

 この話が広まれば、貴族たちは黙っていない。

 誰がこの責めを負うのか、と声を上げる者が、必ず出てくる。

 ハーゼンバッハ一人の首では、もう収まらないかもしれない。


「……誰かに責めを負わせよ、という声が上がりましょう」

「ハーゼンバッハがいる」

「あの者は、すでに捕らえられております。人は、捕らえられた者より、まだ捕らえられていない者を責めたがるものです」


 王は、苦い顔で黙り込んだ。


     ◇


 手もとの書類をめくった。


 銀貨を打つことは、王家の厚い信任を得た、わずかな家にしか許されていない。

 銀貨には、鋳造所の刻印がない。

 王国の銀貨は、どこで打たれても同じ意匠だ。

 どの鋳造所で打たれたものかは、鋳造所の帳簿を見なければわからない。


 それが、今回は仇になった。

 もし刻印があれば、市場で贋金が見つかった時点で、どこで打たれたものかがすぐにわかったはずだ。

 これが片づいたら、銀貨以上の貨幣には、鋳造所の刻印を入れることを考えねばなるまい。


 だが、今回に限っては、帳簿を見るまでもなかった。


 書類の束の中に、一通の上奏書がある。

 ヴィルヘルム・フォン・ヴァイスフェルトが、夜会の前日に王に差し出したものだ。

 眼鏡をかけ直し、その文面を、もう一度目で追った。


 ハーゼンバッハ領から送られてきた延べ棒に、銀がまるで足りていなかったこと。

 それが当家の鋳造所で、何も知らぬまま銀貨にされていたこと。

 その銀貨の数のこと。

 自らの家の落ち度を、一字も削らずに書いてある。


 嘘を嫌う、あの男らしい上奏書だった。

 これがあったからこそ、王命はすぐに下り、伯爵は捕らえられた。


 だが、と、思った。


 この上奏書は、もう一つのことを、王家の記録に残してしまっている。

 国庫に眠る贋金の銀貨が、どこで打たれたのかを。

 ハーゼンバッハの延べ棒が送られていた鋳造所は、ただ一つしかないのだから。


 ゆっくりと上奏書から顔を上げた。


「陛下」


 王が、怪訝そうにこちらを見た。


「この銀貨を鋳造したのは……ヴァイスフェルト家の鋳造所です」

第一章 筋書きは誰が書いた

第三十四話 鋳造所の名

[王宮の小部屋 カタリナ]


 王宮の小部屋に通されたのは、夜も更けてからのことだった。


 燭台が二つ灯されただけの、飾り気のない部屋だ。

 机の向こうには、宰相付きの書記官だという中年の男が座っている。

 物腰は丁寧で、部屋に入ると、わざわざ立ち上がって椅子を勧めてくれた。


「夜分に、申し訳ございません。宰相閣下が、ジルバータールの件のいきさつを、直にお聞きしたいと仰せでして」

「父の上奏書の件でしょうか」

「はい。裏づけのために、最初に延べ棒の行き先を突き止められたヴァイスフェルト殿から、お話をうかがっておきたいのです」


 背筋を伸ばして、知っていることを話した。


 製錬所の帳簿のこと。

 偽の延べ棒が、毎月、ヴァイスフェルト領の鋳造所へ送られていたこと。

 その夜のうちに、父に手紙を書いたこと。


 書記官は、一つひとつうなずきながら、紙に書きつけていった。


     ◇


 問いの向きが変わったのは、半刻ほどたったころだった。


「延べ棒の行き先が、お父上の鋳造所だとわかったとき。その知らせを、最初にどなたに伝えられましたか」

「父です。早馬で、手紙を」

「騎士団への報告は」

「分隊長には、王都に戻ってから、まとめてご報告しました」


 書記官の筆が、ほんの一瞬だけ止まった。


「では、騎士団より先に、お父上にお知らせになったのですね」

「……はい」


 答えてから、その問いの意味に気づいた。


 騎士団より先に、家に知らせた。

 それは、聞きようによっては、家に手を打つ時間を与えた、ということにもなる。


「父は、隠し立てをするような人ではありません。上奏書にも、当家の落ち度を何ひとつ削らずに書いたはずです」

「存じております。ですから、こうして確かめているのです」


 書記官は、穏やかに言った。

 その穏やかさが、かえって胸に刺さった。


 聞き取りが終わったのは、真夜中を過ぎてからだった。

 なぜ今になって、こんな問いを重ねるのか。

 書記官は、最後までその理由を口にしなかった。

 ただ、部屋を出るとき、廊下の奥で役人たちがひそひそと話し込んでいるのを見た。

 カタリナの姿に気づくと、役人たちは、ぴたりと口を閉ざした。


     ◇


[騎士団の詰め所 カタリナ]


 噂が騎士団に届くまで、二日とかからなかった。


 ハーゼンバッハの上納金に、贋金が混じっていたらしい。

 王家の金庫が、贋金で汚されたらしい。

 そして、その贋金を打ったのは、ヴァイスフェルト家の鋳造所らしい。


 王宮の廊下から、貴族の屋敷の客間へ。

 客間から、その家の子弟が勤める騎士団の詰め所へ。

 話は、行く先々で少しずつ形を変えながら、たちまち広まっていった。


 詰め所の廊下を歩くと、話し声が止む。

 食堂の長机では、カタリナの隣の席だけが、いつまでも空いている。

 目を向ければ、相手は気まずそうに目をそらした。


「『王国の盾』も、地に落ちたもんだな」


 背後で、誰かが言った。

 振り返ると、貴族家の出の騎士が二人、壁にもたれてこちらを見ていた。


「盾の裏で、贋金を打ってたってわけだ。そりゃあ、ハーゼンバッハを訴えるのも早いはずだよ。自分のところに火が回る前に、切り捨てたんだろ」


 カタリナは、拳を握りしめた。


 違う、と言いたかった。

 父は、何も知らなかった。

 知ったその日に、自らの落ち度まで一字残らず書いて、王に差し出したのだ。

 だが、それを今ここで叫んだところで、誰が聞くというのだろう。


「おい」


 低い声がした。


 ハルトマン殿が、騎士たちの前に立っていた。

 カタリナより頭ひとつ高い背が、二人を見下ろしている。


「暇なら、私と稽古でもするか。ちょうど、相手を探してたところだ」

「い、いや、俺たちは別に……」


 二人は、そそくさと廊下の向こうへ消えていった。


「……逃げ足だけは、騎士団一だな」


 ハルトマン殿が、ぼそりと言った。

 カタリナは、思わず小さく吹き出しそうになって、慌てて顔を引き締めた。


 ハルトマン殿は、二人の背中を見送ってから、こちらを振り返った。


「気にするな。……いや、気にしないほうがいい、です」

「ありがとうございます、ハルトマン殿」


 どうにか笑ってみせた。

 うまく笑えていないことは、自分でもわかっていた。


     ◇


 その日の夕刻、分隊長に呼ばれた。


 執務室に入ると、分隊長は、机の向こうで胃のあたりを押さえていた。

 いつにも増して、顔色が悪い。

 自分の後ろには、なぜかハルトマン殿もついてきていた。


 机の端に、小さな手鏡が伏せて置いてある。

 ハルトマン殿が、耳もとで小声で言った。


「あれ以来、鏡を見るたびに、髪の数を数えてるらしい」


 カタリナは、聞かなかったことにした。


 だが、聞こえていたらしい。

 分隊長は、耳まで赤くなりながら、手鏡を引き出しの奥へ押し込んだ。

 それから、わざとらしく咳払いをひとつした。


 赤みは、すぐに引いていった。

 あとに残ったのは、さっきよりもいっそう青白い顔だった。

 額に手をやりかけて、途中でやめる。


「ヴァイスフェルト。……その、言いにくいことなのだが」


「上の方から、達しがあった。お前を、ハーゼンバッハの件の捜査から外せ、と」


 黙って、分隊長を見た。


「お前の家が、疑いをかけられている。疑いのかかった家の者に、その件の捜査をさせるわけにはいかない。……筋としては、そういうことだ」

「ふざけてる」


 ハルトマン殿が、吐き捨てるように言った。


「こいつ……いや、ヴァイスフェルト殿がいなきゃ、銀山の件も、伯爵の件も、何ひとつ明るみに出てない。それを、今さら」

「わかっている、ハルトマン。私だって、納得しているわけではない」


 分隊長は、苦しそうに首を振った。


「だが、これは上の決定だ。私の力では、どうにもならん」


 しばらく何も言わなかった。


 自分が、この事件を見つけた。

 自分が、父に手紙を書いた。

 自分が、事件を大きくした。

 その事件から、自分だけが締め出される。


「……承知しました」


 まっすぐに背筋を伸ばして、敬礼した。


「これまでの調書は、すべてお渡しします。失礼いたします」


 声は、震えなかった。

 ヴァイスフェルトの娘として、ここで取り乱すわけにはいかなかった。


     ◇


[夜の大通り カタリナ]


 詰め所を出たころには、日はすっかり暮れていた。


 その足で王都の屋敷へ帰った。

 騎士団の宿舎に戻る気には、どうしてもなれなかった。


 夜の大通りを歩きながら、二日前の琥珀の灯亭のことを思い出していた。


 踊らせているほうが悪いに決まっている。

 シモン殿は、そう言ってくれた。

 あのときは、少しだけ楽になれた。


 だが、今は違う。

 踊らされているのは、もう、捜査をする自分たちだけではなかった。

 父も、家も、王国の盾という名も。

 見えない誰かの筋書きの上で、いつの間にか、悪役の位置に立たされている。


 あの男なら、この筋書きの続きを知っているのだろうか。

 夜のように深い色の外套が、ふと頭をよぎった。

 唇を噛んで、それを振り払った。


 屋敷に着いたのは、それからまもなくのことだった。


 玄関の扉を開けると、広間の灯りの下に、母が立っていた。


 ゾフィー・フォン・ヴァイスフェルト。

 長い黒髪に、自分と同じ青い瞳。

 いつもはおっとりと微笑んでいる垂れ目がちの目もとが、今夜は硬くこわばっていた。

 その手には、一通の書状が握られている。

 封蝋には、王家の鷲の紋章があった。


「おかえりなさい、カタリナ」


 母は、静かに言った。


「ちょうど今、王宮から届いたの。お父様に、御前会議へ出るように、と」

第一章 筋書きは誰が書いた

第三十五話 公爵の弁

[王宮・会議の間 ヴィルヘルム]


 会議の間の扉が開くと、居並ぶ者たちの目が、いっせいにヴィルヘルムに向けられた。


 長い卓の奥、一段高い席に、国王ルートヴィヒ四世が座っている。

 その傍らに、宰相エーレンフェルス。

 卓の両側には、公爵、侯爵、財務卿と法務卿。

 王国の重みを背負う者たちが、ほとんど顔をそろえていた。


 卓の末席の前に立った。

 椅子は、用意されていなかった。


 それで、おおよそのことはわかった。

 ここは、意見を求められる場ではない。

 問われる場なのだ。


 覚悟は、昨夜のうちにできていた。


 屋敷に戻ると、カタリナが広間で待っていた。

 捜査から外されたことを、娘は淡々と告げた。

 泣きもせず、取り乱しもせず、ただ、申し訳ありません、と頭を下げた。

 謝るべきは、娘ではない。

 それを言ってやることさえ、昨夜の自分にはできなかった。


 今朝、屋敷を出るときには、ゾフィーが襟を直してくれた。


「そんな怖い顔で行ったら、陛下のほうが縮み上がってしまうわ」


 ヴィルヘルムは、何も答えなかった。

 ただ、門を出るまで、自分の眉間に手をやっていた。


 今も、きっと同じ顔をしているのだろう。

 ほんのわずかに眉を開いた。

 それから、背筋を伸ばしたまま、王に向かって深く頭を下げた。


     ◇


「では、始めます」


 宰相が、手もとの書類に目を落とした。

 眼鏡の奥の目は、いつもと同じように静かだった。


「ハーゼンバッハ伯が王家に納めた上納金を調べたところ、その銀貨に、多くの贋金が混じっておりました。財務卿」

「は」


 財務卿が、立ち上がって数字を読み上げた。

 国庫に残っていた銀貨の額。

 すでに俸給や費えとして払い出された額。

 そのどれもが、思っていたよりも、ずっと大きかった。


「贋金のもとは、ハーゼンバッハ領から送られた、銀の足りない延べ棒です。そして、その延べ棒を銀貨に打ったのは」


 宰相は、そこで一度言葉を切った。


「ヴァイスフェルト伯の鋳造所であることが、ほかならぬヴァイスフェルト伯ご自身の上奏書によって、明らかになっております」


 卓のまわりで、低いざわめきが起きた。


 黙って前を見ていた。

 すべて、自分で書いたことだ。

 今さら、驚くことは何もない。


     ◇


「……痛ましいことですな」


 やわらかな声が、ざわめきを鎮めた。


 ゴルトシュタイン公爵だった。

 王に近い席で、銀色の髪を整えた老人が、ゆっくりと身を乗り出す。

 その顔には、心から胸を痛めているような、沈んだ笑みが浮かんでいた。


「ヴァイスフェルトの家は、建国のころから、王の左腕として国を守ってきた家です。私も先代のヴァイスフェルト伯とは、長い付き合いでした」


 公爵は、ヴィルヘルムに目を向けた。


「ですから、私は、ヴァイスフェルト伯が贋金に手を貸したなどとは、露ほども思っておりません」


 そこで、公爵は小さくため息をついた。


「ただ、王宮の外では、そうは見ない者もおりましょう。延べ棒は、何年にもわたって、毎月、ヴァイスフェルト伯の鋳造所を通っていた。それほど長いあいだ、本当に誰ひとり気づかなかったのか。実は、とうに知っていて、寄子のしたことと目をつぶっていたのではないか。そして、ハーゼンバッハ伯の陞爵が決まり、所領の割譲まで決まったところで、にわかに訴え出た。……世間は、そう勘ぐるかもしれません」


 卓のまわりが、しんと静まり返った。


「私が言っているのではありませんよ。ただ、世間の口とは、そういうものです」


 公爵は、悲しげに首を振った。


「王国の盾が、王国を欺いたか。……そう言われては、ヴァイスフェルトの家名にも、陛下のご信任にも、傷がつきましょう」


     ◇


「公爵閣下のおっしゃるとおりだ」


 向かいの席の侯爵が、すぐに口を開いた。


「王家の国庫が、贋金で汚されたのですぞ。知らなかったと言われて、はいそうですかと信じられるものではない」


 すかさず、別の声が続いた。


「鋳造の許しは、王家の信任の証。その信任が裏切られた以上、許しを改めるべきでは」


 ほかの席からも、同じような声が上がった。

 一人が口を開くと、二人、三人と続く。

 声は、少しずつ大きくなっていった。


 公爵は、それを止めもせず、あおりもしなかった。

 ただ、穏やかな笑みを浮かべたまま、静かに耳を傾けているだけだった。


「お待ちください」


 宰相の声が、その場を断ち切った。


「ヴァイスフェルト伯は、自ら事の次第を上奏されたのです。贋金に手を貸した者が、自分の鋳造所の落ち度まで書き記すでしょうか。それに、学院の鑑定によれば、この贋金は、重さも見た目も本物と変わらない。並の検品で見抜けるものではございません」

「宰相閣下のお考えは、ごもっともです」


 公爵は、ゆったりとうなずいた。


「ですが、見抜けなかったことと、責めを負わずに済むことは、別の話でございましょう。王家の金庫が汚されたのです。誰かが、その責めを負わねばならない」


 公爵は、卓の上で指を組んだ。


「たとえば、鋳造の許しをしばらく王家に預け、信のおける家に鋳造所を任せてはいかがでしょう。ヴァイスフェルト伯の潔白が明らかになるまでの、あいだだけでも。それならば、世間の口も収まりましょう」


 いかにも、ヴァイスフェルトの家を案じるような口ぶりだった。

 同調する声が、またいくつか上がった。


 宰相は、口を閉ざした。

 これ以上かばえば、宰相までがヴァイスフェルトに肩入れしていると見られる。

 ヴィルヘルムには、その計算が手に取るようにわかった。


     ◇


「ヴァイスフェルト伯」


 宰相が、ヴィルヘルムに向き直った。


「何か、申し述べることはございますか」


 会議の間の目が、すべてヴィルヘルムに集まった。


 言うべきことなら、いくらでもあった。

 偽の延べ棒は、組合と伯爵が仕組んだものだ。

 当家の鋳造所の者たちは、何も知らずに銀貨を打っていた。

 偽りを知ったのは、娘からの知らせを受けたその日だ。

 知ってすぐに、調べを命じ、上奏した。


 だが、ヴィルヘルムの口からは、そのどれも出てこなかった。


 何年ものあいだ、偽りの銀が、当家の鋳造所を通っていた。

 王から預かった鋳造所で、王を欺く銀貨が打たれていた。

 それに気づけなかったのは、ほかの誰でもない、自分だ。


 ハーゼンバッハを前にして、自分は言った。

 私が許せぬのは、偽りだ、と。

 その偽りを、自分の家が、何年も見過ごしていたのだ。


「……ございません」


 静かに言った。


「鋳造所を預かる者として、偽りの銀を見抜けなかったのは、当家の落ち度です。いかなる沙汰も、お受けいたします」


 ざわめきが、ぴたりと止んだ。


 公爵が、ゆっくりと目を細めた。

 穏やかな笑みは、少しも崩れていなかった。


     ◇


 長い沈黙が、会議の間を満たした。


 顔を上げて、一段高い席を見た。


 王は、肘掛けを固く握りしめていた。

 その目が、ヴィルヘルムをまっすぐに見ている。

 何かを言おうとして、言えずにいる目だった。


 なぜ、弁明しない。

 その目は、そう問うているように見えた。


 何も答えなかった。

 ただ、王に向かって、もう一度深く頭を下げた。


 やがて、王が重い口を開いた。


「……ヴァイスフェルト伯には、追って沙汰を下す」

第一章 筋書きは誰が書いた

第三十六話 謹慎

[王都・ヴァイスフェルト家の屋敷の門の前 カタリナ]


 屋敷の門の前に、騎士が二人立っていた。


 見覚えのある顔だった。

 同じ詰め所で、何度かすれ違ったことがある。

 近づくと、二人は気まずそうに目を伏せ、黙って道を空けた。


 御前会議の翌日、王命が下った。

 ヴァイスフェルト伯は、沙汰が下るまで、王都の屋敷にて謹慎せよ。

 門の騎士は、その見張りだった。


 二人に会釈だけを返して、門をくぐった。

 何か言えば、きっと声が震える。


     ◇


 玄関の広間で、母が待っていた。


「おかえりなさい、カタリナ」


 母は、いつものようにおっとりと微笑んでいた。

 だが、目の下には、うっすらと疲れがにじんでいる。


「父上は」

「書斎よ。朝から、一度も座らないの」


 母は、困ったように首をかしげた。


「領地の書類も、使いの者も、ここへは届かないでしょう。あの人、手持ちぶさたなのよ。仕事をしていないと、落ち着かない人だから」

「……そうですね」

「書斎の本棚、もう三回並べ替えたのよ。最初は年代順、次は題名順。今は、背の高さ順ですって」


 こらえきれずに、少しだけ笑ってしまった。


「行ってあげて。私が行っても、大丈夫だ、しか言わないもの」


 母は、カタリナの肩にそっと手を置いた。


「あなたにも、きっと大丈夫だと言うわ。でも、私よりは少しだけ、ほかのことも言うと思うの」


     ◇


 書斎の扉を叩くと、短い返事があった。


 父は、窓辺に立っていた。

 背筋は、いつもと同じようにまっすぐだった。

 大きな机の上には、書類が一枚もない。

 それが、ひどく見慣れない光景だった。


「カタリナか」


 父が、振り返った。


 扉の前で立ち止まったまま、深く頭を下げた。


「父上。申し訳ありません」

「その言葉は、前にも聞いた」

「何度でも申し上げます。私が、ジルバータールから手紙を書かなければ。私が、事件をここまで大きくしなければ。父上が、こんな目に遭うことはなかったのです」


 返事は、なかった。


 頭を下げたまま、床の絨毯の模様を見つめていた。

 叱られるなら、それでいい。

 むしろ、叱ってほしかった。


「顔を上げろ」


 父の声は、静かだった。


 顔を上げると、父は、まっすぐにこちらを見ていた。


「お前は、正しいことをした」


     ◇


「でも――」

「あの手紙が届かなければ、偽りの銀貨は、今も当家の鋳造所で打たれていた。王家の国庫にも、市場にも、まだ流れ続けていた」


 父は、窓から離れて、机の前まで歩いてきた。


「もしお前が、家の名を守るために黙っていたなら。私は、お前を叱っていた。お前は、そうしなかった。それだけのことだ」

「ですが、父上は御前会議で、何ひとつ弁明なさらなかったと聞きました。父上は、何も知らなかったのに」

「知らなかった。だが、見抜けなかった」


 父は、空の机の上に、そっと手を置いた。


「鋳造所を預かっていたのは、私だ。偽りの銀が何年も通っていたのに、気づかなかったのも私だ。ハーゼンバッハに、偽りは許さぬと言った口で、自分の落ち度にだけ言い訳を並べるわけにはいかない」


 唇を噛んだ。


 父らしい、と思った。

 父らしすぎて、腹が立った。

 正しいことをした者が、正しいままで罰を受ける。

 それを、父は少しも疑っていない。


「……私も、盾の家の娘です」


 気がつくと、口を開いていた。


「父上が前に立てないのなら、私が立ちます。騎士として、この件の真相を――」

「ならん」


 父の声が、初めて強くなった。


     ◇


 言葉を失った。


 父は、しばらく黙っていた。

 それから、机に置いた自分の手に目を落とした。

 左の手の甲に、古い傷が一筋走っている。

 小さいころから、何度も見てきた傷だった。


 まだ背丈が父の腰ほどしかなかったころ、父は三人の娘に、剣の握り方を教えてくれた。

 姉たちと並んで木剣を振るカタリナの手を、あの傷のある手が、何度も握り直させた。

 家を継ぐかもしれないのだから、身を守る術は知っておけ。

 そう言いながら、父は一度も、娘たちを本物の戦場の話に近づけようとはしなかった。


「盾は、守るべきものの前に立つ。それが、ヴァイスフェルトの家の務めだ」


 父は、低い声で言った。


「だから、盾は、いつもいちばん先に傷を負う。私の前に立った者も、私が前に立った者も、大勢見てきた。戻ってこなかった者も、な」


 父の指が、手の甲の傷を、ゆっくりとなぞった。


「盾の家に生まれた者は、盾になることを選べない。私は、それでいいと思って生きてきた。だが、お前たちまで、そうなってほしいとは思わなかった」


 父の顔を見つめた。


 近衛へ行け、と言われるたびに、腹を立ててきた。

 娘を危ない目に遭わせたくないだけの、過保護な父だと思っていた。

 だが、父の目に映っていたのは、もっと別のものだったのかもしれない。

 この手の甲の傷を負った日に、父が何を見たのか。

 まだ一度も聞いたことがなかった。


「……父上」

「この件は、王家と騎士団に任せろ。お前は、捜査から外されたのだろう。ならば、それに従え」


 父は、もういつもの厳しい顔に戻っていた。


「それから、しばらく、ここへは来るな。お前まで、余計な目で見られる」

「そんな」

「心配はいらん。大丈夫だ」


 父は、そう言って、また窓のほうを向いた。


 母の言ったとおりだった。

 最後は、やはり、大丈夫だと言った。


     ◇


 玄関の広間では、母がまだ待っていた。


「どうだった?」

「大丈夫だ、と」

「ほらね」


 母は、小さく笑った。

 それから、カタリナの顔をのぞき込んだ。


「でも、それだけじゃなかったでしょう」


 カタリナは、黙ってうなずいた。

 それから、少し迷って、口を開いた。


「……母上。父上の、手の傷のことですが」

「あの人の手の傷のことなら、いつか本人から聞きなさい。私が話していいことじゃないから」

「母上は、ご存じなのですね」

「夫婦ですもの」


 母は、カタリナの乱れた前髪を、指先で直してくれた。


「お父様のことは、私に任せなさい。あなたは、あなたのことを考えるのよ」


     ◇


[夜の王都 カタリナ]


 屋敷を出ると、日はとうに暮れていた。


 門の騎士たちは、まだそこに立っていた。

 今度は会釈もせずに、その前を通り過ぎた。


 騎士団の宿舎へ戻るつもりだった。


 だが、大通りに出たところで、カタリナの足は、ふと止まった。


 ひとりの部屋に戻って、何をするというのだろう。

 眠れないまま、天井を見つめているだけだ。

 父の手の甲の傷と、母の疲れた笑顔と、門の騎士たちの伏せた目が、頭の中をぐるぐると回るだけだ。


 誰かと、話がしたかった。

 騎士でも、貴族でもない誰かと。


 気がつくと、大通りから一本入った細い道を歩いていた。


 その先に、琥珀色の灯りが見えた。

第一章 筋書きは誰が書いた

第三十七話 自分のせい

[王都・琥珀の灯亭 カタリナ]


 琥珀の灯亭の扉をくぐると、暖かな灯りと、焼いた肉の匂いが迎えてくれた。


 給仕が、カタリナの顔を見て、恭しく頭を下げる。

 店の奥のソファー席に目をやった。


 いた。


 身なりだけは上等なのに、どこか冴えない顔の男。

 葡萄酒の杯を片手に、鶏の焼き物と格闘している。

 シモン殿だった。


 ここへ来れば、この人がいるような気がしていた。

 初めて会ったのは、王都の大通りの雑踏だった。

 立派な服を着ているくせに、右も左もわからない顔で立ち尽くしていた男。

 放っておけずに、街を案内してやった。

 あのころは、自分のほうが話を聞いてもらう日が来るとは、思いもしなかった。


 向こうも、すぐにこちらに気づいた。

 口もとの脂をあわてて拭い、腰を浮かせる。


「カタリナさん」


 その、いつもと変わらない声を聞いた途端、膝の力が抜けそうになった。


     ◇


 給仕が、前と同じ個室を用意してくれた。


 葡萄酒を頼んだ。

 運ばれてきた杯を、今夜は一息では空けなかった。

 両手で包むように持ったまま、赤い水面を見つめていた。


 向かいでは、シモン殿が、持ってきた鶏の焼き物の皿を前に置いている。


「シモン殿は、いつもそれですね」

「これ、毎回ちょっとずつ味が違うんですよ。今日は、何だろうな……」


 シモン殿は、鶏を一切れ口に入れて、真剣な顔で首をひねった。

 カタリナは、気が抜けたように、少しだけ肩の力を抜いた。


 それきり、シモン殿は何も聞かなかった。

 ただ、向かいの席で、黙って待っていた。


「……父が、謹慎を命じられました」


 ようやく、それだけを言えた。


「謹慎、ですか」

「沙汰が下るまで、屋敷から出てはならない、と。門には、見張りの騎士が立っています。私と同じ詰め所の、顔見知りの騎士です」


 シモン殿の顔から、表情が消えた。


 カタリナは、杯に目を落としたまま、話し続けた。

 一度口を開くと、もう止まらなかった。


 上納金に、贋金が混じっていたこと。

 その贋金を打ったのが、父の鋳造所だったこと。

 御前会議で、父が何ひとつ弁明しなかったこと。

 騎士団で、自分が捜査から外されたこと。

 王宮の書記官に、騎士団より先に父に知らせたのはなぜかと、問われたこと。


     ◇


「私が、父に手紙を書いたのです」


 カタリナの声が、少しずつ低くなっていった。


「延べ棒の行き先が、父の鋳造所だとわかったとき。私は、真っ先に父に知らせた。騎士団より先に。父なら、正しく動いてくれると思ったから」


 杯を持つ指に、力がこもった。


「父は、そのとおりに動いてくれました。何ひとつ隠さずに。でも、その手紙が、今は、父が前から知っていたのではないかという疑いの種になっている。私が書いた手紙が、です」

「カタリナさん」

「前に、あなたは言ってくれましたね。踊らせているほうが悪いに決まっている、と」


 顔を上げた。


「あのとき、私は、少しだけ楽になりました。でも、違ったのです。踊らせている誰かを、私は捕まえることもできない。捕まえようとすることさえ、許されない。そのあいだに、父だけが、罰を受けようとしている」


 声が、震えた。


「私が、事件を大きくしなければ。父上が、こんな目に遭うことはなかった」


     ◇


 言ってしまうと、もう、止められなかった。


「私は、正しいことをしたつもりだった。銀貨が曇っていると聞いて、放っておけなかった。鉱夫が消えていると聞いて、放っておけなかった。父の鋳造所が使われていると知って、黙っていられなかった。……それの、何がいけなかったというのだ」


 言葉づかいが、崩れていた。

 平民の前では柔らかく話すようにと、ずっと気をつけてきたのに。

 自分の声が、自分のものではないように聞こえた。


「父上は、何も悪くない。偽りを何より嫌う人だ。その父上が、偽りに手を貸したと言われている。私のせいで。私が、あの手紙を書いたせいで……!」


 杯の中の葡萄酒が、小さく揺れた。


 慌てて目もとを押さえた。

 人前で泣くなど、ヴァイスフェルトの娘のすることではない。

 騎士のすることでもない。

 そう思うのに、目の奥の熱は、少しも引いてくれなかった。


「……すまない。いや、すみません。こんな話を、あなたにしても仕方がないのに」


 シモン殿は、何も言わなかった。


 慰めの言葉も、励ましの言葉もなかった。

 ただ、冴えない顔を、いつになく真剣にこわばらせて、じっとカタリナを見ていた。

 その目が、ひどく苦しそうに見えたのは、気のせいだったのだろうか。


     ◇


 しばらくして、シモン殿がぽつりと言った。


「……カタリナさんは、どうしたいんですか」


 カタリナは、目もとから手を離した。


「どう、とは」

「お父さんのために、です。何ができるかじゃなくて。何がしたいか」


 カタリナは、少しのあいだ考えた。

 それから、首を振った。


「わかりません。父を助けたい。それだけは、確かです。でも、父には、何もするなと言われました。騎士団の調査からも、外されました。私には、もう、何もできることがないのです」


 自分で口にして、その言葉の重さに気づいた。

 何もできない。

 騎士になって、初めて口にした言葉だった。


 シモン殿は、しばらく黙っていた。

 それから、膝の上で、ゆっくりと手を組んだ。


「……そうですか」


 それきり、シモン殿は何も言わなかった。


     ◇


 席を立ったのは、夜もすっかり更けてからだった。

 シモン殿は、店の前まで見送りに出てくれた。


「今夜は、ありがとうございました。話を聞いてくださって」


 店の前で、頭を下げた。

 言葉づかいは、もういつもの柔らかいものに戻っていた。


「少しは、楽になりましたか」

「はい。少しだけ」


 嘘ではなかった。

 胸の重さは、何ひとつ変わっていない。

 それでも、ひとりで天井を見つめているよりは、ずっとましだった。


「お気をつけて。……カタリナさん」

「はい」

「無茶は、しないでくださいね」


 小さく笑った。

 シモン殿にそんなことを言われるとは、思っていなかった。


「シモン殿こそ。夜道には、物騒な男が出るそうですから」


 そう言い残して、騎士団の宿舎のほうへと歩き出した。


     ◇


[琥珀の灯亭・個室 学]


 店に戻ると、個室の椅子にもう一度腰を下ろした。


 卓の上には、カタリナが残していった杯がある。

 半分ほど残った葡萄酒が、琥珀色の灯りを映して揺れていた。


 自分の杯を手に取った。

 だが、口には運ばなかった。


 私には、もう、何もできることがないのです。

 カタリナの声が、耳の奥に残っていた。

 あの真っすぐな娘が、そんなことを言うとは思わなかった。


「……マーナ?」


 卓の端で、モナが首をかしげた。


 学は、答えなかった。

 ただ、黙って、杯の中の赤い水面を見つめていた。

第一章 筋書きは誰が書いた

第三十八話 おっさんの決意

[王都・宿の部屋 学]


 宿の部屋に戻っても、寝台に横にならなかった。


 窓辺の椅子に腰かけて、夜の王都をぼんやりと眺める。

 通りの灯りは、ほとんど消えていた。

 遠くで、夜回りの騎士の足音が聞こえる。

 あの中に、カタリナの知り合いもいるのだろうか、と思った。


「ねえ、マーナ。寝ないの?」


 モナが、窓枠にちょこんと座って、学の顔をのぞき込んだ。


「……ああ。もう少し」

「さっきから、ずっと黙ってるじゃない。お酒も、ほとんど飲んでなかったし」

「飲む気分じゃなかったんだよ」


 窓の外から目を離さずに言った。


     ◇


 私には、もう、何もできることがないのです。


 カタリナの声が、まだ消えずにいた。


 初めて会ったときから、真っすぐな子だった。

 お上りさん丸出しの自分を見かねて、頼まれもしないのに街を案内してくれた。

 市場の両替商では、黒幕の姿の自分を本気でにらみつけてきた。

 ジルバータールでは、捕らわれた鉱夫たちを助けに、真っ先に製錬所へ踏み込んだと聞いた。

 この前の晩も、ほつれた髪のまま、それでも最後には騎士の顔に戻って帰っていった。


 その子が、泣きそうな顔で、何もできないと言った。


「……なあ、モナ」

「なに?」

「僕さ、正直、この事件のこと、ほとんどわかってないんだよな」


 指を折って数えはじめた。


「市場の銀貨が偽金だった。銀山で、偽の銀を作ってた。それを、伯爵が後ろで動かしてた。で、その後ろに、アレテイアとかいう秘密の会と、どっかの公爵がいるらしい。……で、なんでそれが、カタリナさんの父親が罰される話になってるんだ?」

「なんでかしらね」

「わかんないよな。僕にもわかんない」


 折った指をほどいた。


「全体がどうなってるのかなんて、僕にはさっぱりわからない。誰が本当の悪党なのかも、わからない。でもさ」


 窓の外の暗がりを見つめたまま、言った。


「あの子の父親が、偽金を作った悪党として裁かれる。それが、筋違いだってことくらいは、僕にもわかる」


     ◇


 前の職場のことを思い出していた。


 あるとき、大きな不具合が出た。

 原因は、上から降ってきた無茶な仕様だった。

 だが、責められたのは、それを言われたとおりに作った若手だった。

 それが筋違いだと知っていた。

 知っていて、何も言わなかった。


 面倒ごとに巻き込まれたくなかった。

 自分が言わなくても、誰かが言うだろうと思った。

 誰も言わなかった。

 その若手は、半年もしないうちに会社を辞めた。


 二十年近く、画面の中の部品ばかり作ってきた。

 誰かのために、何かを変えたことなど、一度もない。

 果ての大陸で十年、幻術を磨いて、ようやく何でもできる気になった。

 人間の街に来てからは、黒幕を気取って、面白そうな事件に首を突っ込んできた。


 全部、自分が楽しかったからだ。


「黒幕ごっこ、か」


 小さくつぶやいた。


 市場の両替商も、ジルバータールの製錬所も、伯爵の夜会も、騎士団の会議も。

 面白そうだから、顔を出した。

 意味ありげなことを言って、意味ありげに消えた。

 そのたびに、事件は大きくなった。

 その分だけ、あの子は、事件の真ん中へ押し出されていったのかもしれない。


 踊らせてるほうが悪いに決まってます。

 自分で言った言葉が、今さら胸に刺さった。


     ◇


「……モナ」


 椅子から立ち上がった。


「僕、あの子を助けたい」


 モナは、目を丸くした。


「今度は、面白そうだからじゃない。誰かのために、黒幕をやってみたいんだ。……そういうのって、黒幕っぽくないかな」

「ぜんぜん黒幕っぽくないわね」


 モナは、あっさりと言った。


「いや、そんなことないぞ。物語の黒幕ってのは、だいたい誰かのために動いてるもんなんだ。復讐のためとか、昔の仲間のためとか、生き別れの妹のためとか」

「マーナ、妹いないじゃない」

「たとえ話だよ」

「それに、そういう黒幕って、最後はだいたい負けるんじゃないの?」

「……負けないやつもいる。たぶん」


 モナは、くすりと笑った。


「でも、悪くないんじゃない?」


 そのとき、モナの顔に、ほんの一瞬だけ、ひどく懐かしそうな色が浮かんだ。

 遠い昔の、誰かを思い出しているような顔だった。


 何か言おうとしたときには、もう、いつものいたずらっぽい顔に戻っていた。


「で、何をするの? 黒幕さん」

「それなんだよな」


 頭をかいた。


「助けたいって言っても、何をどうすりゃいいのか、さっぱりだ。カタリナさんの父親の裁きが、いつ、どこであるのかも知らないし」

「それなら、知ってるわよ」


 モナは、窓枠の上で、ぶらぶらと足を揺らした。


「御前会議っていうの? 王様の前で、偉い人たちが集まって裁くやつ。五日後の朝、王宮の大広間よ」

「……なんで知ってるんだ、おまえ」

「暇なとき、王都をあちこち飛び回ってるもの。前にも言ったでしょ」


 モナは、なんでもないことのように言った。


「王宮って、面白いのよ。偉そうな人たちが、廊下の隅でひそひそ話してるの。王様は、あの子のお父さんを罪人にしたくないみたい。でも、銀色の髪のおじいさんが、穏やかな顔して、ずっと鋳造所を取り上げろって言ってるの。ほかの貴族も、それに乗っかってる感じね」

「……おまえ、本当によく見てるな」

「見てるだけよ。人間の偉い人たちって、見てて飽きないもの」


 学は、しばらくモナを見つめていた。

 それから、ふっと笑った。


「助かるよ、モナ」

「どういたしまして」


     ◇


 もう一度、窓の外を見た。


 夜の向こうに、王城の影が、黒々とそびえている。

 昼間に見れば、ただの大きな城だ。

 だが、夜に見ると、ずいぶんと高く、ずいぶんと遠く見えた。


 五日後。

 王宮の大広間。

 王と、偉い貴族たちと、カタリナの父親。


 腕を組んだ。


「……王宮って、警備どれくらい厳しいんだろうな」

第一章 筋書きは誰が書いた

第三十九話 前夜

[王宮のまわり 学]


 それから四日、毎日、王宮に通った。


 もちろん、姿は消してある。

 門の前に立ち、出入りする者たちを眺める。

 荷を運び込む商人、書類を抱えた役人、交代の時刻に入れ替わる衛兵たち。

 誰が、いつ、どの門から入って、どこへ向かうのか。


 前の職場でも、似たようなことはやった。

 画面を作る前に、まず、使う人間がどう動くのかを見る。

 どこで迷い、どこで手を止め、どこを素通りするのか。

 それがわかれば、どこに何を置けばいいのかも、おのずと見えてくる。


 一日目は、門を見た。

 二日目は、中庭を見た。

 三日目には、思い切って廊下の奥まで入り込み、壁際に張りついて、衛兵の足音を数えた。

 四日目は、大広間の扉の前で、半日を過ごした。


 廊下では、すぐ目の前を、書類を抱えた役人が通り過ぎていったときには、さすがに息が止まりかけた。


     ◇


[王都・宿の部屋 学]


「ねえマーナ。あたしが転移で連れてってあげれば、一瞬じゃない」


 四日目の夜、宿の部屋で、モナがあきれたように言った。


「毎日毎日、門の前で突っ立って。見てるこっちが退屈なんだけど」

「いいんだよ。これは、自分の幻術でやりたいんだ」


 紙に書きつけた図を眺めながら答えた。

 王宮の門の位置、衛兵の数、交代の時刻。

 大広間へ続く廊下と、その脇にある控えの間。

 四日かけて、ようやくここまで埋まった。


「なんでよ。楽なほうがいいでしょ」

「楽じゃ駄目なんだよ。今回は」


 ペンを置いた。


「今までの黒幕ごっこは、面白半分だった。でも、今回は、あの子のためにやるって決めたんだ。だったら、最後まで自分の力でやりたい。……おまえに運んでもらって、偉そうに出ていくのは、なんか違うだろ」


 モナは、しばらく黙って学を見ていた。

 それから、肩をすくめた。


「マーナって、変なところで頑固よね」

「知ってる」

「まあ、いいわ。あたしは、特等席で見物させてもらうから」


 モナは、くるりと宙で一回転した。


 学は、もう一度、図に目を落とした。

 大広間を守る衛兵たちは、みな同じ鎧に、同じ兜をかぶっている。

 顔は、兜の陰になって、ほとんど見えない。


「……あれなら、いけるな」


 小さくつぶやいた。


「で、台詞は?」


 モナが、学の肩に降りてきた。


「台詞?」

「黒幕なんだから、何か格好いいこと言うんでしょ。考えてあるの?」

「……いくつかは」

「聞かせて」

「やだよ。本番で言うから意味があるんだ」

「あの子のため、なんて言っておいて。格好つける気は満々じゃない」


 モナは、けらけらと笑った。

 学は、黙って図を畳んだ。

 耳が、少しだけ熱かった。


     ◇


[王都・ゴルトシュタイン公爵の屋敷 公爵]


 同じ夜。

 ローデリヒ・フォン・ゴルトシュタインは、書斎の椅子に深く身を沈めていた。


 卓の上には、葡萄酒の杯がひとつ。

 傍らの燭台が、銀色の髪をやわらかく照らしている。

 老人は、杯をゆっくりと揺らしながら、炎の向こうの暗がりを見つめていた。


 明日の朝、御前会議が開かれる。


 王は、ヴァイスフェルトをかばいたがっている。

 宰相も、会議では一度かばってみせた。

 腹の内は、王と同じだろう。

 だが、王家の国庫が汚されたという事実は、もう誰にも消せない。

 誰かが、その責めを負わねばならない。


 ヴィルヘルム・フォン・ヴァイスフェルトは、弁明をしなかった。

 あの男らしい、と思った。

 嘘を嫌い、偽りを嫌う。

 自らの落ち度を、一字も削らずに書いて差し出す。

 その実直さを、むしろ好ましく思っていた。


 だからこそ、明日も、あの男は弁明しないだろう。


 卓の引き出しから、一枚の銀貨を取り出した。

 燭台の明かりにかざして、ゆっくりと裏返す。

 王国のどこでも見かける、何の変哲もない銀貨だ。

 刻まれた意匠からは、どこで打たれたものかもわからない。


 銀貨を指先で弾いた。

 澄んだ音が、静かな書斎に小さく響いた。


 ヴァイスフェルトに罪をかぶせれば、すべてが片づく。

 鋳造所は、しかるべき家に移る。

 贋金の件は、ハーゼンバッハとヴァイスフェルトの不始末として、記録に残る。

 それで、終わりだ。


「……惜しい男だがな」


 穏やかな笑みを浮かべたまま、杯を口に運んだ。


     ◇


[王都・ヴァイスフェルト家の屋敷 ヴィルヘルム]


 同じ夜。

 書斎の窓辺に立っていた。


 謹慎を命じられてから、もう何日になるだろう。

 書類のない机にも、ようやく目が慣れてきた。


 窓の外には、王城の影が見える。

 明日の朝、自分はあの城の大広間に立つ。

 そして、裁きを受ける。


 罪状は、おおよそ見当がついていた。

 王から預かった鋳造所で、贋金を打った。

 王家の国庫を、偽りの銀で汚した。

 そのどれも、否定するつもりはなかった。

 知らなかったことは、見抜けなかったことの言い訳にはならない。


 扉が、静かに開いた。


「まだ起きていらしたのね」


 ゾフィーが、燭台を手に入ってきた。

 寝間着の上に、薄い肩掛けを羽織っている。


「眠れないの?」

「いや。少し、考えごとをしていただけだ」

「明日のこと?」

「ああ」


 ゾフィーは、夫の隣に並んで、同じ窓の外を見た。


「あなた、何を言われても、ございません、と言うつもりでしょう」


 ヴィルヘルムは、答えなかった。

 答えなくても、妻にはわかっている。


「あの子が、あなたのことをとても心配していたわ」

「……来るなと言ったのだがな」

「来るなと言われて、来ない子だと思う?」


 ゾフィーは、小さく笑った。


「あなたの娘よ」


 ヴィルヘルムは、左手の甲の傷に、そっと指を触れた。


 盾は、守るべきものの前に立つ。

 明日、自分が罪を受け入れれば、ヴァイスフェルトの家は傷を負う。

 だが、それで終わる。

 娘も、妻も、領地の民も、それ以上の矢を浴びずに済む。


 それが、今の自分にできる、ただ一つの盾の構え方だった。


「ゾフィー」

「なあに」

「カタリナを、頼む」


 ゾフィーは、何も言わずに、夫の肩にそっと頭を預けた。


     ◇


[王都・宿の部屋 学]


 夜は、静かに更けていった。


 宿の部屋で、灯りを消し、寝台に横になった。

 公爵の書斎で、最後の燭台の火が消えた。

 ヴァイスフェルトの屋敷で、夫婦は、窓辺に並んだまま夜を明かした。


 やがて、東の空が白みはじめた。


 王都の空に、王宮の鐘の音が、長く、重く鳴り響いた。


 御前会議の始まりを告げる鐘だった。

第一章 筋書きは誰が書いた

第四十話 反論はないか

[王宮・大広間 王]


 大広間の玉座から見下ろすと、居並ぶ者たちの顔が、よく見えた。


 ルートヴィヒ四世は、肘掛けに手を置いたまま、ゆっくりと広間を見渡した。


 左右に並ぶ公爵、侯爵、伯爵たち。

 その奥の傍聴の席には、王都に居合わせた貴族や、その名代たちが詰めかけている。

 壁際には、同じ鎧に同じ兜をかぶった衛兵たちが、等間隔に並んでいた。

 王国を動かす者たちが、ひとつの広間に残らず集められていた。


 そして、広間の中央。

 椅子のない場所に、ヴィルヘルム・フォン・ヴァイスフェルトが立っていた。


 背筋は、まっすぐだった。

 謹慎の数日で、いくらかやつれたように見えるが、顔色は落ち着いている。

 目は、静かに玉座を見上げていた。


 あの目だ、と思った。

 父親に、よく似ている。


     ◇


 まだ王太子だったころ、ヴァイスフェルトの先代は、自分の剣の師だった。


 厳しい男だった。

 王子であろうと、手加減というものをしなかった。

 木剣で何度も打ち据えられ、何度も地面に転がされた。

 泣き言を言えば、さらに打たれた。


 だが、一度だけ、先代が王太子の前に膝をついたことがある。


 若い王太子が、取り巻きの言葉を鵜呑みにして、ある家臣を罰しようとしたときだった。

 先代は、王太子の前に進み出て、膝をつき、深く頭を下げた。

 殿下、その者は罪を犯しておりません。

 罰するのであれば、まず私を罰してから、になさいませ。


 その日のことを、今も忘れていない。

 あのとき、自分は、恥ずかしさで顔を上げられなかった。

 そして、生涯、この家を信じようと決めたのだ。


 その家の当主が、今、罪人として広間の中央に立っている。


     ◇


「始めよ」


 王の言葉に、宰相エーレンフェルスが一礼し、法務卿を促した。


 法務卿が、手もとの書状を広げた。


 中肉中背の、五十を半ば過ぎた男だ。

 肩まである髪を、すべて後ろへ流している。

 鋭い目が、書状の文字だけを追っていた。

 この男が信じるのは、正義でも忠義でもなく、法典の条文だけだ。

 王の情も、家の名も、その読み上げを一字たりとも変えはしない。


 よく通る声が、広間に響きはじめる。


「ヴィルヘルム・フォン・ヴァイスフェルト。王より銀貨の鋳造を許された者として、その鋳造所において、銀の足りぬ延べ棒を銀貨に打ち、世に流したこと」


 傍聴の席が、かすかにざわめいた。


「その銀貨が、ハーゼンバッハの上納金として王家に納められ、王家の国庫を汚したこと」


 ざわめきが、少し大きくなった。


「その延べ棒が、何年にもわたって鋳造所を通っていながら、これを見抜けず、また止めなかったこと。寄親として、寄子ハーゼンバッハの所業を知り得る立場にありながら、これを正さなかったこと」


 法務卿は、一つひとつ、淡々と読み上げていった。


 黙ってそれを聞いていた。


 どれも、事実ではあった。

 だが、事実を並べただけで、こうも違う絵ができあがるものか。

 読み上げられるたびに、ヴィルヘルムは、まるで贋金の作り手のように見えてくる。


 玉座に近い席で、ゴルトシュタイン公爵が、目を伏せて静かに耳を傾けていた。

 その穏やかな顔からは、何も読み取れなかった。


     ◇


「――以上が、ヴァイスフェルト伯の罪状でございます。いずれも法典に照らし、条文に違うところはございません」


 法務卿が、書状を巻いた。


 広間が、しんと静まり返った。


 ヴィルヘルムを見た。

 ヴィルヘルムは、ただ黙って、まっすぐに立っていた。


「ヴィルヘルム」


 名で呼んだ。

 伯、とは呼ばなかった。

 広間のいくつかの顔が、わずかにこわばるのがわかった。


「今の罪状を、聞いたな」

「は」

「そなたは、贋金のことを知らなかった。延べ棒の偽りに気づいたのは、娘からの知らせを受けてからだ。そうであろう」

「さようにございます」

「そして、知ったその日に調べを命じ、余に上奏した。自らの鋳造所の落ち度まで、一字も削らずに」

「は」


 王は、肘掛けを握る手に、力を込めた。


 言え、と思った。

 知らなかったと言え。

 偽ったのはハーゼンバッハであり、自分は欺かれた側だと言え。

 寄親として正さなかったと言うなら、寄親を飛び越えての陞爵を許したのは、ほかならぬ余だと言え。


 一言でいい。

 その一言があれば、余は、そなたを罪人にせずに済む。


「ヴィルヘルム・フォン・ヴァイスフェルト」


 王の声が、広間に響いた。


「……反論は、ないか」


     ◇


 広間じゅうの目が、ヴィルヘルムに集まった。


 傍聴の席の一角で、黒髪の娘が、身を乗り出すのが見えた。

 騎士服のまま、両手を胸の前で固く握りしめている。

 切れ長の目もとが、父親によく似ている。

 ヴィルヘルムの娘だ、と気づいた。


 ヴィルヘルムは、もう一度、玉座を見上げた。

 そして、ゆっくりと、頭を下げた。


「ございません」


 声は、少しも揺れていなかった。


「鋳造所を預かる者として、偽りを見抜けなかったのは、私の落ち度でございます。陛下の信任を汚した罪、いかようにもお裁きください」


 王は、目を閉じた。


 先代も、こういう男だった。

 自分の身を守るためには、決して頭を下げない。

 だが、誰かをかばうため、自分の落ち度を認めるためなら、いくらでも頭を下げる。


 その血を受け継いだ男が、今、余の前で頭を下げている。


 長い息を吐いた。

 目を開けると、宰相が、何も言わずにこちらを見ていた。

 宰相にも、もう打つ手はないのだ。


「……よかろう」


 苦い言葉を、喉の奥から押し出した。


「ヴィルヘルム・フォン・ヴァイスフェルト。そなたに、沙汰を申し渡す。そなたの――」


 そのときだった。


 広間の壁際から、くつくつと、笑い声が聞こえた。


 場違いな、ひどく楽しげな笑い声だった。


 広間じゅうの顔が、いっせいにそちらを向いた。


 壁際に並んだ衛兵の一人が、肩を震わせて笑っていた。

 兜の下から、こらえきれない笑い声が漏れている。


 その衛兵は、笑いながら、ゆっくりと列から一歩、歩み出た。

第一章 筋書きは誰が書いた

第四十一話 出来のいい喜劇

[王宮・大広間の傍聴席 カタリナ]


 ございません、と父は言った。


 傍聴の席の一角で、その声を聞いていた。


 この件には関わるな、と言われていた。

 それでも、来ずにはいられなかった。

 騎士服のまま、名代たちの列の端に紛れ込み、ずっと父の背中を見つめていた。


 父は、一度も振り返らなかった。

 背筋をまっすぐに伸ばしたまま、陛下の問いに、ございません、と答えた。


 わかっていた。

 父は、きっとそう答える。

 それでも、ほんの少しだけ、期待していたのだ。

 父が、知らなかったと一言だけ口にしてくれることを。


 両手を胸の前で握りしめたまま、玉座の陛下の口が開くのを見ていた。

 沙汰が、下される。

 父の名が、贋金の罪とともに、王国の記録に刻まれる。


「ヴィルヘルム・フォン・ヴァイスフェルト。そなたに、沙汰を申し渡す。そなたの――」


 そのときだった。


     ◇


 くつくつと、笑い声が聞こえた。


 耳を疑った。

 この場で、笑う者がいる。

 陛下が沙汰を申し渡そうとしている、この大広間で。


 広間じゅうの顔が、壁際へ向いた。


 並んだ衛兵の一人が、肩を震わせていた。

 兜の下から、こらえきれない笑い声が漏れている。

 隣の衛兵たちが、ぎょっとしたように、その衛兵を見た。


 衛兵は、笑いながら、列から一歩、歩み出た。


「失礼」


 衛兵が言った。


 兜にこもった声のはずなのに、その声は、広間の隅々まで、はっきりと届いた。


「あまりに出来のいい喜劇だったもので、つい笑ってしまった」


 カタリナの背筋が、ぞくりと粟立った。


 その声を、知っている。


     ◇


 衛兵の輪郭が、揺らいだ。


 鈍い色の鎧が、水に溶けるように崩れていく。

 兜が消え、その下から、撫でつけた艶のある黒髪が現れた。

 白く冷たい顔立ち。

 切れ長の目。

 差し込む光を映して、赤い瞳が光る。


 鎧の代わりに、夜のように深い色の外套が、その肩を包んでいた。

 襟もとの銀糸の刺繍が、窓から差し込む朝の光を受けて、かすかにきらめく。

 外套の色は、光の加減で、深い藍にも、黒にも、紫にも見えた。


 そこに立っていたのは、もう衛兵ではなかった。


「……あなたは」


 カタリナの唇から、かすれた声がこぼれた。


 市場の両替商で。

 ジルバータールの製錬所の裏で。

 ハーゼンバッハの夜会で。

 騎士団の捜査会議で。


 何度も現れ、何度も消えた、あの男だった。


 どうして、ここに。

 王宮の、それも御前会議の大広間に。

 衛兵の姿で、陛下の目の前に。

 この男には、本当に、入れない場所などないのか。


     ◇


 一瞬の静寂のあと、広間が爆ぜるように騒然となった。


「な、何者だ!」

「衛兵! 衛兵は何をしている!」


 貴族たちが、口々に叫びながら立ち上がった。

 傍聴の席でも、名代たちが椅子を蹴って後ずさる。

 悲鳴を上げた貴婦人が、隣の者の腕にしがみついた。


「あの男……あの夜会の……」


 傍聴の席のどこかで、誰かがかすれた声を上げた。


「ナハトラーベ……!」


 その名が、さざ波のように広間に広がっていった。

 王族預かりの、空位の爵位。

 かつて王国の暗部を束ねた、夜の鴉の家名。

 夜会に居合わせた者たちの顔から、さっと血の気が引いていくのがわかった。


 壁際の衛兵たちが、ようやく我に返って剣の柄に手をかけた。

 だが、誰も抜かなかった。


 今の今まで、自分たちの隣に並んでいた男だ。

 いつから紛れ込んでいたのか。

 ほかにも、仲間の顔をした誰かがいるのではないか。

 衛兵たちは、互いの兜を、疑わしげに見交わしていた。


 男は、そのすべてを、面白そうに眺めていた。


     ◇


 玉座を見た。


 陛下は、立ち上がってはいなかった。

 肘掛けを握りしめたまま、身じろぎもせずに、男を見つめている。

 その傍らで、宰相が、眼鏡の奥の目を細めていた。


 玉座に近い席では、ゴルトシュタイン公爵が、穏やかな笑みを浮かべたまま座っていた。

 だが、その笑みは、さっきまでよりも、わずかに硬いように見えた。


 そして、広間の中央。


 父が、初めて、ゆっくりと後ろを振り返っていた。

 その目が、壁際の男を見て、それから、傍聴の席のカタリナを見つけた。

 父の目が、わずかに見開かれた。


 関わるなと言ったはずだ、と言われる気がした。

 だが、父は何も言わなかった。

 ただ、驚いたようにカタリナを見て、それから、もう一度、男のほうへ目を戻した。


     ◇


 男は、広間の騒ぎなど、まるで耳に入っていないようだった。


 外套の裾を軽く払い、襟もとを直す。

 それから、玉座に向かって、優雅に一礼した。


「陛下。お騒がせをいたしました」


 声は、穏やかだった。

 だが、その穏やかさが、広間のざわめきを、一つずつ押しつぶしていった。


「ですが、どうかお許しを。ここから先の筋書きは、少しばかり書き換えさせていただきたいのです」


 誰も、答えなかった。

 答えられる者は、いなかった。


 男は、顔を上げた。

 赤い瞳が、広間をゆっくりと見渡した。

 居並ぶ貴族たちを。

 宰相を。

 玉座の陛下を。


 そして、最後に、ほんの一瞬だけ、傍聴の席のカタリナを。


 その唇の端が、かすかに吊り上がった。


 男は、一歩、また一歩と、広間の中央へ向かって、ゆっくりと歩みを進めはじめた。

第一章 筋書きは誰が書いた

第四十二話 おっかなびっくり

[王宮・通用門の前 学]


 時は、少しさかのぼる。


 その朝、鐘が鳴るより半刻ほど前。

 王宮の通用門の前に立っていた。


 もちろん、姿は消してある。

 ハーゼンバッハの私室に忍び込んだときと、同じやり方だ。

 自分の姿を消し、足音を消し、扉の開け閉めも幻術でごまかす。

 理屈の上では、誰にも気づかれずに、どこへでも入り込める。


 理屈の上では。


「……なあ、モナ」

「なに?」

「僕、今、ちゃんと消えてるよな」

「消えてるわよ。何回聞くのよ」


 耳もとで、モナがあきれたように言った。


「四日も下見したんでしょ。今さら怖じ気づいてどうするのよ」

「下見と本番は違うんだよ。前の職場でも、本番の日だけは、なぜか必ず何か起きたんだ」


 深く息を吸った。

 それから、荷を運び込む商人の後ろにぴたりとついて、通用門をくぐった。


     ◇


[王宮の廊下 学]


 王宮の廊下は、思っていたよりもずっと人が多かった。


 御前会議の朝だからだろう。

 書類を抱えた役人が小走りに行き交い、侍女たちが銀の盆を手に通り過ぎる。

 角を曲がるたびに、誰かとぶつかりそうになった。


 一度目は、役人だった。

 曲がり角の向こうから、書類の山を抱えて飛び出してきた。

 学は、壁にへばりついて、どうにかやり過ごした。

 書類の端が、鼻先をかすめていった。


 二度目は、衛兵だった。

 二人並んで、まっすぐこちらへ歩いてくる。

 廊下は狭く、よける場所がない。

 とっさに柱の陰に体をねじ込んだ。

 衛兵の肘が、外套の袖をかすめた。


「……ん?」


 衛兵の一人が、足を止めた。

 学は、息を止めた。


「どうした」

「いや、今、何かに触れたような」

「寝ぼけてるのか。急ぐぞ、交代に遅れる」


 二人の足音が、遠ざかっていった。


 柱の陰で、ずるずるとしゃがみ込んだ。


「……心臓が、口から出るかと思った」

「あはははは! 今の顔! 見せたかったわ、あんたに!」

「見えないだろ、僕の顔は」


 モナは、宙で転げまわっていた。


     ◇


 三度目は、笑いごとでは済まなかった。


 大広間へ続く廊下の手前で、いきなり扉が開いた。

 中から出てきたのは、銀色の髪の老人だった。

 穏やかな顔で、付き人と何か話しながら、まっすぐ学のほうへ歩いてくる。


 モナの言っていた、「銀色の髪のおじいさん」か?


 壁際に張りついた。

 老人は、学のすぐ前を通り過ぎていった。

 ほんの一瞬、老人の目が、学のいる壁のほうを向いた気がした。

 だが、老人はそのまま、何事もなかったように歩み去った。


 しばらくその背中を見送っていた。


「……気のせい、だよな」

「気のせいよ。あたしならともかく、ふつうの人間に、あんたの姿が見えるわけないじゃない」

「だよな」


 額の汗を拭った。

 妙に、背中が冷たかった。


     ◇


[大広間脇・衛兵の控えの間 学]


 大広間の脇には、衛兵たちの控えの間がある。

 四日間の下見で、ここだけは何度も見に来ていた。


 御前会議の警備につく衛兵は、ここで鎧を整え、兜をかぶってから、広間の壁際に並ぶ。

 みな同じ鎧に、同じ兜。

 顔は、兜の陰でほとんど見えない。


 控えの間の隅で息をひそめた。

 衛兵たちが、一人、また一人と身支度を終えて出ていく。


 最後に残ったのは、まだ若い衛兵だった。

 寝坊でもしたのか、慌てて鎧の留め金と格闘している。


 ごめんな、と心の中で手を合わせた。


 衛兵が、兜を手に取った。

 頭にかぶろうとした、そのときだった。


 兜の内側から、何かが、もぞりと這い出してきた。


 手のひらほどもある、黒光りする百足だった。

 無数の脚が、衛兵の指を、手首を、ざわざわと這い上がっていく。

 その感触まで、肌にはっきりと伝わっていた。


 衛兵の顔が、引きつった。

 百足は、腕を駆け上がり、首筋を伝って、あっという間に顎の下までたどり着いた。

 悲鳴を上げようと開いた口の中へ、そのまま、ぬるりと潜り込む。


 その瞬間に合わせて、廊下の先へもう一つ幻術を放った。


 扉の向こうで、けたたましい音が弾けた。

 銀の盆が石の床に叩きつけられ、器が砕け散る音。

 それに重なって、侍女の甲高い悲鳴。

 衛兵の喉から絞り出された叫び声は、その騒ぎに、きれいにかき消された。


 舌の上で、無数の脚がうごめく。

 喉の奥へ、奥へと、冷たいものが這い下りていく。


 衛兵は、白目をむいた。

 鎧の音を立てて床に崩れ落ちたが、その音も、廊下の騒ぎに紛れて消えた。


「おい、誰か盆を落としたぞ!」

「またか。今朝は、みんな気が立ってるな」


 廊下の向こうで、衛兵たちの笑い声が上がり、やがて遠ざかっていった。

 もちろん、盆を落とした侍女など、どこにもいない。


「……よし、うまくいった」


 床に伸びた衛兵を見下ろした。

 白目をむいたまま、口の端から泡を吹いている。

 狙いどおりではあった。

 だが、いくらなんでも、百足を飲ませることはなかったかもしれない。


「……ちょっと、かわいそうだったな」

「あんた、人を気絶させる才能だけはあるわよね」

「褒めてないだろ、それ」


 衛兵を部屋の隅の物入れまで引きずっていき、そっと寝かせた。

 手足を縛り、口に手ぬぐいを噛ませる。

 最後に、物入れの扉の前に、何もない壁の幻を一枚かぶせておいた。

 これで、自分がこの場を離れても、誰も気づかない。


 それから、深く息を吸った。


「――表示」


 学の姿が、揺らいだ。

 鈍い色の鎧が、肩を、胸を、腕を覆っていく。

 最後に、頭の上に、同じ兜が現れた。


 控えの間の小さな鏡に、どこにでもいる衛兵が一人、映っていた。


     ◇


[王宮・大広間の壁際 学]


 大広間の壁際は、思ったよりも居心地が悪かった。


 両隣には、本物の衛兵たちが立っている。

 誰も口をきかない。

 身じろぎもしない。

 それにならって、兜の下で前だけを見つめた。


 やがて、鐘が鳴った。

 御前会議が、始まった。


 罪状が読み上げられるあいだ、何度も飛び出しそうになった。

 寄親として正さなかったこと、と聞いたときには、拳を握りしめた。

 だが、まだだ、と自分に言い聞かせた。


 出るなら、いちばん効く瞬間だ。

 物語の黒幕は、いつだって、いちばん肝心なところで現れる。


 傍聴の席の端に、見慣れたポニーテールが見えた。

 両手を胸の前で握りしめて、父親の背中を見つめている。

 兜の下で、奥歯を噛みしめた。


 反論は、ないか。

 王が、そう問うた。


 ございません。

 カタリナの父親は、そう答えた。


 その瞬間、学の喉の奥から、何かがこみ上げてきた。


 怒りなのか、悔しさなのか、自分でもよくわからなかった。

 ただ、あまりにも、筋書きがひどすぎた。

 正しいことをした娘と、正直に頭を下げた父親が、そろって悪役にされていく。

 誰がこんな筋書きを書いたのか知らないが、出来がよすぎて、笑うしかなかった。


 だから、笑った。


 膝はまだ震えていた。

 だから最初は、引きつった笑いだった。

 それが、自分でも驚くほど、楽しげな笑い声になって、広間に響いた。


     ◇


 そして、今。


 広間の中央へ向かって、ゆっくりと歩いていた。


 一歩ごとに、居並ぶ貴族たちの視線が突き刺さる。

 兜はもうない。

 姿を隠すものは、何もない。

 膝は、まだ少し震えている。

 だが、外套の裾が、うまくそれを隠してくれていた。


 耳もとで、モナがささやいた。


「特等席、もらったわよ。マーナ」


 学は、答えなかった。


 広間の中央、ヴィルヘルムの少し手前で、足を止めた。

第一章 筋書きは誰が書いた

第四十三話 盾と矢

[王宮・大広間 ヴィルヘルム]


 男は、ヴィルヘルムの数歩手前で足を止めた。


 近くで見ると、思っていたよりも若い。

 三十を少し過ぎたほどに見える。

 だが、その立ち姿には、妙に年を経た落ち着きがあった。

 夜のように深い色の外套が、窓からの光を受けて、ゆらりと色を変える。


 男を見据えたまま、身じろぎもしなかった。


 噂には、聞いていた。

 市場の両替商に現れ、ジルバータールの製錬所に現れ、ハーゼンバッハの夜会に現れた男。

 ナハトラーベの名を名乗り、騎士団の会議にまで紛れ込んだという男。

 娘の報告の中に、何度も出てきた男だ。


 その男が、今、自分の目の前に立っている。

 そして、自分には目もくれず、玉座のほうを向いていた。


     ◇


「さて」


 男は、広間をゆっくりと見渡した。


「せっかくの喜劇に水を差したのですから、せめて、どこが可笑しかったのかくらいは、ご説明しなければなりませんね」


 誰も、口を開かなかった。

 衛兵たちでさえ、剣の柄に手をかけたまま、動けずにいる。


「この件の始まりを、思い出していただきたい」


 男の声は、穏やかだった。

 大きな声ではないのに、誰の耳にもはっきりと届いた。


「市場の銀貨が、少し曇っていた。それに気づいて、放っておけなかった騎士がいた。鉱山町で、鉱夫たちが消えていた。それを放っておけなかった騎士がいた。そして、偽りの銀の行き先が、自分の家の鋳造所だと知ったとき、黙っていられなかった騎士がいた」


 ヴィルヘルムは、息をのんだ。


「同じ騎士です。ヴァイスフェルトの娘ですよ」


 傍聴の席が、ざわめいた。


 男は、そのざわめきを、楽しむように聞いていた。


「その娘は、家の名に傷がつくと知りながら、父に知らせた。父は、それを受けて、自らの家の落ち度まで一字も削らずに書き記し、陛下に差し出した。この件を暴いたのは、ほかならぬ、ヴァイスフェルトの家なのです」


 男は、そこで小さく首をかしげた。


「その家を、真犯人として裁く。……これが喜劇でなくて、何だというのでしょう」


     ◇


「ふざけるな!」


 侯爵の一人が、席から立ち上がった。


「何者とも知れぬ賊が、陛下の御前で何を――」

「では、伺いましょう」


 男は、侯爵のほうを見もせずに言った。


「ヴァイスフェルト伯が、贋金の作り手だったとして。なぜ、わざわざ自分の鋳造所の名を、陛下に差し出す必要があったのです。黙っていれば、どこで打たれた銀貨か、誰にもわからなかったものを」


 侯爵は、口を開けたまま、言葉に詰まった。


「知っていて黙っていたのなら、最後まで黙っていればよかった。知らずに欺かれたからこそ、知ったその日に、すべてを差し出したのでしょう。子どもでもわかる理屈です」


 男は、ゆっくりと広間の中央を歩いた。

 外套の裾が、石の床をかすかに擦る。


「それとも、この国では、正直者ほど重く罰せられるのですか」


 誰も、答えなかった。


 男の背中を見つめていた。


 証拠らしい証拠は、何ひとつ出していない。

 帳簿も、鑑定書も、何も示していない。

 ただ、この件の成り行きを、順に並べ直しただけだ。

 それだけで、法務卿が読み上げた罪状とは、まるで違う絵が浮かび上がってくる。


     ◇


 男は、ふと足を止めた。


 それから、初めて、ヴィルヘルムのほうへ顔を向けた。


 赤い瞳が、まっすぐにヴィルヘルムを見た。

 その目を見返した。


 不思議な目だった。

 冷たく、底が知れない。

 だが、どこかに、ひどく人間くさいものが混じっている気がした。


「貴方も、貴方ですよ。ヴァイスフェルト伯」


 男は、静かに言った。


「ございません、とは。正直は美徳ですが、時と場所を選びたまえ。貴方が黙って罪をかぶれば、それで済むとでも思ったのですか。貴方の娘は、父の潔白を信じて、今もあそこで手を握りしめているというのに」


 男の目が、傍聴の席へと流れた。


 思わず、その視線を追った。

 傍聴の席の端で、カタリナが、両手を胸の前で握りしめたまま、こちらを見ていた。

 青い瞳が、大きく見開かれている。


「それに、この先、近衛になど入ったら、あの娘は一体どうなってしまうのでしょうね。贋金を打った家の娘と、王宮じゅうで後ろ指をさされながら」


 ヴィルヘルムは、言葉を失った。


 この男は、何者だ。

 なぜ、娘のことを、これほど知っている。

 近衛のことまで。

 あの話は、家の外には、ほとんど漏らしていないはずだ。

 なぜ、ヴァイスフェルトの名誉を、娘の名誉を、守ろうとする。


 見知らぬ男だ。

 騎士団が追っている、得体の知れない男だ。

 その男が、王の御前で、ヴァイスフェルトの娘の正しさを説いている。

 ありがたいと思うべきなのか、恐ろしいと思うべきなのか、ヴィルヘルムにはわからなかった。


     ◇


 男は、もう一度、玉座へ向き直った。


 そして、芝居がかった仕草で、両手を広げた。


「盾を構えて矢を受け止めた者を、矢を放った罪で裁く」


 その声が、高い天井に響いた。


「この国の裁きは、ずいぶんと独創的だな」


 広間が、静まり返った。


 自分の左手を見た。

 手の甲の古い傷が、なぜか、うずくような気がした。


 盾は、守るべきものの前に立つ。

 そして、いちばん先に傷を負う。

 それでいいと、ずっと思ってきた。

 傷を負った盾を、誰かが見ていてくれることなど、考えたこともなかった。


 玉座の王が、肘掛けを握りしめたまま、身を乗り出しかけていた。

 宰相が、何かを言おうとして、口を開きかけた。


 だが、それより先に、玉座に近い席で、椅子が鋭く鳴った。


 ゴルトシュタイン公爵が、立ち上がっていた。

 穏やかな笑みは、もうどこにもなかった。


「衛兵、何をしている!」


 老人とは思えぬ声が、広間を打った。


「賊を捕らえよ!」

第一章 筋書きは誰が書いた

第四十四話 水球

[王宮・大広間 衛兵の一人]


 賊を捕らえよ。


 公爵閣下の声が、大広間に響き渡った。


 衛兵長は、その声で我に返った。


 二十年、王宮の警備に就いてきた。

 御前会議の壁際に立つのも、もう何度目かわからない。

 だが、陛下の御前に賊が現れたことなど、一度もなかった。

 それも、自分の部下の列の中から。


 恥だ、と思った。

 この賊を取り逃がせば、王宮の衛兵の名は地に落ちる。


「かかれ!」


 衛兵長は、剣を抜き放った。


 その声を合図に、壁際の衛兵たちが、いっせいに動いた。

 十人を超える衛兵が、四方から広間の中央の男へと殺到する。

 鎧が鳴り、靴音が石の床を打った。

 傍聴の席で、誰かが悲鳴を上げた。


     ◇


 男は、動かなかった。


 広間の中央に立ったまま、迫ってくる衛兵たちを、面白そうに眺めている。

 逃げるそぶりも、構えるそぶりもない。

 ただ、右手を、ゆっくりと胸の前に持ち上げた。


 衛兵長は、男との間合いを詰めた。

 あと五歩。

 あと三歩。


 男が、指を鳴らした。


 乾いた音が、広間に響いた。


 その瞬間、衛兵長の視界が、ぐにゃりと歪んだ。


     ◇


 水だった。


 頭が、すっぽりと水の玉に包まれていた。

 兜ごと、冷たい水の中に沈められている。

 目の前が、青く揺らいでいる。

 耳の奥で、ごぼごぼと泡の音が鳴った。


 水球。


 よくある魔法だ。

 水の玉を作って、撃ち出すだけの魔法。

 大きさや勢いを変えることはできても、それ以上のことはできないはずだった。

 それが、人の頭を包み込んで、離れない。


 息が、できない。


 衛兵長は、剣を取り落とした。

 両手で頭の水を掻きむしる。

 だが、指は水をすり抜けるばかりで、水の玉は少しも崩れなかった。


 肺が、焼けるように熱い。

 吸おうとすれば、水が流れ込んでくる。

 吸わずにいれば、胸が破れそうになる。


 歪んだ視界の向こうで、部下たちが、次々と膝をついていくのが見えた。

 誰もが、自分と同じように、頭を水の玉に包まれている。

 もがき、喉を掻きむしり、床に倒れ込んでいく。


 衛兵長も、膝をついた。

 石の床の冷たさが、遠かった。


 ここで、死ぬのか。

 陛下の御前で、賊一人取り押さえられずに。


 視界の端が、暗くなっていく。


     ◇


[王宮・大広間の中央 学]


 広間の中央で、背中にびっしょりと汗をかいていた。


 衛兵たちが、次々と倒れていく。

 喉を掻きむしり、床をのたうち、やがて動かなくなる。

 自分でやったことなのに、見ているだけで息が詰まりそうだった。


 大丈夫だ、とモナは言っていた。

 幻術で人は死なない。

 苦しいと思い込んで、気を失うだけ。

 目を覚ませば、何ともない。


 何度も聞いた話だ。

 理屈は、わかっている。

 わかっていても、膝の震えは止まらなかった。


 倒れずに残っているのは、膝をついた衛兵が、一人だけになった。

 その衛兵の肩も、もう大きく揺れている。


 これ以上は、いらない。

 すぐに幻術を解いた。


「……よくできました、マーナ」


 耳もとで、モナがささやいた。

 学は、答えなかった。

 答える余裕が、なかった。


     ◇


[王宮・大広間 衛兵の一人]


 ふいに、息が吸えた。


 衛兵長は、床に手をついたまま、激しく咳き込んだ。

 喉が、ひゅうひゅうと鳴る。

 肺に、空気が流れ込んでくる。


 水が、消えていた。


 衛兵長は、震える手で、自分の兜に触れた。

 濡れていない。

 顔も、髪も、鎧のすき間も。

 あれほどの水に沈められていたはずなのに、一滴の水も残っていなかった。


 魔法の水は、解ければ消える。

 誰もが知っている、当たり前のことだ。

 だが、今は、その当たり前が、ひどく恐ろしかった。


 衛兵長は、床に手をついたまま、周りを見回した。


 部下たちが、広間の床に倒れていた。

 十人を超える衛兵が、一人残らず。

 胸は、かすかに上下している。

 気を失っているだけだ。

 だが、誰一人として、起き上がる者はいなかった。


 立っているのは、自分だけだった。

 いや、膝をついているのだから、立ってさえいない。


 広間は、静まり返っていた。

 貴族たちは、席から腰を浮かせたまま、凍りついたように動かない。

 傍聴の席では、誰かが口を押さえて、声を殺していた。

 玉座の陛下も、宰相も、ただ黙って、広間の中央を見つめている。


 広間の中央では、ヴァイスフェルト伯が、倒れた衛兵たちのあいだに立ち尽くしていた。

 公爵閣下だけが、立ち上がったまま、血の気の引いた顔で男をにらみつけていた。


 衛兵長は、顔を上げた。


 男は、さっきと同じ場所に立っていた。

 一歩も動いていない。

 外套の裾さえ、乱れていなかった。


 男の赤い瞳が、ちらりと衛兵長を見た。

 それから、ほんのわずかに、口の端を上げた。


 次の瞬間。


 男の姿が、ふっと、かき消えた。

第一章 筋書きは誰が書いた

第四十五話 真理より金

[王宮・大広間 公爵]


 男の姿が、消えた。


 ローデリヒ・フォン・ゴルトシュタインは、立ち上がったまま、広間の中央を見つめていた。


 さっきまで男が立っていた場所には、もう誰もいない。

 倒れた衛兵たちと、その真ん中に立ち尽くすヴァイスフェルト伯だけが残されている。


 転移か。


 奥歯を噛みしめた。


 変身。

 水球。

 そして、転移。

 人が生まれ持つ魔法は、二つまでのはずだ。

 だが、あの男は、少なくとも三つを、目の前で使ってみせた。


 ありえない。

 ありえないことが、この大広間で、立て続けに起きている。


     ◇


 目を閉じた。


 ゴルトシュタインの血には、人の心の揺れを感じ取る力がある。

 何を考えているかまではわからない。

 だが、怒りも、怯えも、喜びも、そして嘘も、長く生きてきた公爵には、手に取るようにわかる。


 大広間には、怯えが満ちていた。

 貴族たちの、傍聴の名代たちの、波立つ心が、四方から押し寄せてくる。

 その波の中から、あの男の気配だけを探そうとした。


 見つからなかった。


 目を開けた。


 思えば、あの男が現れてから、ずっとそうだった。

 だが、あの男の心は、いつも、ぼんやりとした霧の向こうにあった。

 怯えのようなものが、かすかに混じっている気もした。

 だが、こうも心の乱れた場所では、それが誰のものなのかもわからない。


 得体が知れない。

 人を恐れたのは、何十年ぶりのことだった。


     ◇


 そのときだった。


「ずいぶんと、お顔の色が悪い」


 耳もとで、声がした。


 公爵の背筋が、凍りついた。


 すぐ後ろだ。

 息がかかるほど近くに、誰かが立っている。

 振り返らずとも、わかった。

 夜のように深い色の外套の裾が、視界の端で揺れている。


 だが。


 息を詰めた。


 何も、感じない。


 背後に、人がいる。

 声がする。

 衣擦れの音までする。


 それなのに、そこには、心の揺れがひとつもなかった。

 怒りも、怯えも、喜びも。

 まるで、人の形をした空っぽの何かが、そこに立っているかのように。


 公爵の額に、汗がにじんだ。


「先ほどは、ずいぶんと熱心でいらした」


 声は、穏やかだった。

 どこか、面白がっているようでもあった。


「賊を捕らえよ、と。……ヴァイスフェルトの鋳造所を取り上げろとも、しきりに言っておられたそうですね」


 公爵は、動けなかった。


 声が、さらに近づいた。

 耳たぶに、冷たい吐息が触れた気がした。


「お前は真理より、金のほうが好きなようだ」


     ◇


 公爵の顔から、血の気が引いた。


 真理。


 その言葉が、耳の奥で、何度も響いた。


 なぜ、その言葉を。

 なぜ、この男が、今、その言葉を、自分に向けて。


 ゆっくりと振り返った。


 男は、すぐ後ろに立っていた。

 白く冷たい顔。

 撫でつけた黒髪。

 赤い瞳が、楽しげに細められている。


 だが、やはり、何も感じなかった。

 目の前にいるのに、そこには誰もいないのと同じだった。


 この男は、何を知っている。

 どこまで、知っている。


 隣の席の侯爵が、息をのむ音が聞こえた。

 すぐ近くに座っていた何人かの貴族が、こちらを見ている。

 今のささやきを、聞いたのだ。

 真理より、金。


 口を開こうとした。

 だが、喉が干上がって、声が出なかった。


 男は、公爵の顔を、しばらく値踏みするように眺めていた。

 それから、ふっと興味を失ったように、目をそらした。


     ◇


 男は、公爵の背後から、ゆっくりと離れた。


 玉座の前を横切り、倒れた衛兵たちのあいだを抜けて、広間の中央へ戻っていく。

 足音は、ほとんどしなかった。

 誰も、止めなかった。

 止められる者は、もう、この大広間のどこにもいなかった。


 男の背中を見つめたまま、立ち尽くしていた。

 足が、床に縫いとめられたように動かない。

 長い年月をかけて身につけた、穏やかな笑みの作り方を、いつの間にか忘れていた。


 男は、広間の中央で足を止めた。


 そして、居並ぶ者たちの全員に向き直ると、外套の裾をひるがえし、芝居がかった仕草で、深々と一礼した。

第一章 筋書きは誰が書いた

第四十六話 筋書きは始まったばかり

[王宮・大広間 王]


 男は、深々と下げた頭を、ゆっくりと上げた。


 ルートヴィヒ四世は、玉座の上から、その顔を見下ろしていた。


 白く冷たい顔。

 赤い瞳。

 その目が、まっすぐに玉座を見上げている。

 恐れも、へつらいもない目だった。

 王の前に立つ者の目ではなかった。


「陛下」


 男が、口を開いた。


「お騒がせをいたしました。ですが、ご安心を」


 男の唇の端が、かすかに吊り上がった。


「この国の筋書きは、まだ始まったばかりですよ」


 次の瞬間、男の姿は、玉座の目の前から、跡形もなくかき消えた。


     ◇


 誰も、動かなかった。


 大広間は、しんと静まり返っていた。

 床には、気を失った衛兵たちが倒れている。

 その真ん中に、ヴァイスフェルト伯が、一人立ち尽くしている。

 玉座に近い席では、ゴルトシュタイン公爵が、血の気の引いた顔のまま、椅子の背をつかんでいた。


「……ロキだ」


 誰かが、かすれた声でつぶやいた。


 その声は、小さかった。

 だが、静まり返った広間では、誰の耳にも届いた。


「御伽噺の、ロキだ……」


 ざわめきが、さざ波のように広がっていった。


 黙って、男が消えた場所を見つめていた。


 衛兵に化け、その姿を自在に変えた。

 水球で、十人を超える衛兵を一度に倒した。

 目の前で消え、公爵の背後に現れ、そして今、玉座の前でまた消えた。


 変身。

 水球。

 転移。


 人の身で使える魔法は、二つまでだ。

 王家の血を引く者として、それを、誰よりもよく知っている。

 三つを使う者など、王国の長い歴史の中でも、聞いたことがない。


 ありとあらゆる魔法を使いこなし、とりわけ姿を変えることを好んだ神。

 あらゆる場所に潜り込み、人の世を混乱に陥れた、御伽噺の黒幕。


 ロキのような者、ではない。

 あれは、ロキそのものではないのか。


 肘掛けを握りしめた。

 指先が、冷たくなっていた。


 市場に現れ、銀山に現れ、伯爵の夜会に現れ、騎士団の会議に現れた。

 そして今、王宮の、それも御前会議の大広間に、誰にも気づかれずに入り込んでいた。

 入れない場所など、あの男には、どこにもないのだ。


 この国は、何か恐ろしいものに、目を付けられた。


     ◇


「……陛下」


 宰相の声で、我に返った。


 宰相エーレンフェルスが、玉座の傍らで、静かにこちらを見ていた。

 その顔も、いつもより青白い。

 だが、眼鏡の奥の目は、もう落ち着きを取り戻していた。


「沙汰の途中でございました」


 王は、ゆっくりと息を吐いた。


 そうだった。

 ロキが何者であれ、今この場で裁かねばならぬ者がいる。


 広間の中央を見た。


 ヴィルヘルムは、倒れた衛兵たちのあいだに、変わらぬ姿勢で立っていた。

 背筋は、まっすぐだった。

 ただ、その目が、わずかに揺れているように見えた。


 王は、法務卿に目を向けた。


「法務卿。鋳造所を預かる者が、それと知らずに偽りの銀を打った場合。法典は、その罪を何と定めている」


 法務卿は、一瞬だけ目を見開いた。

 それから、手もとの法典に目を落とすこともなく、よどみなく答えた。


「過失の罪にあたります。知りながら打った場合とは、罪の重さがまるで異なります。過失による罪の裁きは、法典上、陛下のご裁量に委ねられております」

「それで、よい」


 うなずいた。


 あの男が何を企んでいるのかは、わからない。

 だが、あの男の言葉が、この広間に一つの問いを残していったのは確かだった。

 盾を構えて矢を受け止めた者を、矢を放った罪で裁くのか、と。


     ◇


「ヴィルヘルム・フォン・ヴァイスフェルト」


 王の声が、広間に響いた。


「そなたに、沙汰を申し渡す」


 ヴィルヘルムが、深く頭を下げた。


「そなたの鋳造所が打った偽りの銀貨を、王国じゅうから回収せよ。その務めを、そなたに命じる。賠償、爵位の降格は、これを行わない。ヴァイスフェルトの家がこの国に尽くしてきた功に免じてのことである」


 広間が、ざわめいた。


 構わずに続けた。


「ハーゼンバッハは、爵位を剥ぎ、資産を没収し、無期限の投獄とする。背後に何者がいたのか、まだ明らかになっておらぬ。よって、命は取らぬ。調べが進むごとに、問いただすこととする」


 ざわめきが、少し静まった。


「ジルバータールの鉱夫たちには、王家の財から見舞いの金を払う。あの者たちを苦しめた男の金は、王家の金庫にも流れ込んでいた。王家もまた、無縁ではない」


 宰相が、何も言わずに、小さく頭を下げた。


「最後に。ハーゼンバッハへの所領の割譲は、これを取り消す。割譲されるはずだった土地は、すべてもとの家に戻す。ジルバータールも、ヴァイスフェルトの所領に戻るものとする」


 ヴィルヘルムを見た。


「銀山は、もう枯れていると聞く。あの町を立て直すことも、そなたの務めだ。ヴィルヘルム」

「……謹んで、お受けいたします」


 ヴィルヘルムの声は、かすかに震えていた。


 傍聴の席の端で、黒髪の娘が、両手で口を覆っていた。

 その肩が、小さく震えている。


 王は、目を閉じた。


 ヴァイスフェルトの潔白が、すべて証されたわけではない。

 口さがない者たちは、これからも、何かと言い立てるだろう。

 だが、この広間で、目の利く者ほど、もうヴァイスフェルトを疑ってはいないはずだ。


 あの男の言葉を聞いたあとでは。


     ◇


[王宮の回廊 ヴィルヘルム]


 御前会議が終わったのは、昼を過ぎてからだった。


 大広間を出て、王宮の回廊を歩いた。


 すれ違う貴族たちが、ちらりとこちらを見て、目をそらす。

 その目に浮かんでいるものが、疑いなのか、同情なのか、ヴィルヘルムにはわからなかった。


 回廊の端で、足を止めた。


 見上げると、高い空が広がっていた。

 雲ひとつない、よく晴れた空だった。


 爵位も、領地も、守られた。

 娘の名誉も、守られた。

 見知らぬ男が、守っていった。


 だが、偽りの銀が、何年ものあいだ当家の鋳造所を通っていたことは、何ひとつ変わらない。

 それを見抜けなかったのは、ほかの誰でもない、自分だ。


 左手の甲の傷に、そっと触れた。


 空は、あまりにも青かった。

第一章 筋書きは誰が書いた

第四十七話 ロキの噂

[騎士団の詰め所・食堂 カタリナ]


 王宮にロキが出たらしい。


 その噂は、御前会議から三日とたたないうちに、王都じゅうに広まっていた。


 市場の物売りが、客と声をひそめて話している。

 井戸端の女たちが、桶を置いたまま額を寄せ合っている。

 酒場では、見てきたような顔で、男たちが尾ひれをつけて語っている。


 衛兵が十人も二十人も、指一本で倒されたらしい。

 公爵閣下の背後に、煙のように現れたらしい。

 陛下の目の前で、笑いながら消えたらしい。


 詰め所でも、その話で持ちきりだった。


「聞いたか。王宮のロキの話」

「ああ。衛兵が五十人、一度に倒れたってな」

「五十人? 俺は百人と聞いたぞ」


 食堂の長机で、騎士たちが笑い交じりに話している。

 その隣で、黙って匙を動かしていた。


     ◇


「五十人どころか、十人ちょっとだ」


 向かいの席で、ハルトマン殿がぼそりと言った。


「噂ってのは、三日もたてば五倍になる」

「……ハルトマン殿は、あの場にいらしたわけではないでしょう」

「お前……いや、ヴァイスフェルト殿から聞いた話のほうが、確かだからな」


 ハルトマン殿は、硬いパンをちぎって口に放り込んだ。


 御前会議のあと、騎士団の務めに戻っていた。

 父の沙汰が下ったことで、カタリナを捜査から外す理由もなくなったのだという。

 詰め所の空気は、まだ少しぎこちない。

 だが、もう、隣の席が空いていることはなかった。


「で、どうなんだ。お前の家を救ったのは、本当にあのロキなのか」


 カタリナは、匙を置いた。


「……わかりません」


 それが、正直な気持ちだった。


 あの男は、父をかばった。

 ヴァイスフェルトの家を、自分の名誉を、陛下の御前で守ってみせた。

 だが、なぜなのかが、どうしてもわからない。


 市場で会ったときも、ジルバータールで会ったときも、夜会で会ったときも、あの男は、ただ面白がっているように見えた。

 捜査会議に紛れ込んだときも、分隊長を物置に転がして、意味ありげな言葉だけを残して消えた。

 あの男が現れるたびに、事件は大きくなった。

 そして、最後の最後で、あの男自身が、その事件に幕を引いた。


 まるで、最初から、そこまでが筋書きだったかのように。


「それに、あの男は」


 言いかけて口をつぐんだ。


 近衛になど入ったら、とあの男は言った。

 自分が近衛に入る予定のことを、あの男は知っていた。

 話した相手など、数えるほどしかいないはずだ。


 王宮には、耳が多い。

 どこかで、誰かが漏らしたのかもしれない。

 そう思うことにした。

 そう思わなければ、背筋が冷たくなりそうだった。


「……やっぱり、気味の悪い男です」

「助けられておいて、それか」

「助けられたから、です」


 ハルトマン殿は、少しだけ口の端を上げた。


     ◇


[王立リュケイオン学院・東棟の研究室 テオドール]


 同じころ、王立リュケイオン学院の、いちばん奥の狭い研究室で。


 テオドール・シュミットは、机いっぱいに並べた小さな金属片を前に、目の下の隈をこすっていた。


 どれも、あの贋金の銀貨を削り、溶かし、分けて取り出したものだ。

 御前会議のあと、王宮から学院を通じて、新しい依頼が舞い込んだ。

 贋金の中身を、細かく調べ上げよ。

 そして、なるべく簡単な見分け方を見つけ出せ、と。


 偽の銀の作り方をもたらした者も、その材料を納めた者も、まだ突き止められていないらしい。

 組合もハーゼンバッハも、送られてきた材料を、言われた割合で製錬して混ぜ合わせていただけだという。

 元の材料が何なのかさえ、誰も知らなかったのだ。


 ならば、いつかまた、別の場所で同じものが作られるかもしれない。

 そのとき、両替商の台の上で、すぐに見分けられるようにしておかねばならない。

 溶かして調べるような手間をかけずに、だ。


「……簡単に言ってくれる」


 金属片の一つを指でつまみ上げた。


 重さも、硬さも、見た目も、銀とほとんど変わらない。

 並の検品では見抜けないように、わざわざ作られた代物だ。

 だが、銀でないものは、どこかで必ず銀と違う顔を見せる。

 それを探し出すのが、自分の仕事だった。


 廊下から、学生たちの浮ついた声が聞こえてくる。


「王宮に、ロキが出たんだってさ」

「変身して、水球を使って、転移までしたらしいぞ」

「三つも? そんなの、人間じゃないだろ」


 テオドールは、金属片から目を離さずに、鼻を鳴らした。


 三つ、か。


 あのとき、路地裏で自分が見たのは、四つだった。

 火の玉を操り、子どもに化け、目の前で消え、一瞬で離れた場所へ移った。

 あの夜の熱さも、震えも、まだ覚えている。


 なぜ、あの男が自分をかばったのかは、今もわからない。

 上の者を装って、襲ってきた連中を追い払った。

 そのおかげで、自分はこうして、まだ研究を続けていられる。


「……やっぱり、ロキみたいなやつだったな」


 皮肉っぽくつぶやいた。


 それから、つまみ上げた金属片を、灯りにかざした。

 鈍い光が、指先で揺れる。

 礼くらいは、言ってやってもよかったかもしれない。

 もっとも、ロキが研究室に礼を受け取りに来るとは、思えなかったが。


     ◇


[王宮・奥の小さな書斎 宰相]


 時は、少しさかのぼる。


 御前会議の夜、王宮の奥の小さな書斎で、王と向き合っていた。


 燭台の明かりの下に、書類が二枚、並べてある。

 一枚は、ハーゼンバッハの夜会で、ナハトラーベ男爵を名乗った男についての聞き取り。

 もう一枚は、御前会議に現れた男についての、衛兵長の報告だった。


「同じ男だ、と申す者が、何人もおります」


 エーレンフェルスは、眼鏡を外して言った。


「夜色の外套に、赤い瞳。夜会に居合わせた者たちが、口をそろえております」

「ナハトラーベ、か」


 王は、深く椅子に身を沈めた。


「王家の預かる爵位を、勝手に名乗った。暗部を束ねた家の名を、だ。そして今度は、余の大広間に、余の衛兵の顔をして立っていた」

「は」

「ロキであれ、何であれ。放っておくわけにはいかん」


 王は、しばらく黙って燭台の炎を見つめていた。


「コンラート。あの男の素性を探れ。暗部を動かしてかまわん。ただし、ひそかにだ。貴族たちにも、騎士団にも、悟られぬように」

「かしこまりました」

「それから」


 王は、少しだけ声を落とした。


「あの男が、何を狙っていたのかもだ。ヴァイスフェルトを救って、あの男に何の得がある。……それがわからぬうちは、救われたとも、言い切れん」


 エーレンフェルスは、深く頭を下げた。


 窓の外では、王都の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていくところだった。


     ◇


[王都・琥珀の灯亭 カタリナ]


 御前会議から数日後の夕暮れ。


 琥珀の灯亭の扉をくぐると、迷わずに店の奥のソファー席へ向かった。


 いた。


 身なりだけは上等な、冴えない顔の男。

 今日も、鶏の焼き物と格闘している。


 向かいの席に、勢いよく腰を下ろした。

 男が、驚いたように顔を上げる。


「シモン殿、聞いてくれ。あの男が――」

第一章 筋書きは誰が書いた

第四十八話 悪戯の首尾

「――陛下の御前で、衛兵を十人以上も、指を鳴らしただけで倒したのです!」


 琥珀の灯亭の個室で、カタリナは、身を乗り出してまくし立てていた。


「そのうえ、公爵閣下の背後に一瞬で現れて、何かをささやいて、また消えた。あれから王都じゅう、その話で持ちきりです。貴族の方々は、夜も眠れずにいるとか。近衛の先輩方も、見回りを倍に増やしたそうです」

「へ、へえ……」


 鶏の焼き物を口に運びながら、引きつった相づちを打った。


 それ、僕です。

 今回も、心の中で深々と頭を下げる。


 卓の上で、モナが腹を抱えて転げまわっていた。


「なのに、あの男は、礼の一つも言わせずに消えてしまった」


 カタリナは、葡萄酒の杯を、とん、と卓に置いた。


「父の家を救われたのです。私の名誉も。本当なら、膝をついて礼を言わねばならないところです。それなのに、どこの誰なのかもわからない。会いたくても、会いようがない」

「……会ったら、また首根っこを捕まえるんじゃなかったんですか」

「捕まえてから、礼を言います」


 カタリナは、きっぱりと言った。


 葡萄酒にむせそうになるのを、どうにかこらえた。


     ◇


 宿の部屋に戻ると、寝台にどさりと腰を下ろした。


「……なあ、モナ」

「なに?」

「僕、もしかして、ものすごく怖がられてる?」

「もしかしなくても、怖がられてるわね」


 モナは、窓枠に座って、楽しそうに足をぶらぶらさせていた。


「貴族が夜も眠れないんですって。見回りも倍。王様も、ひそかにあんたを探させてるかもね」

「なんでだよ。僕、誰も傷つけてないぞ。衛兵だって、気を失っただけだし」

「人間って、わからないものが怖いのよ」


 学は、首をかしげた。


 確かに、少し派手にやりすぎたかもしれない。

 衛兵を十人ほど眠らせて、偉そうな老人の背後でささやいて、玉座の前で消えた。

 だが、それだけだ。

 王宮を壊したわけでも、誰かをさらったわけでもない。


 それなのに、王都じゅうが震え上がっている。

 人間の世の中というのは、どうもよくわからない。


「でもさ」


 寝台にごろりと横になった。

 天井を見上げて、思い出す。


 失礼。

 あまりに出来のいい喜劇だったもので、つい笑ってしまった。


 盾を構えて矢を受け止めた者を、矢を放った罪で裁く。

 この国の裁きは、ずいぶんと独創的だな。


 ご安心を。

 この国の筋書きは、まだ始まったばかりですよ。


「……決まってたよな、あれ」

「決まってたわね」

「だよな!」


 寝台の上で、思わず拳を握った。

 膝が震えていたことは、この際、忘れることにする。


     ◇


 しばらく、二人とも黙っていた。


 窓の外から、夜の王都のざわめきが、かすかに聞こえてくる。

 天井を見上げたまま、ぼんやりと、ここまでのことを思い返していた。


 王都に着いて、最初に市場へ行った。

 ねえマーナ、あそこで両替すれば、とモナが言った。

 そこで、両替商の銀貨に、幻術でちょっとした悪戯を仕掛けた。


 ねえマーナ、銀山って見てみたくない、とモナが言った。

 だから、ジルバータールへ行った。


 ねえマーナ、夜の王都って、まだちゃんと歩いたことなかったわよね、とモナが言った。

 だから、学院のそばの路地で、テオドールを助けた。


 ねえマーナ、夜会って、行ってみたくない、とモナが言った。

 ねえマーナ、あの伯爵、どうなったか気にならない、とモナが言った。

 王宮のことも、御前会議の日取りも、教えてくれたのはモナだった。


 ゆっくりと身を起こした。


 始まりは、いつも、モナの「ねえマーナ」だった。

 そして、行く先々には、いつもカタリナがいた。


 市場の両替商にも。

 ジルバータールの製錬所にも。

 伯爵の夜会にも。

 騎士団の捜査会議にも。

 王宮の大広間にも。


 偶然にしては、ずいぶんと出来すぎている。


 窓枠に座ったモナを見た。

 モナは、月明かりの中で、のんびりと羽を揺らしていた。


「……なあ、モナ」

「なに?」

「で、悪戯はうまく行ったのか?」


     ◇


 モナは、きょとんとした顔で、学を見た。


 一瞬だけ、部屋の中が静かになった。


 それから、モナは、ぷっと吹き出した。


「あはははは! ばれちゃった!」


 モナは、窓枠の上で腹を抱えて転げまわった。

 笑いすぎて、危うく外へ落ちそうになっている。


「いつ気づいたの、マーナ?」

「今だよ、今。……おまえなあ」

「だって、あんた、面白いんだもの。ちょっとつついたら、すぐ黒幕ごっこ始めるし」


 モナは、目の端の涙を拭いながら、ようやく起き上がった。

 悪びれた様子は、少しもなかった。


「で? うまく行ったのか、って聞いてるんだけど」


 そう言うと、モナは、にっこりと笑った。


「思ってたより、ずっとうまくいったわ」


 明るい声だった。

 いつもの、いたずら好きの妖精の声だった。


 それから、モナは、少しだけ間を置いた。

 月明かりの方へ、ふと目を向ける。


「……前のときより、ずっとね」


「前のとき?」


 聞き返すと、モナは、くるりと宙で一回転した。


「なんでもないわ。ほら、もう寝なさいよ。明日あたり、またあの子が来るんじゃない?」

「来ないだろ。そんな毎日」

「来るわよ。あの子、あんたに話を聞いてほしくて仕方ないんだから」


 モナは、くすくすと笑って、はぐらかした。


 学は、しばらくモナを見つめていた。

 何を企んでいたのか。

 前のときとは、何のことなのか。

 聞けば、たぶん、いくらでも聞けたのだろう。


 だが、ふっと笑って、寝台に寝転がった。


 まあ、いいか。

 楽しかったのは、確かなのだ。


「おやすみ、モナ」

「おやすみ、マーナ」


     ◇


[王国のどこか・窓のない部屋]


 同じ夜。


 何かが、激しく卓に叩きつけられる音がした。


 続いて、押し殺した怒声が、厚い壁の内側に響き渡った。

第一章 筋書きは誰が書いた

第四十九話 梟の怒り

[大商会の奥の隠し部屋 ユリウス]


 円卓が、拳で打ち鳴らされた。


 杯が跳ね、葡萄酒が上等な卓布に赤い染みを広げていく。

 だが、それを気にする者は、誰もいなかった。


「ロキ、だと」


 恰幅のいい大商人が、顔を真っ赤にして吐き捨てた。


「王都じゅうが、その名で持ちきりだ。王宮に現れたロキが、贋金の一件を裏で操っていた。ハーゼンバッハも、ジルバータールの組合も、すべてロキの筋書きの上で踊らされていた駒にすぎなかった。……そう言われているのだぞ」


 大商会の奥の、店の者でさえ存在を知らない部屋だった。

 窓のない壁に、燭台の明かりが揺れている。

 円卓を囲む四つの椅子と、空いたままの上座。

 そして、円卓から一歩下がった場所に、ユリウス・ノイマンが立っていた。


     ◇


「落ち着け」


 白い髭の、年かさの貴族が言った。

 だが、その声も、いつになく硬かった。


「落ち着いてなどいられるか!」


 大商人は、もう一度、卓を叩いた。


「何年かけたと思っている。ジルバータールの銀山に目を付け、ハーゼンバッハを抱き込み、ヴァイスフェルトの鋳造所を通す道筋を整えた。材料の出どころも、銀貨の流れも、何ひとつ足のつかぬように仕組んだ。それを、あの男は、横から現れて、すべてかき回していった」

「そのうえ、我々の仕事を、自分の手柄にしていった」


 痩せた貴族が、苦々しげに言った。


「この国の筋書きは、まだ始まったばかりだ、とな。陛下の御前で、そう言い残して消えたそうだ。今や王都の者たちは、贋金の一件まで、あの男が書いた筋書きの一部だと思い込んでいる」


 まだ若い大商人が、青ざめた顔でつぶやいた。


「……我々の上に、もう一人の黒幕がいることに、されてしまった」


 部屋が、しんと静まり返った。


     ◇


 黙って円卓を見つめていた。


 報告は、すでにすべて上げてある。

 御前会議の大広間で、あの男が何をしたのか。

 誰に化け、何を言い、どう消えたのか。

 王宮の中にいる「耳」からの知らせを、一字も漏らさずに書き記した。


 だが、どれほど報告を重ねても、肝心なことは何ひとつわからなかった。


 あの男が、何者なのか。

 何のために、現れたのか。


 計画の要所に、必ず現れた。


 市場の両替商。

 ジルバータールの製錬所。

 学院の学者。


 伯爵の夜会。

 騎士団の会議。

 そして、王宮の大広間。


 そのたびに、計画の一角が崩れた。

 そして最後には、すべてを自分の筋書きであったかのように語り、陛下の御前から消えた。


 偶然であるはずがない。

 あの男は、最初から、何もかもを知っていたのだ。


 ユリウスの拳が、知らず知らずのうちに、固く握りしめられていた。


     ◇


「せめてもの救いは」


 年かさの貴族が、ゆっくりと口を開いた。


「この商会の名が、まだどこにも出ていないことだ。ハーゼンバッハも、組合の者たちも、材料が何なのかさえ知らなかった。足は、つかん」

「だが、王宮は贋金の中身を調べさせているのだろう。学院に」

「学院が、何を見つけるかはわからん。……あそこの者たちが、どこまで本気で調べるのかもな」


 年かさの貴族は、空いた上座に、ちらりと目をやった。


「あの御方は、しばらくここへはお見えにならない。今回の件は、すべて我々で収めよ、とのことだ」


 円卓の空気が、さらに重くなった。


 誰も、口をきかなかった。

 あの御方の機嫌を損ねることが何を意味するのか、ここにいる者たちは、みな知っている。


「ユリウス」


 年かさの貴族が、こちらに目を向けた。


「あの男を、探し出せ。どれほど金を使ってもかまわん。どれほど時をかけてもかまわん。あの男が何者で、何を知り、何を狙っているのか。すべてを、明らかにせよ」

「かしこまりました」


 深く頭を下げた。


     ◇


 会合が終わり、幹部たちが一人、また一人と部屋を出ていった。


 最後に残ったのは、ユリウスだけだった。


 燭台の火が、短くなっていた。

 卓布の上の赤い染みが、乾きかけて黒ずんでいる。


 空いた上座の椅子を見つめた。


 一度も、その顔を見たことのない御方。

 その御方の椅子が、今夜も空いている。

 自分が、いつかこの円卓に連なる日が来るとすれば。

 それは、今回の失態を、何倍もの手柄で塗り替えたときだけだ。


 会合の前に、裏口の連絡役には、終わるころに来るよう言いつけてあった。


 部屋の外に、靴音が近づいてきた。


 扉が二度、静かに叩かれた。

 応じると、商会の裏口を預かる連絡役の男が、音もなく滑り込んできた。


「お呼びでしょうか」

「人を集めろ。口の堅い者を、使えるだけ」


 上座の椅子から目を離さずに言った。


「市場の両替商、ジルバータール、学院、伯爵の屋敷、騎士団、王宮。あの男が現れた場所を、すべて洗え。あの男を見た者、話した者、すれ違った者。一人残らずだ」

「は」


 連絡役が、頭を下げた。


 ユリウスは、ゆっくりと振り返った。

 燭台の明かりが、その顔の半分を、深い影に沈めていた。


「探し出せ。我々の名を貶めた、その『ロキ』とやらを」

閑話 第一章 こぼれ話

第五十話 鶏の香草焼き

[王都・琥珀の灯亭 店主]


「ヘレーネ。今度の相手は、粉屋の次男坊だ。真面目な男だぞ」


 開店前の厨房に、父の声が響いた。


 ヘレーネ・ベルンシュタインは、鶏をさばく手を止めずに、ため息をついた。


「お父さん。その話、先月も聞いた」

「先月のは、布屋の三男坊だ。今度は粉屋だ」

「どっちも同じよ」


 父は、卓の上に釣書(つりがき)を一通置くと、腰をさすりながら出ていった。

 二年前に店をヘレーネに譲ってからというもの、父の仕事は、もっぱら娘の婿探しになっている。

 それも、この店に入って、一緒に盛り立ててくれる入り婿だ。

 家を継げない次男坊や三男坊ばかり連れてくるのは、そのためだった。


 二十八になった。

 行き遅れ、と陰で言われているのも知っている。

 だが、この店を切り盛りしていると、見合いなどしている暇はないのだ。


 手を拭いてから、釣書を棚の奥に押し込んだ。

 先月の布屋の三男坊の釣書の、さらに上に。


「それと、ヘレーネ」


 扉の向こうから、父がひょいと顔をのぞかせた。


「見合いのときくらい、その茶色い髪を、ちゃんと結っていけよ」

「金色よ!」


 手もとの布巾を扉に投げつけた。

 父の笑い声が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。


     ◇


 琥珀の灯亭は、大通りから一本入った、石造りの店だ。


 入口の上には、琥珀色の硝子をはめた灯りがともる。

 ベルンシュタインという家名は、古い言葉で琥珀を意味するのだという。

 祖父の代に店を開いたとき、その家名にちなんで付けた名前だった。


 客の多くは、裕福な商人や職人の親方たち。

 品のよさと、話の漏れない個室があることから、ときには貴族も商談に使う。

 この店が好きだった。

 父から継いだこの店を、自分の代で、もっとよくしたいと思っている。


 だから、客のことは、よく見ている。


 そして最近、どうにも気になる客がいた。


     ◇


 最初に来たのは、ひと月あまり前のことだった。


 若い女騎士に連れられて、その男はやってきた。

 身なりは、悪くない。

 むしろ、ずいぶんと上等な服を着ている。

 光の加減で、淡く色を変える、見たこともない生地だった。


 だが、中身が、どうにも冴えない。


 四十を過ぎたくらいの、くたびれた顔の男。

 あとで給仕から聞いた話では、個室に通されるなり、献立を開いて、そっと閉じたらしい。

 もう一度開いて、また閉じたという。

 値段を二度見する客など、この店では、めったにいない。


 それからというもの、その男は、ほとんど毎晩のように来るようになった。

 しばらく顔を見せない時期もあったが、戻ってくると、また毎晩だ。


 払いは、いつも気前がいい。

 食べ方も、きれいだ。

 料理を、本当にうまそうに食べる。

 そこは、悪くなかった。


 だが、ときどき、奥のソファー席で、妙なことをしている。


 誰もいない卓の上に向かって、小声でぼそぼそと話しかけているのだ。

 ときには、何かに言い返すように、ふてくされた顔をしている。

 かと思えば、急に顔を赤くして、黙り込んだりもする。


 酔っているのだろう、と最初は思った。

 だが、葡萄酒の一杯目から、もうそうなのだ。


「……やっぱり、怪しいわよね」


 帳場で頬杖をつきながら、ひとりごちた。


     ◇


 もっと気になるのは、その男のところへ通ってくる女騎士のほうだった。


 黒髪を一つに結い上げた、凛とした娘。

 カタリナ・フォン・ヴァイスフェルト。

 ヴァイスフェルト伯爵家の、三女だ。


 彼女のことを前から知っていた。

 騎士になったばかりのころ、何度か一人で来たことがある。

 平民向けの店では目立ちすぎるから、と困ったように笑っていた。

 帳場で、少しだけ話をしたこともある。

 もっとも、向こうはきっと、店の主の顔など覚えてはいないだろう。


 その伯爵家の令嬢が、あの冴えない男のもとへ、何度も通ってくる。


 一度など、今にも泣きだしそうな顔で、店に入ってきたことがある。

 個室で、長いあいだ二人で話し込んでいた。

 帰るときには、少しだけ、顔が明るくなっていた。


 ついこのあいだは、店に入るなり、まっすぐ男の席へ向かっていった。

 シモン殿、聞いてくれ、と。

 声を弾ませて、男の向かいに腰を下ろしていた。


 怪しい。


 まさか、金で買っているのでは、と思ったこともある。

 冴えない男が、金にものを言わせて、若い娘を呼びつけているのでは、と。


 だが、どうにもそういう雰囲気ではなかった。


 男は、娘の手ひとつ握ろうとしない。

 いつも、娘の話を、黙って聞いているだけだ。

 ときどき、困ったように頭をかいたり、葡萄酒にむせたりしている。

 娘のほうも、男に何かを求めている様子はない。

 ただ、話を聞いてほしくて来ているように見えた。


「……何なのかしらね、あの二人」


 首をかしげた。


     ◇


 もう一つ、気になることがある。


 あの男は、来るたびに、必ず鶏の香草焼きを頼むのだ。


 最初の晩に、よほど気に入ったらしい。

 それからというもの、献立を開くことさえしない。

 席に着くなり、いつもの、と言う。

 いつもの、とは、鶏の香草焼きのことだ。


 五回目あたりで、少し心配になった。

 十回を過ぎたあたりで、少し悔しくなった。


 この店には、ほかにもうまい料理がたくさんある。

 それなのに、毎晩、同じ皿ばかり。

 いつか、飽きられてしまうのではないか。


 だから、こっそりと手を加えることにした。


 ある日は、香草を一種類だけ増やした。

 ある日は、ほんの少しだけ、焼く前に漬け込む時間を延ばした。

 ある日は、木の実を砕いて、皮の香ばしさを足した。

 どれも、言われなければ気づかないほどの違いだ。

 だが、同じ皿を毎晩食べる者になら、少しは違う味を楽しんでもらえるかもしれない。


 男が、それに気づいているのかどうかは、わからない。

 いつも、うまそうに食べて、うまかったと言って帰っていくだけだ。


     ◇


 その日の夕方も、男はやってきた。


 いつものように、奥のソファー席に腰を下ろす。

 給仕が献立を差し出す前に、片手を上げた。


「いつもので」


 厨房に引っ込んで、腕まくりをした。


 今日は、市場でいい柑橘が手に入った。

 その皮を、ほんのひとかけらだけ削って、香草に混ぜてある。

 焼き上がりに、ふわりと立つか立たないか、というくらいの量だ。


 皿を運ばせてから、帳場で、そっと奥の席をうかがった。


 男は、いつものように、黙々と鶏を口に運んでいた。

 途中で一度、誰もいない卓の上に向かって、何かをささやいた。

 それから、また黙々と食べはじめた。


 やがて、皿が空になった。


 自分で皿を下げに行った。

 たまには、常連の顔を間近で見ておくのも、店主の務めだ。


「お下げしますね」

「ああ、どうも。ごちそうさまでした」


 男は、人のよさそうな顔で、頭を下げた。

 皿を持ち上げたとき、男が、ぽつりと言った。


「今日のは、ちょっと柑橘の香りがしますね」


 ヘレーネの手が、止まった。


 男は、なんでもないことのように、葡萄酒の杯を傾けている。


「……お気づきでしたか」

「ええ。この前は、木の実が入ってましたよね。その前は、少し漬け込みが長かったような。毎回ちょっとずつ違うから、来るのが楽しみなんですよ」


 男は、照れくさそうに頭をかいた。


「うまかったです。今日のも」


 ヘレーネは、皿を抱えたまま、男の顔を見た。

 冴えない顔だった。

 相変わらず、どこにでもいそうな、くたびれたおっさんの顔だった。


 だが、思わず、口元がゆるんだ。


「……明日も、少し変えておきますね」


 そう言って、厨房へ戻っていった。

 足取りが、少しだけ軽かった。

閑話 第一章 こぼれ話

第五十一話 合金屋の憂鬱

[王立リュケイオン学院・東棟の研究室 テオドール]


 王立リュケイオン学院の東棟は、今日も焦げ臭かった。


 いちばん奥の、いちばん狭い研究室。

 机の上には、銀色の小さな金属片が、ずらりと並んでいる。

 どれも、あの贋金の銀貨から取り出したものだ。


 テオドール・シュミットは、その一つをつまみ上げ、目の下の隈をこすった。


 本当にやりたいのは、こんなことではない。

 剣や鍬や鍋のための、もっとよい鉄。

 鉄よりも硬く、鉄よりも粘り強く、鉄よりもさびにくい金属。

 その研究は、机の隅に追いやられて、もう何日も手をつけていない。


     ◇


 いつの間にか、合金の専門家ということになっていた。


 両替商組合の鑑定を引き受けたのが、始まりだった。

 贋金の銀の量を、学院でいちばん早く、いちばん正確に突き止めた男。

 その噂が、どこをどう回ったのか、王宮にまで届いてしまった。

 そして今では、王宮からの依頼を受ける身だ。


 研究員になったばかりのころは、周りの貴族の研究員たちを、ずっとうらやんでいた。

 いい部屋、いい道具、いい家柄。

 自分にないものを、何もかも持っている連中だった。


 それが今では、うらやまれる側に回っている。


「シュミット君。これ、頼めるかな」


 扉が開いて、貴族出身の研究員が、紙の束をどさりと机に置いていった。

 古い鉱石の記録の書き写しだ。

 誰が読むのかもわからない、百年前の帳面の写し。


「急ぎではないんだが、今週中にね。君、手が早いだろう」


 返事を待たずに、扉が閉まった。


 紙の束を見下ろした。

 昨日は、教授の一人から、どうでもいい試料の重さを百回量れと言われた。

 一昨日は、別の研究員から、誰も使わない炉の掃除を押しつけられた。


 子どもじみた連中だ。


 心の中で鼻で笑った。

 平民の研究員が王宮に名を知られたのが、よほど気に入らないのだろう。

 家柄で負けたことのない連中は、負け方を知らない。

 だから、こういうつまらない真似をする。


 まあ、いい。

 これまでにも、似たようなことはいくらでもあった。

 紙の束を机の端に寄せて、金属片に向き直った。


     ◇


 偽の銀は、あきれるほどよくできていた。


 重さも、硬さも、色も、銀とほとんど変わらない。

 削っても、磨いても、見た目では区別がつかない。

 溶かして銀を取り出さなければ、わからない。

 だが、そんな手間を、両替商の台の上でかけられるはずもない。


 左手に偽銀の欠片を、右手に本物の銀の欠片を載せた。


 目を閉じる。

 重さを比べる。

 同じだ。


 そのまま、しばらく握っていた。


「……ん?」


 目を開けた。


 左手の欠片が、ほんのわずかに、温かい気がした。


 もう一度、握り直す。

 今度は、右と左を入れ替えて。

 やはり、偽銀のほうが、わずかに温かい。

 いや、正確には、本物の銀のほうが、手のひらの熱を、するりと奪っていくような冷たさがある。


 同じ部屋に置いてあったのだから、もとの温かさは同じのはずだ。

 それなのに、手に載せると、感じ方が違う。


 なぜなのかは、わからない。

 金属によって、こんな違いがあるなどとは、聞いたこともない。


 帳面に一行だけ書きつけた。


 ――偽銀、銀に比べ手にわずかに温かし(理由不明)


 小さな手がかりだ。

 だが、手がかりには違いなかった。


     ◇


 扉が、静かに叩かれた。


 また雑用か、と顔をしかめた。

 だが、入ってきたのは、見知った研究員の顔ではなかった。


 背の高い老人だった。

 長い白髪を背に流し、明るい色のローブをまとっている。

 煤けた東棟の研究室には、およそ似つかわしくない姿だ。


 テオドールは、慌てて立ち上がった。


 アウレリウス・ヴァイスハウプト。

 この学院の、学長だった。


 平民の出だと聞いている。

 だが、その立ち居振る舞いは、そこらの貴族よりもよほど貴族らしかった。

 背筋の伸ばし方も、視線の動かし方も、一分の無駄もない。


「シュミット君」


 学長は、机の上の金属片に、ちらりと目を落とした。


「王宮よりの委嘱、進捗はいかに」

「は、はい。まだ、見分け方と呼べるものは……」

「結論を急ぐ必要はない。観察の集積こそが、推論の礎だ」


 学長は、テオドールの帳面に目を留めた。

 開いたままの頁に書かれた、さっきの一行。

 その上で、学長の目が、ほんの一瞬だけ止まった。


「以後、この件の所見は、私に直接上げたまえ」

「……学長に、直接、ですか」

「経路の短縮は、誤謬の介在を減ずる。教授会を経る必要はない」


 それだけを言うと、学長は、ローブの裾を翻して出ていった。


 扉が閉まってから、しばらく立ち尽くしていた。


 王宮の仕事とはいえ、たかが一研究員の、たかが偽銀の調べだ。

 それを、学長がじきじきに確かめたいというのか。

 自分の研究が、それほどのものだとは思えなかった。


 気にはなった。

 だが、机の端には、書き写しの紙の束が待っている。

 ため息をついて、ペンを取った。


     ◇


 親父からは、相変わらず何の便りもない。


 王宮から依頼を受けたことは、下町にも聞こえているはずだ。

 それでも、手紙ひとつ、伝言ひとつ来ない。


 やはり、認めてはくれないのだ。

 そう思っている。

 学問など、鍛冶屋の役には立たない。

 あの頑固な背中は、今もきっと、そう言っている。


     ◇


[王都の下町・煤けた酒場 鍛冶屋の親父]


 同じころ。


「おい、聞いたか。うちの倅がな、王宮から仕事を頼まれたんだと」


 鍛冶屋の親父が、真っ赤な顔で杯を振り回していた。


「学院でな、研究員ってやつをやってるんだ。鉄も満足に打てねえくせに、銀だの何だの、えらく難しいことをやってやがる」

「その話、もう十回は聞いたぞ」

「なら、十一回目だ。黙って聞け」


 飲み仲間たちが、あきれたように笑う。

 親父は、それに構わず、もう一杯を飲み干した。


「学のねえ俺の倅がだぞ。……大したもんだろうが」


     ◇


[王立リュケイオン学院・東棟 テオドール]


 夜更け。


 ようやく紙の束の最後の一枚を書き終えて、研究室を出た。


 東棟の廊下は、もう真っ暗だった。

 足もとを手燭で照らしながら、本棟のほうへ歩いていく。


 ふと、廊下の先に目をやった。


 学長室の扉の下から、細い灯りが漏れていた。


 こんな夜更けまで、何をしているのだろう。

 一瞬だけ、そう思った。


 だが、すぐに前を向いた。

 明日も、偽銀の欠片と、押しつけられた雑用が待っている。

 人の部屋の灯りを気にしている暇など、どこにもなかった。


 手燭の小さな炎が、暗い廊下を遠ざかっていった。

第二章 真理の籠

第五十二話 師匠とマーナ君

[王都・宿の部屋 学]


 革袋を逆さにして、振った。


 寝台の上に、銀貨が二枚と、銅貨がいくつか転がり出た。

 もう一度振る。

 何も出てこない。

 袋の口を広げて、中をのぞき込む。

 やはり、何も入っていなかった。


 王宮に「ロキ」が出たという噂も、ひと月たって、ようやく落ち着いてきた。

 その朝、もっと切実な問題と向き合っていた。


「……師匠」

「なんだね、マーナ君」


 窓枠の上で、モナが重々しく腕を組んだ。

 ちょこんと座ったまま、あごを上げて学を見下ろしている。

 いつもなら「師匠なんて柄じゃないわよ」と笑うところだ。

 今朝にかぎって、妙に乗り気だった。


「金が、ありません」

「見ればわかるわ」

「なんでだと思います?」

「あたしに聞くの、それ」


 モナは、小さな指を一本立てた。


「その一。この宿で、いちばんいい部屋に、ずっと泊まってる」

「……景色がいいんだよ、この部屋」

「その二。何を買うにも、言われた値段のまま払ってる。あんた、値切ったことないでしょ」

「向こうでは、値札どおりに払うのが普通だったんだよ」

「ここは向こうじゃないの。その三」


 モナは、三本目の指を立てて、にんまり笑った。


「琥珀の灯亭で、隣の席の知らない人にまで、しょっちゅうおごってる」

「あれは……だって、楽しそうに飲んでるから、つい」

「つい、で銀貨が飛んでいくのよ」


 学は、ぐうの音も出なかった。


     ◇


 ドラゴンの鱗を一枚売って、革袋いっぱいの金貨を手にしたのは、王都に着いた日のことだ。

 カタリナは「何年か遊んで暮らせる額」だと言っていた。

 それが、ふた月半ほどで、底をつきかけている。


 何年か、というのは、ふつうの暮らしをすればの話だったらしい。


「鱗なら、まだあるんだけどな」


 寝台の下から小さな袋を引っぱり出した。

 中には、赤銅色の鱗が数枚。

 果ての大陸から持ってきた、残りのすべてだ。


「売ればいいじゃない」

「どこに?」


 学は、鱗を一枚つまみ上げて、ため息をついた。


「あの買取商、金庫を空にしても足りなかったんだぞ。もう一枚持っていったら、店主が泣くよ」

「ほかのお店は?」

「カタリナさんが、あそこは信用できるって言ってたんだ。ほかの店は知らないし、変なところに持ち込んで、出どころを根掘り葉掘り聞かれても困る」


 それに、と鱗を袋に戻した。


「これを売り切ったら、本当に終わりだろ。こんな使い方してたら、残りの数枚なんて、あっという間だ」

「使い方を変える気はないのね」

「……ないです」


 正直に答えると、モナは窓枠の上で笑い転げた。


 学は、寝台の上であぐらをかいて、天井を見上げた。


 あの買取商の店主が、帰りぎわに何か言っていた気がする。

 足りない分が、どうとか。

 ……まあ、いいか。

 今は、それどころではない。

 その一言は、学の頭から、きれいに抜け落ちていった。


     ◇


「だからさ、モナ」


 姿勢を正した。

 両手をそろえて、深々と頭を下げる。


「一回、果ての大陸に帰らせてください。換金できそうなもの、まとめて拾ってきたい」

「あら」

「鱗だけじゃなくて、ほかにも何かあるだろ。巨人の地の石とか。売れそうなもの、教えてくれよ。師匠」

「都合のいいときだけ師匠って呼ぶのね、マーナ君は」


 モナは、くるりと宙で一回転した。


「いいわよ。あたしも、そろそろ森の空気が吸いたかったし」

「本当か!」

「一週間くらい、のんびりしましょ。あんた、人間の街に来てから、ずっと肩に力が入ってるもの」


 言われて、自分の肩に手をやった。

 確かに、少し凝っている。

 十年、森で暮らしていたあいだは、肩凝りなど忘れていたのに。


「じゃあ、出発は明日の朝ね」

「今日じゃないのか?」

「今夜は、あの子に会いに行くんでしょ。黙っていなくなったら、心配するわよ」


 モナは、窓の外を見ながら、楽しそうに羽を揺らした。


     ◇


[王都・琥珀の灯亭 学]


 夕暮れの琥珀の灯亭は、いつものようににぎわっていた。


 奥のソファー席で、献立を開き、そっと閉じた。

 もう一度開く。

 値段は、変わっていなかった。


 銀貨二枚。

 鶏の焼き物と、葡萄酒を一杯。

 それで、ちょうど終わりだ。


「シモンさん、今日はおひとり?」


 店主のヘレーネが、水差しを手にやってきた。


「ええ、まあ。あとで、連れが来るかもしれません」

「いつものでいいかしら」

「お願いします。……あの、ヘレーネさん」

「なに?」

「この店って、その……」


 ツケは利きますか、と聞きかけて、口をつぐんだ。

 ヘレーネが、首をかしげて待っている。


「……今日の香草、いい匂いですね」

「でしょう?」


 ヘレーネは、なぜか少しうれしそうに笑って、厨房へ戻っていった。

 肩の上で、モナが声を殺して笑っていた。


     ◇


 カタリナが来たのは、鶏の焼き物が半分ほどなくなったころだった。


「シモン殿。……お邪魔しても?」

「もちろんです。どうぞ」


 向かいに腰を下ろしたカタリナは、騎士服の襟もとを、ほんの少しだけゆるめた。

 いつもより、顔色がさえない。

 目の下に、うっすらと影がある。


「お疲れのようですね」

「研修が、もうすぐ終わるのです。最後の任務が立て込んでいて」


 カタリナは、運ばれてきた葡萄酒に口をつけて、小さく息をついた。


「研修が終わったら、たしか近衛に、でしたっけ」

「……その話は、また今度にさせてください」


 カタリナは、杯の中をのぞき込むようにして言った。

 いつもならはっきりと物を言う彼女にしては、歯切れが悪い。

 それ以上は聞かなかった。


「実は僕、明日から一週間ほど、故郷に帰ろうと思っていまして」

「故郷に?」

「ええ。ちょっと、用事を片づけに」


 金を拾いに行く、とはさすがに言えない。


 カタリナは、少しだけ目を丸くした。

 それから、ふっと表情をやわらげた。


「そうですか。……お気をつけて」

「ありがとうございます」

「戻られたら、また」


 カタリナは、それだけ言って、杯を軽く掲げた。

 こちらも、残り少ない葡萄酒の杯を掲げた。


 隣の卓で、職人風の男たちが陽気に乾杯の声を上げている。

 いつもの学なら、ここで「一杯どうです」と声をかけるところだ。

 ぐっとこらえて、自分の杯を飲み干した。


     ◇


[王都・宿の部屋 学]


 翌朝、宿の部屋で、残りの鱗の袋を懐にしっかりとしまい込んだ。

 宿代は、月の初めにまとめて払ってある。

 それが、せめてもの救いだった。


「忘れ物はない?」

「ない。……たぶん」

「たぶん、ね」


 モナが、ふわりと学の顔の前まで飛んできた。

 小さな指先が、学の額に、ちょんと触れる。


「じゃ、行くわよ、マーナ」


 視界が、白く弾けた。


 宿の部屋の、古い木の匂いが消える。

 かわりに吹きつけてきたのは、湿った土と、若葉と、どこか甘い花の匂いだった。


 十年、毎朝かいでいた匂いだ。


 目を開ける前から、どこに来たのかわかっていた。

第二章 真理の籠

第五十三話 果ての大陸の休日

[果ての大陸の草原 学]


 目を開けると、草原の真ん中に立っていた。


 空が低い。

 雲が、手を伸ばせば届きそうなところを流れていく。

 足もとでは、名前も知らない青い花が、風に首を揺らしていた。


 十年あまり前、真夜中の会社から、いきなり立たされた草原だ。


「わざわざ、ここにしたのか」

「出発点に戻るのが、休暇の作法でしょ」


 モナは、学の肩から飛び立って、くるりと宙で輪を描いた。

 羽が、日の光をはじいてきらめく。

 人間の大陸では、いつも自分の姿を隠す幻術をまとっていたモナだ。

 ここでは、それもいらないらしい。


「さあ、マーナも脱ぎなさいよ」

「脱ぐって、おまえ」

「顔よ、顔。あんた、王都に着いてから、起きてるあいだ一度も素顔に戻ってないでしょ」


 言われてみれば、そうだった。


 目を閉じて、自分にかけていた幻術をほどいた。

 四十五歳の、少しくたびれて冴えない顔。

 それが、肩から外套を落とすように、すとんと消える。


 体そのものは、何も変わらない。

 変わったのは、見た目だけだ。

 それなのに、背負っていた荷を一つ下ろしたように、気分がふっと軽くなった。


 両腕を、思いきり空へ突き上げた。

 背骨が、ぽきぽきと音を立てる。

 長いこと伸ばしていなかった筋が、ゆっくりとほどけていく。


「……人間の大陸、思ったより肩が凝ってたんだな」

「そりゃそうよ。おっさんの顔に、黒幕の顔に、衛兵に、分隊長。ふた月半で、何人分化けたと思ってるの」

「数えるなって」


 草の上に大の字に寝転がった。

 空が、どこまでも青かった。


     ◇


[果ての大陸・ドラゴンの谷 学]


 翌日は、ドラゴンの谷へ鱗を拾いに行った。


 赤い岩壁に挟まれた谷底には、抜け落ちた鱗が、あちこちに転がっている。

 手のひらより一回り大きな、赤銅色の鱗。

 王都の買取商が、椅子から滑り落ちた品だ。

 ここでは、誰も見向きもしない。


「傷のないやつを選べよ、と。……これはいいな。これも」


 ひとつずつ光にかざしては、袋に入れていった。

 十年暮らしたおかげで、いい鱗と悪い鱗の見分けくらいはつく。


 袋が半分ほど埋まったころ、頭の上に影が差した。


 見上げると、岩棚の上から、巨大な頭がこちらをのぞき込んでいた。

 金色の目。

 鼻の頭に、古い引っかき傷が一本。


 鱗を握ったまま固まった。


「……よう。元気そうだな」


 ドラゴンの目が、すうっと細くなった。


 覚えている目だ。

 七年目に、昼寝中の鼻先へ幻の獲物をちらつかせ、半日、森の奥まで追いかけさせた相手だった。


 ドラゴンが、大きく息を吸い込んだ。


「あ、待っ――」


 次の瞬間、谷底を突風が吹き抜けた。


 ただの鼻息だった。

 それでも学の体は、袋ごと宙に浮いて、草むらの上を三回転した。

 転がった先で、ようやく止まる。

 口の中に、草と土の味がした。


 岩棚を見上げると、ドラゴンはもう丸くなって、そっぽを向いていた。

 尻尾の先だけが、満足そうに揺れている。


「……優しいな、あいつ」

「どこが」

「炎じゃなかっただろ」


 十年も暮らしていれば、そのくらいの見当はつく。

 本気で怒らせたら、谷ごと焼かれているところだ。


 モナは、岩の上で腹を抱えて笑っていた。


「まだ根に持ってるのね、あの子」

「あのときの件は、おまえも一緒に笑ってただろ」

「あたしは、あの子に見えてなかったもの」

「ずるいんだよなあ、そういうとこ」


 散らばった鱗を拾い集めた。

 袋は、来たときよりずっと重くなっていた。


     ◇


[果ての大陸・巨人の地の池 学]


 三日目は、巨人の地で釣りをした。


 巨人の足跡が、そのまま池になっている場所がある。

 雨水がたまり、いつの間にか魚が棲みついたのだ。

 細い枝に糸を結んで、池のふちに腰を下ろした。


 浮きが、水面でゆらゆらと揺れている。


 何もしない時間というのは、ずいぶん久しぶりだった。


 王都に着いてから、毎日のように何かが起きた。

 市場の両替商、鉱山町の製錬所、夜道の襲撃、伯爵の夜会、王宮の大広間。


 楽しくなかったと言えば、嘘になる。

 けれど、こうして浮きを眺めていると、自分がどれほど気を張っていたのか、よくわかった。


 昼過ぎに、地面が揺れた。


 ずしん、と腹に響く音が、遠くから近づいてくる。

 地平線の向こうを、山のような巨人が、のっそりと横切っていった。

 池の水面に、さざ波が立つ。

 魚が、一匹残らず底へ逃げた。


「……あいつ、毎回いいところで通るんだよな」

「巨人に悪気はないわよ」

「知ってるよ」


 結局、日が傾くまでに釣れたのは、四匹だった。


     ◇


 その夜、焚き火の前で腕まくりをした。


「よし。今夜は、あの店の鶏の焼き物を再現する」

「鶏じゃないわよ、それ。魚よ」

「大事なのは味なんだよ。香草の匂いが、こう、ふわっと抜けるやつ」


 琥珀の灯亭で、毎晩のように食べている一皿だ。

 皮がぱりっとしていて、噛むと、香草の匂いが鼻へ抜けていく。

 しかも、不思議なことに、毎回少しずつ味が違う。


 森で摘んできた草を、片っ端から刻んだ。

 匂いの似ているもの。

 葉の形の似ているもの。

 なんとなく、それっぽいもの。


「それ、入れるの?」

「入れる。匂いが近い」

「ふうん」


 モナは、焚き火のそばの石に腰かけて、頬杖をついていた。

 にこにこしているだけで、何も言わない。

 十年の付き合いで、この顔をもう少し疑うべきだった。


 焼き上がった魚は、見た目だけなら上出来だった。

 得意げに一口かじった。


 目に、来た。


 鼻の奥がつんとして、次の瞬間、涙がぼろぼろとあふれ出した。

 止まらない。

 拭っても拭っても、あとからあとからこぼれてくる。


「な、なんだ、これ……」

「あははははは!」


 モナが、石の上から転げ落ちた。


「それ、なみだ草よ。巨人が、目のごみを流すのに使うやつ」

「知ってたなら、言えよ……!」

「だって、匂いが近いって言うんだもの」


 学は、池の水で顔を洗い、口をすすぎ、また顔を洗った。

 涙が止まるまでに、ずいぶんかかった。


 残りの三匹は、塩だけで焼いた。

 それはそれで、うまかった。


     ◇


 焚き火が、ぱちりと爆ぜた。


 焼いた魚をかじりながら、赤くなった目で炎を眺めていた。


「やっぱり、ヘレーネさんの店の味は、真似できないな」

「あの店主、毎回、香草の配合を変えてるものね」

「だよな。そうじゃないかと思ってたんだ」


 魚の骨を火にくべた。


「カタリナさん、疲れた顔してたな」

「研修の最後が忙しいって言ってたわね」

「近衛の話、またはぐらかしてたしな。行きたくないんだろうな、たぶん」


 膝を抱えて、炎の向こうの闇を見た。


「帰ったら、ちょっと話を聞いてやるか」


 言ってから、口をつぐんだ。


 帰ったら。


 ここは、十年暮らした果ての大陸だ。

 あの草原も、ドラゴンの谷も、この池も、目をつぶっていても歩ける。

 なのに、自分は今、王都のことを「帰る」場所のように話していた。


 琥珀の灯亭の、奥のソファー席。

 騎士服の襟をゆるめる、カタリナの疲れた顔。

 宿の窓から見える、王都の屋根の連なり。


 人間の大陸に渡ってから、まだふた月半ほどしかたっていない。

 それなのに。


「……どうしたの、マーナ。また泣いてるの?」

「泣いてない。なみだ草の残りだ」


 焚き火に枝を一本放り込んだ。

 火の粉が、星空へ舞い上がっていく。


 モナは、しばらく学の横顔を眺めていた。

 それから、ぽんと手を打った。


「そうだ。鱗だけじゃ、芸がないわね」

「ん?」

「妖精の森に寄っていきましょ。もっといいもの、分けてもらえるかもしれないわよ」


 炎に照らされて、モナの羽が、楽しそうに揺れていた。

第二章 真理の籠

第五十四話 妖精の粉

[果ての大陸・妖精の森 学]


 妖精の森は、昼でもほの明るい。


 見上げるほどの大樹が、枝を幾重にも重ねている。

 その葉のすき間から、こぼれた日の光が、細い糸のように地面へ垂れていた。

 足もとには、淡く光る苔。

 花という花が、人の頭ほどの大きさに咲いている。


 十年暮らしたあいだ、寝起きしていたのは、この森のはずれだった。

 奥まで入ったのは、数えるほどしかなかった。


「あ、マーナだ」

「マーナが帰ってきた」

「モルガーナが拾ってきた人間だ」


 大樹の枝の陰から、小さな影が次々に飛び出してきた。


 手のひらほどの、透きとおった羽の妖精たち。

 あっという間に、学のまわりを取り囲む。


「ねえ、顔が違う。前は、もっとくたびれてた」

「こっちが素顔なんだよ。前のは、幻術で作ってた顔だ」

「なんで?」

「……おっさんの顔のほうが、落ち着くんだよ」

「おっさんって、なに?」

「年をとった人間のことだ」

「マーナ、年をとってるの?」

「とってる……ような、とってないような」

「変なの!」


 妖精たちは、きゃらきゃらと笑い声を上げた。

 一人が学の髪を引っぱり、一人が耳の穴に頭を突っ込み、一人が鼻の頭にとまって、じっと目を見つめてくる。


「おい、やめろって。くすぐったい」

「人間の鼻って、大きいのね」

「おまえらが小さいんだよ」


 モナは、少し離れた枝に腰かけて、楽しそうに眺めていた。

 助けてくれる気は、まるでないらしい。


 十年たっても、この森ではちょっと珍しい獣のような扱いだった。

 気まぐれな妖精たちは、近寄ってきたかと思えば、急に飽きて飛んでいく。

 それでも、こうして顔を見に来てくれるのは、悪い気はしなかった。


     ◇


[妖精の森の奥 学]


 モナに連れられて、森のいちばん奥まで入った。


 そこには、ひときわ古い大樹が立っていた。

 幹の根もとに、人ひとりがかがんで入れるほどのうろが口を開けている。


 うろの奥には、木の実の殻を磨いた器が、棚のようにずらりと並んでいた。

 どの器の中にも、細かな粉が、うっすらと光を含んで積もっている。


「これ、なんだ?」

「妖精の粉よ。外の誰かと何かを取り換えるときに使うの。めったにないけどね」


 モナは、器の縁にとまって、粉をのぞき込んだ。


「みんなで、何百年もかけて、ちょっとずつためてきたのよ」

「ふうん。……で、粉って、何の粉なんだ?」


 モナは、少し考えるような顔をした。


「人間だって、フケとか出るでしょ」

「フケかよ」


 思わず器から一歩下がった。


「……ちょっと汚いな、それ」

「たとえよ、たとえ!」


 モナは、真っ赤になって学の額を蹴った。

 小さな足のわりに、ずいぶん痛かった。


「体から自然に出てくるものだって言いたいの! 汚いものなんかじゃないんだから!」

「わかった、わかった。悪かったって」

「妖精をばかにしたら、ただじゃおかないわよ」

「してない。してないから」


 額をさすりながら、もう一度器をのぞき込んだ。


 言われてみれば、きれいな粉だった。

 銀とも金ともつかない色で、角度を変えるたびに、細かな光がちらちらと揺れる。

 フケだと思って見るから、いけないのだ。


     ◇


「おや。モルガーナの人間かい」


 うろの奥の暗がりから、ゆっくりと一人の妖精が出てきた。


 ほかの妖精たちより、羽の色がいくぶん深い。

 動きもゆったりとしていて、話し方には、どこか年寄りめいた落ち着きがあった。

 妖精に年寄りという言い方が正しいのかどうか、学にはわからなかったが。


「この子に、粉を少し分けてあげたいの。人間の大陸で、何かと取り換えるのに使えるかもしれないから」


 モナが言うと、年かさの妖精は、学の顔をしげしげと眺めた。


「人間の大陸に行っていたのかい」

「ええ。ふた月ちょっと」

「そうかい、そうかい。……向こうは、どんなところだい」


 年かさの妖精は、器の縁に腰を下ろして、身を乗り出した。

 ほかの妖精たちも、いつの間にか集まってきて、うろの入り口から顔をのぞかせている。


 王都の話をした。


 石を積み上げた大きな城壁。

 朝から晩まで人の声が絶えない市場。

 毎晩通っている酒場と、そこで食べる鶏の焼き物。

 何かと気にかけてくれる、まじめな女騎士。


 妖精たちは、そのたびに「へえ」「変なの」「食べてみたい」と口々に言った。


「人間の大陸の森には、妖精はいないのか?」


 話の切れ目に、何気なく聞いてみた。


 王都に来てから、妖精を見たことは一度もない。

 モナ以外には、だが。


「いないよ」


 年かさの妖精は、当たり前のことを言うように答えた。


「人の国の森には、もう仲間はいないからねえ。ずっと昔に、みんな引き上げたんだよ」

「引き上げた?」

「そう。昔は、向こうにもたくさんいたらしいけどね。わたしが生まれるよりも、ずっと前の話さ」


 ほかの妖精たちも、うなずいている。

 誰もが知っている、古い昔話を聞くような顔だった。


「ふうん。……なんでまた」

「さあねえ。人間が、ちょっとうるさすぎたんじゃないかい」


 年かさの妖精は、くすくすと笑った。

 妖精たちも、つられて笑った。


 モナは、少し離れた器の上で、いつものように羽を揺らしていた。


     ◇


 年かさの妖精は、透きとおった石をくりぬいた小瓶に、粉をすくって入れてくれた。


 親指ほどの小瓶だ。

 栓をすると、中の粉が、うすい光をまとってきらめいた。


「ありがとうございます。大事に使います」

「大事にしなくていいよ。どうせ、ためてあるだけのものさ」


 学は、小瓶を光にかざした。


「これ、向こうで売れると思うか?」

「さあ。人間が、妖精の粉に値をつけるかどうか、知らないもの」


 モナは、肩をすくめた。


「でも、きれいでしょ。何かにはなるんじゃない?」

「鱗のおまけくらいには、なるかな」

「なるといいわね」


 学は、小瓶を妖精の織物の布で包んで、懐の奥にしまった。


     ◇


 残りの日々は、あっという間に過ぎた。


 森で昼寝をし、池で魚を釣り、モナと幻術で化かし合いをした。

 妖精たちに髪を編まれ、ドラゴンの谷には二度と近づかなかった。


 七日目の夜。


 もう一度、四十五歳の顔を自分にかぶせた。

 モナの転移で、王都の宿の部屋に戻ってくる。


 窓の外には、見慣れた屋根の連なり。

 遠くで、酒場の笑い声がかすかに聞こえる。

 寝台に腰を下ろして、まず革袋を逆さにした。


 銀貨が、一枚も出てこない。

 銅貨が三枚、寝台の上で跳ねた。


 それから、懐の奥の包みをそっと開いた。


 小瓶の中で、粉が、宿の灯りを受けて静かに光っていた。


 明日は、あの買取商に行ってみよう。

第二章 真理の籠

第五十五話 二度目の椅子

[王都・買取商の店 学]


 大通りから一本入ったところに、その買取商はあった。


 落ち着いた店構えは、前に来たときと、少しも変わっていない。

 店先には、獣の牙や、見たこともない色の石が並んでいる。


 扉の前で、袋の口を握りしめた。


 中には、ドラゴンの鱗が三枚。

 谷で拾ってきたうちの、とびきり色のいいものばかりだ。

 それに、懐の奥には、妖精の織物で包んだ小瓶がある。


「……金庫、空になってないといいけどな」

「なってたら、どうするの?」

「どうもこうもないよ。今日の晩飯代がないんだから」


 深呼吸をして、扉を押した。


 扉の鈴が、からんと鳴った。


     ◇


「いらっしゃいま――」


 店の奥で帳面をつけていた店主が、顔を上げた。

 白髪まじりの頭に、眼鏡。

 前に、椅子から滑り落ちた、あの店主だ。


 店主は、学の顔を見るなり、帳面を放り出した。

 眼鏡がずれるのもかまわずに、転がるようにして駆け寄ってくる。


「シモン様! シモン様ではありませんか!」

「え、あ、はい。どうも」

「お待ちしておりました! ずっと、ずっと、お待ちしておりました!」


 店主は、学の両手をがっしりと握りしめた。

 目が、少し潤んでいる。


「残りのお代を、お渡ししたかったのです。それなのに、お宿もうかがっておりませんで。騎士様にお尋ねしようにも、どちらの騎士様かもわからず……」

「残りのお代?」

「ドラゴンの鱗の、残りでございます! あのときは金庫を空にしても足りず、後日あらためてお支払いすると申し上げたではありませんか」


 学は、ぽかんと口を開けた。


 足りない分が、どうとか。


 ふた月半前の帰りぎわ、たしかに、そんな言葉を聞いた気がする。


 肩の上で、モナが、ゆっくりと学のほうへ顔を向けた。


「ねえ、マーナ」


 学は、口の中で小さく返した。


「……言うな」

「最初からここに来てれば、果ての大陸に帰らなくてよかったんじゃない?」

「言うなって」


 店主から顔をそむけて、小さく咳払いをした。


「……バカンスは、必要経費だ」

「は? 何か、おっしゃいましたか」

「いえ、何も」


     ◇


 店主は、学を奥の応接用の椅子に座らせると、いそいそと茶を淹れてきた。

 前に来たときは、こんなもてなしはなかった。


「実はですね、シモン様。あの鱗は、競売にかけさせていただいたのです」

「競売」

「ええ。抜け落ちたドラゴンの鱗など、私の代では、まず二度とお目にかかれない品でございますから。王都じゅうの好事家に声をかけまして」


 店主は、思い出すだけで胸がいっぱいになる、という顔をした。


「それが、とんでもない値になりまして。落札なさったのは、ゴルトシュタイン公爵閣下でございます」

「ゴルト……」

「ゴルトシュタイン公爵閣下です。この国に三家しかない、領地をお持ちの公爵家の」

「へえ。それは、すごいですね」


 とりあえず感心してみせた。

 名前を聞いても、さっぱりぴんとこない。

 公爵と言われて思い浮かぶのは、王宮で背後に回り込んだ、銀色の髪のおじいさんくらいのものだ。

 まさか、あの人ではないだろう。


「その公爵閣下が、たいそうお気に召されまして。次に同じ品が入ったら、競売になどかけず、直接持ってこいと仰せなのです」


 店主は、声をひそめた。


「しかも、そのための代金だと、前もって大金を預けていかれまして」

「前もって?」

「ええ。ですから、シモン様。今日は、たとえ鱗を何枚お持ちくださっても、その場でお支払いできます」


 学は、思わず身を乗り出した。


「三枚、あるんですけど」

「さ、三枚……!」


 店主の手の中で、茶器がかたかたと鳴った。

 店主も、向かいの椅子に腰を下ろした。


     ◇


 鱗の検分は、前より少しだけ手早かった。

 店主は、一枚ずつ光にかざし、指で弾き、もう一度光にかざした。

 それでも、三枚目で手が震えはじめたのは、前と同じだった。


 やがて、奥から重そうな革袋が三つ運ばれてきた。

 一つは、ふた月半前の残りのお代。

 二つは、今日の鱗の代金だ。


「……何年か、遊んで暮らせますね」

「何年か、どころではございません」


 学は、革袋の重みを両手で確かめた。

 これで、しばらくは宿を追い出されずに済む。

 今度こそ、ちゃんと値切ろう。

 おごるのも、ほどほどにしよう。

 たぶん。


「それで、その、ついでと言ってはなんなんですが」


 懐の奥から、妖精の織物の包みを取り出した。


「これも、見ていただけますか。鱗のおまけくらいにはなるかと思って」


 包みを開くと、親指ほどの小瓶が現れた。

 透きとおった石の向こうで、細かな粉が、店の灯りを受けてちらちらと光っている。


 店主は、小瓶を手に取って、首をかしげた。


「きれいな粉でございますね。砂金……にしては、色が妙ですが。これは、何の粉で?」

「妖精の粉、っていうものらしいんですけど」


 何の気なしに答えた。


 店主の手が、ぴたりと止まった。


 眼鏡を外し、かけ直す。

 小瓶を光にかざし、角度を変えて、もう一度かざす。

 その手が、だんだんと震えはじめた。


 嫌な予感がした。


 やがて店主は、ゆっくりと椅子から滑り落ちた。


「店主!?」


 慌てて手を伸ばしたが、間に合わなかった。

 店主は、床に座り込んだまま、小瓶を胸に抱きしめて震えている。


 二度目だった。


     ◇


「よ、よ、妖精の……粉……」


 店主は、床に座ったまま、かすれた声で言った。


「た、確かに、本で読んだとおりの……光を含んだ……」

「いや、僕も、そう聞いただけなんですけど」

「シモン様」


 店主は、真剣な顔で学を見上げた。


「これが本物なら、国宝でございます」

「こくほう」


 思わず聞き返した。


「妖精の粉は、小指の爪の先ほどの量で、人の寿命を一年延ばすと言われております。昔話の中だけの品です。妖精そのものが、この国では、もう何百年も確かに見た者がおりませんので」


 学は、小瓶を見た。

 親指ほどの小瓶に、粉がぎっしり詰まっている。

 小指の爪の先で一年なら、これで何年分になるのか。


 肩の上で、モナが、目をぱちくりさせていた。


「あたしのフケ、国宝だって」


 学は、口もとを手で隠して、小声で返した。


「……たとえじゃなかったのか」


 モナに、耳を思いきり引っぱられた。


     ◇


 店主は、ようやく椅子に座り直すと、汗を拭きながら言った。


「申し訳ございませんが、これは、私の一存ではお値をつけられません。国宝ともなれば、確かな鑑定が要ります」

「鑑定、ですか」

「はい。公爵閣下のもとへ、鱗と一緒にお届けして、お確かめいただこうかと存じます。閣下なら、しかるべき筋をお持ちでしょうから」


 学は、少し考えてから、うなずいた。

 売れるかどうかもわからないまま持ち歩くより、ずっといい。


「わかりました。お任せします。結果は、また聞きに来ますから」

「お宿を、うかがってもよろしいでしょうか」

「いえ、僕のほうから来ますよ。近くまで来る用事も、よくありますから」


 いちばんいい部屋に泊まっていることは、なんとなく言いたくなかった。


 店主は、こくこくとうなずいた。

 それから、少しためらうように、両手をこすり合わせた。


「それと、シモン様。公爵閣下にだけは、品をお持ちくださった方として、お名前をお伝えしてもよろしいでしょうか。ほかの誰にも、申しません」

「名前ですか? ええ、かまいませんよ。名前くらい」


 気軽に答えると、店主は、ほっとしたように頭を下げた。

 帳面に、売り手の名を書きつける。

 シモン。

 それから、小瓶を、震える手で絹の布に包みはじめた。


 その手が、ふと止まった。


「……シモン様」

「はい?」

「これを、いったいどちらで?」


 学は、頭をかいた。


「いやあ。森で拾いました」

第二章 真理の籠

第五十六話 金の石の老人

[王都・ゴルトシュタイン公爵の屋敷 公爵]


 夜明け前に、目が覚めた。


 ローデリヒ・フォン・ゴルトシュタインは、寝台の上で、しばらく天井を見上げていた。

 王都の屋敷の寝室は、まだ暗い。

 窓の外で、鳥が一羽、気の早い声を上げている。


 また、あの声を聞いた。


 ずいぶんと、お顔の色が悪い。

 お前は真理より、金のほうが好きなようだ。


 夢の中で、耳もとに息がかかるほど近く。

 振り返っても、そこには誰もいない。

 目が覚めると、背中にじっとりと汗をかいている。


 御前会議から、ひと月半がたった。

 この夢を見なかった夜のほうが、少ない。


 ゆっくりと身を起こした。

 寝台の脇の水差しから、杯に水を注ぐ。

 その手が、わずかに震えていた。


 老いのせいだ、と思うことにした。


     ◇


 日が昇ってからは、いつもと何も変わらなかった。


 朝の執務では、領地から上がってきた収支に目を通し、代官の数字の誤りを二つ見つけた。

 昼前には、南の小国連合の使節と茶を飲み、関税の話をまとめた。

 誰に対しても、穏やかな笑みを崩さない。

 目元が笑っていないことに気づく者は、昔から、ほとんどいなかった。


 午後、家令が、遠慮がちに告げた。


「閣下。例の買取商が、参っております」

「鱗の、か」

「はい。また品が入ったので、お言いつけどおり直接お持ちした、と」


 公爵の眉が、わずかに上がった。


 ドラゴンの鱗。

 ふた月ほど前、競売で落としたあの一枚は、今も書斎の飾り棚にある。

 赤銅色の、手のひらより一回り大きな鱗。

 金貨を山と積んでも、二度とは手に入らないと思っていた品だ。


「小応接に通せ。私が会う」

「閣下が、直々に?」

「品を持ってきた者の顔も、見ておきたい」


 家令は、それ以上は何も言わずに下がった。


     ◇


 小さな応接間に入ると、白髪まじりの男が、椅子から跳ねるように立ち上がった。


 眼鏡の奥の目が、落ち着きなく揺れている。

 膝の上に抱えていた包みを、取り落としそうになった。


「か、閣下。このたびは、恐れ多くも……」

「よい。座りなさい」


 柔らかく言って、向かいに腰を下ろした。


 男の心が、手に取るようにわかる。


 緊張。

 畏れ。

 それから、大きな、隠しきれない興奮。

 商人が、とびきりの品を抱えてきたときの心の揺れだ。

 こういう揺れが嫌いではなかった。


 包みから現れたのは、ドラゴンの鱗が三枚だった。


 思わず息をのんだ。

 一枚ずつ手に取り、窓の光にかざす。

 どれも傷ひとつなく、前の一枚よりも、さらに色がいい。


「……見事なものだ」

「お預かりした代金で、売り手には、その場でお支払いいたしました」

「それでよい。売り手は、前と同じ者か」

「はい。シモンという、市井の方でございます。年のころは四十半ばほどの、身なりはよいのに、どこか冴えない顔の」


 公爵は、男の心を探った。


 嘘は、ない。

 何かを隠している者の揺れも、感じられなかった。


 シモン。

 よくある名だ。

 公爵の記憶の、どこにも引っかからなかった。


 冴えない顔の、市井の拾い屋。

 運よく、いい拾い物をしただけの男だろう。


「どこで手に入れたと」

「森で拾った、と申しておりました」


 公爵は、小さく笑った。


 これにも、嘘はない。

 男は、売り手の言葉をそのまま信じている。

 信じさせるだけの何かが、その売り手にはあるのだろう。


「それで」


 鱗を卓に戻した。


「それだけなら、使いに届けさせれば済むことだ。まだ、何かあるのだろう」


 男の心が、大きく跳ねた。


     ◇


 男は、懐から、絹の布の包みを取り出した。


 両手で、捧げるように卓の上に置く。

 その指が、目に見えて震えていた。


 布が開かれた。


 親指ほどの小瓶だった。

 透きとおった石の向こうで、細かな粉が、窓の光を受けてちらちらと揺れている。

 銀とも金ともつかない、見たことのない色だった。


「売り手は、妖精の粉だと申しておりました」


 男の声が、かすれていた。


「私は、本でしか存じません。ですが、本に書かれていたとおりの……光を含んだ粉でございます。もし、これが本物でしたら」


 公爵は、何も言わなかった。


 小瓶を、手に取る。

 思っていたよりも、ずっと軽い。


 妖精の粉。

 小指の爪の先ほどで、人の寿命を一年延ばすという。

 昔話だ。

 子どもに聞かせる、御伽噺の中の品だ。


 小瓶を持つ自分の手を見た。


 しみの浮いた手。

 指の節が太くなり、皮膚は薄く、血の管が青く透けている。

 朝、水差しを持ったときの震えを、思い出す。


 金なら、ある。

 稼ぎ方も、増やし方も、誰よりもよく知っている。

 だが、それを使う時間が、あとどれほど残っているのか。


 小瓶を見つめた。


 この小瓶ひとつで、何年分になる。


     ◇


「……あいにく、私の目では、本物かどうか見分けがつかんな」


 しばらくして、穏やかな声で言った。


 いつもの笑みが、顔に戻っている。

 男の心が、ほっと緩むのがわかった。


「妖精の粉の真贋を、確かに見分けられる者は、この国にはまずおらん。いるとすれば」


 言葉を切った。


 学院。

 王立リュケイオン学院の、あの学者どもだ。


 この国で、いや、周りの国々を見渡しても、妖精の粉を語れる者がいるとすれば、学院の連中しかいない。

 外交の場で、あちこちの国の学院の長と、何度も顔を合わせてきた。


 どの学院の長も、似たような目をしていた。

 こちらを見ているようで、どこか遠くを見ている目だ。


 そして、あの学者どもは、どうにも年を取らん。


 小瓶を握る指に、わずかに力をこめた。


「学院に、鑑定を頼むとしよう」

「が、学院に……! さすがは閣下、しかるべき筋を」

「本物とわかれば、私が買い取る。売り手には、そう伝えておきなさい」


 男は、何度も頭を下げて、帰っていった。


     ◇


 夕暮れの書斎で、家令を呼んだ。


 卓の上には、絹に包み直した小瓶が置かれている。

 飾り棚には、赤銅色の鱗が四枚、並んでいた。


 その一枚に、指先で触れた。

 冷たく、なめらかな手触りだった。


 お前は真理より、金のほうが好きなようだ。


 耳の奥で、また、あの声がした気がした。

 指を離した。


 鱗を持ち込んだのは、冴えない顔の、市井の拾い屋だ。

 あの声とは、何の関わりもない。


「これを、学院の学長のもとへ。ゴルトシュタインからの鑑定の依頼だと伝えよ」

「かしこまりました」


 家令が、小瓶を恭しく受け取る。


 学者どもに頭を下げるのは、癪だ。

 だが、真贋もわからぬものを口にするほど、愚かではなかった。


 家令が、扉の前で一礼する。


「それから」


 窓の外の、暮れかけた空を見たまま言った。


「必ず、返していただくように。そう、念を押しておけ」

第二章 真理の籠

第五十七話 光を含む粉

[王立リュケイオン学院・東棟の研究室 テオドール]


 東棟のいちばん奥の研究室には、今朝も紙の束が積まれていた。


 テオドール・シュミットは、扉を開けたまま、しばらく机を見下ろしていた。


 昨日の夕方には、なかった束だ。

 いちばん上に、走り書きの紙が一枚。

 古い炉の使用記録を、年ごとに書き分けておくこと。

 急ぎではないが、今週中に。


「……急ぎではないなら、自分でやればいいだろうに」


 紙の束をぱらぱらとめくって、机の端に放った。


 古い炉の使用記録。

 読む者がいないことを、もう知っていた。


 ひと月ほど前、百年前の鉱石の記録の写しを押しつけられたことがある。

 あのときは、夜更けまでかかって、一枚残らず書き写した。

 翌朝、届けに行くと、相手はきょとんとした顔をした。


「ああ……そんなもの、頼んだかな」


 それで、悟ったのだ。


 あれは、仕事ではなかった。

 平民の研究員が、学長に直接、所見を上げている。

 それが気に入らない連中の、ただの嫌がらせだった。

 頼んだ本人でさえ、何を頼んだのか覚えていない。


 それからは、その手の雑用は、適当に片づけることにしている。

 今週中に、と言われたら、週の終わりに、それらしく束ねて返せばいい。

 どうせ、誰も目を通さないのだ。


 ただ、試料の量り直しや、実験の立ち会いのように、誰かの研究の役に立つものだけは、今でも手を抜かなかった。

 そこまで腐るつもりはない。


 それにしても、押しつけられる雑用は、ひと月前よりも、さらに増えている。


 本当に、子どもじみた連中だ。


 心の中で鼻を鳴らして、偽銀の欠片に手を伸ばした。


 そのとき、扉が叩かれた。


     ◇


「学長がお呼びです。研究室のほうへ、すぐに」


 使いの小僧は、それだけ言って走り去った。


 手を止めた。


 学長の研究室。

 学長室ではなく、研究室のほうだ。

 学院の本棟の最上階にあるという、その部屋に、入ったことがない。

 入ったことのある研究員の話も、聞いたことがなかった。


 廊下に出ると、向かいの部屋の扉が、少しだけ開いていた。

 貴族の研究員が二人、こちらをうかがっている。

 テオドールと目が合うと、ばたんと扉が閉まった。


 今週の雑用は、もう一束増えそうだった。


     ◇


[学院・本棟最上階の学長の研究室 テオドール]


 学長の研究室は、思っていたよりも簡素だった。


 壁一面の書架。

 窓際の大きな作業台。

 天秤、硝子の器、拡大鏡。

 余計な飾りは何ひとつない。

 ただ、どの道具も、テオドールの研究室のものとは比べものにならないほど上等だった。


 作業台の前に、背の高い老人が立っていた。


 長い白髪。

 明るい色のローブ。

 アウレリウス・ヴァイスハウプトは、振り返らずに言った。


「シュミット君。来たまえ」


 テオドールは、作業台のそばに寄った。


「偽銀の、熱の件だが」

「は、はい」

「あれは、誰かに示唆を受けたのかね」

「いえ……手に載せて比べていたら、たまたま」


 学長は、わずかに目を細めた。


「たまたま、か」


 それきり、学長は何も言わなかった。

 叱られたのか、ほめられたのか、テオドールにはわからなかった。


 台の上には、二つの器が並んでいた。


 一つは、親指ほどの、透きとおった石の小瓶。

 もう一つは、それより一回り大きな、蓋つきの陶の器だ。


「さる筋より、鑑定の依頼があった。依頼主は、これを妖精の粉と称している」


 学長は、小瓶のほうを指した。


「妖精の粉、ですか」


 思わず聞き返した。


 妖精の粉。

 小指の爪の先ほどで、寿命が一年延びるという。

 子どもの寝物語に出てくる品だ。

 学院の学長が、まじめな顔で口にする言葉とは思えなかった。


「御伽噺の、ですか」

「称している、と言った」


 学長の声は、少しも揺れなかった。


「君には、比較の補佐を命ずる。粒度、色相、比重、光の反射。もう一方は、対照の試料だ」

「こちらは、何の粉なのですか」

「由来は問うな。試料として扱いたまえ」


 それ以上の説明はなかった。


     ◇


 まず陶の器の蓋を取った。


 中には、灰色の細かな粉が入っていた。

 指先ほどの匙ですくい、黒い板の上に、薄く広げる。

 くすんだ灰色だ。

 炉の灰を、もっと細かくしたような粉だった。


 次に、小瓶の栓を抜いた。


 同じように匙ですくって、隣に広げる。


 手を止めた。


 色が、違う。

 銀とも金ともつかない色。

 いや、色というより、光だ。

 窓から差し込む日の光を受けて、粉の一粒一粒が、ちらちらと揺れている。


 拡大鏡をのぞいた。


 粒の形は、どちらもよく似ていた。

 細かく、薄く、どこか鱗のかけらのようにも見える。

 大きさも、ほとんど変わらない。

 天秤に載せても、同じ量なら、重さはほぼ同じだった。


 違うのは、光だけだ。


 ふと、子どものころに聞いた寝物語を思い出した。

 妖精の粉は、闇の中で光る。


「……学長」

「何かね」

「窓を、閉めてもよろしいでしょうか」


 学長は、黙ってうなずいた。


 テオドールは、窓の鎧戸を一枚ずつ閉めていった。

 部屋が、薄暗くなる。

 最後の一枚を閉めると、研究室は、ほとんど夜のような暗さになった。


 作業台に戻る。


 黒い板の上に、二つの粉が並んでいる。


 灰色の粉は、闇に溶けて、ほとんど見えなかった。


 もう一方の粉は、光っていた。


 ほのかに、本当にほのかに。

 蛍の光を、もっと淡くしたような、銀色の光。

 日の光を返していたのではなかった。

 この粉は、自分で、光を含んでいる。


 息をのんだ。


「……こんなものは、見たことがありません」


 返事は、なかった。


 隣に立つ学長を見上げた。


     ◇


 学長は、黒い板の上を見下ろしていた。


 暗がりの中で、淡い光が、その顔を下から照らしている。


 あんな顔をした学長を、見たことがなかった。


 いつもの学長は、何を見ても、ほとんど表情を変えない。

 王宮の委嘱の話をしたときも、偽銀の所見を上げたときも、眉ひとつ動かさなかった。

 その学長の目が、今は、光る粉に吸い寄せられるように見開かれている。


 飢えた者が、食べ物を見るような目だった。


 ほんの一瞬のことだった。

 まばたきをしたときには、学長の顔は、もういつもの静かなものに戻っていた。


 だが、もう一つ、妙なことに気づいていた。


 下から照らされた学長の顔は、東棟の研究室で初めて言葉を交わしたときより、少し老けて見えた。

 目尻のしわが、深くなっている。

 頬の肉も、わずかに落ちたような気がする。


 光の加減だろう、と思った。

 ひと月で、人がそんなに老けるはずがない。


「鎧戸を、開けたまえ」


 学長の声に、慌てて窓へ走った。


     ◇


 部屋に、日の光が戻った。


 学長は、作業台の上の小瓶を手に取り、光にかざしていた。

 透きとおった石の向こうで、粉が、ちらちらと揺れている。


「この粉は、いずこより来た」


 テオドールは、口を開きかけた。

 どこから、と言われても、依頼主がどこの誰なのかさえ、聞かされていない。


 だが、学長は、自分に尋ねたのではなかった。


 学長は、小瓶を見つめたまま、低くつぶやいた。


「……いや。どこかに、いるのだな」


 いる。


 何が、とは、学長は言わなかった。

第二章 真理の籠

第五十八話 新参の銀貨

[王立リュケイオン学院・学長の研究室 学長]


 夜の研究室に、四つの影が集まっていた。


 本棟の最上階。

 昼間、シュミットに鎧戸を閉めさせた、あの部屋だ。

 作業台の上には燭台が一つ。

 揺れる灯りが、壁一面の書架に、四人分の影を大きく映している。


 アウレリウス・ヴァイスハウプトは、窓を背にして立っていた。


 作業台を囲んでいるのは、三人。

 片眼鏡をかけた、痩せた男。

 指先が薬品で黒く染まった、小柄な女。

 背を丸めて椅子に沈み込んだ、禿頭の老人。


 いずれも、この学院で教授の肩書きを持つ者たちだ。

 だが、今夜ここに集まった理由は、教授会とは何の関わりもない。


「新参どもは、相変わらずのようだな」


 片眼鏡の男が、口の端を吊り上げた。


「あの銀貨の件だ。商会の名が漏れぬよう、帳簿を書き換え、使いの口をふさぎ、ずいぶんと駆けずり回っていると聞く」

「当然でしょう」


 小柄な女が、黒い指先で卓を叩いた。


「我々の棚の奥にあったものを、勝手に持ち出したのです。銀に似ているだけで、使い道のない合金。それを、よりにもよって、贋金に」


 片眼鏡の男が、からかうように言った。


「腹を立てるところが、そこなのかね」

「ほかに、どこがあると?」


 女は、本気で首をかしげた。


「詐欺など、好きにすればいい。ですが、あれは失敗作です。グラウクスの成果を世に出すなら、もう少しましなものを選んでほしかった」


 禿頭の老人が、喉の奥で笑った。


「新参は、銀貨を数えていればよい。もともと、そのために迎え入れた者たちだ」


     ◇


 黙って三人のやりとりを聞いていた。


 新参。

 古参派の者は、陰で支柱派をそう呼ぶ。


 アレテイアは、真理を求める学者の集まりとして始まった。

 古くからの学者たち、古参派は、自分たちを梟――グラウクスと呼ぶ。

 支柱派は、その学問を金で支えさせるために、あとから迎え入れた商人と貴族たちだ。


 あの者たちが、初めて商いの話を携えてグラウクスの門を叩いた日のことを、今もよく覚えている。

 真理には興味がない、と悪びれもせずに言い放った男の顔まで、まだ目に浮かぶ。


 だが、今夜の本題は、新参ではなかった。


「その贋金を、見分けた者がいる」


 口を開くと、三人の話し声がやんだ。


「両替商の台上で、溶解を経ずに判別する端緒を、ひと月足らずで得た。掌に載せれば、わずかに温い、と」

「熱の伝わり方、ですか」


 女の目が、鋭くなった。


「あの合金の資料には、銀と同じ、としか書かれていなかったはずです。熱の研究より前に、棚に上げられたものですから」

「誰です、それは」

「東棟の、シュミットという研究員だ」

「シュミット……ああ。貴族の教授たちが、ずいぶん嫌そうに話していましたな。平民の研究員が、王宮にまで名を売ったと」


 片眼鏡の男は、そう言って、鼻で笑いかけた。


 学長は、その男を見た。

 それだけで、男は笑いを引っ込めた。


「出自など、真理の前では塵にも等しい」


 静かに言った。


「今宵、諸君に供覧したいのは、その者が見出した、いま一つの事実だ」


     ◇


 作業台に二つの器を並べた。


 一つは、ゴルトシュタイン公爵から届いた、透きとおった石の小瓶。

 もう一つは、陶の器。

 昼間、あの研究員に、由来を問うなと言って渡したものだ。


 匙で、それぞれを黒い板の上に広げる。


「妖精の粉と称し、ある買取商が公爵のもとへ持ち込んだ品だ。鑑定の依頼が、こちらへ回付された」

「公爵が、ですか。あの金の亡者が」

「頭を下げるのは、さぞ癪だったでしょうな」


 禿頭の老人が、愉快そうに言った。


 学長は、答えずに、燭台の火を吹き消した。


 闇の中で、一方の粉だけが、淡く光っていた。

 もう一方の粉は、闇に溶けて、どこにあるのかさえわからない。

 三人が、息をのむ気配がした。


「妖精の粉は、闇の中で光る。子どもの寝物語にある、あの一節だ。あの研究員は、それを検証したにすぎない」


 学長の声だけが、闇の中に響いた。


 グラウクスは、妖精の粉を、誰よりも深く知っている。

 精製し、吸収を助ける薬剤を加え、秘薬にまで仕立て上げた。

 長い年月をかけて、生命の根源へと、少しずつ近づいてきたはずだった。


 その自分たちが、寝物語の一節を、確かめたこともなかった。


     ◇


 燭台に、ふたたび火がともった。


 三人の顔が、灯りの中に浮かび上がる。

 誰もが、ひどく苦いものを飲み込んだような顔をしていた。


 陶の器に目を落とした。


 くすんだ灰色の粉。

 庭で取れる、あれらの粉だ。


 いつから、光らなくなっていたのか。

 初めから光っていなかったのか。

 それとも、長い年月のうちに、少しずつ光を失っていったのか。

 毎日見ていれば、気づくはずもない。


「あれらの粉の効験が、年々衰えていた所以は、これか」


 低くつぶやいた。


 自分の手に、目が落ちた。


 燭台の灯りに照らされた、細く長い指。

 その甲に、ひと月前にはなかったはずのしみが、一つ浮いている。


 手をローブの袖に引っ込めた。


     ◇


「もう一つ、お耳に入れておきたいことが」


 片眼鏡の男が、気を取り直したように言った。


「王都の騎士団の捜査会議に、例の男が現れたという話は、ご存じでしょう。分隊長に化けて、贋金の捜査の場に紛れ込んだ」

「ロキ、と呼ばれている男だな」

「ええ。その男が、去りぎわに、こう言ったそうです」


 片眼鏡の男は、少し間を置いた。


「真理、ですか。愚かにも、まだ名乗っているのですね」


 研究室の空気が、凍りついた。


 椅子に沈み込んでいた禿頭の老人が、ゆっくりと身を起こした。

 小柄な女の黒い指先が、卓の上で止まった。

 口にした片眼鏡の男でさえ、自分の言葉の重さに気づいたように、黙り込んだ。


 学長の眉が、わずかに動いた。


「……バトモスの言い草だ」


 その名を口にするのは、ずいぶんと久しぶりだった。


 真理を名乗る者を、愚か者と笑う。

 叡智の夢を捨て、一段ずつの積み上げしか信じない。

 かつて、グラウクスを表舞台から追いやった者たちの、口癖だった。


「やはり、そう思われますか」

「だが、あの者たちは、とうに絶えた」


 言い切った。

 ローブの袖の中で、指が、きつく握りしめられていた。


「最後の一人が、書きかけの帳面を抱えたまま、冷たくなっていくのを――」


 言いかけて、口を閉ざした。


 燭台の炎が、小さく揺れた。

 三人は、何も聞かなかったように、目を伏せていた。


「……古い記録に、そうある。絶えた学派の言辞を、何者かが拾い聞いたにすぎぬ」


     ◇


 決めることは、三つあった。


 公爵からの鑑定の依頼は、引き延ばす。

 小瓶は、返さない。

 そして、この粉を持ち込んだ売り手を、探し出す。


「公爵は、黙っていないでしょう」


 小柄な女が、眉をひそめた。


「新参に、秘薬など要るまい」


 小瓶を手に取った。


「あの者たちは、余録を算(かぞ)えていればよい。真理に至らぬ者が、寿命のみを延べて何とする」


 三人が、静かにうなずいた。


 集まりは、それで終わった。

 三つの影が、一つずつ扉の向こうへ消えていく。


 一人、研究室に残った。


 燭台の火を吹き消し、鎧戸を一枚だけ開ける。

 冷たい夜気とともに、月の光が差し込んできた。


 窓の下には、学院の中庭が広がっている。

 その真ん中に、月明かりを受けて、ガラスの屋根がぼんやりと光っていた。


 研究員の誰も入ることのできない、温室。

 庭。


 長いあいだ、その屋根を見下ろしていた。

 手の中の小瓶だけが、ほのかに、闇の中で光り続けていた。


     ◇


[王都・宿の部屋 学]


 同じころ、寝台に寝転がって、市場で買った干しいちじくをかじっていた。


「……っくしょん!」


 盛大なくしゃみが、部屋に響いた。


 枕もとで丸くなっていたモナが、片目を開けた。


「汚いわね。……誰かが、あんたの噂でもしてるんじゃないの」

「まさか。僕の噂なんて、誰がするんだよ」


 鼻をすすって、干しいちじくを、もう一つ口に放り込んだ。


 窓の外には、王都の夜が、静かに広がっていた。

第二章 真理の籠

第五十九話 御伽噺の本

[王都・市場の通り 学]


 懐が重いと、足取りまで軽くなる。


 市場の通りを、鼻歌まじりに歩いていた。

 上着の内側には、買取商から受け取った革袋がある。

 これで、しばらくは宿を追い出される心配もない。


「今度こそ、ちゃんと値切るんでしょうね」


 肩の上で、モナが念を押した。


「わかってるって。もう言い値では払わない。僕は変わったんだ」

「三日前にも、同じこと言ってたわよ」

「三日前の僕とは違うんだよ」


 通りの角を曲がったところで、足を止めた。


 古びた石造りの建物の一階に、小さな店がある。

 軒先には、色の褪せた木の看板。

 窓の向こうには、天井まで届く本棚がのぞいていた。


 古本屋だ。


「……ちょっと寄ってく」

「本なんて読むの? マーナが?」

「読むよ。調べたいことがあるんだ」


     ◇


[王都・古本屋 学]


 店の中は、紙と埃と、乾いた革の匂いがした。


 本棚と本棚のあいだは、人ひとりがやっと通れるほどしかない。

 奥の帳場では、頭に布を巻いた小柄な老婆が、拡大鏡を片手に古い本の綴じ目を繕っていた。

 店に入っても、顔を上げもしない。


「何を調べるの?」

「ロキだよ」


 声をひそめて答えた。


 王宮の一件のあと、王都では「ロキが出た」という噂が、ひと月以上も流れつづけた。

 学のことだ。

 黒幕の姿の学を、人々はロキと呼んでいる。


 だが、この世界の御伽噺を何も知らない。


 ロキという名前なら、知っている。

 前の世界の、北欧の神話に出てくる、いたずら好きの神だ。

 ゲームや漫画で、何度も見た。

 だが、それと同じ神が、どうしてこの世界の御伽噺にもいるのか。

 そもそも、この世界のロキは、どんな神なのか。


「自分が何に似てるって言われてるのか、知らないままってのも、気持ち悪いだろ」

「ふうん。意外とまじめね」

「意外とは何だよ」


 本棚の背表紙を、端から目で追っていった。

 古い字で書かれた題名が多い。

 半分も読めないものもある。


 やがて、一冊の背表紙に、目が留まった。


 分厚い革の装丁で、角がすり切れている。

 そっと棚から引き抜いた。


 表紙に、金の文字が型押しされていた。


『シュタインマルク諸邦口承説話集成』


 その下に、ひとまわり小さな字で、リンデマン兄弟、とある。


「……しょ、しょほう、こうしょう、せつわ……」

「リンデマンね。それ、たぶん元のほうよ」


 モナが、横からのぞき込んで言った。


「人間の家には、たいてい『リンデマンの御伽噺』っていう薄い本があるの。子ども向けに書き直したやつ。これは、その元になった、学者向けのほうね」

「なんでおまえが、そんなこと知ってるんだよ」

「暇なとき、飛び回ってるもの」


 学は、もう一度、表紙の題名を眺めた。

 長い。

 堅苦しい言葉ばかりだ。

 どこで区切ればいいのかもわからない。


「……面倒な名前だな。御伽噺集でいいや」

「子ども向けのほうにしとけば?」

「元のほうが、詳しく書いてあるだろ。たぶん」


     ◇


 最初の頁をめくると、目次が並んでいた。


 知らない題名ばかりだ。

 指でなぞりながら、ひとつずつ読んでいく。


 その指が、ある題名の上で止まった。


『消えた妖精の森』


「あ!」


 モナが、学の肩から身を乗り出した。


「妖精が出てくるの? ねえ、それ読んで。読んで読んで」

「あとでな。今はロキだって」

「ケチ」

「ケチじゃない。順番だ」


 目次の先を急いだ。


 ロキの名前が入った題名は、見当たらなかった。

 仕方なく、前書きのような部分を開いてみる。

 細かい字で、御伽噺に出てくる神々のことが、ひとりずつ書かれていた。


 その中に、ロキの名があった。


 ――ロキ。

 ときに少年として、ときに老婆として現れる。

 ありとあらゆる魔法を使いこなすが、とりわけ姿を変える魔法を好んだ。

 姿を変えてあらゆる場に紛れ込み、多くの魔法で人々を惑わせ、物事を混乱に陥れる。

 御伽噺の数々の事件の裏には、つねにこの神の影がある。


 しばらく、その数行を見つめていた。


「……なあ、モナ」

「なに?」

「これ、僕のことじゃないよな?」


 少年に化けて「へへっ」と消えた夜が、頭をよぎる。

 分隊長に化けた会議。

 衛兵に化けた大広間。

 幻術で炎を出し、水を出し、氷を出し、目の前で消えてみせた。


 モナは、学の肩の上で、腹を抱えて笑っていた。


「ぴったりじゃない」

「ぴったりじゃないよ。僕のは全部、幻術だぞ」

「向こうからは、そんなのわからないもの」


 学は、本をぱたんと閉じた。

 前の世界のロキとも、どことなく似ている。

 変身が好きで、いたずら好きで、厄介ごとの裏にはいつもいる。

 この世界にも、似たような神がいるということか。


「……これ、ください」


 帳場に本を持っていくと、老婆は初めて顔を上げた。

 皺に埋もれた目が、本の題名と、学の顔を、順番に見た。


「リンデマンかい。それも、元のほうとは珍しい」

「ええ。ちょっと、調べものを」

「近ごろ、ロキの話を探しに来る客が多くてね。王宮の騒ぎのせいだろう」


 老婆は、値を告げた。

 学は、言われたとおりの額を、そのまま払った。


 店を出てから、モナが、じっと学を見た。


「……値切るんじゃなかったの?」

「あ」


     ◇


[王都・琥珀の灯亭 学]


 夕暮れの琥珀の灯亭は、今夜もにぎわっていた。


 奥のソファー席で、鶏の焼き物をつついていると、入口のほうから騎士服の姿が近づいてきた。


「シモン殿。お戻りでしたか」

「カタリナさん。ええ、数日前に」


 カタリナは、向かいに腰を下ろした。

 給仕が、何も言わずに葡萄酒を運んでくる。

 この前よりは、いくらか顔色がいい。

 それでも、目の下の影は、まだ消えていなかった。


「故郷は、いかがでした」

「のんびりしてきましたよ。森で魚を釣って、焼いて食べたり」

「森で、魚を」


 カタリナの目が、わずかに見開かれた。


「ご自分で、火を起こして、ですか」

「ええ、まあ。慣れてますから」

「野営の心得が、おありなのですか」


 なぜか、妙に感心されている。

 十年、森で暮らしていたとは、さすがに言えない。


「……昔、少しだけ」

「意外です。シモン殿は、もっと、その……」

「その?」

「……街の暮らしが似合う方だと思っていました」


 カタリナは、言葉を選んで言った。

 頼りなさそう、と言いかけたのだろうと、思った。


「カタリナさんは、研修のほうは」

「もうすぐ、終わります」


 カタリナは、杯の葡萄酒を見つめた。


「終われば、近衛です。配属の日取りも、そろそろ決まるでしょう」

「おめでとう……で、いいんですかね」

「どうでしょうね」


 カタリナは、少しだけ笑った。

 笑っているのに、ちっとも嬉しそうではなかった。


 それ以上は聞かなかった。

 帰ったら話を聞いてやろう、と果ての大陸で思っていたことを、思い出す。

 だが、聞いてほしくない話もあるのだろう。


     ◇


[王都・買取商の店 学]


 数日後。


 鑑定の結果を聞きに、買取商の店をのぞいた。


 店主は、帳場の奥で、帳面を広げたまま、ぼんやりと宙を見ていた。

 学に気づくと、慌てて立ち上がる。


「シモン様。あいにく、まだでございまして」

「そうですか」

「公爵閣下が、学院に鑑定をお頼みになったそうで。昨日もお屋敷にうかがったのですが、学院からは、まだ何も返ってこない、と」


 学院。

 たしか、夜道で助けたテオドールとかいう男も、学院の人間だったはずだ。


 店主の顔色が、悪かった。

 目の下に、くまができている。

 眠れていないような顔だった。


「大丈夫ですか」

「い、いえ。お客様からお預かりした品が、私の手を離れて、もう何日も戻ってこないと思うと、どうにも落ち着きませんで」


 店主は、力なく笑った。

 国宝かもしれない品を、客から預かったまま、手もとから離してしまっているのだ。

 眠れないのも、無理はない。


 もう少し待つと告げて、店を出た。


 戸口の鈴が鳴り終わるまで、店主は、学の背中を心細そうに見送っていた。

第二章 真理の籠

第六十話 店先の客

[王都・買取商の店 店主]


 ブルーノ・ケラーは、この店を構えて、三十年になる。


 大通りから一本入った、落ち着いた店構え。

 棚には、獣の牙や、魔物の皮や、遠い山で採れた珍しい色の石が並んでいる。

 組合にも入っていない山師が持ち込む怪しげな品もあれば、狩人組合の腕利きが命がけで持ち帰った本物もある。

 それを一つずつ見分けて、正しい値をつけるのが、ブルーノの仕事だった。


 三十年のあいだに、いろいろな品を見てきた。

 人も、見てきた。


 だが、椅子から滑り落ちたことは、この春まで一度もなかった。

 一度目は、ドラゴンの鱗。

 二度目は、つい先日の、妖精の粉だ。


     ◇


 その朝も、帳場で帳面をつけていた。


 ペンを走らせながら、ふと手が止まる。

 帳面のある頁に、目が吸い寄せられる。


 シモン。

 ドラゴンの鱗、三枚。

 妖精の粉と称する品、小瓶一つ。

 鑑定のため、公爵閣下にお預け。


 ため息をついた。


 あの小瓶は、今どこにあるのだろう。

 公爵閣下のお屋敷か。

 それとも、まだ学院の奥か。


 客から預かった品が、自分の手を離れて、もう何日も戻らない。

 三十年、こんなことは一度もなかった。


 戸口の鈴が、からんと鳴った。


「いらっしゃいま――」


 顔を上げて、言葉を途中で飲み込んだ。


     ◇


 入ってきたのは、二人の男だった。


 一人は、背が高く、痩せている。

 もう一人は、背が低く、肩幅ばかりが広い、ずんぐりとした男だ。

 どちらも、くすんだ色の長衣を着ていた。

 学者か、書記か、そういう者が好んで着る、地味な身なりだ。


 だが、目つきが違った。


 三十年、人の目を見てきた。

 品を売りに来る者の目。

 買いに来る者の目。

 値をごまかそうとする者の目。


 この二人の目は、そのどれでもなかった。

 品を見ていない。

 店の中のものを、ひとつずつ値踏みしているのでもない。

 ブルーノだけを、まっすぐに見ていた。


「店主だな」


 背の高い男が言った。

 声は低く、静かだった。


「は、はい。ケラーでございます。何か、お売りになりたい品でも」

「売る物はない。聞きたいことがある」


 男は、帳場の前まで歩いてきた。


「先日、ここへ妖精の粉が持ち込まれたはずだ」


 ブルーノの背中に、冷たいものが走った。


     ◇


 あの小瓶のことを知っているのは、ごくわずかな人間だけのはずだった。


 自分。

 売り手のシモン様。

 それから、公爵閣下と、そのお屋敷の者。

 そして、鑑定を頼まれた、学院の誰か。


 公爵閣下の使いなら、まず名乗るはずだ。

 名乗らないということは。


「……何のことでございましょう」

「とぼけなくていい。粉を持ち込んだのは、お前の店だ。それはわかっている」


 男は、帳場に片手をついた。


「知りたいのは、その粉の売り手だ。どこの誰だ」


 ブルーノは、ごくりと唾を飲み込んだ。


「お、お客様の素性は、申し上げられません」

「ほう」

「それが、この商いの筋でございます。品の出どころを根掘り葉掘り聞かれたら、誰も安心して品を持ち込めなくなる。三十年、そうしてやってまいりました」


 声が震えないように、腹に力をこめた。


 公爵閣下には、お名前をお伝えした。

 だが、それは、シモン様ご本人にお許しをいただいたからだ。

 名乗りもしない男たちに、話してよい道理はない。


 あのドラゴンの鱗を持ち込んだ男が、店主に名を明かされると思っていたら、この店には来なかっただろう。

 二度目に訪ねてきて、妖精の粉を差し出すこともなかったはずだ。


 椅子から二度も落ちた男にも、商人としての意地はある。


     ◇


 背の高い男は、しばらく黙ってブルーノを見ていた。


 それから、帳場の上の帳面に、目を落とした。


「その帳面を、見せてもらおう」

「それは……」

「売り手の名くらいは、書いてあるのだろう」


 ブルーノは、とっさに帳面を閉じた。

 両手で、その上を押さえる。


 背の高い男の口もとが、わずかに歪んだ。

 笑ったのかどうか、ブルーノにはわからなかった。


 そのあいだに、ずんぐりとした男が、店の中をゆっくりと歩き回っていた。


 棚の前で立ち止まる。

 乾いた魔物の皮を、指でつまんで、ひらひらと揺らす。

 古い羊皮紙の巻物を、手に取って、また戻す。

 油を染ませた木の箱を、こつこつと叩く。


「乾いた品が、多いな」


 男は、独り言のように言った。


「皮に、紙に、油の箱。この店は、よく燃えそうだ」


 ブルーノの手が、帳面の上で、こわばった。


「火の始末には、気をつけたほうがいい」


     ◇


 背の高い男は、帳場から手を離した。


「売り手の住まいは」

「……存じません」

「嘘をつくな」

「本当に、存じないのです。あの方は、いつも、ご自分のほうからいらっしゃいます。お宿をうかがったこともございますが、教えてはいただけませんでした」


 男は、ブルーノの顔を、じっと見た。


 ブルーノは、目をそらさなかった。

 それは、本当のことだったからだ。


 あの日、シモン様は、宿を教えてくれなかった。

 お宿をうかがうと、ご自分のほうから来ると言って笑った。

 そのときは、少し水くさいと思った。


 今は、それが、ありがたかった。


 もし宿を知っていたら、自分はこの男たちに、それを言わずにいられただろうか。

 燃えそうだと言われた棚の前で、帳面を押さえる手を、離さずにいられただろうか。


 わからない。

 わからないから、知らなくてよかった。


 生まれて初めて、客の宿を知らないことに感謝した。


     ◇


「いいだろう」


 背の高い男が、きびすを返した。

 ずんぐりとした男も、最後に棚の皮をひと撫でして、あとに続く。


 戸口で、背の高い男が振り返った。


「明日、また来る」


 静かな声だった。


「それまでに、思い出しておけ」


 戸口の鈴が、からんと鳴った。


 帳面の上に両手を置いたまま、しばらく動けなかった。

 手のひらの下で、帳面が、じっとりと汗に湿っていた。

第二章 真理の籠

第六十一話 取引相手

[王都・買取商のある通り 学]


 あれから、店には、ときどき顔を出すことにしていた。


 鑑定の結果は、まだ出ていないだろう。

 それでも、あの店主の、心細そうな顔が気にかかっていた。

 客の品が手を離れて眠れない、と言っていた。

 様子を見に行くくらいは、してやってもいい。


「マーナって、そういうとこ、律儀よね」

「律儀じゃない。暇なだけだ」


 大通りから一本入った角を曲がる。

 買取商の店構えが見えてきた。


 足を止めた。


     ◇


 店の窓の向こうに、人影が三つあった。


 帳場の奥に、店主。

 その前に、見知らぬ男が二人。

 一人は背が高く痩せていて、もう一人は背が低く、ずんぐりとしている。

 どちらも、くすんだ色の長衣を着ている。


 客には見えなかった。


 背の高い男が、帳場に片手をついて、店主のほうへ身を乗り出している。

 ずんぐりとした男は、棚の前に立って、乾いた獣の皮を指でつまみ上げていた。

 窓越しにも、店主の顔が青ざめているのがわかる。


「……なんだ、あれ」


 窓の脇の壁に身を寄せた。

 窓のすき間から、低い声が漏れ聞こえてくる。


「思い出したか」

「で、ですから、存じ上げないと……」

「売り手の名は。住まいは。粉は、どこから持ち込まれた」

「お、お客様のことは、申し上げられません」


 ずんぐりとした男が、獣の皮を、ゆっくりと棚に戻した。


「昨日も言ったはずだ。この店は、よく燃えそうだ、と」


 学は、眉をひそめた。


 粉。

 売り手。

 ……僕のことか。


     ◇


「ねえ、マーナ」


 肩の上で、モナが言った。

 声に、いつもの笑いがなかった。


「見過ごすの?」


 学は、窓の向こうの店主を見た。


 白髪まじりの頭。

 ずれかけた眼鏡。

 ドラゴンの鱗を見て椅子から滑り落ち、妖精の粉を見て、また滑り落ちた男。

 ふた月半、残りの代金を、律儀に取っておいてくれた男。


 あの店主は、今、学のことを言わずにいる。

 燃えそうだと脅されても、まだ言わずにいる。


「……あの店主、残りのお金、ちゃんと取っておいてくれたしな」

「それだけ?」

「それだけだよ」


 店の脇の細い路地に入った。


 人目のないことを確かめて、深く息を吸う。


「――表示」


     ◇


[王都・買取商の店 学]


 戸口の鈴が、からんと鳴った。


 店の中の三人が、いっせいに振り返った。


 戸口に、一人の紳士が立っていた。


 艶のある黒髪を撫でつけ、夜のように深い色の外套を羽織っている。

 襟もとに、銀糸の刺繍。

 白く冷たい顔の中で、赤い瞳だけが、店の薄暗がりに静かに光っていた。


「失礼。お取り込み中でしたか」


 紳士は、ゆっくりと店の中へ入ってきた。

 靴音が、床板の上で、ひとつずつ響く。


 背の高い男が、帳場から手を離した。


「……何者だ」

「客ですよ。この店の」


 紳士は、店主のほうへ目をやった。

 店主は、口を半開きにしたまま、紳士を見つめている。


「その店主は、私の取引相手だ」


 紳士は、穏やかに言った。


「品の値の交渉でしたら、私がお受けしましょう。店主を煩わせるには及びません」


 背の高い男の目が、すっと細くなった。


「あの粉の、持ち主か」

「さて。どう思われます?」


 紳士は、答えなかった。

 答えないまま、微笑んだ。


     ◇


 ずんぐりとした男が、懐から帳面を取り出した。


 紐で綴じた、手のひらほどの帳面だ。

 男は、それを紳士の前に突き出した。


「名を言え。どこの誰だ。ここに書き留める」


 紳士は、その帳面に、ちらりと目を落とした。


 男の書き付けが、びっしりと並んでいる。

 人の名。

 店の名。

 通りの名。


 その文字の端が、ふわりと浮いた。


 一文字が、黒い羽になった。

 また一文字が、黒い羽になった。

 羽は、紙の上からはがれるように舞い上がり、男の手もとを、ひらひらと黒く覆っていく。


「な……っ」


 男は、帳面を取り落とした。

 床に落ちた帳面の頁から、黒い羽が、あとからあとから舞い上がる。

 見る間に、頁は白くなっていった。


 背の高い男が、とっさに自分の懐を押さえた。

 そこにも、何か書き付けが入っているのだろう。

 その指先から、黒い羽が一枚、するりとこぼれ落ちた。


 背の高い男は、懐から手を引っ込めた。


「書き留めるのは、おやめになったほうがよろしい」


 紳士は、床の帳面を、靴の先で軽くつついた。


「書いたものは、いつか読まれる。読まれたくないものまでね」


 羽は、床に落ちる前に、霧のように消えた。


 男たちの顔から、血の気が引いていた。

 背の高い男は、それでも一歩も引かずに、紳士をにらみつけていた。


「……粉の出どころを、言え」


 かすれた声だった。


「あれが、どこから来たのか。それさえ言えば、この店にも、お前にも、用はない」


 紳士は、少し首をかしげた。


 粉の出どころ。

 果ての大陸の、妖精の森の、古い大樹のうろ。

 そんなことを言えるはずもない。

 言ったところで、信じるはずもない。


 だいたい、人のものの出どころを、どうしてこうもしつこく聞くのか。

 探したいなら、自分で探せばいいのだ。


「粉の出どころを知りたければ」


 紳士は、ゆっくりと言った。


「ご自分の庭を、よく探されることだ」


 店の中が、しんと静まりかえった。


 背の高い男の顔色が、目に見えて変わった。

 ずんぐりとした男が、ごくりと喉を鳴らした。

 二人は、互いに目を見交わした。


 紳士は、顔色ひとつ変えずに、内心で面食らっていた。

 何だ。

 今の、そんなに効いたのか。


「……行くぞ」


 背の高い男が、低く言った。

 ずんぐりとした男が、床の帳面を拾い上げた。

 頁には、もとのとおり、びっしりと文字が並んでいた。

 男は、それを、信じられないものを見るように見つめた。


 二人は、逃げるように店を出ていった。


 戸口の鈴が、からんと鳴った。


     ◇


 紳士は、帳場の店主に向き直った。


 店主は、帳面を胸に抱えたまま、ぽかんと口を開けている。


「騒がせたね」


 それだけ言って、紳士は外套の裾をひるがえした。


 店を出る。

 通りを歩く。

 背筋を伸ばし、足取りを乱さず、角まで。


 角を曲がった。


 人通りのない路地に入ったとたん、壁に背中を預けて、ずるずるとしゃがみ込んだ。

 膝が、がくがくと震えていた。


「……庭って何だよ、僕」

第二章 真理の籠

第六十二話 庭

[王立リュケイオン学院・裏門 警備のまとめ役]


 エルンスト・ヴァルトは、学院の裏門をくぐってからも、しばらく口をきかなかった。


 隣を歩く相棒も、黙っている。

 懐の帳面を、何度も上から押さえていた。

 中を確かめたいのに、開くのが怖い。

 そういう手つきだった。


 エルンストにも、その気持ちはわかった。


 自分の懐の書き付けからも、黒い羽が一枚、こぼれ落ちたのだ。

 指先を、羽の先がかすめていった。

 あの感触が、まだ残っている。


「……なあ、ヴァルト」


 相棒が、ようやく口を開いた。


「あいつ、庭って言ったよな」

「言った」

「ご自分の庭を、よく探されることだ、って」

「わかっている」


 エルンストは、学院の中庭のほうへ目をやった。


 本棟と研究棟に囲まれた、その真ん中。

 木立の向こうに、ガラスの屋根が、昼の光を照り返している。

 すぐそばには、鐘のない時計塔が、細長い影を落としていた。


 自分たちが、夜ごと、梟の面をつけて見回っている場所だ。


     ◇


 薬草園の警備の者は、十人ほどいる。


 ガラスの目が二つ並んだ面をつけて、夜の中庭を見回る。

 闇の中でも人の姿が見えるその面を、警備の者たちは、梟の面と呼んでいた。

 塀の上の筒が、耳に刺さるような音で鳴れば、真っ先に駆けつける。

 それが、エルンストたちの務めだった。


 中に何があるのかは、知らない。

 知ろうとしたこともない。

 教授たちが「庭」と呼ぶその温室を、命じられたとおりに守る。

 それだけだ。


 ときどき、こうして別の用を言いつけられることもある。

 今度の用は、ある買取商から、妖精の粉の売り手を聞き出すこと。

 簡単な仕事のはずだった。


 そこへ、あの男が現れた。


 黒い髪。

 赤い目。

 夜のような外套。

 帳面の文字を、目の前で黒い羽に変えた男。


 そして、あの男は言った。

 ご自分の庭を、よく探されることだ、と。


 庭。

 学院の外の人間が、その言葉を、あの温室のことだと知っているはずがない。


 知っているはずが、ないのだ。


     ◇


[学院・片眼鏡の教授の部屋 エルンスト]


 報告は、片眼鏡の教授の部屋で行った。


 話し終えると、教授は、しばらく何も言わなかった。

 片眼鏡の奥の目が、机の上の一点を見つめたまま、動かない。


「……庭、と言ったのだな。その男は」

「はい。たしかに」

「お前たちのことを、庭の者と知って、そう言ったのか」

「わかりません。ですが、そうとしか思えませんでした」


 教授は、片眼鏡を外して、目頭を押さえた。


「ついてこい。学長に、じかに話せ」


 エルンストは、思わず背筋を伸ばした。


 学長と言葉を交わしたことなど、一度もない。

 遠くから、白い髪と明るい色のローブを見かけたことがあるだけだ。


     ◇


[学院・学長の研究室 エルンスト]


 学長の研究室で、同じ話をもう一度した。


 買取商の店。

 口を割らない店主。

 戸口に立った、黒い外套の男。

 黒い羽。

 そして、庭。


 学長は、窓を背にして、黙って聞いていた。


 話が男の姿に及んだとき、学長の指が、わずかに動いた。


「黒髪を撫でつけていた、と」

「はい」

「双眸は、赤」

「はい。薄暗い店の中でも、光って見えました」

「夜色の外套。襟に、銀糸の繍(ぬい)」

「……はい」


 言葉を詰まらせた。

 外套の襟の縫い取りまでは、まだ話していなかった。


 学長は、片眼鏡の教授のほうへ、目だけを向けた。


「王宮の大広間に顕れた者の相貌と、符合する」

「……ロキ、ですか」


 教授の声が、かすれた。


     ◇


[学院・学長の研究室 学長]


 窓のほうへ向き直った。


 窓の下には、学院の中庭が広がっている。

 ガラスの屋根。

 その横の、鳴らない時計塔。


 ロキ。


 王都を騒がせた男の噂は、学長の耳にも、とうに届いていた。

 王宮の御前会議に衛兵の姿で紛れ込み、公爵の背後に現れ、玉座の前で消えた男。

 騎士団の会議に分隊長の姿で現れ、去りぎわに、絶えた学派の言い草を残した男。


 新参どもの贋金の計画を、ひとりで潰した男だ。


 それを聞いたとき、冷ややかに笑っただけだった。

 新参どもが、銀貨の数え方を誤った。

 それだけのことだと思っていた。

 グラウクスには、何の関わりもない話だと。


 だが、その男が、今度は、庭の名を口にした。


 あの粉の売り手の代わりに現れ、粉の出どころを問われて、庭を探せと言った。


「かの粉の出所は、その者と見て相違あるまい」


 低く言った。


「加えて、その者は、庭の所在を知悉している」


 背後で、教授が息をのんだ。

 警備の男は、わけもわからない顔で、ただ立ち尽くしていた。


     ◇


 窓の外を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 用心すべきだ、と、頭のどこかが告げていた。


 あの男が庭を知っているのなら、次に何をするかわからない。

 警備を増やすべきだ。

 庭への出入りを、いっそう厳しくするべきだ。

 新参どもの二の舞は、ごめんだった。


「庭の巡察を、今宵より厚くせよ」


 振り向かずに言った。


「売り手の行方は、引き続き探らせますか」

「継続せよ。ただし、かの買取商への干渉は控えよ」

「なぜです」

「その者は、店主を取引の相手と称したのだろう」


 窓ガラスを、指の先で軽く叩いた。


「干渉の代償が、帳面の文字で済むとは限らぬ。……加えて、あの店は、その者に至る唯一の経路だ。経路は、断つより、用いるものだ」


 片眼鏡の教授が、深く頭を下げた。

 警備の男は、自分の懐を、そっと押さえていた。


 だが、用心とは別のものが、胸の奥で、静かに頭をもたげていた。


 三つ以上の魔法を使い、姿を変え、目の前で消える男。

 光る粉を持ち、絶えた学派の言葉を口にし、我々の庭を知る男。


 それが何者なのか。

 どこから来て、何を求めているのか。


 知りたい、と思った。


 長い年月のうちに、すっかり忘れていた感覚だった。


 窓ガラスに映った自分の顔を見た。

 その目が、まるで若い研究者のように、わずかに光っていた。


「ロキ、か」


 ガラスの屋根を見下ろしたまま、つぶやいた。


「……かの者は、何を、どこまで知っている」

第二章 真理の籠

第六十三話 旦那様

[王都・買取商の店 学]


 翌日、いつもの四十五歳の顔で、買取商の店をのぞいた。


 昨日のことが、気にならないわけではなかった。

 あの二人が、また来ていないか。

 店主が、無事でいるか。


 それに、黒幕の姿で「取引相手だ」と言い切ってしまった以上、普段の姿で顔を出しておかないと、かえって妙な気がした。


「昨日の今日で、よく来るわね」

「様子を見るだけだよ。普通の客として」

「普通の客は、昨日みたいに、店で幻術を使ったりしないのよ」


 戸口の鈴が、からんと鳴った。


     ◇


 帳場の奥で、店主が顔を上げた。


 学の顔を見るなり、店主は椅子から跳ねるように立ち上がった。

 眼鏡がずれる。

 帳面が床に落ちる。

 それを拾いもせずに、店主は帳場の前まで飛び出してきた。


 そして、深々と頭を下げた。


「シモン様。昨日は、まことに、まことに、ありがとうございました」

「え?」

「いえ、シモン様に申し上げるのは、筋違いかもしれません。ですが、どうしても、お礼を」


 学は、まばたきをした。


 店主は、頭を上げようとしない。

 帳場の床板を見つめたまま、震える声で続けた。


「昨日、妙な男たちが店に参りまして。粉の売り手はどこの誰かと、それはもう、しつこく」

「は、はあ」

「私は、申しませんでした。シモン様のお名前も、何も」

「……それは、どうも、ありがとうございます」

「それで、もう、店に火でもつけられるのではと思っておりましたところへ、あの方が」


 店主は、ようやく顔を上げた。


 その目が、妙にきらきらしていた。


「シモン様。昨日の方は、あなたの……」


 店主は、声をひそめた。

 店の中には、学と店主のほかに誰もいないというのに。


「……ご主人で?」


     ◇


 固まった。


 ご主人。

 昨日の方。

 黒い外套の、赤い目の、あの紳士。


 それは、僕です。


 肩の上で、モナが、ぶはっと噴き出した。


「あの方は、ご自分を、私の取引相手だとおっしゃいました」


 店主は、熱っぽく続けた。


「値の交渉なら、ご自分が受けると。それで、わかったのです。あの粉は、本当は、あの方のものなのでしょう。シモン様は、あの方の代わりに、品をお持ちくださっていた」


 違う。

 全然違う。


 だが、どう違うと言えばいいのか。

 あれは僕です、と言うわけにはいかない。

 知らない人です、と言えば、昨日の紳士がなぜ店主をかばったのか、説明がつかない。


 口を開いた。

 閉じた。

 もう一度、開いた。


「……ええ、まあ。そんなところで」


 肩の上で、モナが笑い転げた。


 学の肩から転がり落ちそうになって、上着の襟にしがみついている。

 羽が、ぱたぱたと学の頬を叩いた。


「やはり!」


 店主は、胸の前で両手を握りしめた。


「お名前は、うかがっても……いえ、いえ。申し訳ございません。お尋ねするのも、無粋でございますね。ああいうお方は、名乗らないものでございましょう」


 店主は、ひとりで納得して、何度もうなずいた。


     ◇


 店主は、学を奥の椅子に座らせると、棚の奥から、小さな錫の缶を大事そうに取り出した。


 今日は、いつもの茶ではないらしい。

 西の国の商人から、伝手で分けてもらっている、緑の茶だという。

 取っ手のない、白い茶碗に湯が注がれると、懐かしい香りが、ふわりと立ちのぼった。


 緑茶だ。

 前の世界の、会社の給湯室の匂いに、少しだけ似ている。


「とっておきでございます。この国では、まずお目にかかれない品で」


 店主は、茶碗を学の前に置くと、申し訳なさそうに続けた。


「それで、鑑定のほうは、まだでございまして。公爵閣下のほうからも、学院へ、まだかと催促が出ているそうです。閣下も、ずいぶん気にかけておいでのようで」

「そうですか」

「あの方にも、どうか、そうお伝えください。決して、品をおろそかにしているわけではない、と」

「あの方……」

「シモン様の、旦那様に」


 学は、茶にむせそうになった。


 旦那様。

 自分の、旦那様。


 肩の上で、モナが、また笑い転げはじめた。

 今度は、本当に肩から転がり落ちた。

 床に落ちる寸前で、ふわりと浮き上がり、腹を抱えたまま宙で転げまわっている。


 学は、店主に見えないように、ちらりとモナをにらんだ。


     ◇


 帰りぎわ、店主は、紙の包みを一つ、学の手に握らせた。


「これを。あの方に」

「これは」

「蜂蜜の焼き菓子でございます。王都でいちばんの菓子屋のもので。あのようなお方のお口に合うかどうか、わかりませんが」


 包みは、ほんのりと甘い匂いがした。


「ご主人様に、どうぞ、よろしくお伝えください」


 店主は、戸口まで出てきて、深々と頭を下げた。


 包みを抱えたまま、通りへ出た。


 戸口の鈴が、背中で、からんと鳴った。


     ◇


[王都の通り 学]


 通りを歩きながら、手の中の包みを見下ろした。


「……どうするんだよ、これ」

「食べればいいじゃない。ご主人様が」

「ご主人様は僕だよ」

「知ってるわよ。あはは、旦那様!」


 モナは、学の頭の上で、足をばたつかせて笑っている。


 学は、ため息をついて、包みの紐をほどいた。

 一つつまんで、口に放り込む。


 甘い。

 蜂蜜の匂いが、口いっぱいに広がった。


「……うまいな、これ」

「ご主人様の分でしょ、それ」

「ご主人様が食べてるんだから、いいんだよ」


 もう一つ口に入れて、角を曲がった。


     ◇


[買取商の向かいの軒下 長衣の男]


 その背中を、通りの向こうの軒下から、くすんだ色の長衣の男が、じっと見送っていた。


 男は、懐から、紐で綴じた手のひらほどの帳面を取り出した。

 少しためらってから、指先で、そっと頁をめくる。

 文字は、ちゃんと並んでいた。


 男は、ほっと息をついて、新しい一行を書きつけた。


 昼過ぎ。

 身なりのいい、冴えない顔の中年の男、ひとり。

 買取商に入り、出る。

 菓子の包みを持つ。

第二章 真理の籠

第六十四話 円卓の後始末

[大商会の奥・窓のない部屋 ユリウス]


 窓のない部屋に、今夜も燭台がともっていた。


 厚い扉は二重。

 店の者でさえ、その存在を知らない。

 円卓を囲む四つの椅子と、空いたままの上座。


 ユリウス・ノイマンは、円卓から一歩下がった場所に立っていた。

 いつもの位置だった。


 アレテイアには、二つの顔がある。

 学院の奥で、真理とやらを追い続ける古い学者たち。

 そして、その学問を金で支えるために迎え入れられた、商人と貴族の一派――自分たち支柱派だ。

 円卓に座れるのは、支柱派の幹部の四人だけ。

 上座に座るはずの「あの御方」が誰なのか、自分は知らない。


「王家の調べは、どこまで進んでいる」


 恰幅のいい大商人が、苛立ちを隠そうともせずに言った。


「回収された銀貨の流れを、宰相が一枚ずつ追わせております」


 手もとの書き付けに目を落とした。


「鋳造所の帳簿に残っている引き渡し先は、伯爵の荷を預かった運び手、という名目です。そこから先は、各地の支店と取引先に散らしてありますので、まず追えません。ただ……」

「ただ、何だ」

「宰相は、銀貨に鋳造所の刻印を入れることを、本気で検討しているようです」


 まだ若い大商人が、顔をしかめた。


「刻印が入れば、二度と同じ手は使えんな」


 すかさず、痩せた貴族が言い返した。


「同じ手など、二度と使えるものか。王都じゅうが、贋金の話で持ちきりだったのだぞ」


     ◇


 このひと月あまり、ほとんど眠っていなかった。


 帳簿を書き換える。

 運び手の名目を、ひとつずつ整える。

 銀貨を受け取った支店の帳面を、ほかの荷の帳面と混ぜて、見分けがつかないようにする。

 計画のために動いた使いには、遠い支店へ移るよう言い含めた。


 どれも、表の商いの顔をしたまま、静かにやらなければならない。

 王家の調べが、いつ、どこから入ってくるかわからないのだ。


 円卓の四人は、それを見て、口々に言う。

 遅い。

 甘い。

 抜けがある。


 そのたびに頭を下げた。


 空いた上座の椅子に、ちらりと目をやる。

 今夜も、あの御方は来ていない。

 御前会議のあとから、一度も。


 すべて我々で収めよ。

 その言葉が、ずっと、この部屋の空気を重くしていた。


     ◇


「それで」


 白い髭の、年かさの貴族が、ゆっくりと口を開いた。


「ロキのほうは、どうなった」


 ユリウスは、背筋を伸ばした。


「あの男が現れた場所を、すべて洗わせました。市場の両替商、ジルバータール、学院のそばの路地、伯爵の屋敷、騎士団の詰め所、王宮」

「それで、何が出た」

「男そのものの足取りは、何も」


 痩せた貴族が、鼻を鳴らした。


 ユリウスは、構わずに続けた。


「ただ、一つだけ、妙なことがわかりました」


 円卓の四人が、こちらを見た。


「市場の両替商の騒ぎの場に、騎士団の女騎士が居合わせています。ジルバータールの製錬所に踏み込んだのも、同じ女騎士です。伯爵の夜会にも、騎士団の会議にも、王宮の大広間の傍聴の席にも、同じ女がいました」

「同じ女、だと」

「六つの場のうち、五つに」


 書き付けを一枚、円卓の上に置いた。


「カタリナ・フォン・ヴァイスフェルト。ヴァイスフェルト伯の娘です」


 部屋が、しんと静まりかえった。


「……あの、盾の家の娘か」


 恰幅のいい大商人が、低くうなった。


「偶然とは、思えません」


 言った。


「あの男は、要所に必ず現れました。そして、その要所には、必ずこの娘がいた。あの男とこの娘のあいだに、何かがあるはずです」


     ◇


「見張らせろ」


 年かさの貴族が、短く言った。


「ただし、手は出すな。ヴァイスフェルトの娘に何かあれば、今度こそ王家が本気で動く」

「心得ております」


 頭を下げた。


 会合は、それで終わるはずだった。


 だが、年かさの貴族は、立ち上がりかけて、ふと動きを止めた。


「もう一つ。学院の連中が、何かを抱え込んでいるらしい」

「学院、ですか」


 思わず聞き返した。


 年かさの貴族は、苦いものでも噛んだような顔をした。


「上から、そう聞いている。返すべきものを、返さずにいる、とな。……学者どもめ」


 それ以上は、何も言わなかった。


 ユリウスには、何の話なのか、まるでわからなかった。

 学院は、贋金の中身を調べさせられている場所だ。

 それが、何を抱え込んでいるというのか。


 尋ねようとしたときには、円卓の四人は、もう扉のほうへ歩き出していた。


     ◇


[商会の奥・ユリウスの執務室 ユリウス]


 夜更けだというのに、窓の外は、まだ街の灯りがちらちらと揺れていた。


 裏口の連絡役が、一人の男を連れて入ってきた。


 岩のような体つきの、首の太い男だった。

 男は、執務室の上等な調度を、落ち着かなげに見回していた。


「この者が、女騎士の見張りを買って出ております」


 連絡役が言った。


「学院のそばの路地で、あの男に邪魔をされた者です」


 男を見た。


 顔を見るのは初めてだが、名前は覚えていた。

 手下の炎弾を、それより大きな炎で呑み込まれた男。

 上の者からの指示だと思い込み、引き下がった男。

 その報告を受けたとき、この男を役立たずだと切り捨てた。


「シュヴァルツ、と言ったな」

「……へい」

「なぜ、名乗り出た」


 男は、唇の端を、ゆがめるように吊り上げた。


「あいつには、借りがありましてね」


 細い目の奥に、暗い火がともっていた。


「手は出すな」


 念を押した。


「女が、どこへ行き、誰と会い、誰と話すか。それだけを見ろ」

「騎士さまに、手なんか出せやしませんよ」

「特に、男だ。あの女のそばに、妙な男がいないか。身なりも、年も、問わん」


 返事の代わりに、太い首が、小さく縦に揺れた。


 窓の外の灯りに目をやった。


 あの男を見つけ出し、この失態を、何倍もの手柄で塗り替える。

 あの円卓に連なる日が来るとすれば、それは、その先にしかない。


 背後で、くぐもった笑い声がした。


「あの女を追えば、あいつに会えるってわけだ」


 分厚い拳を握りしめる、ぎり、という音が聞こえた。


「……覚えてろよ」

第二章 真理の籠

第六十五話 背中の視線

[騎士団の詰め所 カタリナ]


 朝の詰め所は、いつものように騒がしかった。


 夜警から戻った騎士たちが、あくびをかみ殺しながら鎧の留め金を外している。

 これから見回りに出る者は、剣帯を締め直し、互いの肩当てを叩いて確かめ合う。

 その喧騒の中で、自分の手袋の指先を引っぱっていた。


「おい、行くぞ」


 戸口から、ハルトマン殿の声がした。


「お前……いや、ヴァイスフェルト殿。今日は、西の市場から川沿いを回る」

「はい、ハルトマン殿」


 手袋をはめ直して立ち上がった。


 ハルトマン殿は、相変わらずだった。

 お前と言いかけて、ヴァイスフェルト殿と言い直す。

 もう何十回も聞いた言い直しだ。

 それでも、この先輩の不器用な呼び方が嫌いではなかった。


     ◇


[王都・西の市場 カタリナ]


 西の市場は、朝から人であふれていた。


 荷車が行き交い、物売りが声を張り上げる。

 焼きたてのパンの匂いと、干し魚の匂いと、馬の匂いが、一緒くたになって流れてくる。


 ハルトマン殿の半歩後ろを歩きながら、通りの左右に目を配った。


 研修が始まったころは、何を見ればいいのかもわからなかった。

 今は、少しだけわかる。

 財布を狙う子どもの手つき。

 値をごまかす天秤。

 酔って絡みはじめる前の、男の目。


 この街を、こうして歩く日々も、もうすぐ終わる。


「浮かない顔だな」


 ハルトマン殿が、前を向いたまま言った。


「そうでしょうか」

「研修の終わりが近いやつは、たいていそういう顔をする。……近衛か」

「……はい」


 ハルトマン殿は、それ以上は何も聞かなかった。

 ただ、少しだけ歩く速さを落とした。


     ◇


 市場の端の噴水の前で、ふと足を止めた。


 噴水の向こうの屋台で、一人の男が、焼き串をかじっていた。


 岩のような体つきの、首の太い男だ。

 細い目が、こちらを見ていた。

 目が合うと、男は、ゆっくりと屋台のほうへ向き直った。


 ただ、それだけのことだった。


 だが、その顔に、見覚えがある気がした。


 半刻ほど前、詰め所を出てすぐの通りで、同じような男が、壁にもたれていたのだ。


「どうした」

「いえ……何でもありません」


 気のせいだろう。

 首の太い大男など、王都にはいくらでもいる。


 ハルトマン殿のあとを追った。


     ◇


[騎士団の詰め所・分隊長の部屋 カタリナ]


 昼過ぎ、詰め所に戻ると、分隊長の部屋に呼ばれた。


 扉を叩いても、返事がない。

 もう一度叩いて、そっと押し開ける。


 ベルトルト・フォン・クラインベルクは、窓際に立っていた。


 手には、小さな手鏡。

 それを額のあたりにかざし、首をかしげ、少し角度を変えて、またかざしている。

 空いたほうの手の指が、額の生え際を、一本ずつ押さえるように動いていた。


 数えている。


 見てはいけないものを見た気がした。


「……失礼いたします」


 分隊長は、飛び上がった。

 手鏡が、床に落ちて、からんと鳴った。


「ヴァ、ヴァイスフェルト殿か。叩いたか?」

「二度、叩きました」

「そうか。そうか。……いや、窓の具合を見ていたのだ。窓の」


 分隊長は、咳払いをして、手鏡を拾い上げ、そそくさと引き出しにしまった。


 あの成り代わり事件以来、分隊長は、鏡を見るたびに髪の数を数えている、という噂だった。

 本当だったのだ。


 笑いそうになるのを、必死にこらえた。


     ◇


 分隊長は、机の上の書き付けを一枚、こちらに差し出した。


「近衛騎士団から、内示が届いた」


 受け取ろうとした手が、一瞬止まった。


「研修は、今月いっぱいで終わる。来月の頭には、近衛へ移ってもらうことになる。王宮の、奥向きの警護だ。……まあ、出世の道だな。おめでとう、と言っておくべきなのだろう」


 分隊長の声は、言葉ほどには明るくなかった。


 書き付けに目を落とした。

 近衛騎士団。

 配属の日取り。

 父の名で出された、推薦の文言。


 ずっと前から決まっていたことだ。

 わかっていた。

 それでも、こうして紙に書かれた文字を見ると、胸の奥が、ずしりと重くなった。


「……ご返事は、少し、お待ちいただけますか」


 分隊長は、意外そうに眉を上げた。


「返事も何も、内示だぞ。断る者など」

「わかっております。ですが、少しだけ」


 分隊長は、しばらくこちらを見ていた。

 それから、ため息をついて、椅子に深く腰を下ろした。


「……近衛の返事の期限は、十日後だ。それまでに、決めておけ」

「ありがとうございます」


 深く頭を下げた。


     ◇


 部屋を出ると、廊下の壁に、ハルトマン殿がもたれていた。


「内示か」

「……はい。十日のうちに、返事を」

「そうか」


 ハルトマン殿は、壁から背中を離した。


「ヴァイスフェルト殿が、どこへ行こうと、私の知ったことじゃない。だが」


 ハルトマン殿は、少しだけ言いよどんだ。

 日に焼けた頬を、指でかく。


「この街の見回りは、お前と組んでから、少しは楽になった。……それだけだ」


 ぶっきらぼうに言い捨てて、ハルトマン殿は廊下の向こうへ歩いていった。


 その背中に、黙って頭を下げた。


     ◇


[夕暮れの通り カタリナ]


 夕暮れの通りを、一人で歩いていた。


 琥珀の灯亭へ向かう道だ。

 今日は、あの人は来ているだろうか。

 シモン殿に、話を聞いてもらいたかった。

 何を話せばいいのかも、まだわからないけれど。


 角を曲がったところで、足を止めた。


 通りの向こうの、酒樽を積んだ店先。

 その陰から、一人の男が、ふらりと出てくるところだった。


 岩のような体つき。

 太い首。

 細い目。


 男は、こちらを見ていなかった。

 出てきたところで足を止め、どこか遠くを眺めるふりをした。


 三度目だった。

第二章 真理の籠

第六十六話 琥珀の灯亭の常連

[王都・琥珀の灯亭の向かい シュヴァルツ]


 女騎士が入っていったのは、琥珀色の灯りをともした、石造りの店だった。


 通りの向かいの酒樽の陰から、その入口を眺めていた。


 気づかれたかもしれない。

 さっき、角を曲がったところで、あの女の足が止まった。

 こっちを見ていた。


 だが、それがどうした。

 首の太い大男など、王都にはいくらでもいる。

 あの女だって、そう思うはずだ。


 問題は、店のほうだった。


 入口の上の、琥珀色の硝子の灯り。

 磨き上げられた扉の取っ手。

 中から漏れてくるのは、上品な笑い声と、銀の食器が触れ合う音。


 自分の上着を見下ろした。

 袖口は擦り切れ、肘には継ぎが当たっている。


「……くそ」


 こういう店は、嫌いだった。


 上の連中は、いつもこういう場所にいる。

 上等な服を着て、上等な酒を飲んで、汚れ仕事だけを、裏口から投げてよこす。

 あの夜のことを報告しに行ったときも、裏口の男は、ゴミでも見るような目で、シュヴァルツを見た。

 上はそんな男を知らない、と。

 お前は、ありもしない指図に怯えて逃げたのだ、と。


 あの屈辱は、まだ、腹の底で燃えている。


 あの番頭から預かった銀貨を、懐の上から握りしめる。

 手は出すな。

 誰と会い、誰と話すか、それだけを見ろ。

 特に、男だ。


 酒樽の陰から出た。


     ◇


[琥珀の灯亭の店内 シュヴァルツ]


 扉を開けた瞬間、店の中の空気が、わずかに変わった気がした。


 客は、身なりのいい商人や、職人の親方らしい男たちばかりだった。

 誰も、シュヴァルツのほうを見ない。

 見ないようにしている。

 それが、かえって肌に刺さった。


「いらっしゃいませ」


 帳場の奥から、女が出てきた。


 金とも茶ともつかない色の髪を、きちんと結い上げた女だ。

 愛想よく笑っている。

 だが、その目が、シュヴァルツの袖口から靴の先までを、ひと撫でするように動いたのを、見逃さなかった。


「お一人様?」

「……ああ」

「では、こちらへ」


 案内されたのは、入口に近い、壁際の小さな卓だった。

 柱の陰で、店の奥がよく見えない。


 黙って隣の卓に移った。

 女は、一瞬だけ眉を動かしたが、何も言わなかった。


     ◇


 奥のソファー席に、あの女騎士がいた。


 向かいに、男が一人。


 目を細めた。


 四十をいくつか過ぎたくらいの、冴えない顔の男だった。

 服だけは、妙に上等だ。

 どこで仕立てたのか、見たこともない妙な布の服を着ている。

 それなのに、中身がまるで追いついていない。

 鶏の香草焼きを頬張りながら、女騎士の話に、いちいち大げさにうなずいている。


 どこにでもいる、金だけ持ったおっさんだ。


「お待たせしました」


 女が、杯を置いた。


 シュヴァルツは、ひと口飲んで、顔をしかめた。


 ぬるい。

 いや、冷えている。

 冷えているのに、ぬるい。

 水で割ったのかと思うほど、味が薄い。


 顔を上げると、女は、もう帳場のほうへ戻っていくところだった。

 振り返りもしない。


 ……わかってやがる。


 まずい酒を、もうひと口あおった。


     ◇


 女騎士の声は、よく通った。


 話の中身までは、わからない。

 ただ、ときどき、言葉の切れ端が耳に届く。


「……近衛の……」

「……十日の……」

「……父が……」


 女騎士は、杯を両手で包んで、ずっと浮かない顔をしていた。

 向かいの男は、ほとんど口を挟まない。

 ただ、黙って聞いている。

 ときどき、ぼそりと何か言うと、女騎士が、少しだけ笑う。


 妙な取り合わせだった。


 あの女は、騎士団の、それも伯爵家の娘だ。

 それが、金だけ持った冴えないおっさんに、あんな顔で身の上話をしている。


 杯を口に運ぶふりをしながら、耳を澄ませた。


「……ありがとうございます、シモン殿」


 杯が、口もとで止まった。


     ◇


 シモン。


 その名に、聞き覚えがあった。


 あの番頭の部屋を出るとき、最後に言われたのだ。


「あの男は、市場で、シモンと名乗ったことがある。覚えておけ」


 奥の席の男を、もう一度、じっと見た。


 違う。

 どう見ても、違う。


 あの夜の男は、もっと背筋が伸びていた。

 黒い髪を撫でつけ、赤い目をして、真っ黒な外套を羽織っていた。

 炎弾を、それより大きな炎で呑み込んで、平然と笑っていた。


 目の前の男は、鶏の脂で指をてかてかにして、女騎士に葡萄酒を注いでやっている。

 顔も、髪も、声も、何ひとつ似ていない。


 だが、名前が同じだ。


 あの男に、どこへ行っても居合わせる女騎士。

 その女騎士が、親しげに名を呼ぶ男。

 そいつの名が、シモン。


 偶然か。


 まずい酒の残りを、一息に飲み干した。


 偶然かどうかは、追えばわかる。


     ◇


 しばらくして、女騎士が席を立った。


 男に頭を下げ、店を出ていく。

 男は、ひらひらと手を振って見送ると、また鶏の香草焼きに向き直った。


 シュヴァルツは、立ち上がらなかった。


 女騎士の行き先は、どうせ騎士団の宿舎だ。

 番頭の言いつけでは、あの女を見張れ、ということだった。


 だが、どうにも、あの男が気になった。


 伯爵家の娘が、身の上話をしに通ってくる、冴えないおっさん。

 上等な服を着ているくせに、どこの誰なのか、まるで見当がつかない。

 金の出どころも、商売の匂いも、何ひとつしない。

 それでいて、名前だけは、あいつと同じだ。


 胡散臭い。

 長いこと裏の仕事をしてきた鼻が、そう言っていた。


 懐の銀貨を一枚、卓の上に置いた。

 まずい酒には、多すぎる額だった。

 構うものか。


 奥の席の男は、皿に残った最後のひと切れを、名残惜しそうに眺めている。


 その冴えない横顔から、目を離さなかった。


 女騎士ではない。

 今夜追うのは、あの男のほうだ。

第二章 真理の籠

第六十七話 尾行の尾行

[王都・琥珀の灯亭の前の通り 学]


 琥珀の灯亭を出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。


 満腹の腹をさすりながら、宿へ向かって歩き出した。

 今夜の鶏の焼き物は、いつもより少し酸味があった。

 ヘレーネは、また香草を変えたらしい。


「カタリナさん、だいぶ参ってたな」

「近衛の返事、十日以内ですって。あの子、まだ決めかねてるのね」

「父親の推薦つきだもんなあ。断りにくいよな、あれは」


 肩の上で、モナが、ふいに黙った。


「……マーナ」

「ん?」

「振り向かないで、聞いて。つけられてるわよ」


 学の足が、ほんの少しだけ乱れた。


     ◇


「つけられてるって、誰に」

「店にいた男。入口の近くの席で、まずそうにお酒を飲んでた、首の太い大男」


 言われたとおり振り向かずに、歩く速さだけを変えなかった。


 店の中のことを思い出す。

 たしかに、入口のほうに、場違いな身なりの男がいた。

 カタリナの話を聞くのに夢中で、気にも留めていなかった。


 通りの角に、灯りのともった店先がある。

 店の窓をのぞくふりをして、硝子に映る背後を見た。


 通りの向こう。

 街灯の明かりの下を、大きな影が一つ、こちらと同じ速さで歩いてくる。


 岩のような体つき。

 太い首。


 思わず息をのんだ。


「……あいつ、見たことあるぞ」

「あたしも、今、そう思った」

「学院のそばの路地だ。あの痩せた学者っぽいのを襲ってた連中の、いちばんでかいやつ」


 手下に火の玉を撃たせようとしていた、あの大男だ。

 それより大きな幻の炎で、手下の火の玉ごと追い払ってやった連中の頭だ。


「なんで、あいつが僕をつけてるんだよ」

「さあ。でも、あんたのことを、あの夜の男だとは思ってないはずよ。顔も、服も、何もかも違うもの」

「じゃあ、なんで」

「それを考えるのは、撒いてからにしたら?」


     ◇


 撒くのは、思ったより難しかった。


 角を曲がった。

 次の角も曲がった。

 細い路地に入り、石段を下り、また上った。


 そして、広場に出た。


 石造りの噴水が、月明かりの中で、さらさらと水音を立てている。


「……あれ?」


 背後を確かめる。

 影は、まだついてきている。


 もう一度、角を曲がった。

 次の角も曲がった。

 橋を渡り、坂を上り、また下った。


 そして、広場に出た。


 同じ噴水だった。


「マーナ」

「言うな」

「王都に来た日も、同じ噴水の前に三回出てたわよね」

「言うなって」


 三度目に同じ噴水の前に出たとき、ついに足を止めた。


 王都に来て、もうずいぶんたつのに、この街の路地は、学にとって迷路のままだった。


     ◇


「しょうがないわね」


 モナが、学の肩の上で、小さな指をくるりと回した。


「次の角を右。細い路地があるから、そこに入って」

「入ったら、どうするんだ」

「あたしが、その路地を消してあげる。あの男にだけ、壁に見えるように」


 学は、なるほど、とうなずいた。


 自分にもできる。

 だが、学の幻術は、見せる相手を選べない。

 路地を壁に見せれば、通りがかった全員が、壁に見える路地に首をかしげることになる。

 見せたい相手にだけ見せる技は、十年かけても身につかなかった。


 言われたとおり、次の角を右に曲がった。

 細い路地に、体を滑り込ませる。


 少しして、路地の入口の向こうを、大きな影が通り過ぎていった。


 足音が、止まる。

 戻ってくる。

 また止まる。


 路地の入口のすぐ前で、男が、壁を見上げているのがわかった。

 首をかしげ、壁に手を伸ばしかけて、やめる。

 舌打ちが一つ聞こえた。


 足音は、やがて、遠ざかっていった。


 壁にもたれて、長い息を吐いた。


「……助かった」

「貸しよ、マーナ」


     ◇


[王都・宿の部屋 学]


 宿の部屋に戻っても、しばらく寝台に座ったまま、動けなかった。


「なんで、あいつが」


 頭を抱えた。


 あの大男が、なぜ、普段の姿の自分をつけてくるのか。

 黒幕の姿と、この姿を、結びつけるものなど、何もないはずだ。

 顔も、服も、声も違う。


 ただ一つを、除いては。


「……名前だ」


 顔を上げた。


「カタリナさんが、店で、僕をシモン殿って呼んでた。あいつ、それを聞いたんだ」

「黒幕のあんたも、シモンって名乗ってたものね。市場で」


 モナが、窓枠に腰かけて、足をぶらぶらさせた。


「名前、分けるのを忘れてたツケが、今ごろ回ってきたってわけね」

「……面倒だからって、そのまま通したの、僕だよな」

「そうね」

「ちょっとくらい、慰めてくれてもいいだろ」

「あたしがつけてあげた名前を、二つの顔で大事に使ってくれてるのは、うれしいわよ」


 モナは、にっこりと笑った。


 学は、寝台に仰向けに倒れ込んだ。

 その名前のおかげで、首の太い大男に追い回されているのだが。


     ◇


[王都・琥珀の灯亭 学]


 翌日の夜。


 琥珀の灯亭の奥のソファー席で鶏の焼き物をつついていると、カタリナが入ってきた。


 いつもより、少し遅い時間だった。

 カタリナは、席に着く前に、店の入口のほうを、ちらりと振り返った。

 それから、学の向かいに腰を下ろした。


「シモン殿。今夜は、長居はできないのですが」

「何かあったんですか」

「いえ」


 カタリナは、葡萄酒にほとんど口をつけなかった。

 杯を指先で回しながら、しばらく黙っていた。


「……しばらく、ここには来られないかもしれません」

「え?」

「研修の最後で、立て込んでいて。それだけです」


 それだけではない、と思った。


 カタリナは、嘘が下手だ。

 目が、また入口のほうへ流れた。

 店に入る前、通りを何度も振り返っていたのだろう。


 きっと、昨日の大男だ。

 カタリナも、気づいていたのだ。

 見張られていることに。


 カタリナさんは、見張られている自分のそばに、僕を置いておきたくないのだ。

 巻き込みたくない。

 だから、しばらく来ない、と言っている。


 杯を持つ手を止めた。


 違う。

 あいつが追っているのは、カタリナさんじゃない。

 昨日、あいつは、カタリナさんではなく、僕を追ってきた。


 本当に狙われているのは、僕のほうなのに。


「シモン殿?」

「……いえ。わかりました。落ち着いたら、また」

「はい。また」


 カタリナは、少しだけ笑って、席を立った。

 入口で、もう一度、通りの左右を確かめてから、夜の中へ出ていった。


     ◇


 しばらく、カタリナの去った入口を見つめていた。


「どうするの、マーナ」


 肩の上で、モナが聞いた。


 あいつは、シモンという名前を追っている。

 カタリナさんのそばにいる、シモンという男を。

 黒幕のシモンと、普段のシモンが、同じ人間かもしれないと思って。


 なら、話は簡単だ。


 鶏の焼き物の最後のひと切れを、口に放り込んだ。


「……シモンが二人いれば、いいんだよな」

第二章 真理の籠

第六十八話 二人のシモン

[王都・琥珀の灯亭の向かい シュヴァルツ]


 おとといの夜は、まかれた。


 通りの向かいの、酒樽を積んだ店先の陰に立っていた。


 路地の入口で、あの男を見失ったのだ。

 たしかに右へ曲がったはずなのに、角の先は、ただの壁だった。

 手を伸ばして確かめようとして、なぜか、やめた。

 自分でも、なぜやめたのかわからない。


 ただ、あの壁を見上げたとき、背中に、妙な寒気が走ったのだ。


 あの夜、学院のそばの路地で、黒い外套の男を前にしたときと、同じ寒気だった。


「……気のせいだ」


 低くつぶやいた。


     ◇


 琥珀の灯亭の窓には、今夜も暖かな灯りがともっていた。


 硝子越しに、店の奥が見える。

 奥のソファー席に、あの男がいた。


 冴えない顔。

 妙な布の、上等な服。

 鶏の香草焼きを前に、ひとりで杯を手にしている。


 今夜は、女騎士はいない。


 それでいい。

 今夜の獲物は、あの男だ。


 酒樽の陰で、じっと動きを止めた。


 息を、細くする。

 肩の力を、抜く。

 体の輪郭が、夜の闇に、少しずつ溶けていく感覚がある。


 影溶け。


 生まれたときから持っていた、たった一つの魔法だった。

 物陰で、じっとしているあいだだけ、人の目に留まりにくくなる。

 動けば、すぐに切れる。

 火の玉一つ出せない、けちな魔法だ。

 それでも、待ち伏せには、これ以上のものはない。


 こうしていれば、誰も、ここに男が立っていることに気づかない。


 窓の中で、店の女主人が、あの男の卓に皿を運んでいった。

 男は、何か話しかけている。

 女主人が、笑っている。


 ありふれた光景だった。

 どこにも、怪しいところはない。


 だが、名前が同じだ。

 窓から目を離さなかった。


     ◇


「また会ったな」


 背後で、声がした。


 シュヴァルツの全身が、凍りついた。


 すぐ後ろだ。

 息がかかるほど近い。

 低く、冷たく、どこか楽しげな声。


 忘れるはずがない。

 あの夜の声だ。


 影溶けは、切れていない。

 動いてもいない。

 誰にも、気づかれるはずがないのに。


 ゆっくりと振り返った。


 男が、立っていた。


 黒い髪を撫でつけ、真っ黒な外套を羽織っている。

 白い顔の中で、赤い目だけが、街灯の明かりを受けて光っていた。


 あいつだ。


「ずいぶんと、熱心に窓をのぞいておられる」


 男は、ちらりと、琥珀の灯亭の窓に目をやった。


「いい店だろう。鶏の焼き物が、なかなかうまい」


 シュヴァルツは、思わず、窓のほうを振り返った。


 窓の中。

 奥のソファー席。

 あの冴えない男が、まだ、そこにいる。

 杯を片手に、女主人と何か話している。


 もう一度、背後を見る。


 黒い外套の男が、そこにいる。


 二人。

 同時に。


 窓の中の男と、背後の男。

 どちらも、今、ここにいる。


 別人だ。


 名前が同じだけの、まるで別の人間だ。


     ◇


「あの女騎士を、追い回しているそうだな」


 黒い外套の男が、一歩、近づいた。


 シュヴァルツは、酒樽に背中をぶつけた。

 樽が、ごとりと鳴る。


「お、俺は、何も」

「知っている。手は出していない。まだ、な」


 男は、穏やかに笑った。


「だから、今夜は、言いに来ただけだ」


 赤い目が、細くなった。


「あの女騎士は、私の駒だ」


 シュヴァルツの喉が、ひくりと鳴った。


 駒。

 あの夜も、この男は、そう言った。

 学者を背にかばって、この者は私の駒だ、と。


「手を出すなら」


 男は、シュヴァルツの耳もとに、顔を寄せた。


「次は、炎では済まさない」


 ぞわり、と、首の後ろの毛が逆立った。


 あの夜の、火の玉を呑み込んだ炎。

 手下の撃った炎弾の三倍はあろうかという、あの炎。

 あれで済ませてやった、と言っているのだ。


 次は、もっと恐ろしい何かが来る。


     ◇


[王都の裏通り シュヴァルツ]


 逃げた。


 何を言ったのかも、覚えていない。

 気がつけば、酒樽を蹴倒し、通りを駆け出していた。


 背後で、樽が石畳を転がる音がする。

 振り返らなかった。

 振り返れなかった。


 あの夜と、同じだ。

 また、逃げている。


 角を曲がり、路地を抜け、息が切れるまで走って、ようやく足を止めた。


 壁に手をついて、肩で息をする。

 膝が、がくがくと笑っていた。


 二度目だ。

 二度も、あの男に、背中を見せて逃げた。


 腹の底で、屈辱が、黒く煮えたぎる。


 だが、それと同じくらい、頭の芯が、冷たく冴えていた。


 わかったことがある。


 窓の中の男は、ただの冴えないおっさんだった。

 名前が同じなのは、偶然だ。


 本当の当たりは、あの女騎士のほうだったのだ。


 あの男は、出てきた。

 女騎士を見張る者がいると知って、わざわざ見張りの前に姿を現し、手を出すなと言いに来た。


 あの女騎士は、ロキの駒だ。


 壁に額を押しつけたまま、歯を食いしばった。


     ◇


[琥珀の灯亭・奥のソファー席 学]


 ようやく背もたれに体を預けて、長い息を吐いた。


「……行った?」

「行ったわよ。樽を蹴倒して、一目散に」


 窓の外から戻ってきたモナが、肩の上で腹を抱えて笑っている。


「あいつ、樽の陰に入る前に、通りを二度も行ったり来たりしてたのよ。あれじゃ、あたしじゃなくても見つけるわ」

「台本どおり、言えたか」

「言えたわよ。ちょっとだけ、足したけど」

「足した?」

「いい店だろう。鶏の焼き物が、なかなかうまい」


 モナは、学の黒幕の声色を、そっくりそのまま真似てみせた。


「それ、僕の台詞にないだろ」

「あんたなら、言いそうだもの」


 学は、額を押さえた。


 窓の外の黒幕は、モナに演じてもらったのだ。


 窓から見える通りに、この席から幻を立たせることなら、できる。

 だが、外の男が何か言い返してきても、その声は、ここまでは届かない。

 こちらから一方的にしゃべるだけなら、まだしも、言葉を交わすことはできないのだ。


 だから、黒幕の台詞は、ゆうべのうちに自分で書いて、モナに覚えてもらった。

 モナは、学の黒幕の姿も、声も、仕草も、学本人よりよほど上手に演じてみせた。


 そのあいだ、この席で、窓の外のやりとりを思い浮かべながら、台本を口の中でなぞっていた。

 気が気でなかったのだ。


 注がれたまま手つかずだった葡萄酒に、ようやく口をつけた。


「でも、これで、あいつは、普段のシモンと黒幕のシモンは別人だって思ったはずだ。カタリナさんのそばにいるのは、ただの冴えないおっさんだって」

「そうね。それは、うまくいったと思うわ」


 モナは、笑い転げるのをやめて、少しだけ首をかしげた。


「でも、マーナ。あんた、台本に、あの子のこと、私の駒だって書いたわよね」

「書いたな。決め台詞だろ、あれ」

「あいつ、それを持って帰るのよ。黒幕のシモンが、あの女騎士を駒として守ってるって」


 学は、杯を持ったまま、固まった。


「……あ」

「あ、じゃないわよ」


「シモンさん」


 いつの間にか、ヘレーネが、卓のそばに立っていた。

 水差しを手に、首をかしげている。


「今夜は、独り言の多いお客さんですね」

「……あ、はい。すみません。ちょっと、考えごとを」


 ヘレーネは、くすりと笑って、厨房のほうへ戻っていった。

 水差しは、手に持ったままだった。

第二章 真理の籠

第六十九話 駒

[商会の奥・ユリウスの執務室 ユリウス]


 執務室の窓の外が、白みはじめていた。


 ユリウス・ノイマンは、机の上に両肘をついたまま、目の前の男を見ていた。


 岩のような体つきの、首の太い男。

 シュヴァルツ。

 夜明け前に、裏口の連絡役が叩き起こして連れてきた。


 男のズボンの膝が、泥で汚れていた。

 どこかで転んだのだろう。

 袖口からは、かすかに、こぼれた酒の匂いがした。


「話せ」


 そう言うと、シュヴァルツは、太い首をすくめるようにして口を開いた。


     ◇


 話は、要領を得なかった。


 女騎士を三日見張ったこと。

 女騎士が、琥珀の灯亭という店で、冴えない中年の男と会っていたこと。

 その男の名が、シモンだったこと。

 女騎士ではなく、その男を追ったこと。

 一度目は、路地の入口で見失ったこと。


 そして、ゆうべ。


「窓の中に、あのおっさんがいたんでさ。女主人と、のんきに笑ってやがった」


 シュヴァルツの声が、かすれた。


「そしたら、後ろに、あいつが立ってた」

「あいつ、とは」

「あの夜の男ですよ。黒い髪で、赤い目の。学院のそばの路地で、俺たちの邪魔をした」


 ユリウスは、指先で机を叩くのをやめた。


「同時に、か」

「へい。窓の中に、おっさん。後ろに、あいつ。両方、この目で見ました。別人です。間違いねえ」


 シュヴァルツは、膝の上で、分厚い拳を握りしめた。


「あいつは、こう言いやがった。あの女騎士は、私の駒だ。手を出すなら、次は炎では済まさない、って」


 連絡役が、横で小さく息をのんだ。


 ユリウスは、しばらく黙っていた。

 それから、一つだけ尋ねた。


「その中年の男のほうは、本当に、何の関わりもないのか」

「ありゃあ、ただの金持ちの道楽者でさ」


 シュヴァルツは、鼻を鳴らした。


「上等な服を着て、毎晩、鶏をかじって、女騎士の身の上話にうなずいてるだけの、のんきなおっさんです。あの女騎士も、あいつにだけは気を許してるようでしたがね。……ま、騎士さまにも、愚痴をこぼす相手くらいは要るんでしょう」

「そうか」


 それ以上は聞かなかった。


 伯爵家の娘が、身分を気にせず話せる、市井の話し相手。

 しかも、名前が、あの男と同じ。

 怪しくないと言えば、嘘になる。


 だが、今は、それどころではなかった。

 ロキが、見張りの目の前に、自ら姿を現したのだ。

 名前が同じだけの男は、あとで洗えばいい。


     ◇


 シュヴァルツを下がらせたあと、しばらく窓の外を眺めていた。


 王都の屋根の向こうが、薄い朱色に染まっていく。


 中年のシモンは、少なくとも、ロキそのものではなかった。

 同じ夜、同じ通りで、二人がそろって目撃されたのだ。


 それよりも。


「駒、か」


 低くつぶやいた。


 あの男は、学院のそばの路地でも、同じ言葉を使った。

 学者を背にかばって、この者は私の駒だ、と。


 そして、今度は、ヴァイスフェルトの娘を、駒だと言った。


 市場の両替商。

 ジルバータールの製錬所。

 伯爵の夜会。

 騎士団の会議。

 王宮の大広間。


 あの男が現れた場には、ほとんどいつも、あの娘がいた。


 偶然ではなかったのだ。


 あの娘は、あの男の駒として、そこに置かれていた。

 そして、あの男は、自分の駒に手を出そうとする者がいると知ると、わざわざ姿を現して、釘を刺しに来た。


 背筋に、冷たいものが走るのを感じた。


 こちらの動きは、筒抜けだったのだ。

 見張りをつけて、まだ五日。

 それなのに、あの男は、もう、見張りの顔を知っていた。


     ◇


「あの娘には、手を出すな」


 振り返って、連絡役に言った。


「シュヴァルツは外せ。あの男に、顔を覚えられた。見張りは、別の者に替える。遠巻きでいい。誰と会い、どこへ行くか、それだけを知らせろ」

「近づかずに、ですか」

「近づけば、あの男が出てくる。今度は、炎では済まないのだろう」


 連絡役は、黙って頭を下げた。


 ユリウスは、机の上の書き付けに目を落とした。


 ロキの現れた場の一覧。

 その横に、新しく一行を書き足す。


 ――騎士団の中に、ロキの駒がいる。


 ヴァイスフェルトの娘ひとりとは、限らない。

 あの男は、騎士団の会議にまで、分隊長の姿で紛れ込んだ。

 騎士団の内側に、ほかにも誰かを抱き込んでいるのかもしれない。


 円卓に、そう上げねばならない。

 あの方々は、また、遅いと言うだろう。


 指先で、書き付けの端をなぞった。


 遅い。

 甘い。

 抜けがある。

 何を上げても、返ってくるのは、そういう言葉ばかりだ。


 円卓の四つの椅子に座る者たちは、生まれた家が、その椅子を用意してくれた者たちだ。

 自分は、違う。

 借りものの名で、立ったまま報告を上げる身だ。


 だからこそ、あの男を、この手で見つけ出さねばならない。


     ◇


「それと、もう一つ」


 連絡役が、部屋を出かけて、足を止めた。


「王宮の御用の荷を運んでいる者から、妙な話を聞きました」

「妙な話」

「ゴルトシュタイン公爵家の家令が、このところ、学院へ何度も足を運んでいるそうです。何かを預けて、返してもらえずにいるとか」


 ユリウスは、眉をひそめた。


 学院。


 先日の会合で、年かさの貴族が、苦い顔で言っていた。

 学院の連中が、返すべきものを、返さずにいる。


 公爵家。

 学院。

 返されない何か。


 何の話なのか、ユリウスには、まだ見えなかった。

 だが、学院の名を聞くのは、これで二度目だった。


「……覚えておく」


 連絡役が出ていくと、執務室は、また静かになった。


     ◇


 日が昇りきるころ、もう一枚の書き付けを手に取った。


 シュヴァルツが持ち帰った、女騎士の見張りの記録だ。

 字は汚いが、中身は細かい。


 琥珀の灯亭。

 冴えない中年の男。

 それから、店の中で漏れ聞こえた、言葉の切れ端。


 近衛。

 十日。

 父。


 ユリウスの目が、そこで止まった。


 ヴァイスフェルトの娘は、研修を終えれば、近衛騎士団に入る。

 その話は、王宮の耳からも、上がってきていた。


 十日。


 その数字を、指先でなぞった。

 あと十日ほどで、ということか。


 書き付けを置いて、窓の外に目をやる。

 朝日の中に、王宮の尖塔がそびえていた。


「……王宮の中に、駒が入るわけか」

第二章 真理の籠

第七十話 近衛の話

[王都の街なか カタリナ]


 あの男を見かけなくなった。


 岩のような体つきの、首の太い大男。

 三度も目の前に現れたあの男が、ここ数日、どこにもいない。


 詰め所を出るとき、通りの左右を確かめる。

 警邏の途中で、物陰に目をやる。

 琥珀の灯亭への道を思い浮かべては、首を振る。


 いない。


 少しだけ、肩の力が抜けた。


 気のせいだったのだろうか。

 それとも、何かの用が済んで、どこかへ行ったのか。

 わからない。

 わからないが、ひとまず、シモン殿を巻き込まずに済みそうだった。


 本当は、このことも、シモン殿に聞いてもらいたかった。

 だが、自分が見張られているかもしれないあいだは、あの人を巻き込みたくない。

 だから、まずは、父に話すことにした。


 近衛の返事の期限まで、あと五日。


 王都の屋敷へ向かって、歩き出す。


     ◇


[王都・ヴァイスフェルト家の屋敷 カタリナ]


「おかえりなさい、カタリナ」


 玄関の広間で、母が、ふわりと笑って出迎えた。


「父上は、いらっしゃいますか」

「書斎よ。さっき王宮から戻って、そのまま書類の山に埋もれているわ」


 母は、少しだけ眉を下げた。


「回収した銀貨の数を、財務卿のところへ届けに行っていたの。戻ってきたとき、ひどく疲れた顔をしていたわ。王宮の廊下は、まだ、あの人にとって居心地のいい場所ではないみたい」


 黙って、うなずくしかなかった。


 御前会議のあと、父が王宮へ上がるたびに、どんな目で見られているのか。

 おおよその見当は、ついた。


 それから、母は、少しだけ声をひそめた。


「近衛のことでしょう」

「……ご存じでしたか」

「あなたの顔を見れば、わかるわ。このところ、ずっとその顔をしているもの」


 言葉に詰まった。


 母の指先が、そっと頬に触れた。


「お茶を淹れて、持っていくわ。先に行っていなさい」


     ◇


 書斎の扉を叩くと、短い返事があった。


 父は、机の上に積み上げた書類の向こうにいた。

 回収された銀貨の数。

 ジルバータールの鉱夫たちへの見舞金の割り振り。

 枯れた銀山の、これからの使い道。

 どの紙にも、細かい数字が並んでいる。


 あの御前会議から、ふた月近くがたった。

 父は、裁きのあとも、変わらず背筋をまっすぐに伸ばしている。

 ただ、白いものの混じった髪が、前より少し増えた気がした。


「カタリナか。どうした」

「お話があります、父上」


 父は、ペンを置いた。

 娘の顔を見て、何かを察したように、椅子の背にもたれた。


「座りなさい」


     ◇


 父の向かいの椅子に、腰を下ろす。


 膝の上で、両手を握りしめる。

 何度も、頭の中で言葉を選んだ。

 選んだはずの言葉が、ひとつも出てこない。


「近衛騎士団から、内示が届きました」

「聞いている。推薦の文言は、私が書いた」

「はい。……その返事を、まだ、しておりません」


 父の眉が、わずかに動いた。


 息を、吸った。


「父上。私は、近衛には入りたくありません」


 書斎が、しんと静まりかえった。


「街に立つ騎士でいたいのです。研修のあいだ、毎日、市場や川沿いを歩きました。財布を狙う子どもの手つきも、値をごまかす天秤も、少しずつ見えるようになりました。困っている人がいれば、すぐに駆けつけられる。私は、そういう騎士でいたいのです」


 言い終えて、父の顔を見た。


 ならん。


 そう言われると思っていた。

 謹慎の折、自分が前に立つと言ったときも、父はそう言った。

 盾の家に生まれた者は、盾になることを選べない。

 だが、お前たちまで、そうなってほしいとは思わなかった、と。


 父は、何も言わなかった。


     ◇


 沈黙が、長く続いた。


 父は、机の上の書類に目を落としていた。

 回収された銀貨の数の、細かい数字の列。

 その一つ一つを、まるで初めて見るように、じっと見つめている。


 その横顔を見て、ふと気づいた。


 父は、迷っている。


 以前の父なら、迷わなかった。

 近衛は、王宮の奥の警護だ。

 剣を持ち、護衛の任につくこともあるが、市井の騎士よりは、ずっと危険が少ない。

 娘を危ない場所に立たせたくない父にとって、近衛は、いちばん安心できる場所のはずだった。


 だが、今の王宮は。


 御前会議で父に向けられていた、貴族たちの目を、忘れてはいない。

 盾の家の鋳造所から、贋金が出た。

 知らなかったで済む話か。

 傍聴の席で、そうささやく声を、何度も聞いた。


 裁きが下ったあとも、その目は消えていない。

 母が出る茶会では、いまだに、あれこれと言う者がいるらしい。


 そんな場所に、娘を送り出すことが、本当に安心なのか。


 父も、それを考えている。


     ◇


 扉が、静かに叩かれた。


 母が、盆を手に入ってきた。

 二人の顔を見比べると、何も言わずに、机の端に盆を置く。


 父の前の茶器は、とうに冷めていた。

 それを下げて、新しい茶が注ぎ直される。

 こちらの前にも、湯気の立つ茶器が置かれた。


 紅い茶の香りが、書斎に広がった。


 母は、父の肩に、そっと手を置いた。

 それだけだった。

 何も言わずに、扉のほうへ戻っていく。


 扉の前で、一度だけ振り返る。

 その目が、ちらりと、父の左手に向けられた。


 それから、扉は静かに閉じられた。


     ◇


 父は、新しい茶に、口をつけなかった。


 代わりに、自分の左手を見下ろしていた。


 王宮から戻ったばかりで、父は、まだ両手に黒い革の手袋をはめたままだった。

 その左の手袋の下に、古い傷があることは知っている。

 幼いころから、何度も見てきた傷だ。

 だが、なぜその傷を負ったのかは、一度も聞いたことがなかった。


「カタリナ」


 父が、低い声で言った。


「お前に、話しておかねばならないことがある」


 右手の指先が、左手の手袋の縁をつまんだ。


 ゆっくりと、手袋を引き抜いていく。

第二章 真理の籠

第七十一話 左手の傷

 手袋の下から、見慣れた傷が現れた。


 左の手の甲を、斜めに走る一筋の古傷。

 皮膚が白く引きつれて、そこだけ、少し盛り上がっている。


 父は、その傷を、しばらく黙って見下ろしていた。


「まだ、お前が生まれる前のことだ」


 低い声だった。


「私には、友がいた。同じ年に騎士になった男だ。剣の腕は、私よりも上だった。酒を飲めば、くだらない冗談ばかり言う男だった」


 息をひそめた。


 父が、自分の若いころの話をするのを、初めて聞いた。


     ◇


「ある日、二人で、さる方の護衛についた」


 父の右手の指が、傷の上を、ゆっくりとなぞった。


「その方が馬車を降りて、館の門をくぐる、ほんの数歩のあいだだった。隣を歩いていたあいつが、急に剣を抜いた。そして、守るはずの方に、斬りかかった」


 思わず、膝の上で手を握りしめた。


「鉄壁を張る暇は、なかった。だから、手を出した」


 父は、左手を、ゆっくりと持ち上げた。


「手甲ごと、ここを裂かれた。だが、刃は、その方には届かなかった」


 書斎が、静まりかえっていた。


「あいつは、その場で取り押さえられた。のちの調べで、帝国の間者だったと言われた」

「言われた、とは」

「あいつは、最後まで、何も言わなかったからだ」


 父は、手を膝に下ろした。


「本当に間者だったのか。あいつと飲んだ酒も、くだらない冗談も、全部、偽りだったのか。私には、今でも、わからない」


     ◇


「そのあと、私も疑われた」


 顔を、上げた。


「いちばん親しかったのは、私だ。仲間ではないか、と言われた。長いあいだ、取り調べを受けた。かばってくれる者は、ほとんどいなかった」

「父上は、その方を守ったのに」

「そうだ。守った。それでも、疑われた」


 父は、静かに言った。


「私は、何も言わなかった。言えば言うほど、言い訳に聞こえる。疑いが晴れるまで、ただ、黙って待った」


 御前会議の大広間が、目に浮かんだ。


 何ひとつ弁明しなかった父。

 罪状を読み上げられても、「ございません」としか言わなかった父。


 御前会議の父は、若いころと同じように、黙って耐えていたのだ。

 二十年以上も前に、一度、同じ目に遭っていたから。


     ◇


「カタリナ。三つ、覚えておけ」


 父は、娘の目をまっすぐに見た。


「一つ。裏切りに、気をつけろ。剣を向けてくるのは、敵の顔をした者とは限らない」


 黙って、うなずく。


「二つ。身近な者でも、必ず信じられるわけではない」


 父は、机の上の書類に、ちらりと目をやった。

 数字ばかりが並んだ紙の山。


「だから私は、人より先に、数字を見る。数字は、嘘をつかない。嘘をついた者がいれば、数字のほうが、必ずどこかでずれる。……ハーゼンバッハのときは、それを見落とした」


 父の口もとが、わずかに苦くゆがんだ。


「三つ。それでも、ヴァイスフェルトの気概を、忘れるな」


 父の声が、少しだけ強くなった。


「疑われても、裏切られても、守るべきものの前に立つ。それが、盾の家だ。立つ場所が、王宮の奥でも、市場の雑踏でも、それは変わらない」


     ◇


 父は、ゆっくりと、手袋をはめ直した。


「王宮は、もう、私が思っていたほど安全な場所ではない」


 耳を、疑った。


「あの御前会議のあとで、それがよくわかった。お前を近衛に入れれば、少しは安心できると思っていた。だが、今の王宮で、ヴァイスフェルトの娘に向けられる目は、市場の物陰より、よほど冷たい」


 父は、ため息をついた。


「どこにいても危ないのなら。お前が、立ちたいと思う場所に立てばいい」

「……父上」

「近衛には、私から断りを入れておく。推薦の文言を書いたのは、私だからな」


 言葉が、出なかった。


 ただ、深く、頭を下げた。

 父の左手の傷のことを、一生忘れない、と思った。


     ◇


 書斎を出ると、廊下の先に、母が立っていた。


 待っていたのだろう。

 盆も持たずに、壁際で、両手を前に組んでいる。


「話は、済んだのね」

「……はい。父上が、許してくださいました」


 母は、ふわりと笑った。

 それから、娘の顔を、少しだけ長く見つめた。


「あの人、傷の話をしたのでしょう」

「母上は、ご存じだったのですか」

「ええ。あの人がその話をしたのは、私のほかには、あなたが初めてよ」


 母は、娘の肩に、そっと手を置いた。

 書斎で、父の肩にそうしたのと、同じように。


「大事にしなさい。あの人の、いちばん痛いところなのだから」


     ◇


[王都・琥珀の灯亭 カタリナ]


 夕暮れの琥珀の灯亭は、いつものようににぎわっていた。


 扉をくぐると、奥のソファー席に、見慣れた背中があった。

 身なりだけは上等なのに、どこか冴えない男。


 まっすぐに、その席へ向かう。


「シモン殿」

「あれ、カタリナさん。しばらく来られないって、言ってませんでした?」

「来られるようになりました」


 向かいに腰を下ろす。

 シモン殿は、目を丸くしていた。


「近衛には、行きません」


 ひと息に言うと、シモン殿の顔が、ぱっと明るくなった。


「本当ですか」

「はい。父が、許してくれました」

「そうか……そうですか。よかった。本当に、よかった」


 シモン殿は、自分のことのように、何度もうなずいた。

 それから、急に手を挙げて、給仕を呼んだ。


「すみません、鶏の焼き物を、もう一皿。いえ、二皿。お祝いなんで」

「二皿も食べるのですか」

「一皿は、カタリナさんの分ですよ」


 やがて、店主のヘレーネが、自ら皿を二つ運んできた。

 湯気の立つ鶏の焼き物から、香草の香りが立ちのぼる。


「お待たせしました」


 ヘレーネは、皿を置くと、シモン殿の顔をのぞき込んだ。


「シモンさん。今日の味、わかります?」

「え。……ええと、今日は、少し、甘い?」

「あら」


 ヘレーネは、なぜか満足そうに笑って、帳場のほうへ戻っていった。

 何の話なのか、さっぱりわからなかった。


     ◇


 鶏の焼き物を半分ほど食べたころ、杯を置いた。


「シモン殿」

「はい?」

「父に、言われたのです。身近な者でも、必ず信じられるわけではない、と」


 シモン殿の手が、ふと止まった。


 少しだけ、笑ってみせた。


「……シモン殿は、違いますよね」


 シモン殿は、口を開きかけた。

 閉じた。


 それから、いつものように、少し困ったように笑って、うなずいた。

第二章 真理の籠

第七十二話 鎖の荷

[王立リュケイオン学院・東棟の研究室 テオドール]


 その雑用を言いつけてきたのは、学長の使いだった。


「本日より、中庭の搬入口の帳面を、シュミット様にお願いしたいとのことです」


 使いの小僧は、それだけ言って、薄い帳面と、硬い表紙の台帳を一冊ずつ、テオドールの机に置いていった。


 しばらく、その台帳を見下ろしていた。


 中庭の搬入口。

 学院の真ん中の、あの温室への搬入口だ。

 研究員でさえ入れない、教授たちが「庭」と呼んでいる場所。


 その荷を、帳面に付けろという。


 貴族の研究員が押しつけてくる、誰も読まない写しとはわけが違う。

 運び込まれた品を数え、台帳と突き合わせ、間違いがあれば記す。

 誰かが、必ずあとで目を通す帳面だ。


「……真面目にやるか」


 ひとりごちて、立ち上がった。


     ◇


[学院の中庭・薬草園の搬入口 テオドール]


 搬入口は、中庭の奥まったところにあった。


 木立に囲まれたガラスの温室の、裏手の小さな扉。

 その前に、荷車が一台、止まっている。

 幌をかけた、ごくありふれた荷車だった。


 扉の脇には、警備の男が二人立っていた。


 腰の帯に、妙なものを提げている。

 ガラスの目が二つ並んだ、革の面。

 夜になると、これをつけて中庭を見回るのだという。

 警備の者たちは、それを「梟の面」と呼んでいるらしい。

 昼間に見ると、どこか間の抜けた顔に見えた。


「新しい帳面係か」


 警備の一人が、テオドールの手の台帳を見て言った。


「学長のお言いつけで」

「なら、さっさと済ませろ。中には入るなよ。荷は、ここで渡す」


 荷車の御者が、幌をめくって、箱を一つずつ下ろしはじめた。


     ◇


 台帳と箱を突き合わせていった。


 一つ目の箱は、花の蜜だった。

 小さな素焼きの壺が、藁に埋もれて二十ほど並んでいる。

 蓋を少しずらすと、甘い匂いが、ふわりと立ちのぼった。


 ――花の蜜、壺二十。


 薬草園なら、蜜くらいは使うのかもしれない。

 蜂でも飼っているのだろうか。


 二つ目の箱は、器だった。

 親指の先ほどの、小さな陶の器。

 皿もあれば、杯のような形のものもある。

 人が使うには、どれも小さすぎた。


 ――小器、皿と杯、各五十。


 ペンを止めた。


 何に使う器なのか、見当がつかない。

 薬の調合に使うには、形が妙だ。

 まるで、人形遊びの道具のようだった。


 三つ目の箱を開けて、眉をひそめた。


 鎖だった。


     ◇


 細い、銀色の鎖。


 手のひらほどの長さで切りそろえられた鎖が、柔らかな布にくるまれて、何本も並んでいる。

 片方の端には、小さな輪。

 もう片方の端には、精巧な留め金。

 目を近づけないと見えないほど、細かな細工だった。


 ――銀色の鎖、短、二十。


 薬草園に、なぜ鎖が要るのか。


 鉢を吊るすにしては、細すぎる。

 植物を支えるにしては、留め金が凝りすぎている。

 何かを、つなぎとめておくための形だった。


 数を確かめるために、一本をつまみ上げた。


 指先が、止まった。


 わずかに、温かい。


 いや、温かいのではない。

 本物の銀なら、指の熱を、するりと奪っていくはずだ。

 この鎖は、それをしない。


 この感触を、知っていた。

 東棟の研究室で、ふた月近く、毎日のように手のひらに載せてきた感触だ。


 偽銀。


「……まさか」


 鎖を光にかざした。


 色は、銀だ。

 曇りひとつない。

 偽銀と似ているのは、手ざわりだけだ。

 それに、偽銀は、銀貨と同じくらいの硬さしかない。

 こんな細い鎖にしたら、すぐに切れてしまうだろう。


 気のせいか。


 毎日、偽銀ばかり触っているから、指が勝手にそう感じるだけかもしれない。


「おい。数え終わったか」


 警備の声に、慌てて鎖を箱に戻した。


     ◇


 荷を渡し終えると、御者は、荷車を引いて中庭を横切っていった。


 行き先は、温室のすぐそばに立つ、細長い石の塔だった。


 学院の時計塔。

 もっとも、学院の誰も、その鐘の音を聞いたことがない。

 てっぺんの鐘楼には、そもそも鐘が吊るされていないのだ。

 研究員たちは、陰で「鳴らずの塔」と呼んでいる。


 その塔の扉にも、荷が一つ、運び込まれた。


 台帳をめくった。

 塔への搬入も、この台帳に付けることになっているらしい。


 ――塔、補修の資材、一箱。


 それだけだった。


 鐘のない時計塔に、何を補修するのか。

 首をかしげながら、その一行を書き写した。


 塔の近くに立つと、耳の奥で、かすかに、低いうなりのような音がした。

 風の音だろう、と思った。


     ◇


[学院・正門の近く テオドール]


 帳面を抱えて本棟へ戻る途中、正門のほうが、少し騒がしかった。


 上等な仕立ての服を着た、初老の男が、学院の事務の者と押し問答をしている。

 胸もとに、見覚えのある家紋が光っていた。


 ゴルトシュタイン公爵家の紋だ。


「先日お預けした品の鑑定は、いつになれば済むのか。閣下は、たいそうお気にかけておいでだ」

「学長にお伝えいたします。鑑定には、いましばらく……」


 足を止めた。


 先日。

 公爵家。

 鑑定。


 学長に呼ばれて比べさせられた、あの光る粉だ。

 あれは、公爵家から持ち込まれたものだったのか。


 本棟の階段の上に、白い髪が見えた。


 学長だった。

 騒ぎを聞きつけたのか、階段の上から、正門を見下ろしている。


「家令殿」


 学長の声は、静かだった。

 だが、正門まで、よく通った。


「真贋の判別には、検証の反復を要する。急いた結論は、誤謬を招く。閣下には、そうお伝えいただきたい」


 家令は、何か言いかけて、口をつぐんだ。

 深く一礼して、正門を出ていく。


 学長は、階段の上から、ちらりとこちらを見た。


 慌てて頭を下げた。

 顔を上げたときには、もう、学長の姿はなかった。


     ◇


[学院の中庭・搬入口のそば テオドール]


 夕方、もう一度、搬入口のそばを通りかかった。


 搬入口の扉が、細く開いていた。

 中から、誰かが開けたのだろう。

 扉の脇の警備の男たちは、少し離れたところで、何やら話し込んでいる。


 扉のすき間の向こうは、温室の中のはずだった。

 葉の茂みが、薄暗がりの中で黒く沈んでいる。


 その暗がりで、何かが、小さく光った気がした。


 蛍のような、淡い光だった。


 思わず足を止めた。


 だが、もう一度目を凝らしたときには、扉は内側から静かに閉じられ、何も見えなくなっていた。

第二章 真理の籠

第七十三話 同じ本

[王都・宿の部屋 学]


 御伽噺集は、三日で枕になった。


 宿の部屋の寝台で、分厚い革の装丁を顔に載せたまま、天井を見上げていた。


「……読めない」

「読めないって、字が?」

「字は読めるんだよ。読めるけど、頭に入ってこない」


 前書きの神々の説明までは、どうにか読めた。

 問題は、そのあとだった。


 古い言い回し。

 長い註釈。

 同じ話が、地方ごとに三つも四つも並べて書いてある。

 ある村ではこう語られ、隣の村ではこう語られ、さらに山向こうの村では、と続いていく。

 一つの話を読み終えるのに、半日かかった。


「だから言ったじゃない。子ども向けのほうにしとけばって」

「言ったな。たしかに言った」


 モナは、窓枠の上で、楽しそうに足を揺らしていた。


 学は、御伽噺集を顔からどけて、身を起こした。


「……買ってくる。子ども向けのほう」


     ◇


[王都・古本屋 学]


 古本屋の店内は、相変わらず紙と埃と、乾いた革の匂いがした。


 帳場では、頭に布を巻いた小柄な老婆が、今日も拡大鏡を片手に、何かの綴じ目を繕っている。

 店に入っても、やはり顔を上げない。


 前に御伽噺集を見つけた棚の前に立った。


 子ども向けの『リンデマンの御伽噺』は、すぐに見つかった。

 棚の下の段に、同じ薄い本が何冊も、背を並べている。

 どこの家にも一冊はある、とモナが言っていたとおりだ。


 その一冊に手を伸ばした。


 同時に、横から、もう一本の手が伸びてきた。


 指と指が、ぶつかった。


「あ、すみません」

「いえ、こちらこそ」


 顔を上げると、すぐ隣に、痩せた若い男が立っていた。


 煤のついた指。

 目の下の、濃い隈。

 袖口のすり切れた、着古した上着。


 その顔に、見覚えがあった。


 学院のそばの、夜の路地。

 火の玉を突きつけられて、壁に背中を押しつけられていた男だ。


 ――テオドールとかいう、あの男だ。


 肩の上で、モナが、小さく息をのんだ。


     ◇


 男は、学の顔を見ても、何の反応も示さなかった。


 当然だ。

 あの夜、男が見たのは、黒い外套の黒幕と、十ばかりの少年だけなのだ。

 四十半ばの、冴えないおっさんの顔など、知るはずもない。


「どうぞ。お先に」


 男は、手を引っ込めて、一歩下がった。


「いや、僕は、たくさんあるうちの一冊でいいんで。そちらこそ、どうぞ」

「あ、いえ。私が探しているのは、これじゃないんです」


 男は、少し困ったように、棚の上の段を見上げた。


「同じリンデマンの、元の版のほうでして。学者向けの、分厚いやつです。ここなら置いてあるかと思ったんですが」

「元の版……」


 思わず固まった。


 帳場のほうから、しわがれた声がした。


「元のほうなら、このあいだ、そこの人が買っていったよ」


 老婆が、拡大鏡ごしに、学を指さしていた。


 男が、学を見た。

 こちらも、男を見た。


「……あなたが」

「……僕です」


     ◇


 男は、テオドール・シュミットと名乗った。

 王立リュケイオン学院の研究員だという。


 研究員。

 なるほど、だから学院のそばの路地にいたのか。


 こちらも、シモンと名乗った。


「妖精の出てくる御伽噺を、いくつか確かめたくて。子ども向けの版だと、話が削られていたり、書き換えられていたりするんです。元の版なら、土地ごとの語られ方まで、細かく残っているので」

「妖精の、話ですか」

「ええ。……仕事の、ちょっとした調べもので」


 テオドールは、それ以上は言わなかった。


 内心で首をかしげた。

 学院の研究員が、妖精の御伽噺を調べている。

 妙な取り合わせだった。


 いや。

 妙では、ないのかもしれない。


 公爵閣下が、学院に鑑定をお頼みになったそうで。

 買取商の店主は、たしか、そう言っていた。


 学院。

 妖精。


 まさか、あの小瓶の粉が、この男の机の上にあるのではないだろうか。


 背中に、ひやりとしたものを感じた。


 肩の上で、モナが、学の耳を引っぱった。


「ねえ、マーナ」


 学は、テオドールに見えないように、そっと目だけでモナを見た。


「あんた、この人の前で、少年になって『へへっ』て言ったのよ」


 学は、口もとを手で押さえた。


 笑ってはいけない。

 今、目の前で真面目な顔をしているこの男の前で、自分は、子どもの姿に化けて、「へへっ。なんだか、おもしろくなってきたね、お兄さん」と言って消えたのだ。


 肩が、小刻みに震えた。


「……どうかしましたか?」

「いえ。ちょっと、くしゃみが出そうで」


     ◇


 咳払いを一つして、顔を上げた。


「その元の版、よかったら、お貸ししましょうか」

「えっ」

「正直に言うと、僕には難しすぎたんですよ。三日で枕になりまして。それで、こっちを買いに来たんです」


 手の中の、子ども向けの薄い本を軽く振ってみせた。


 テオドールは、目をしばたたいた。

 それから、初めて、少しだけ笑った。


「……ありがたい。本当に、助かります。学院の書庫にもあるにはあるんですが、貸し出しの順番待ちで、ひと月先だと言われまして」

「なら、ちょうどいい。宿に置いてあるので、今度、持ってきますよ」


 テオドールは、しばらく何か考えていた。

 それから、頭をかいた。


「お礼に、一杯おごらせてください。研究員の稼ぎなので、上等な店は無理ですが」

「いや、そんな」

「させてください。借りっぱなしというのは、どうも落ち着かない性分でして」


     ◇


 子ども向けの『リンデマンの御伽噺』を帳場に持っていった。


 老婆が、値を告げる。


「……もう少し、安くなりませんか」


 肩の上で、モナが目を丸くした。


 老婆は、拡大鏡の向こうから、学をじっと見た。

 それから、ほんの少しだけ、口の端を上げた。


「元のほうを買ってくれたお客だからね。銅貨一枚、まけとくよ」


 店を出ると、モナが、学の頭の上で拍手をした。


「値切れたじゃない、マーナ」

「……銅貨一枚だけどな」


 隣を歩きながら、テオドールが、ぽつりと言った。


「研究員ってのは、つまらない仕事でしてね。……いや。最近ひとつだけ、妙に気になることがあるんですが」


 夕暮れの通りに、テオドールの影が長く伸びていた。

第二章 真理の籠

第七十四話 研究員の愚痴

[王都・琥珀の灯亭の前 学]


「……ここ、ですか」


 琥珀色の灯りをともした石造りの店を見上げて、テオドールが、かすれた声を出した。


「行きつけなんですよ。鶏の焼き物が、うまくて」

「行きつけ」


 テオドールは、扉の取っ手の磨き具合と、中から漏れてくる上品な笑い声と、自分の擦り切れた袖口とを、順番に見比べた。

 それから、懐の財布の上を、そっと押さえた。


「シモンさん。正直に言います。研究員の稼ぎでは、この店の一杯で、ひと月の蝋燭代が飛びます」

「じゃあ、割り勘にしましょう。半分ずつ」

「それでは、お礼に」

「僕のほうが、ちょっとだけ多めに出します。本を貸すのも、話し相手ができるのも、僕の得なんで」


 テオドールは、しばらく迷った末に、頭を下げた。


 肩の上で、モナが、くすくす笑っていた。


「おごるのも、ほどほどにするんじゃなかったの」


 学は、聞こえないふりをした。


     ◇


[琥珀の灯亭・奥のソファー席 学]


 奥のソファー席に腰を下ろすと、テオドールは、店の中を落ち着かなげに見回した。


 身なりのいい商人たち。

 銀の食器。

 品よく磨かれた卓。


「……こういう店に入るのは、学院の卒業の祝い以来です。あのときは、貴族の同期に連れてこられて、ずっと壁ぎわで黙っていました」


 葡萄酒を運んできたのは、店主のヘレーネだった。

 テオドールの擦り切れた袖口に、ちらりと目をやる。

 それから、学のほうを見て、にこりと笑った。


「シモンさんのお連れなら、間違いはないわね。今夜のは、樽を開けたばかりのいいところよ」


 ヘレーネは、テオドールの杯に、なみなみと注いでいった。


 テオドールは、帳場へ戻っていくヘレーネの背中を、ぽかんと見送っていた。


「……私の袖口を見ても、追い返されなかった店は、初めてです」

「ここの店主は、人を見る目があるんですよ」


 テオドールは、杯をひと口飲んで、目を丸くした。


「うまい」

「でしょう」


 二口目からは、肩の力が、少しずつ抜けていった。


     ◇


 三杯目のころには、テオドールの舌は、すっかりなめらかになっていた。


「貴族の研究員というのはですね、シモンさん。自分で頼んだ雑用を、自分で忘れるんですよ」

「忘れる」

「百年前の鉱石の記録の写しを、夜通しかかって届けたら、『そんなもの、頼んだかな』ですよ。あれで、私は悟りました」


 テオドールは、杯の縁を指で叩いた。


「あの連中の雑用は、適当でいい。……もっとも、最近は、学長から、まともな雑用を回されるようになりましたが」

「まともな雑用、ですか」

「搬入口の帳面です。学院の真ん中に、温室がありましてね。薬草園、と呼ばれているんですが」


 テオドールは、声をひそめた。

 ひそめたつもりだろうが、葡萄酒のせいで、たいしてひそまっていなかった。


「研究員でさえ、入れないんです。私も、入ったことがない。中で何を育てているのか、誰も知らない。知っているのは、学長と、ほんの一握りの教授だけです」


     ◇


「おまけに、夜になると、妙なことが起きる」


 テオドールは、また杯をあおった。


「遅くまで研究室に残っていると、ときどき、中庭のほうで、大きな音が鳴るんです。鐘とも笛ともつかない、耳に刺さるような音が、きん、きん、と途切れ途切れに。そうすると、警備の連中が、わっと駆けていく」

「警備」

「温室を守っている連中です。それがまた、妙な面をつけていましてね」


 テオドールは、指で、自分の両目の前に輪を作ってみせた。


「ガラスの目が、二つ並んだ革の面です。警備の連中は、梟の面とか呼んでいるらしい。昼間に見ると、間の抜けた顔なんですが、夜にあれをつけて駆けてくるのを見ると、ぞっとしますよ」


 ふと、肩の上が静かなことに気づいた。


 さっきまで、テオドールの愚痴のたびに笑いをこらえていたモナが、黙っている。

 羽も動かさずに、テオドールの指の輪を、じっと見つめていた。


     ◇


「それから、粉の件」


 テオドールは、四杯目に口をつけながら、ぽつりと言った。


「半月ほど前、学長に呼ばれましてね。ある粉の鑑定の、下働きを命じられたんです。依頼主は、妖精の粉だと言っているらしい。御伽噺の、あの」


 学の手が、杯の上で止まった。


「妖精の粉、ですか」

「ええ。馬鹿馬鹿しいと思うでしょう。私も思いました。ところが、暗がりに置いてみたら、その粉が、ほんとうに光ったんです。蛍みたいに」


 テオドールは、そのときのことを思い出すように、目を細めた。


「そうしたら、学長が、見たこともない顔をなさった。いつも何を見ても眉ひとつ動かさない方が、あの粉を、飢えた獣みたいな目で見ていた」


 学は、葡萄酒をひと口飲んだ。

 味が、まるでしなかった。


「先日、公爵家の家令が、学院の正門で鑑定の催促をしていましてね。どうやら、あの粉は、公爵家が王都で手に入れたものらしい。売った誰かが、この王都のどこかにいるわけです」


 テオドールは、首を振った。


「いったい、どこで、あんなものを手に入れたんだか」


 背中を、冷たい汗がひとすじ伝っていくのを感じた。


 森で拾いました。

 喉もとまで出かかった言葉を、葡萄酒で流し込んだ。


     ◇


「そういえば」


 テオドールが、急に、少しだけ真面目な顔になった。


「前に、夜道で、妙な男に助けられたことがあるんです。学院のそばの路地で、物騒な連中に囲まれたときに」

「……へえ」

「黒い外套の、貴族みたいな男でした。名前も言わずに、消えてしまって。気味の悪い男でしたが」


 テオドールは、空になった杯を、指でくるりと回した。


「礼くらい、言ってもよかったと思っているんです。今さらですけどね」


 学は、何も言えなかった。


 その男なら、今、あなたの向かいで、葡萄酒の味がしなくなっています。

 言えるはずもなかった。


     ◇


[琥珀の灯亭の前 学]


 店の前で、テオドールと別れた。


 元の版は、次に会うときに、宿から持ってくることになった。

 テオドールは、少しふらつく足取りで、何度も振り返っては頭を下げ、学院のほうへ帰っていった。


 夜の通りに、学とモナだけが残った。


「……なあ、モナ。粉のこと、まずくないか」


 返事がなかった。


 肩の上を見た。


 モナは、学院の方角の夜空を、じっと見つめていた。

 いつもの、からかうような笑みは、どこにもなかった。


「マーナ」


 モナが、ぽつりと言った。


「あたし、そこ、行ったことある」

第二章 真理の籠

第七十五話 お面の連中

[王都・宿の部屋 学]


 宿の部屋に戻っても、モナは、なかなか口を開かなかった。


 窓枠の上に腰かけて、膝を抱えている。

 羽は、背中でたたまれたまま、ぴくりとも動かない。


 寝台に腰を下ろして、待った。


 十年いっしょにいて、こんなモナは、ほとんど見たことがなかった。

 笑っているか、からかっているか、怒っているか。

 いつもそのどれかだ。

 黙り込んで膝を抱えるのは、モナらしくない。


「……前にね」


 ようやく、モナが言った。


「あんたが、伯爵の夜会に、どうやって潜り込むか頭を抱えてたころ。あたし、いつもみたいに、王都をあちこち飛び回ってたの」

「情報集めか」

「暇つぶしよ」


 モナは、膝の上にあごを載せた。


「学院の上も、何度か飛んだわ。人間の学者が、何を調べてるのか、ちょっと気になって。それで、ある晩、真ん中のほうに降りてみたの。ガラスの屋根の、大きな温室のあるあたり」


     ◇


「姿は、消してたのよ。いつもどおり」


 モナの声に、少しだけ、とげが混じった。


「誰にも見えないし、聞こえない。あたしの幻術だもの。王宮の大広間だって、あんたの肩の上で、誰にも気づかれなかったでしょう」

「ああ」

「なのに、温室に近づいたとたん、塀の上で、ものすごい音が鳴ったの」


 モナは、両手で耳をふさぐ仕草をした。


「鐘でもない、笛でもない。耳の奥に刺さるような音が、きん、きん、って、途切れ途切れに。そしたら、どこからか、人がわらわら出てきて」

「警備か」

「変なお面をつけた連中よ。ガラスの目が、二つ並んだやつ」


 テオドールが、指で作ってみせた輪を、思い出した。


「そいつらが、まっすぐ、あたしのほうへ走ってきたの。見えてないはずなのに。あたしが右へ飛べば右へ。左へ飛べば左へ。何人も、何人も」


 モナは、そのときのことを思い出すように、目を伏せた。


「木の陰に隠れても、だめだった。気づいたら、木の向こう側からも、お面の連中が回ってきてるの。手を伸ばしてきて、指の先が、羽をかすめたわ」

「……捕まりかけたのか」

「かけた、だけよ」


 強がるような声だった。


 モナは、膝を抱える腕に、力をこめた。


「最後は、転移で逃げたわ。それからは、あそこには一度も近づいてない」


     ◇


 しばらく黙っていた。


 モナの幻術が、見破られた。


 学にとって、それは、空が落ちてきたと言われるのと同じくらい、信じがたい話だった。

 十年、この妖精に幻術を叩き込まれてきた。

 三回に一回は勝てるようになったとはいえ、それはモナが手を抜いていたからだと、知っている。

 本気のモナの幻術を、一度も見破れたことがない。


「……悔しかったわ」


 モナが、ぽつりと言った。


「あたしの幻術が、見破られたのよ。世界最高の、あたしの」


 冗談めかした言い方ではなかった。

 羽の先が、小さく震えていた。


「それに、あのあたり、なんだか息が詰まるの」

「息が?」

「うまく言えないけど。空気が、薄いっていうか。居心地が悪いのよ。森と、正反対みたいな場所」


 モナは、首を振った。


「とにかく、あそこは、嫌い」


     ◇


 腕を組んだ。


 見えていないはずなのに、まっすぐ追ってくる。

 大きな音が鳴ってから、人が駆けてくる。

 ガラスの目の、お面。


 どこかで、聞いたことのある話だった。


 いや、見たことがある。

 前の世界で、何度も。

 深夜のアニメで。

 海外の映画で。


「……それ、音で探ってるんじゃないか」

「音?」

「耳には聞こえない、高い音があるんだよ。それを出して、その跳ね返りで、何かがいるのを知るんだ。コウモリが、暗闇で虫を捕まえるみたいに」


 モナは、顔を上げた。


「姿を消しても、体はそこにあるだろ。音は、体に当たって跳ね返る。見えなくても、そこに何かがいるって、ばれる」

「……そんなこと、できるの?」

「できるんだよ。僕のいた世界じゃ、海の中の船を、そうやって探してた」

「海の中の、船?」

「海の中を進む、鉄の船があったんだよ。敵の船を探すのに、音を使うんだ」


 モナは、ぽかんと口を開けた。


「あんたの世界って、そんな物騒なものばっかりなの?」

「物騒なものばっかりじゃないよ。……いや、まあ、多かったかもしれないけど」


 頭をかいた。

 中学生のころ、ノートに描いていた秘密兵器の数々を思い出して、少しだけ顔が熱くなった。


「でも、あたしが聞いたのは、耳に刺さるような音よ」

「たぶん、ふだんは聞こえない音で、ずっと見張ってるんだ。で、何かいるってわかったら、もっと強く鳴らして、居場所を突き止める。そのときに、余計な音まで漏れちまうんじゃないか。……仕掛けが、まだそこまで上手くできてないんだろうな」


 指を一本立てた。


「それから、お面のほうは、たぶん、熱を見る眼鏡だな」

「熱を、見る?」

「目に見えなくても、体は温かいだろ。その温かさを、見るんだ。真っ暗闇でも、温かいものだけが、ぼうっと光って見える。……ただ、壁や木の向こうまでは見えないはずだ。見えるのは、じかに目の前にある温かいものだけ」


 モナは、眉を寄せた。


「温かさって、目で見るものじゃないでしょ」

「いや、それが見えるんだよ。熱ってのは、目には見えない光みたいなもんで……」

「光なのに、見えないの?」

「見えない光があるんだよ」

「なによ、それ」


 学は、口を開いて、閉じた。


 説明しようとすればするほど、こんがらがっていく。

 赤外線、と言ったところで、モナには何のことかわからないだろう。

 学自身も、仕組みをちゃんと説明できるほど、物理に詳しいわけではなかった。


「……とにかく、そういうのがあるんだ」

「全然わかんない」


 モナは、ふくれっつらをした。

 それでも、少しだけ、いつもの顔に戻っていた。


     ◇


「でも、何なんだろうな。そこまでして守ってるもの」


 天井を見上げた。


 聞こえない音で探り、熱で見張る。

 研究員も入れない温室。

 テオドールの話では、中で何を育てているのか、誰も知らないという。

 そして、学の持ち込んだ粉を、学院の学長が、飢えた獣のような目で見ていた。


 学院。

 温室。

 妖精の粉。


 何かが、つながりそうで、つながらない。


「中に、何があるのかしらね」


 モナが、窓の外の夜空を見ながら言った。


「わからない。でも」


 寝台から立ち上がった。


「ちょっと、見に行ってみるか」


 モナは、振り返った。


 しばらく、学の顔を、じっと見つめていた。

 それから、小さく息を吐いた。


「……あんたが行くなら」

第二章 真理の籠

第七十六話 粉の綱引き

[王立リュケイオン学院・正門 公爵]


 馬車が、学院の正門をくぐった。


 ローデリヒ・フォン・ゴルトシュタインは、窓の外を流れていく石の建物を、いつもの顔で眺めていた。


 家令は、何度学院へ足を運んでも、手ぶらで戻ってきた。

 この前は、正門で追い返されたという。

 階段の上から、学長じきじきに。


 真贋の判別には、検証の反復を要する。

 家令の口から聞かされたその言葉を、一字一句覚えていた。


「閣下が、直々にお運びになるほどのことでは」


 向かいの席で、家令が、申しわけなさそうに肩をすぼめていた。


「お前の落ち度ではない」


 柔らかく言った。


「学者どもに頭を下げるのは、一度で済ませたかったがな」


     ◇


[学院・本棟の奥の応接室 公爵]


 通されたのは、本棟の奥の応接室だった。


 壁という壁が、書架で埋まっている。

 背表紙の文字は、どれも古い。

 暖炉には火が入っておらず、部屋の空気は、紙と石の匂いがした。


 客を迎える部屋というより、書庫の片隅に椅子を置いただけのように見えた。


 勧められた椅子に腰を下ろした。

 家令は、扉の脇に控えている。

 茶は、出てこなかった。


 しばらくして、扉が開いた。


     ◇


 長身の男だった。


 長い白髪を背に流し、明るい色のローブをまとっている。

 足音が、ほとんどしない。


 学長、アウレリウス・ヴァイスハウプト。


「お待たせいたしました、閣下」

「いや。押しかけたのは、こちらのほうだ」


 いつもの笑みを浮かべた。

 学長もまた、口もとに、薄い笑みを浮かべていた。


 穏やかな笑みが、二つ、卓をはさんで向き合った。


 学長が、向かいに腰を下ろす。


 見たところ、自分と同じか、いくらか若いくらいだろう。

 だが、その座り方には、妙な重さがあった。

 長い年月を経た大樹が、根を下ろしているような。


 自分より年上には見えない男が、自分よりも、はるかに老いている。

 その気味の悪さを、笑みの下に押し込めた。


     ◇


「小瓶の件だ」


 前置きを省いた。


「鑑定は、まだ済まないのかね」

「未だ、途上にございます」


 学長は、静かに答えた。


「光を含む粉というものは、文献に乏しい。比すべき試料も、ほとんどない」


 公爵は、笑みを崩さずに、学長の心を探った。


 ゴルトシュタインの血は、人の心の揺れを感じ取る。

 嘘をつく者の心は、必ず波立つ。

 どれほど面の皮の厚い商人でも、どれほど口のうまい外交官でも、それは同じだった。


 学長の心は、波立っていなかった。


     ◇


 わずかに眉を寄せた。


 静かだった。

 冬の湖の、底のように。

 怒りも、焦りも、後ろめたさも、何ひとつ浮かんでこない。


 御前会議の、あの男とは違う。

 あの男の心は、霧の向こうにあって、つかめなかった。

 この男の心は、目の前に、はっきりとある。

 あるのに、そこには、何も動いていない。


 それでも、嘘だ、と思った。


 心の揺れではない。

 長く生きてきた経験が、そう告げている。

 光る粉を前にして、学者がひと月近くも首をかしげ続けるはずがない。


 この男は、嘘をついている。

 そして、嘘を嘘とも思っていない。


 長いあいだ、人の心を読んできた。

 これほど静かな心に出会ったのは、初めてだった。


     ◇


「学長殿」


 声の調子を変えずに言った。


「あれは、私の手もとから預けたものだ。真贋がわからぬなら、それでもかまわん。いったん、返していただけまいか」

「それは、いたしかねます」


 学長は、即座に答えた。


「検証の途中で試料を手放せば、それまでの観察が、すべて無に帰す。グラウクスは、そのような粗忽を好みませぬ」


 公爵の眉が、わずかに動いた。


 梟、か。


 学院の古い学者たちが、仲間うちで自分たちを呼ぶ名だ。

 この学者どもは、その名を、好んで口にする。

 自分には、黄昏を待つ年寄りの名にしか聞こえなかった。


 その名を、わざわざ、この場で口にした。

 誰の前で、誰の名を出しているのか、わかったうえで。


 笑みを深くした。

 目元は、笑わなかった。


     ◇


「学院の方々は、どうにも、お年を召さんな」


 世間話のように言った。


「外交の場で、あちこちの学院の長にお会いしてきたが、皆、同じだ。十年ぶりに会っても、少しも変わっておられん。何か、秘訣でもおありかな」

「節度ある生活と、絶えざる思索にございます」


 学長の心は、やはり、凪いだままだった。


 卓の上の、自分の手を見た。


 しみの浮いた手。

 太くなった指の節。

 それに比べて、学長の手は、白く、長く、静かに膝の上に置かれている。


 あの小瓶は、今ごろ、この男の研究室の、どこにあるのだろう。


 鑑定などと言いながら、あの粉を、ひと匙ずつ、自分の杯に落としているのではないか。

 この学者どもが、これまで決して外へ出そうとしなかった、何かと同じように。


 確かめるすべは、なかった。

 この男の心は、何も語らない。


     ◇


「閣下」


 学長が、ふいに口を開いた。


「ひとつ、閣下のお耳に入れておくべきことが」

「伺おう」

「粉の売り手は、ロキだそうですな」


 公爵の笑みが、固まった。


 ほんの、一呼吸のあいだだった。

 だが、たしかに、固まった。


 御前会議のあの日に続いて、二度目のことだった。


 耳もとに、あの声がよみがえる。


 ずいぶんと、お顔の色が悪い。


「……ロキ」

「王宮の大広間に顕れた、かの者です。閣下も、ご記憶のはず」


 学長の口調は、天気の話でもするようだった。


「売り手の店に、かの者が顕れた。売り手の代わりに、と申すべきか。いずれにせよ、かの粉の出所は、その者と見て相違あるまい」


 公爵は、自分の心臓の音を聞いていた。


 シモンという、市井の中年の男。

 森で拾った、と言った男。

 その後ろに、あの男がいたというのか。


 学長は、公爵の顔を、じっと見ていた。


 その心は、相変わらず、何も動いていない。

 驚かせて楽しんでいるのでもなく、脅しているのでもない。

 ただ、観察している。

 珍しい石の、割れ目を眺めるように。


     ◇


「売り手が誰であれ」


 学長が、立ち上がった。


「真贋の判別には、検証の反復を要する。結論が出しだい、閣下には、真っ先にお知らせいたしましょう」


 それで、話は終わりだった。


 自分も、立ち上がった。

 笑みは、もう顔に戻っていた。


「楽しみにしておるよ、学長殿」

「恐れ入ります」


 扉の脇で、家令が、慌てて扉を開けた。


     ◇


[帰りの馬車 公爵]


 帰りの馬車は、行きよりも、ずっと静かだった。


 家令は、公爵の顔色をうかがっては、何か言いかけてやめる、ということを繰り返していた。


 窓の外を見ていた。


 学院の塀が、遠ざかっていく。

 塀の向こうに、ガラスの屋根が、夕日を受けて光っていた。

 その横に、細長い石の塔が立っている。


 ロキ。

 小瓶。

 年を取らない学者ども。


 膝の上で、しみの浮いた手を、ゆっくりと握りしめた。


「学者どもめ」


 誰にともなくつぶやいた。


「粉を、渡さぬつもりか」

第二章 真理の籠

第七十七話 閉ざされた扉

[学院・学長の研究室 テオドール]


「比較の観察を、継続せよ」


 学長の研究室で、二つの器を前に立っていた。


 光を含む粉と、くすんだ灰色の粉。

 もう何度、この二つを並べただろう。


「暗所に置き、刻ごとに、光の強弱を記録したまえ。夜を徹して」

「夜を、徹して、ですか」

「君は、今宵、夜番であろう」


 テオドールは、口をつぐんだ。


 夜番のことまで、学長が知っているとは思わなかった。


 研究員は、交代で研究棟に泊まり込む。

 夜通し焚き続ける炉の火を見張り、薬品の器が割れていないかを確かめ、研究棟の戸締まりを見て回る。

 それが夜番だ。

 誰がいつ番に当たるかなど、学長が気にかけることではないはずだった。


     ◇


「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」


 器を布に包みながら、言った。


「この粉の売り手は、わかったのですか。公爵家が、王都で手に入れたものだと聞きましたが」


 学長は、窓のほうを向いたまま答えた。


「君の関知するところではない」


 それだけだった。


 窓から差し込む夕日が、学長の横顔を照らしていた。

 口もとの皺が、いつもより深く見えた。

 疲れておいでなのだろうか、と思った。

 今日の午後、ゴルトシュタイン公爵がじきじきに学院を訪ねてきたという噂を、廊下で耳にしていた。


 頭を下げて、研究室を出た。


 扉を閉めてから、小さく息を吐いた。


 いつものことだ。

 学長は、結論だけを短く言う。

 理由を説明しない。

 それでも、言われたことには、必ず意味があった。

 だから、これまで黙って従ってきた。


     ◇


[学院・夜の東棟 テオドール]


 夜の東棟は、しんと静まりかえっていた。


 廊下の突き当たりの炉が、低くうなっている。

 誰かが、何日もかけて鉱石を焼いているらしい。

 その火を絶やさないことが、今夜のテオドールの役目の一つだった。


 研究室の明かりを落とし、暗がりに二つの器を置く。


 光を含む粉は、暗がりの中で、蛍のように淡く光っていた。

 灰色の粉は、闇に沈んで、どこにあるのかもわからない。


 刻ごとに、帳面に書きつけた。


 光、変わらず。

 光、変わらず。

 光、変わらず。


 三度目を書いたところで、ペンを置いた。


「……夜を徹して見る必要が、どこにあるんだ」


 誰も聞いていない研究室で、ひとりごちた。


 炉の火を見に行き、薪をくべて、また戻る。

 戻って、帳面に書く。

 光、変わらず。


 あくびを噛み殺しながら、暗がりの淡い光を眺めた。


 妖精の粉だ、と依頼主は言っているらしい。

 御伽噺の、あの粉だ。

 シモンさんが、次に会うときに元の版を持ってきてくれる。

 妖精の話が、土地ごとにどう語られているのか。

 それを読めば、この粉が何なのか、少しはわかるかもしれない。


     ◇


 真夜中を過ぎたころ、角灯を提げて見回りに出た。


 研究棟の扉を、一つずつ確かめていく。

 鍵のかかっていない部屋が、二つあった。

 どちらも、貴族の研究員の部屋だった。


 黙って鍵をかけた。


 東棟の端まで来ると、渡り廊下の窓が一つ、開け放しになっていた。

 閉めに行くと、その窓から、中庭が見下ろせた。


 木立の向こうに、ガラスの屋根が、月の光を鈍く返している。

 その横に、鳴らずの塔が、黒い影になって立っていた。


 足を止めた。


 温室の扉が、細く開いていた。


     ◇


 搬入口の、あの小さな扉ではない。

 温室の正面の、両開きの扉だ。


 中から、角灯を提げた人影が、一つ出てくるところだった。

 ローブの裾が、扉の向こうの暗がりに揺れている。

 顔は、見えない。


 扉が、ほんの一瞬だけ、大きく開いた。


 その一瞬に、聞いた。


 歌だった。


 小さな、高い声だった。

 一つではない。

 いくつもの細い声が、重なり合って、ひとつの旋律をなぞっている。


 言葉は、聞き取れなかった。

 鳥のさえずりのようでもあり、遠くで子どもが歌っているようでもあった。

 ゆっくりとした、子守歌のような節だった。


 扉の奥の暗がりに、蛍のような光が、いくつか揺れていた。


     ◇


 扉が、閉じた。


 歌声は、ぷつりと途切れた。


 渡り廊下の窓に、額をつけるようにして立ち尽くしていた。


 今のは、何だ。


 蜂か。

 いや、蜂は歌わない。

 小鳥か。

 小鳥が、夜更けに、声をそろえて子守歌を歌うものか。


 気がつくと、階段を駆け降りて、中庭に出ていた。


     ◇


[学院の中庭・木立の手前 テオドール]


 木立の手前まで来たときだった。


「止まれ」


 低い声がした。


 テオドールは、角灯を取り落としそうになった。


 木立の陰から、男が二人、出てきた。


 顔の上半分を、革の面が覆っている。

 ガラスの目が二つ、角灯の光を受けて、ぎらりと光った。


 昼間に見たときは、間の抜けた顔だと思った。

 夜に遠目で見たことは、あった。

 目の前で見ると、まるで違った。

 人の顔をした梟が、首をかしげて、こちらを見下ろしているようだった。


「何をしている」

「東棟の、夜番です。見回りの途中で」

「見回りなら、研究棟の中だけで足りるはずだ」


 もう一人が、テオドールの角灯を、面のガラスの目でじっと見ていた。


「研究員は、ここへは近づくな。学長のお言いつけだ」

「あの温室の中で、今、声が……」

「声?」


 面の男は、少しのあいだ黙った。


「風の音だろう。戻れ」


     ◇


[学院・東棟 テオドール]


 東棟へ戻った。


 研究室の暗がりで、光を含む粉が、変わらず淡く光っていた。


 帳面に、「光、変わらず」と書きつける。

 ペンを持つ手が、少し震えていた。


 風の音だろう。


 塔のそばで、耳の奥に低いうなりを聞いたとき、自分も、そう思った。

 だが、あれは歌だった。

 風は、子守歌を歌わない。


 花の蜜の壺。

 親指の先ほどの、小さな器。

 細い銀色の鎖。

 暗がりで光る、蛍のようなもの。

 そして、小さな、高い歌声。


 搬入口の帳面に書きつけてきた品々が、頭の中で、一つの形を結びかけては、ほどけていく。


 妖精。


 その言葉が、ふと浮かんだ。


 首を振った。


 御伽噺じゃあるまいし。

 光る粉ばかり眺めているから、頭がそちらへ引っぱられているだけだ。

 鎖に偽銀の手ざわりを感じたときと、同じだ。


     ◇


 学長の顔を思い浮かべた。


 この学院に入ったとき、学長は、遠くから見上げるだけの人だった。

 平民の自分の所見を、じかに聞いてくれるようになった。

 理由を言わない人だが、それでも信じてこられた。


 だから、従ってきた。


 君の関知するところではない。


 あの声が、耳の奥で、もう一度響いた。


 学院は、知を求める場所のはずだった。

 その真ん中に、研究員にさえ知らされない場所がある。

 そこで、何かが歌っている。


 暗がりの中の淡い光を、じっと見つめた。


「……あそこには、何がいるんだ」

第二章 真理の籠

第七十八話 夜の学院

[王都の夜の通り 学]


 雲の厚い夜を、二晩待った。


 月の明るい夜は、物陰が浅くなる。

 お面の連中が熱で見るのだとしても、人の目で見張っている者もいるかもしれない。

 用心するに、越したことはなかった。


 宿を出てから、モナは、ほとんど口をきかなかった。

 屋台の串焼きの匂いに鼻をひくつかせても、何も言わない。

 いつもなら、「あんた、さっき夕飯食べたでしょ」と、すかさず茶々が入るところだ。


 学院の外塀は、学の背丈の倍ほどの高さがあった。

 塀の向こうに、本棟の屋根の影が、夜空を黒く切り取っている。

 人通りは、とうに絶えていた。


「いいか、モナ。今夜は、見るだけだ」


 小声で言った。


「中には入らない。真ん中にも近づかない。お面の連中の目が届かないところから、のぞくだけ」

「わかってるわよ」


 肩の上で、モナが答えた。


 いつもなら、ここで「臆病ね」くらいは言うところだ。

 今夜のモナは、それだけ言って、黙った。


     ◇


[王立リュケイオン学院の外塀の外 学]


 自分の姿に幻をかけた。


 夜の闇と同じ色に、体を溶かし込む。

 足音も、衣擦れの音も、消した。

 とっさに出る声までは、さすがに面倒を見きれないだろうが。

 これで、目と耳はごまかせる。


 ごまかせないのは、熱と、跳ね返る音だけだ。


「壁の陰から出なければ、たぶん大丈夫だ。熱は、壁を通らない。音も、物の裏には回り込めない」

「たぶん、ね」

「……たぶん、だ」


 モナが、小さく息を吐いた。


 次の瞬間、景色が、ぐにゃりと歪んだ。


 足の裏の感触が変わる。

 石畳から、湿った芝へ。


 外塀の内側に立っていた。

 本棟の裏手の、背の低い物置小屋の陰だった。


     ◇


[学院・外塀の内側の物置小屋の陰 学]


 小屋の角から、そっと顔を出す。


 広い中庭が、闇の中に沈んでいた。

 その奥に、木立が黒々と茂っている。

 木立の手前を、低い塀がぐるりと囲んでいた。


 塀の上に、何かが並んでいる。


 目を凝らした。

 腕ほどの長さの、筒だった。

 等しい間をおいて、いくつも、塀の内側へ口を向けている。


 あれが、モナを見つけた仕掛けだ。


 音は、聞こえない。

 それでも、あの筒は、今も鳴っているはずだった。

 人の耳には届かない、高い音で。


 首の後ろが、ひやりとした。


     ◇


 塀の手前を、人影が二つ、歩いていた。


 顔の上半分が、ふくらんで見える。

 雲の切れ間から、わずかな光が落ちてきた。

 その光を受けて、顔の真ん中で、二つの丸いものが、ちかりと光った。


 ガラスの目だ。


 息を詰めて、二人を目で追った。


 そして、気づいた。


 二人とも、角灯を持っていない。

 この暗さで、灯りもなしに、足もとも確かめずに歩いている。

 石につまずくでもなく、木の根をまたぐでもなく、昼間の道を歩くように。


 見えているのだ。


 あのお面の向こうでは、闇の中で、温かいものだけが、ぼうっと浮かび上がっている。

 芝の上を走る鼠も。

 塀の上で眠る鳩も。

 そして、物陰からのぞいている、間抜けなおっさんも。


 ――熱を見る眼鏡だ。


 もう、たぶん、ではなかった。


     ◇


 そのときだった。


 頭の上で、がさりと音がした。

 物置小屋の屋根から、何かが飛び降りてきた。

 それが、学の足の甲の上に、ずしりと落ちた。


 痛っ、と叫びかけた。


 その声が喉から出るより早く、モナが、肩から飛び降りた。

 学の口に、体ごとしがみつく。

 小さな両手で、唇を力いっぱい押さえつけている。


「ふぐっ……!」


 漏れたのは、くぐもった声だけだった。

 羽が、鼻の穴をくすぐった。


 足もとを見ると、太った野良猫が一匹、学の足の上に、悠々と座り込んでいた。


 涙目で猫をにらんだ。

 猫は、まるで動じなかった。


 塀の前の人影が、足を止めた。


 ガラスの目が、こちらを向く。


 息を止めた。

 小屋の陰に、背中を押しつける。

 モナも、学の口にしがみついたまま、凍りついていた。


     ◇


 猫が、のっそりと立ち上がった。


 学の足をもう一度ぐいと踏みつけて、小屋の陰から、中庭へ歩み出ていく。

 尻尾を立てて、芝の上を、のんびりと横切っていく。


 人影は、しばらく、そちらを見ていた。


「……猫か」


 低い声が、風に乗って聞こえた。


 人影は、また歩き出した。

 塀に沿って、木立の向こうへ、ゆっくりと遠ざかっていく。


 モナが、学の口から手を離して、肩の上に戻った。


「……あんた、本当に、間が悪いわね」


 声は、いつもより小さかった。

 それでも、ほんの少しだけ、いつもの調子が戻っていた。


「僕のせいじゃない。あの猫が、太りすぎなんだ」


 痛む足をさすりながら、猫の消えた闇をにらんだ。


 助かった。

 熱を見る眼鏡には、温かい猫が、くっきりと映ったはずだ。

 物陰から聞こえた妙な声より、目の前を歩く猫のほうを、人は信じる。


     ◇


 木立の横に、細長い塔が立っていた。


 時計塔、だろうか。

 てっぺんに、鐘楼のような形の屋根が載っている。

 だが、柱のあいだに、鐘の影はなかった。

 文字盤も、見当たらない。


 小屋の陰から、本棟の壁ぎわの暗がりを伝って、塔に近い側へ、そろそろと回り込んだ。


 近づくにつれて、耳の奥で、何かが鳴りはじめた。


 低い、うなりのような音だった。

 耳で聞いているというより、頭の骨が、かすかに震えているような。

 虫の羽音にも、遠い滝の音にも似ている。


「……なんだ、これ」


 首をかしげた。


 前の世界で、似た音を聞いたことがある気がした。

 夜中の台所で、冷蔵庫がうなっている音。

 あるいは、住宅街の端の、金網に囲まれた変電所の前を通ったときの音。

 どちらも、この世界にあるはずのないものだった。


 肩の上で、モナが、学の襟をぎゅっとつかんだ。

 何も言わない。

 小さな体が、学の首すじに、強く押しつけられている。


「モナ?」

「……平気よ」


 平気な声では、なかった。


 息が詰まる、とモナは言っていた。

 空気が薄い、森と正反対みたいな場所だ、と。

 その真ん中に、このうなる塔が立っている。


     ◇


 塔のてっぺんで、何かが動いた。


 鐘楼の柱のあいだに、ほんの一瞬、小さな灯りが揺れた。

 すぐに、消える。


 目をこすった。


 時計塔に、こんな夜中に、誰がいるというのだ。

 鐘も鳴らない塔の上で、何をしているのだ。


 もう一度、目を凝らしたが、灯りは、もう見えなかった。


 それ以上は近づかなかった。

 これ以上進めば、壁の陰から出てしまう。


     ◇


 塔から目を離して、木立の向こうを見た。


 ガラスの屋根が、雲の下で、鈍く沈んでいる。

 温室だ。


 その屋根の向こうで、何かが光っていた。


 小さな光だった。

 一つ、二つ、三つ。

 蛍のような淡い光が、ガラスの向こうで、ゆっくりと動いている。


 ふわりと浮かんで、止まって、また、ゆっくりと沈んでいく。


「蛍、か……?」


 温室の中で、蛍でも飼っているのだろうか。

 薬草園というくらいだから、虫くらいは、いるのかもしれない。


 肩の上のモナに、そう言おうとした。


 モナが、ぴたりと動きを止めていた。

第二章 真理の籠

第七十九話 灯

[学院からの帰り道 学]


 帰り道、モナは、ひと言も口をきかなかった。


 外塀の外へ転移で戻ったときも。

 人のいない大通りを歩いているあいだも。


 肩の上で、学の襟をつかんだまま、じっと前を見ている。


「なあ、さっきの猫、ひどかったよな。あれ、絶対わざとだぞ」


 返事はなかった。


「ああいう太った猫ってのは、自分が太ってることを知らないんだよ。だから平気で人の足に落ちてくる」


 返事は、やはりなかった。


 十年いっしょにいて、モナに話しかけて返事がなかったことなど、一度もない。

 からかわれるか、言い返されるか、無視するふりをして結局しゃべり出すか。

 そのどれかだった。


 大通りの角で、一度だけ、振り返った。


 家々の屋根の向こうに、学院の本棟の影が、黒く沈んでいる。

 ガラスの屋根も、塔も、ここからは見えなかった。


 それ以上は何も言わずに、宿の裏口のきしむ扉をくぐり、階段を上った。


     ◇


[王都・宿の部屋 学]


 部屋に入ると、モナは、学の肩から窓枠へ移った。


 膝を抱えるのでもなく、羽を広げるのでもない。

 ただ、窓の外の、学院の方角を見ている。


 蝋燭に火をともした。


 小さな炎が、部屋の隅の暗がりを押しのける。

 卓の上に、分厚い革の装丁の本が、置きっぱなしになっていた。

 御伽噺集。

 テオドールに貸す約束をした、元の版だ。


 寝台に腰を下ろして、待った。


 お面の連中の話を聞いた夜も、こうして待った。

 あのときのモナは、しばらくして、自分から話しはじめた。

 今夜は、どれだけ待っても、窓の外を見たままだった。


 蝋燭の芯が、じじ、と小さく鳴った。


     ◇


「……今の光」


 ようやく、モナが言った。


 窓の外を見たまま。

 学のほうは、振り向かなかった。


「仲間の光に、似てた」


 学は、すぐには意味がわからなかった。


「仲間の、光?」

「あたしたちはね、光るのよ。ふだんは光らないけど、気持ちが大きく動いたときに。うれしいときとか、悲しいときとか」


 モナは、自分の手のひらを、じっと見下ろした。


「あんたの前じゃ、ほとんど光ったことないけどね。人の前で光るのって、なんだか子どもみたいで、恥ずかしいのよ」


 十年の暮らしを、思い返した。


 言われてみれば、一度だけ、見たことがある気がする。

 果ての大陸で、モナが、腹を抱えて笑い転げていたときだ。

 羽の縁が、ほんの一瞬、淡く光ったように見えた。

 あのときは、日の光の加減だと思っていた。


 妖精の森の夜は、苔も花も、ぼんやりと光っている。

 そのなかで、妖精が光っていたとしても、学には見分けがつかなかっただろう。

 森のはずれで寝起きしていた十年、夜の森の奥を、のぞいたこともなかった。


     ◇


「それに、あの光り方」


 モナの声が、少しだけ揺れた。


「ゆっくり浮いて、止まって、また沈んで。あれはね、小さい子を寝かしつけるときの光り方なの。歌いながら、光るのよ。森で、年上の子が、生まれたばかりの子に」


 ふわりと浮かんで、止まって、また、ゆっくりと沈んでいく。


 ガラスの屋根の向こうの、あの光。

 蛍だと思った。

 薬草園なら、虫くらいいるだろう、と。


「でも」


 学は、言いかけて、口をつぐんだ。


 果ての大陸の、妖精の森。

 大樹のうろの前で、年かさの妖精は、当たり前のことのように言っていた。


 人の国の森には、もう仲間はいないからねえ。

 ずっと昔に、みんな引き上げたんだよ。


「……人間の大陸の森には、もう妖精はいないって」

「そうよ」


 モナは、膝を抱えた。


「だから、おかしいの」


 しばらくして、モナは、ぽつりと付け足した。


「あたし、前に、あの温室のすぐそばまで行ったのよ」


 お面の連中に追い回された夜のことだ。


「あのとき、中に誰かいるなんて、思いもしなかった。音が鳴って、追いかけられて、怖くて、悔しくて。自分のことで、頭がいっぱいだった」


 モナの羽が、小さくたたまれた。


「……ガラス一枚向こうに、いたかもしれないのに」


 学は、何も言えなかった。


     ◇


 部屋が、しんと静まった。


 頭の中で、知っていることを並べてみた。


 研究員でさえ入れない温室。

 中で何を育てているのか、誰も知らない、とテオドールは言っていた。

 目に見えない者を探すための、音の仕掛けと、熱を見る眼鏡。

 鐘のない塔の、うなり。

 暗がりで光る粉を、飢えた獣のような目で見ていたという学長。


 そして、ガラスの向こうの、ゆっくりと浮き沈みする光。


 ひとつの考えが、頭の隅で形になりかけた。


 それを、むりやり押しやった。


 まだ、何も見ていない。

 見たのは、遠くの光が三つだけだ。

 蛍かもしれない。

 ほかの、何かかもしれない。


 そう思おうとした。

 思おうとするほど、胸の奥が冷えていった。


     ◇


 卓の上の御伽噺集に目をやった。


 古本屋で、最初にこの本を開いた日のことを思い出す。

 目次を指でなぞっていて、ある題名で指が止まった。


『消えた妖精の森』


 モナが、肩から身を乗り出して、読んで、読んで、とせがんだ。

 あとでな、と言った。

 ロキの話を探すのが先だ、と。


 結局、その「あとで」は、来なかった。

 三日で枕になった本を、それきり開いていない。

 読みやすいはずの子ども向けの薄い本も、買ったきり、鞄の底に入ったままだ。


 本に手を伸ばしかけて、やめた。


 今、ここで、この題名を声に出して読む気には、なれなかった。


     ◇


 寝台から立ち上がった。


 窓辺まで歩いて、モナの隣に立つ。

 窓の外には、雲に覆われた夜空が広がっていた。

 その下のどこかに、学院のガラスの屋根がある。


「モナ」


 モナは、答えなかった。

 ただ、小さな肩が、わずかに動いた。


「確かめよう。ちゃんと、中まで」


 窓の外を見たまま言った。


「何が光ってたのか。あそこに、何があるのか。遠くからじゃなくて、ちゃんと、この目で」


 モナが、顔を上げた。


 いつもなら、ここで何か言うはずだった。

 あんたにしては、上出来じゃない。

 そんな危ないこと、あんたにできるの。

 どちらでもよかった。


 モナは、何も言わなかった。


 学の顔を、しばらく見つめて。

 それから、小さく、ひとつうなずいた。


「……うん」

第二章 真理の籠

第八十話 入り口まで

[王都・宿の部屋 学]


 宿の卓の上に、紙が一枚、広げてあった。


 ペンで描いた、四角や丸。

 それをつなぐ線。

 ところどころに、小さな字で書き込みがある。


「……あんた、それ、何描いてるの」


 窓枠の上から、モナがのぞき込んだ。


「学院の真ん中の、配置図だ」

「はいちず」

「どこに何があるか、上から見た絵だよ」


 ペンの尻で、紙の真ん中の大きな四角を叩いた。


「ここが温室。横の丸が、あの塔。まわりのこの線が、筒の並んでる低い塀。で、このぽつぽつが木立」

「それと、この小さい四角。モナが見つけてきた、石の小屋だ」

「温室の壁に、貼りついてたやつね。……扉、どこにもなかったわよ」

「だから、入るなら、温室の中からしか入れない。わざわざ温室を通らないと入れない部屋なんて、よっぽど人に入られたくないんだろうな」


 二日がかりの絵だった。


 昼のあいだ、モナに、学院の上を高く飛んでもらった。

 姿を消し、筒の音も届かないほどの高さから、見下ろしてもらったのだ。

 戻ってきたモナが言うことを、一つずつ紙に描き起こした。


 塀の筒の数と、向き。

 木立の、どのあたりが茂っていて、どのあたりが薄いか。

 温室の扉の場所。

 温室に貼りついた、石の小屋の数。

 塔の、鐘楼の柱の向き。


 一日目、戻ってきたモナは、しばらく口をきかなかった。

 ガラスの屋根は、昼の光をぎらぎらと跳ね返していて、中は少しも見えなかったという。

 それでも、モナは、屋根の上を何度も回ったらしい。

 二日目は、言われる前に、自分から飛んでいった。


「上から見た絵なんて、何の役に立つのよ」

「立つんだよ。前の仕事じゃ、毎日こういうのを描いてた」


 画面の、どこにボタンを置いて、どこに文字を流すか。

 二十年、そればかり考えてきた。

 まさか、こんなところで役に立つとは思わなかった。


     ◇


「いいか。あそこには、目が三つある」


 指を三本立てた。


「一つ目は、塀の上の筒。人の耳に聞こえない音を出して、跳ね返りで何かいるのを知る」


 指を一本、折る。


「二つ目は、お面。暗がりでも、温かいものが見える」


 もう一本。


「三つ目は、人の目だ。あの塔のてっぺんに、灯りが見えただろ。たぶん、上から見張ってるやつがいる」


 最後の一本を、折った。


 モナは、黙って聞いていた。


「人の目だけなら、幻術でどうにでもなる。厄介なのは、一つ目と二つ目だ。あれは、モナの幻術じゃ、まだごまかせない。少なくとも、今のままじゃ」


 モナの羽が、ぴくりと動いた。

 だが、何も言い返さなかった。


 紙の上の、温室の裏手を指でなぞった。


「でも、その二つは、物の陰には弱い。音は、物の裏には回り込めない。お面も、壁や木の向こうは見えない」


     ◇


 学の指が、温室の裏手の、一か所で止まった。


 温室の壁と、太い木の幹が三本、肩を寄せ合うように並んでいるところ。


「ここだ。塀の筒は、どれもこの木の幹にさえぎられて、この隙間には届かない。塔の上のやつが、何を使って見張ってるのかはわからない。でも、温室の屋根が邪魔で、ここは塔から見えない。お面の見回りは、塀の外と内を、決まった道で回ってる。この隙間には、入ってこない」

「……たぶん、ね」

「たぶん、だ」


 正直に言った。


「だから、中には入らない。この隙間に転移して、ガラス越しにのぞくだけだ。何かあったら、すぐに転移で逃げる。それでいいか」


 モナは、しばらく紙を見下ろしていた。


 それから、小さく言った。


「あんた、こういうときだけ、頭が回るのね」


 いつもの軽口だった。

 声だけが、まだ、いつもより小さかった。


「やめても、いいんだぞ」


 紙から目を上げずに言った。


「隙間まで送ってくれたら、あとは、モナは外で待っててもいい。のぞくくらい、僕ひとりでできる」

「行くわよ」


 モナは、即座に言った。


「あたしが、行かなくてどうするの」


 学は、それ以上は言わなかった。


     ◇


[王立リュケイオン学院の外塀の外 学]


 その夜は、月がなかった。


 学院の外塀の外で、自分の姿に幻をかけた。

 闇に溶け、足音と衣擦れを消す。

 モナは、とうに姿を消している。


 真夜中を、だいぶ過ぎていた。


 外塀の向こうに、学院の建物が黒く沈んでいる。

 その一角に、灯りのついた窓が、一つだけあった。

 こんな夜更けまで、誰かが起きているらしい。


 あの窓の向こうで、テオドールが、遅くまで粉を眺めていたりするのだろうか。

 その考えを振り払った。

 今夜は、誰も巻き込むわけにはいかない。


 テオドールが言っていた。

 遅くまで研究室に残っていると、ときどき、大きな音が鳴る、と。

 ときどき、だ。

 猫か、鳥か、何かのはずみで、あの仕掛けは目を覚ます。

 だからこそ、余計な音は、一つも立てられない。


「……いい?」


 耳もとで、モナの声がした。


 景色が、ぐにゃりと歪んだ。


     ◇


[学院・温室の裏手 学]


 湿った土の匂いがした。


 しゃがみ込んだ姿勢のまま、温室の裏手の暗がりにいた。


 背中に、ざらりとした木の幹が当たっている。

 目の前には、ガラスの壁。

 右も左も、太い幹と、垂れ下がる枝に囲まれていた。


 紙の上の、あの隙間だ。


 息を止めて、耳を澄ませた。


 何も鳴らない。

 筒の、耳に刺さる音も。

 人の駆けてくる足音も。


 聞こえるのは、塔の低いうなりだけだった。

 このあいだの夜より、ずっと近い。

 頭の骨の奥で、かすかに、ずっと鳴り続けている。


 肩の上で、モナが、学の襟をつかんでいた。

 小さな手が、震えている。

 夜風のせいではないことを、知っていた。


     ◇


 木立の向こうを、足音が通り過ぎていく。


 二人分。

 芝を踏む、ゆっくりとした足取り。

 話し声は、ない。


 幹に背中を押しつけたまま、動かなかった。


 足音は、立ち止まらなかった。

 塀に沿って、温室の正面のほうへ回り込み、やがて、聞こえなくなった。


 ようやく、息を吐いた。

 いつのまにか、膝が震えていた。

 黒幕の顔なら、いくらでも作れる。

 だが、ここには、見せる相手が誰もいない。


 隙間は、隙間のままだった。

 紙の上の線は、間違っていなかった。


     ◇


 ガラスの壁に向き直った。


 ガラスは、曇っていた。

 夜露と、長年の埃とで、白く濁っている。

 向こう側は、ぼんやりとした暗がりにしか見えない。


 ただ、その暗がりの奥で、何かが、淡く光っている気がした。


 ガラスの向こうから、甘い匂いが、かすかに漏れてくる。

 花の蜜のような匂いだった。


 モナが、学の襟を、ぎゅっと引いた。


 学は、上着の袖を、手のひらまで引き下ろした。


 曇ったガラスに、そっと袖を当てる。

 音を立てないように、ゆっくりと。


 円を描くように、拭った。

第二章 真理の籠

第八十一話 細い銀色の鎖

 袖で拭ったところだけ、ガラスが澄んだ。


 手のひらほどの、丸い窓。

 その向こうに、温室の中の暗がりが沈んでいた。


 顔を近づけた。


 ガラスは、夜露にしっとりと濡れていた。

 拭った袖が、じっとりと湿っている。


 最初に見えたのは、緑だった。

 大きな葉が、幾重にも重なっている。

 葉のあいだに、白や薄紅の花が、ぼんやりと浮かんでいた。


 温室の奥のどこかに、灯りがあるらしい。

 覆いをかけた角灯のような、ごく淡い光が、葉の縁を照らしている。


 目が、少しずつ暗さに慣れていく。


     ◇


 棚が、あった。


 腰ほどの高さの、長い木の棚。

 それが、何列も、奥へ向かって並んでいる。

 棚の上には、素焼きの鉢が、等しい間をおいて置かれていた。


 鉢には、どれも、花が咲いている。

 ひとつの鉢に、ひとつずつ。

 大きな、杯のような形の花だった。


 その花の杯の中に、何かがいた。


 息を止めた。


 小さな、人の形だった。


 手のひらほどの大きさ。

 膝を抱えて、丸くなっている。

 背中に、薄い羽がたたまれていた。


 花の杯を寝床にして、眠っているのだ。


 隣の鉢にも。

 その隣の鉢にも。

 棚の向こうの鉢にも。


 数えようとして、やめた。

 二十か、三十か。

 暗がりの奥の棚まで、同じ形が、どこまでも続いていた。


 果ての大陸の森を、思い出した。

 大樹の枝の陰から、小さな影が次々に飛び出してきた。

 マーナだ、マーナが帰ってきた、と口々に騒ぎながら、枝から枝へ、笑い声を引いて飛び回っていた。


 ここでは、今は誰も飛んでいない。

 誰も、笑っていない。

 花の杯の中で、ひとつずつ、静かに眠っているだけだ。


 宿で、頭の隅に押しやった考えがあった。

 まだ何も見ていない、と、自分に言い聞かせた。

 蛍かもしれない、と。


 蛍では、なかった。


     ◇


 一人が、寝返りを打った。


 その足首で、何かが、ちかりと光った。


 細い、銀色の鎖だった。


 足首に、小さな輪がはまっている。

 輪から伸びた鎖は、花の杯の縁を越えて、棚の上を細く這っていた。

 目でたどると、棚の端を回って床へ垂れ、葉の陰へと消えていく。

 その先は、温室の床に打ち込まれた、小さな金具に留められているらしかった。


 長い鎖だった。

 人間の背丈の、三倍はあるだろうか。

 あの小さな体なら、棚のあいだを飛び回り、隣の鉢をのぞきに行くくらいはできるだろう。

 囲いの中でなら、好きに動けるように。

 そういう長さだった。


 どの妖精の足首にも、同じ鎖があった。

 暗がりのあちこちで、細い銀の線が、蜘蛛の糸のように床を這っている。


 見た目は、頼りないほどだった。

 人間の指でつまめば、たやすく千切れてしまいそうに見える。

 だが、あの小さな手では、どうにもならないだろう。


 ガラスに額を押しつけたまま、動けなかった。


 鉢のそばには、小さな器が置かれていた。

 親指の先ほどの、陶の皿や杯。

 皿の上で、とろりとしたものが、淡い光を返している。

 蜜だろうか。


 寝床の花。

 小さな器。

 蜜。


 誰かが、手間をかけて、ここを整えている。

 居心地よく、眠れるように。

 その足首に、鎖をつけたまま。


     ◇


 奥の灯りが、動いた。


 覆いをかけた角灯を提げて、人影が一つ、棚のあいだを歩いてくる。

 ローブを着た、背の高い男だった。

 顔は、灯りの陰になって、よく見えない。


 男は、一つの鉢の前で立ち止まった。


 角灯を棚に置く。

 懐から、小さな刷毛と、小さな器を取り出した。


 男が何をするのかを、黙って見ていた。


 男は、刷毛を、眠っている妖精の羽に、そっと当てた。


 なでるように。

 羽の付け根から、先へ。

 一度。

 もう一度。


 刷毛の先に、細かな粉がついた。

 男は、それを器の縁で、とん、と軽く落とした。


 それから、懐から小さな帳面を出して、何かを書きつけた。

 角灯の光の中で、ペンの先が、さらさらと動く。

 書き終えると、帳面を閉じて、また刷毛を手に取った。


 眠っている妖精は、目を覚まさなかった。

 それほど、静かな手つきだった。


 壊れやすい硝子細工を扱うように。

 いや、それよりも、ずっと丁寧に。


     ◇


 あたしのフケ、国宝だって。


 果ての大陸で、妖精の粉を初めて見た日。

 人間だってフケとか出るでしょ、とモナは言った。

 フケかよ、と笑った。


 買取商の店で、店主は、震える声で言った。

 小指の爪の先ほどの量で、人の寿命を一年延ばす、と。

 これが本物なら、国宝でございます、と。


 あのとき、笑いをこらえていた。


 男が、隣の鉢へ移った。

 刷毛が、また、眠っている羽をなでる。

 とん、と器の縁で粉を落とす。


 一年。

 一年。

 一年。


 胃の奥から、何かがせり上がってきた。


 口もとを手で押さえた。

 声も、息も、漏らすわけにはいかない。

 奥歯を噛みしめて、こみ上げてくるものを、むりやり飲み下した。


     ◇


 肩の上のモナは、何も言わなかった。


 さっきまで、学の襟をつかんで震えていた小さな手が、今は、ぴたりと止まっている。

 震えてもいない。

 握りしめてもいない。


 ただ、止まっていた。


 モナの顔を見ることができなかった。

 見なくても、モナがどこを見ているのかは、わかった。


 ガラス一枚向こうに、いたかもしれないのに。


 宿の窓辺で、モナはそう言った。

 いたかもしれない、ではなかった。

 いたのだ。

 モナが追い回されたあの夜も、きっと、この花の杯の中で。


 男は、棚の端まで粉を集め終えると、器に蓋をして、懐にしまった。

 角灯を提げて、棚のあいだを、温室の正面のほうへ歩いていく。

 灯りが、葉の向こうに遠ざかっていった。


 温室の正面のあたりで、その灯りが止まった。


 低い話し声がした。

 もう一人、誰かがいるらしい。

 ガラス越しでは、何を話しているのか、ほとんど聞き取れなかった。


 ただ、途切れ途切れに、数を読み上げるような声だけが、耳に残った。


 十二。

 十三。

 十五。


 やがて、扉の開く音と、閉じる音がした。

 灯りが一つ、温室の正面のあたりに、ぽつりと残っている。

 誰かが、まだ、中にいるのだ。


 棚のあいだには、また、淡い暗がりだけが残った。


 耳の奥で、塔のうなりが、低く鳴り続けている。

 ガラスの向こうでは、花の杯の中の小さな体が、静かに上下していた。

 寝息だ。

 こんなにたくさんの寝息が、ガラス一枚向こうにあるのに、どれ一つ、学の耳には届かない。


     ◇


 そのときだった。


 手前の鉢の、花の杯の中で、小さな影が身を起こした。


 まだ幼い顔だった。

 眠そうに、目をこすっている。

 足首の鎖が、花びらの縁で、かすかに鳴った。


 その妖精は、ふと、顔を上げた。


 ガラスのほうを。

 袖で拭った、丸い窓のほうを。


 もちろん、学の姿は見えていないはずだった。

 そこにあるのは、温室の外の、ただの暗がりだ。


 それでも、その妖精は、首をかしげた。


 ガラスの向こうの暗がりを。

 不思議そうに、じっと、見上げていた。

第二章 真理の籠

第八十二話 番号

 温室の正面に残った灯りが、動き出した。


 棚のあいだを、こちらへ近づいてくる。


 ガラスから顔を離しかけて、やめた。

 姿は、幻で消している。

 ガラスの外の暗がりなど、向こうからは見えないはずだ。


 灯りを提げていたのは、灰色のローブを着た、小柄な女だった。

 髪には、白いものが混じっている。

 さっきの男とは違って、刷毛も器も持っていない。


 女は、鉢を一つずつのぞき込みながら、棚のあいだを歩いていた。


     ◇


 ふと、すぐ近くで、かすかな風の音がした。


 目だけを動かした。


 丸く拭ったガラスの、少し下。

 壁の低いところに、細長い小窓があった。

 換気のための窓らしい。

 夏の夜の熱がこもらないように、指二本ほどの幅だけ、外へ押し開けてある。


 そこから、温室の中の湿った空気と、甘い匂いが、細く流れ出していた。


 音も、だ。


 女の足音が、さっきより、ずっとはっきり聞こえた。


     ◇


 女は、手前の棚の端で立ち止まった。


 角灯を、花の杯の上にかざす。


「十二番。よく眠っているね」


 低い、穏やかな声だった。


 女は、隣の鉢へ移った。


「十三番。……蜜が、減っていないね。明日、少し替えておこうか」


 その隣。


「十五番」


 女の声が、そこで、ほんの少しだけ途切れた。

 十二、十三、十五。

 さっき、ガラス越しに聞いた数だ。


 学の背中を、冷たいものが這い上がった。


 数を読み上げていたのではない。

 呼んでいたのだ。


     ◇


 女は、ひとつずつ、数で呼びながら、棚を回っていく。


 声は、どこまでも優しかった。

 寝床の花の傾きを直し、鎖が花びらに絡んでいないかを確かめ、蜜の皿をそっと押しやる。

 眠っている小さな体に、角灯の光が当たりすぎないように、手のひらで覆いをする。


 子守りのような手つきだった。


 そして、一度も、名前を呼ばなかった。


 やがて、女は、手前の鉢の前で足を止めた。

 さっき目を覚ました、あの幼い妖精の鉢だった。


「二十一番。まだ起きていたの」


 幼い妖精は、花の杯の縁から顔を出して、こくりとうなずいた。


「早くお休み。夜更かしすると、粉の出が悪くなるよ」


 女は、幼い妖精の頭を、指先で、そっとなでた。

 それから、角灯を提げて、温室の正面のほうへ戻っていった。


     ◇


 灯りが遠ざかると、どこかで、小さな羽音がした。


 隣の棚から、ひとりの妖精が飛んできた。

 細い鎖を、銀の糸のように後ろへ引いている。

 ほかの妖精より、羽の色がいくぶん深い。

 動きも、どこかゆったりとしていた。


 その妖精は、二十一番の鉢の縁に、ふわりと腰を下ろした。


「眠れないのかい」

「うん」

「また、森の話かい」

「うん」


 年かさの妖精は、小さく笑った。


「しかたのない子だね」

「あのね、さっき、ガラスの向こうに、何かいた気がしたの」


 幼い妖精は、学のいるほうを指さした。


 息を止めた。

 肩の上で、モナが、身を固くした。


 年かさの妖精は、ちらりとガラスのほうを見た。

 それから、何でもないように首を振った。


「夜の鳥だろう。ときどき、ガラスに映った灯りを見に来るんだよ」

「鳥かあ」

「鳥だよ。さあ、森の話だったね」


     ◇


「森にはね、天井がないんだよ」


 年かさの妖精は、ガラスの屋根を見上げながら言った。


「どこまで飛んでも、ぶつからない。上には、空というものがあって、それがずうっと、どこまでも続いているんだって」

「ガラスがないの?」

「ないんだよ。雨も、風も、じかに当たる。木は、この温室の屋根よりも、ずっと高いそうだよ。その枝の上で、みんな好きなところに寝るんだって」

「鎖は?」


 年かさの妖精は、少しだけ黙った。


「……鎖も、ないんだって」


 幼い妖精は、自分の足首を見下ろした。

 細い輪が、遠くの角灯の光を受けて、かすかに光っていた。


「おばあさんは、見たことあるの?」

「わたしは、ないよ。わたしも、ここで生まれたからね。わたしのおばあさんが、そのまたおばあさんから聞いた話さ」


 年かさの妖精は、幼い妖精の髪を、指でゆっくりとすいた。


「十四番のおばあさんも、よくこの話をしてくれたっけねえ」


     ◇


「でも、外は怖いんでしょう?」


 幼い妖精が、小さな声で言った。


「外には、粉を欲しがる悪い人間が、いっぱいいるって。捕まったら、羽を切られちゃうって」

「そうだね。だから、ここにいるんだよ」


 年かさの妖精は、穏やかに言った。


「昔は、ここでも、羽を切られた者がいたそうだよ。でも、今は、そんなことはしない。ここの人たちは、わたしたちを大事にしてくれるからね」


 幼い妖精は、こくりとうなずいた。


「さあ、お休み。また明日、続きを話してあげるから」


 年かさの妖精は、鉢の縁から飛び立って、自分の棚へ戻っていった。

 銀色の鎖が、そのあとを、音もなく追っていった。


     ◇


 換気の小窓のそばで、しゃがみ込んだまま動けなかった。


 番号。


 あの女は、優しかった。

 あの男の手つきも、丁寧だった。

 寝床も、蜜も、何もかもが、行き届いていた。


 だからこそ、わかった。


 ここの人間たちにとって、あの子たちは、大事にしまっておく品物なのだ。

 傷をつけないように。

 粉の出が悪くならないように。


 ふと、肩の上を見た。


     ◇


 モナは、ガラスの向こうを見ていた。


 その顔を、どう言い表せばいいのかわからなかった。


 怒りでも、悲しみでもない。

 何かが、すうっと、抜け落ちてしまったような顔だった。


 ――言っとくけど、妖精が名前を贈るのって、特別なことなんだからね。


 人間の大陸へ渡る前の晩、果ての大陸の森のはずれで、モナはそう言った。

 シモンという名前をくれたときだ。

 大事にしなさいよ、と念を押された。


 名前を贈るのは、妖精にとって、特別なこと。

 その名前を粗末にされるのは、妖精そのものを見くびられるのと同じこと。


 ガラスの向こうの、あの子たちには、名前がない。


 十二番。

 十三番。

 十五番。

 二十一番。


 そして、もう、ここにはいない、十四番。


     ◇


 学の首すじに、かすかな光が触れた。


 目を見開いた。


 モナの羽だった。


 薄く透きとおった羽の縁が、闇の中で、淡く光りはじめていた。


 人の前で光るのは、恥ずかしいのだと、モナは言っていた。

 学の前でも、ほとんど光ったことがないのだと。


 その羽が、光っている。

 震えているのではなかった。

 羽の付け根から先へ、何かが、ゆっくりと満ちていくように。


 光は、少しずつ、強くなっていった。

第二章 真理の籠

第八十三話 本気の怒り

 モナの羽の光が、学の頬を、淡く照らしていた。


「……モナ」


 小声で呼んだ。


 返事はなかった。


 光が、強くなっていく。

 羽の縁から、付け根へ。

 付け根から、小さな背中へ、肩へ、髪の先へ。

 モナの体ぜんたいが、闇の中で、白く燃えはじめていた。


「モナ。光ってる。それじゃ、見つかる」


 モナは、学を見なかった。


 ガラスの向こうの、花の杯の並ぶ棚を見ていた。


     ◇


 ふわりと、肩が軽くなった。


 モナが、飛び立っていた。


 学の頭の上を越え、三本の幹のあいだを抜けて、温室の屋根の高さまで。


「おい!」


 声を殺して叫んだ。

 手を伸ばしたが、届かなかった。


 モナは、ガラスの屋根の縁の上で、止まった。


 小さな両腕を、夜空へ向かって、広げた。


     ◇


 風が、鳴った。


 最初は、梢をかすかに揺らす程度だった。

 それが、ひと呼吸ごとに、太く、重くなっていく。


 空を見上げた。


 雲が、動いていた。


 学院の真上で、厚い雲が、ゆっくりと渦を巻きはじめている。

 渦の中心が、低く、低く、垂れ下がってくる。

 その縁で、青白い光が、音もなく走った。


 稲妻だった。


 続けて、腹の底を揺さぶるような、雷鳴。


 木立が、ごうと鳴った。

 枝が、一斉にしなる。

 葉が、ちぎれて、闇の中を舞い上がっていく。


 学の頬を、風が、刃物のように打った。


 幻だ。

 わかっている。

 わかっているのに、風が痛い。

 耳が、雷鳴で、きいんと鳴る。


 これが、モナの、本気の幻術なのだ。


     ◇


 塀のほうで、甲高い音が鳴りはじめた。


 きん。

 きん。

 きん。


 耳の奥に刺さる、途切れ途切れの音。

 塀の上の筒だ。


 モナは、三本の幹の陰から、とうに出てしまっている。

 屋根の上の小さな体は、どの筒からも、丸見えだった。


 遠くで、人の叫ぶ声がした。

 足音が、いくつも、こちらへ駆けてくる。


 だが、モナは、止まらなかった。


 渦が、さらに低く垂れてくる。

 ガラスの屋根が、風を受けて、びりびりと震える音がした。


     ◇


 ガラスの向こうで、悲鳴が上がった。


 ガラスに目を戻した。


 花の杯の中で、小さな体が、次々に跳ね起きていた。

 頭上のガラスの屋根を見上げて、口々に何かを叫んでいる。

 棚から飛び立とうとして、鎖に引き戻される者がいた。

 鎖を引きずったまま、棚の陰へ転がり込む者がいた。


 二十一番の鉢で、幼い妖精が、花の杯の底に、小さく縮こまっていた。

 両手で、耳をふさいでいる。


 年かさの妖精が、その上に、覆いかぶさっていた。


 そのとき、わかった。


 あの子たちには、これが本物の嵐なのだ。


 鎖につながれたまま、ガラスが割れて、空が落ちてくると思っている。

 本気で信じれば、体はそれに従う。

 怯えて暴れれば、細い足首は、鎖に引かれて傷つく。

 息を詰めれば、本当に気を失う。


 幻術そのものは、誰も傷つけない。

 傷つけるのは、それを信じた者の、体のほうだ。


     ◇


 幹の陰から飛び出した。


 湿った土を蹴り、温室の壁の出っ張りに足をかけて、跳ぶ。

 若返った体が、思ったよりもずっと高く、学を運んだ。


 伸ばした両手が、光る小さな体を、包み込んだ。


「モナ!」


 手の中で、モナが暴れた。


 小さな手が、学の指を叩く。

 羽が、手のひらの中で、ばたばたと打ちつけられる。

 小さな体が、火照っていた。

 怒りで、体じゅうが熱くなっているようだった。


 地面に着地した。

 膝で衝撃を殺し、そのまま、両手を胸に引き寄せる。


「放して! 放しなさいよ!」


 モナの声が、手の中で、割れていた。


「あいつら、全部、吹き飛ばしてやるんだから! あの温室ごと!」

「それは、悪戯じゃない」


 言った。


 自分でも驚くほど、低い声だった。


     ◇


 モナの動きが、一瞬、止まった。


「今やったら、あの子たちも巻き込む」


 手の中の小さな顔を、まっすぐに見下ろした。


「見ろ。あの子たちは、これが本物だと思ってる。鎖につながれたまま、空が落ちてくると思ってる。このまま続けたら、怪我をするのは、あの子たちだ」


 モナは、学の指のすき間から、ガラスの向こうを見た。


 花の杯の底で縮こまる、幼い妖精。

 その上に覆いかぶさる、年かさの妖精。

 鎖に引かれて、棚の縁にしがみつく、小さな体。


 モナの手が、学の指を叩くのを、やめた。


 羽が、一度だけ、大きく震えた。


 それから、動かなくなった。


     ◇


 風が、やんだ。


 頭上の渦が、ほどけていく。

 稲妻が消え、雷鳴が消え、ちぎれて舞っていた葉が、一枚残らず、闇に溶けていった。


 本物の葉は、一枚も落ちていなかった。


 ただ、筒の音だけが、まだ鳴っていた。


 きん。

 きん。

 きん。


 足音が、すぐそこまで迫っていた。


「そこだ!」

「温室の裏だ、人が一人いる!」


 ガラスの目が二つ、四つ、六つ。

 木立の向こうで、ぎらりと光った。


     ◇


 モナを上着の懐に押し込み、片腕でかばいながら、駆け出した。


 もう、隠れても無駄だ。

 熱を見る眼鏡には、走る学の体が、くっきりと映っている。


 ならば、目のほうを、眩ませればいい。


 走りながら、追ってくる者たちの目の前に、光を置いた。


 真昼の太陽を、いきなり目の前に突きつけるような光。


「うわっ!」

「目が……!」


 足音が、乱れる。


 続けて、温室の正面のほうに、声を置いた。


「こっちだ! 正面の扉へ回ったぞ!」


 追ってきた者たちの、何人かが、そちらへ向きを変えた。


 木立を抜け、低い塀を飛び越えた。

 中庭の芝を突っ切る。

 本棟の裏手の、あの物置小屋が見えた。


 小屋の脇の樽に足をかけ、屋根へよじのぼる。

 屋根の端から、外塀の上へ、跳んだ。


 指が、塀の縁にかかった。

 体を引き上げ、そのまま、向こう側へ転がり落ちる。


 石畳に、背中を打ちつけた。


 息が、詰まった。

 それでも、懐をかばった片腕だけは、離さなかった。


     ◇


[夜の王都 学]


 立ち上がって、走った。


 人のいない大通りを。

 暗い路地を。

 宿の方角へ。


 背後で、学院の、あの耳に刺さる音が、まだ鳴り続けていた。


 きん。

 きん。

 きん。


 止まらなかった。

 何度角を曲がっても、どこまで走っても、夜の王都の上を、その音が、追いかけてきた。


 懐の中のモナは、もう光っていなかった。


 小さな体が、学の胸の上で、ただ、温かかった。

第二章 真理の籠

第八十四話 師匠

[王都・宿の部屋 学]


 窓の外が、ほんの少しだけ白みはじめていた。


 寝台の端に腰かけて、背中をさすっていた。

 外塀から転がり落ちたときに打った場所が、じんじんと熱い。

 日が高くなるころには、きっと青あざになっているだろう。


 モナは、窓枠の上にいた。


 膝を抱えて、窓の外を見ている。

 羽は、背中でぴたりとたたまれていた。

 もう、光ってはいない。


 王都の夜道を走っているあいだ、モナは、学の懐の中で、じっと動かなかった。

 宿の部屋に転がり込んで、上着の前を開けると、黙って這い出して、窓枠へ移った。

 それきりだ。


 宿に戻ってから、どれくらいたっただろう。

 モナは、一度も口をきいていなかった。


     ◇


「……知らなかった」


 ようやく、モナが言った。


 声が、かすれていた。


「あたし、何にも知らなかった」


 背中をさする手を止めた。


「王都のことなら、なんでも知ってるつもりだったの。どこの貴族が、誰と仲が悪いか。王宮の廊下で、誰が何をひそひそ話してるか。暇つぶしに飛び回って、全部、見てたつもりだった」


 モナは、抱えた膝に、あごを埋めた。


「人間の偉い人たちって、見てて飽きないもの。……あたし、そう言ったわよね」


 学は、うなずいた。


 御前会議より前の、あの晩。

 王宮の噂を、モナは、楽しそうに話して聞かせてくれた。


「その、すぐ足もとで、あの子たちが、番号で呼ばれてたのよ」


 モナの声が、小さく震えた。


「何年も。何十年も。もっとずっと、前から。あのおばあさんの、そのまたおばあさんの、ずっと前から。あたしが、上を飛んで、笑ってたあいだも」


 ガラス越しに聞いた声を思い出した。

 わたしのおばあさんが、そのまたおばあさんから聞いた話さ、と、年かさの妖精は言っていた。


「あの子たち、森を見たことがないのよ」


 モナは、窓の外の、まだ暗い空を見上げた。


「空も。天井のない空を、話でしか知らないの。それなのに、あたしたちの森のことを、あんなに大事そうに話してた。あたしが、毎日、あたりまえに飛んでた空のことを」


     ◇


 何も言えなかった。


 慰めの言葉なら、いくらでも思いつく。

 知らなかったのは仕方がない。

 誰も教えてくれなかったんだから。


 どれも、口にした瞬間に、薄っぺらくなる気がした。


「それにね」


 モナが、続けた。


「あたしの幻術が、あそこでは通じないの」


 小さな手が、膝を、ぎゅっと握りしめた。


「姿を消しても、見つかる。音を消しても、見つかる。世界最高のはずなのに。あたしの幻術で、できないことなんて、なかったはずなのに」


 モナは、そこで、言葉を切った。


「……できたのは、あの子たちを、怖がらせることだけ」


 花の杯の底で縮こまっていた、幼い妖精。

 その上に覆いかぶさっていた、年かさの妖精。


 モナも、あれを見たのだ。

 学の指のすき間から。


     ◇


 窓の外で、鳥が一羽、鳴いた。


 寝台から立ち上がった。

 背中が、ずきりと痛んだ。

 かまわずに、窓辺まで歩いていって、モナの隣に立つ。


「なら、通じるようにすればいい」


 モナが、顔を上げた。


「仕組みなら、僕が知ってる」

「……あんたが?」

「ああ」


 窓枠に手をついた。


「あの筒が出してる音も、お面が見てる熱も、魔法じゃない。仕掛けだ。仕掛けには、仕組みがある。仕組みがわかれば、ごまかし方もわかる」

「ごまかし方って」

「モナの幻術は、人に見せるものだろ。見せる相手が、人から仕掛けに変わるだけだ。たぶんな」


 モナは、まじまじと学を見上げた。


「あんた、なんでそんなこと知ってるのよ」

「中学生のころに、ノートに描いてたんだよ。秘密兵器の、設計図みたいなのを」

「ちゅうがくせい」

「子どもってことだ。……いいだろ、別に」


 少しだけ顔が熱くなるのを感じた。


 果ての大陸の森で過ごした、十年を思い出す。


 最初の幻は、奥行きのない、平らな絵だった。

 横から見たら一本の線にしか見えないドラゴンを、モナは、腹を抱えて笑った。

 それから、何年もかけて、立体の作り方を教えてくれた。

 音の重ね方も、触れたと思わせるこつも。

 何ひとつ、自分で見つけたものはない。


 いつだって、教えるのはモナで、教わるのは学だった。


「十年、モナに教わってきた。今度は、僕が教える番だ」


     ◇


 モナは、しばらく黙っていた。


 それから、ぽつりと言った。


「……教えるって。あんたが、あたしに」

「ああ」

「十年、あたしの幻術に、一度も勝てなかったくせに」

「三回に一回は勝てるようになったぞ」

「あたしが手を抜いてたからでしょ」

「知ってる」


 モナの口の端が、ほんの少しだけ、動いた。


 窓の外を見た。


 東の空が、薄い桃色に染まりはじめていた。

 その下のどこかに、学院のガラスの屋根がある。


「覚えてるか。御前会議の前、あの子を助けたいって言った晩」


 窓の外を見たまま言った。


「僕が、誰かのために黒幕をやってみたいって言ったら、モナ、笑っただろ。ぜんぜん黒幕っぽくないって」

「……笑ったわね」

「今度は、笑われてもいい」


 モナに向き直った。


「僕が黒幕をやる。あの子たちのために」


 それから、少しだけ、言いよどんだ。


「……モナのために」


     ◇


 モナは、目を見開いた。


 それから、ゆっくりと、顔をそむけた。


「……生意気」


 声が、揺れていた。


 小さな肩が、震えている。

 笑っているのか、泣いているのか、学にはわからなかった。

 たぶん、その両方だった。


 モナの羽の縁が、ほんのりと、光りはじめていた。


 ゆうべの、白く燃えるような光ではない。

 朝の光に溶けてしまいそうな、淡い、やわらかな光だった。


「……光ってるぞ」

「見ないでよ」


 モナは、羽で顔を隠した。

 隠しきれずに、光が、羽のすき間からこぼれていた。


 言われたとおり、窓の外へ目をそらした。


     ◇


 しばらくして、モナが、鼻をすする音がした。


「マーナ」


 学は、振り向いた。


 モナは、もう羽で顔を隠してはいなかった。

 目の縁が赤い。

 それでも、その目は、まっすぐに学を見ていた。


「あんた、あたしの相棒になりなさい」


 学は、目をしばたたいた。


「師匠じゃなくて?」


 モナは、小さく鼻を鳴らした。

 それから、十年のあいだで、学が一度も見たことのない顔で、笑った。


「相棒よ」

第二章 真理の籠

第八十五話 鳴り続けた音

[学院・学長の研究室 学長]


 夜が明けても、学長の研究室の灯りは、消えていなかった。


 窓の外では、中庭の芝が、朝露に濡れて光っている。

 木立も、ガラスの屋根も、鳴らずの塔も、何ひとつ変わった様子はない。


 ゆうべ、あれほどの嵐が、あの上で渦を巻いていたというのに。


「申し上げます」


 扉の前で、エルンスト・ヴァルトが、背筋を伸ばしていた。

 一睡もしていない顔だった。

 その後ろに、鐘楼の見張り番が、小さくなって控えている。


 窓を背にして、黙ってうなずいた。


     ◇


「真夜中を、だいぶ過ぎたころです」


 エルンストは、低い声で言った。


「まず、空が荒れました。学院の真上に、雲が渦を巻き、稲妻が走り、雷が鳴りました。木立が、ちぎれんばかりにしなっておりました。……少なくとも、そう見えました」

「そう見えた、と」

「はい。夜が明けてから、木立を検めました。枝の一本も、折れておりません。葉の一枚も、落ちておりませんでした」


 窓の外の木立に、目をやった。


「次いで、塀の筒が、鳴りました」


 鐘楼の見張り番が、おずおずと進み出た。


 エーコスコポス。

 庭のまわりに放った音の跳ね返りを、平らな影にして映し出す、鐘楼の仕掛けだ。


「エーコスコポスに、まず、ごく小さな影が映りました。温室の屋根の縁の上です。鳥ほどの大きさでした。それから、すぐに、人ほどの大きさの影が、温室の裏手に。……その前には、何も映っておりませんでした。急に、そこに現れたように」

「温室の裏手の、どこだ」

「木が三本、寄り合っているあたりです。あそこは、筒の音が、幹に遮られます」


 何も言わなかった。


     ◇


「ニュクトープスには」


 短く言った。


 エルンストは、一瞬、何のことかと迷う顔をした。

 熱を見る眼鏡――ニュクトープスを、警備の者たちは、梟の面と呼んでいる。

 それから、慌てて言い直した。


「梟の面には、人が一人、映りました。一人だけです。温室の裏から飛び出して、木立を抜け、塀を越え、中庭を突っ切って、本棟の裏の物置小屋の屋根から、外塀を越えました」

「追った者は」

「追いました。ですが、途中で、目の前に、真昼の日のような光が弾けまして。目が眩んでいるあいだに、正面の扉のほうから、こっちだ、と声がして……」


 エルンストは、そこで言葉を濁した。


「その声は、警備の者の声ではありませんでした。……筒は、夜明け近くまで、鳴りやみませんでした。何も映らなくなってからも、ずっと」


 指先で、窓枠を一度だけ叩いた。


     ◇


「庭の中は」

「番の者の話では、あれらが、ひどく騒いだそうです。嵐を、本物と思ったようで。鎖に引かれて、足首を擦りむいたのが、三つ」


 三つ、とエルンストは言った。

 三人、とは言わなかった。

 この男は、温室の中に何がいるのかを知らない。

 番の者の言葉を、そのまま伝えているだけだ。


「割れたものは」

「ございません。ガラスの一枚も」


 窓のほうへ向き直った。


 ガラスの屋根が、朝の光を受けて、白く光っている。

 その横の、細長い塔。

 塔の内側で回り続ける銀の輪の、低いうなりが、ここまで届く気がした。


 枝の一本も折らない嵐。

 葉の一枚も落とさない暴風。

 真昼の日のような光と、どこからともなく響く声。


 そして、温室の裏の、筒の音の届かぬ、ただ一つの隙間。


「……幻術、か」


 低くつぶやいた。


 だが、幻術の常識で測れる規模ではなかった。

 学院の空ひとつを覆い、居合わせた者すべての目と耳を、いちどきに欺く幻など、聞いたこともない。


     ◇


 ご自分の庭を、よく探されることだ。


 買取商の店で、黒い外套の男はそう言ったという。


 あれは、ただの言葉ではなかった。

 あの男は、庭のことを知っていた。

 そして、ゆうべ、本当に、その庭をのぞきに来た。

 筒の音が届かず、塔からも見えぬ、ただ一つの隙間を選んで。


 あの男は、この庭の守りを、知っている。


 背中に、かすかな冷たさを覚えた。


 それと同じだけの、熱も。


「警備を、倍にせよ」


 振り向かずに言った。


「三本の木の隙間には、今宵から人を立てよ。筒の向きも、検め直せ。鐘楼の見張りは、二人ずつに」

「はっ」

「番の者には、あれらの足首の手当てを。……傷が残れば、粉の質に響く」


 そこで、言葉を切った。


 幻は、その場に居合わせた者の目と耳を欺く。

 だが、その場にいない者の目と耳までは、欺けまい。


「それから、あれらの留め金に、細工を施せ」

「細工、でございますか」

「外せば、鐘楼に知れるように。……急げ。体裁は問わぬ」


 エルンストと見張り番が、頭を下げて、出ていった。


     ◇


[学院の中庭・温室 学長]


 日が高くなるころ、庭へ降りた。


 温室の正面の扉をくぐると、湿った土と、甘い蜜の匂いが、学長を包んだ。


 棚のあいだを、ゆっくりと歩く。


 花の杯の中で、小さな体が、学長の足音に、びくりと身を縮める。

 ゆうべの嵐の怯えが、まだ抜けていないのだろう。

 羽を震わせ、花びらの陰に隠れ、こちらを、じっとうかがっている。


 一つの鉢の前で足を止めた。


 幼い一体が、花の杯の底から、学長を見上げていた。

 足首に、真新しい布が巻かれている。


「二十一番」


 静かに呼んだ。


 幼い一体は、何も答えなかった。


     ◇


 棚の上の小さな体を、長いあいだ見下ろしていた。


 命とは、何か。


 なぜ、これらは、粉を生むのか。

 なぜ、その粉は、人の命を延ばすのか。

 命を延ばすものの源を、突き詰めていけば、命そのものの根に、手が届くのではないか。


 グラウクスは、何百年も、その問いを追ってきた。

 いくつもの国で、いくつもの名を使い、いくつもの世代を重ねて。


 十四番が尽きたのは、去年の冬だった。

 その記録も、帳面の一行として、残されている。

 尽きる前の粉と、尽きたあとの体を、学院は、余すところなく調べた。


 それで、よい。


 真理に至る道に、犠牲のないものなどない。

 これらの命も、その道の一里塚だ。

 いずれ、命の根に手が届いたとき、すべての犠牲は、意味を持つ。


 自分の手に目を落とした。


 白く、長い指。

 その甲に、いつのまにか、しみが一つ、浮いていた。


 手を、ローブの袖の中にしまった。


     ◇


[学院・学長の研究室 学長]


 研究室に戻ると、片眼鏡の教授が、待っていた。


「警備は、倍にいたしました。三本の木の隙間にも、今宵から人を」

「よい」


 窓辺に立った。


 ガラスの屋根を見下ろす。

 あの男は、またここへ来るだろう。

 今度は、のぞくだけでは済ませまい。


 ならば、こちらから、招けばよい。


 正面の扉から。

 こちらの用意した椅子に、座らせて。


「かの買取商に、使いを出せ」


 教授が、顔を上げた。


「粉の売り手に、伝えよ」


 ガラスの屋根を見下ろしたまま言った。


「もっと粉を買いたい、と」

第二章 真理の籠

第八十六話 厨二病講義

[王都・宿の部屋 学]


 昼過ぎに目を覚ますと、背中が、思っていたとおりに痛かった。


 うめきながら寝台から起き上がった。

 窓枠の上では、モナが、もう起きていた。

 膝は抱えていない。

 足をぶらぶらさせながら、学の顔を見下ろしている。


「遅いわよ、相棒」


 学は、思わず、背中をさする手を止めた。


「……なんだよ、その呼び方」

「相棒は相棒でしょ。ほら、早く起きなさい。教えてくれるんでしょ、仕組みとやらを」


 声は、まだ少し、かすれていた。

 それでも、いつもの調子が、半分くらいは戻っていた。


     ◇


 宿の主人に頼んで、蝋燭を何本かと、水を張った鉢と、使い古しの炭を一つ、それに火ばさみを、部屋まで運んでもらった。


 主人は、変な顔をしていた。

 夏の昼間に炭を欲しがる客は、そういないのだろう。


 卓の上に、それらを並べる。

 紙とペンも。


「いいか。まず、音のほうからだ」


 部屋の壁の前に立った。


「モナ。目をつぶってみろ」

「なんでよ」

「いいから」


 モナは、しぶしぶ目を閉じた。


 壁から一歩離れたところで、ぱん、と手を叩いた。

 それから、窓辺まで歩いていって、開け放した窓の外へ向かって、もう一度、ぱん、と叩いた。


「どっちが壁の前だった?」

「最初のほう」


 モナは、目を閉じたまま、即座に答えた。


「なんでわかった」

「なんでって……音が、なんか、硬かったもの。すぐ返ってくる感じ」

「それだよ」


     ◇


 モナの前に座り込んだ。


「音ってのは、物に当たると跳ね返る。壁の前で手を叩くと、叩いた音と、壁から跳ね返った音が、ほとんど同時に耳に届く。だから、硬く聞こえる。窓の外は、跳ね返す物がないから、音が逃げていく」


 モナは、目を開けた。


「あの筒は、それを、もっと細かくやってるんだ。人の耳に聞こえない高い音を出して、跳ね返ってくるまでの間をはかる。すぐ返ってくれば、近くに何かある。遅れて返ってくれば、遠くに何かある」

「……それで、あたしがいるのが、わかったの」

「そう。姿を消しても、体はそこにある。音は、モナの体に当たって、ちゃんと跳ね返る」


 だんだん、自分の声が熱を帯びてくるのを感じていた。


「コウモリってのは、まさにこれで飛んでるんだ。真っ暗な洞窟の中でも、自分の鳴き声の跳ね返りで、壁も、虫も、全部わかる。イルカも、海の中で同じことをやってる。で、僕のいた世界じゃ、それを真似して、海の中の鉄の船が、敵の船を探してた。ピン、って音を出してな。映画だと、その音が、だんだん速くなっていくんだよ。ピン……ピン……ピン、ピン、ピンピンピン、って」

「……マーナ」

「で、敵のほうは、エンジンを止めて、海の底でじっと息を殺すんだ。それがまた、たまらなく格好よくて」

「マーナ」


 学は、口を閉じた。


 モナが、じっとりとした目で、学を見ていた。


「あんた、そういう話のとき、生き生きしすぎじゃない?」


 学は、咳払いをした。


「……とにかく、そういうことだ」


     ◇


「次は、熱だ」


 使い古しの炭を、火ばさみでつまみ上げた。

 蝋燭の火にかざす。

 しばらくすると、炭の角が、じわりと赤くなった。


「熱いものは、光る。それは、わかるよな」

「炭が赤くなるのは、知ってるわよ」


 学は、炭を火から離して、皿の上に置いた。


 赤い色が、少しずつ、暗くなっていく。

 やがて、ただの黒い炭に戻った。


「今、この炭は、光ってないように見える」

「見えるわね」


 学は、その上に、手のひらをかざしてみせた。


「でも、まだ熱い。手を近づけると、わかる」


 モナも、恐る恐る、小さな手を炭の上にかざした。

 すぐに、引っ込めた。


「……熱い」

「本当はな、今も、この炭は光ってるんだ。赤よりも、もっと向こうの色で。人の目には、その色が見えないだけなんだよ」


     ◇


 水を張った鉢を、窓辺の日なたへ動かした。


 日の光が、水を通って、壁に落ちる。

 その縁に、うっすらと、虹のような色の帯ができた。


「光には、色がある。紫、青、緑、黄色、赤。で、赤の、もっと外側にも、本当は色が続いてるんだ。人の目には見えない色が」


 モナは、壁の色の帯を、じっと見つめた。


 赤の外側は、ただの、白い壁だった。


「炭も、人の体も、温かいものは、みんな、その見えない色で光ってる。お面の、あのガラスの目は、その見えない色だけを、見えるようにする仕掛けなんだ。だから、真っ暗でも、温かいものだけが、ぼうっと浮かんで見える。僕のいた世界じゃ、兵隊が、それを眼鏡にして、夜の森で敵を探してた。黒っぽい画面の中で、人の形だけが、白く浮かび上がって……」


 モナの目が、また、じっとりとしかけた。


 慌てて付け足した。


「……まあ、要するに、そういう仕掛けだ」


 モナは、しばらく黙っていた。


 それから、ぽつりと言った。


「……この前より、説明がうまいじゃない」

「ひと晩、考えたんだよ」


 少しだけ得意げに言った。

 本当は、明け方、背中が痛くて寝つけなかったあいだに、少し考えただけだったが。


     ◇


「で、ここからが本題だ」


 紙を一枚、卓の上に広げた。


 ペンで、丸を一つ描く。

 その横に、筒の絵。

 筒から、細い線を何本も引いて、丸に当てる。


「モナの幻術は、人に見せるものだ。人の目に、人の耳に、人の肌に」

「そうよ」

「でも、あの筒の耳と、お面の目は、人じゃない。仕掛けだ。仕掛けにも、耳と目がある」


 筒から伸びた線を、丸の手前で、ぐるりと曲げてみせた。


「音のほうは、こうだ。筒の音が、モナに当たっても、跳ね返らなかったことにする。音を消すんじゃない。モナがいないところを、すっと通り抜けたように、筒に聞かせるんだ」


 それから、丸の中を、ペンで塗りつぶした。

 まわりの紙と、同じくらいの濃さに。


「熱のほうは、こう。モナの体の温かさを、まわりの空気や木と、同じ温かさに見せる。お面のガラスの目に、そう見せるんだ。そうすれば、モナは、まわりに溶けて見えなくなる」


     ◇


 モナは、紙の上の丸を、長いあいだ見下ろしていた。


「見せる相手が、人じゃなくて、仕掛け……」

「ああ」

「仕掛けの耳に、仕掛けの目に」


 モナは、小さな指で、紙の上の筒をなぞった。


 学は、黙って待った。


 幻術としてできることは、モナには、すべてできる。

 姿も、音も、手ざわりも。

 見せたい相手にだけ、見せることさえも。


 足りなかったのは、腕ではない。

 知らなかった。

 それだけだ。


 モナが、顔を上げた。


 その目に、見覚えのある光を見た。


 十年前、森で初めて会ったとき、モナは、こんな目で学をのぞき込んだ。

 面白いものを、見つけた目だった。


「……できる気がしてきた」


 モナは、羽を、ぴんと広げた。


「試させて」

第二章 真理の籠

第八十七話 熱のない影

[果ての大陸・南の岩場 学]


 足の裏に、焼けた岩の熱が伝わってきた。


 果ての大陸の、南の外れ。

 赤茶けた岩が、見渡すかぎり、ごろごろと転がっている。

 空は、王都よりもずっと青く、ずっと高かった。


「森には、寄らないのか」


 そう聞くと、肩の上で、モナは首を振った。


「寄らない。……今は、みんなに、何て話せばいいか、わからないもの」


 学は、それ以上は聞かなかった。


「一日だけよ。夜には、王都に戻る」

「十分だ」


 岩場を見回した。


「ここなら、いるだろ」

「いるわよ。そこらじゅうに」


     ◇


 岩の陰に、ヘビがいた。


 腕ほどの太さの、灰色のヘビだった。

 背中に、焦げ茶の斑が並んでいる。

 学の知っているどのヘビとも、少しずつ違う。

 何という種類なのかは、わからなかった。


「あいつらは、鼻の先で、熱を見る」


 小声で言った。


「鼻の穴の横に、小さなくぼみがあるだろ。あそこで、温かいものの居場所を感じ取るんだ。真っ暗でも、獲物を外さない。お面と、やってることは同じだ」

「じゃあ、あいつの鼻に、あたしの熱が見えないようにすればいいのね」

「そういうことだ。岩と同じ温かさに見せる」


 モナは、羽を広げて、ヘビのほうへ、ゆっくりと降りていった。


 ヘビの頭が、ぴくりと動いた。


 次の瞬間、灰色の体が、弾けるように伸びた。


「きゃあっ!」


 モナは、悲鳴を上げて、空へ逃げた。

 ヘビの口が、モナのいたところで、がちん、と閉じた。


 腹を抱えて笑った。


     ◇


「笑うな!」

「いや、だって、今の……きゃあっ、って」

「うるさい! あんただって、ドラゴンに吹っ飛ばされて三回転してたじゃない!」


 学は、涙をぬぐった。


「どこを、岩と同じにした?」

「全部よ。体じゅう」


 学は、少し考えた。


「岩の温かさに、合わせたんだよな」

「そうよ」

「この岩、日に焼けて、相当熱いぞ。モナの体より、ずっと熱いかもしれない」


 モナは、黙った。


「まわりより、冷たく見えたんじゃないか。熱い岩の上に、冷たい穴が一つ、ぽっかり開いてた。……ここのヘビは、そういうのも気になるのかもしれない」


 二度目は、日陰の岩に合わせた。

 ヘビは、首をかしげるように、舌をちろちろと出し入れした。

 それから、また、飛びかかってきた。


「今度は、何よ!」

「……息だ」


 ぽんと手を打った。


「体は消えてる。でも、吐く息が、温かいままなんだ。ヘビから見たら、何もないところから、温かい煙が、ふわふわ出てきてる」

「そんなの、わかるわけないでしょ!」

「わかるんだよ、あいつらには」


 三度目。


 モナは、息の熱も、岩陰の温かさに溶かした。


 ヘビは、モナの小さな体の真下を、するすると通り過ぎていった。

 舌を一度だけ出して、それきり、振り返りもしなかった。


     ◇


[岩場の奥の洞窟 学]


 昼過ぎに、岩場の奥の洞窟へ移った。


 入り口から一歩入ると、ひやりとした空気が、肌にまとわりついた。

 天井の暗がりに、何かが、びっしりとぶら下がっている。


 コウモリだった。


 手のひらを広げたほどの大きさで、耳が、妙に長い。

 これも、学の知っているどのコウモリとも違った。


「あいつらは、筒と同じだ。自分で高い声を出して、その跳ね返りで飛ぶ」

「さっき、ヘビで熱は覚えたわ。音も、同じでしょ」

「同じだ。たぶん」


 洞窟の奥へ、小石を一つ、放った。


 かつん、と岩に当たる音。


 天井の暗がりが、一斉に、ざわりと動いた。


     ◇


 最初は、群れに突っ込まれた。


 モナは、洞窟の真ん中で、コウモリの声が自分に当たらないように、音を吸い込んだ。

 跳ね返らないなら、見つからないはずだ、と。


 群れは、まっすぐモナのほうへ飛んできた。

 そして、モナのいるところで、ぐちゃぐちゃに乱れた。


 翼が、羽が、髪が、もみくちゃになった。


「なんでよ!」


 洞窟の入り口で、腹を押さえて笑いをこらえていた。


「音を、吸い込んだろ」

「そうよ! 跳ね返らなかったはずよ!」

「たぶん……跳ね返らなさすぎたんじゃないか。そこだけ、声が消える穴がある。ここのコウモリは、わけのわからないものがあると、群れで確かめに来るのかもしれない。……僕の知ってるコウモリが、そうするかは知らないけど」


 モナは、乱れた髪を押さえながら、学をにらんだ。


「じゃあ、どうしろっていうのよ」

「音を消すんじゃない。通り抜けたように、聞かせるんだ」


 昨日の紙を思い出しながら言った。


「モナに当たった声を、モナの向こうの岩まで、そのまま届いたことにする。で、岩から跳ね返ってきた声も、モナを通り抜けて、コウモリのところへ戻す。モナは、そこにいないのと同じになる」


 モナは、しばらく黙っていた。


 それから、洞窟の真ん中へ、もう一度、飛んでいった。


 また、小石を放った。


 天井の暗がりが、ざわりと動いた。


 群れは、モナのいるところを、すり抜けた。


 右へも、左へも逸れずに。

 まるで、そこに何もないかのように、まっすぐ。

 小さな体の上を、下を、すぐ脇を、黒い翼が、川の流れのように通り過ぎていった。


     ◇


 いちばん難しかったのは、夕方だった。


 日が傾くと、コウモリたちは、洞窟から外へ飛び立っていく。

 その出口の岩場には、日の名残を浴びて、ヘビたちが集まってくる。


 熱と、音。

 両方を、同時に。


 一度目は、熱を忘れて、ヘビに追いかけられた。

 二度目は、音を忘れて、コウモリにぶつかられた。

 三度目は、どちらも覚えていたのに、慌てて、息の熱を忘れた。


 もう笑わなかった。


「熱から先に作れ。音は、そのあとだ。熱は、一度作れば、あとは崩れにくい」

「わかった」

「息は、吐く前に冷ます。体の外に出てから冷ますんじゃ、遅い」

「……わかった」


 四度目。


 日が沈みかけた空へ、黒い群れが、洞窟から噴き出していった。

 その出口の真ん中に、モナがいた。


 群れは、モナを、すり抜けた。

 岩場のヘビは、一匹も、頭を上げなかった。


 岩の上に、どさりと腰を下ろした。


 自分の幻術では、こうはいかない。

 見せる相手を選べない自分がやれば、ヘビにも、コウモリにも、自分自身にも、同じ幻が見えるだけだ。

 仕掛けの耳と目にだけ、ほかのものとは違う嘘をつく。

 それは、モナにしかできなかった。


 学にできたのは、なぜ失敗したのかを、言葉にすることだけだった。


 モナが、ふらふらと飛んできて、学の膝の上に落ちるように座り込んだ。

 羽が、くたりと垂れている。


 暮れていく空を見上げて、ぽつりと言った。


「……やっぱり、僕の知ってるヘビやコウモリとは、ちょっと違ったな」


 膝の上で、モナが、顔を上げた。


「……ちょっと違った?」

「ああ。冷たい穴に飛びかかってくるヘビなんて、聞いたことないし。コウモリも、あんなふうに群れで寄ってくるとは思わなかった」

「あんた、知らないで、あんなに偉そうに教えてたわけ?」

「仕組みは同じだと思ったんだよ。たぶん」

「たぶんで、あたしを噛まれかけさせたの!?」


 小さな拳が、学の膝を、ぽかぽかと叩いた。

 力は、まるで入っていなかった。


「痛い、痛い」

「痛くないでしょ!」

「……まあ、結局、うまくいったんだから」

「結果の話をしてるんじゃないの!」


 モナは、もう一度だけ学の膝を叩いて、それから、ぷいとそっぽを向いた。

 その羽の縁が、ほんの一瞬、淡く光った気がした。


     ◇


[王都・学院の東の門の近く 学]


 王都に戻ったのは、夜更けだった。


 学院の外塀の外。

 東の門の脇の、小さな通用口の前に、警備の者が一人、立っていた。


 ガラスの目の、革の面。

 このあいだの夜までは、こんなところに見張りはいなかった。

 あの夜の騒ぎのあと、守りを固めたのだろう。


 通りの向かいの、暗い軒下にしゃがみ込んだ。


「……いいか。無理はするな」

「しないわよ」


 肩の上から、モナの重さが消えた。


 学には、モナの姿が、見えていた。

 見せたい相手にだけ見せる。

 モナは、学にだけ、姿を残してくれていた。


 小さな体が、通りを横切っていく。


 通用口の前で、梟の面が、ゆっくりと左右に動いていた。

 闇の中の、温かいものを探している。


 モナは、その面の、すぐ目の前を、通り過ぎた。


 面は、動かなかった。


 ガラスの目は、モナのいる空を、何もない夜として、素通りした。


 モナは、そのまま、警備の者の頭の上を一周して、また、ゆっくりと通りを渡って戻ってきた。


     ◇


 軒下に降り立ったモナは、学の顔を見上げた。


 それから、勝ち誇った顔で、右手の指を二本、ぴんと立ててみせた。


 ずっと昔に、自分が教えたものだった。

 果ての大陸で、幻術の化かし合いに初めて勝った日。

 こうやるんだ、と、得意になって見せた。


 思わず、笑った。


「……やったな、相棒」

「当然でしょ」


 モナは、羽を鳴らした。


 学が考えて、モナが形にする。

 言葉にしなくても、二人の役目は、もう、決まっていた。


 通りの向こうの、学院の外塀を見上げた。


 その奥に、ガラスの屋根がある。

 花の杯の中で、番号で呼ばれている、あの子たちがいる。


「中に入れる」


 低く言った。


「あとは、いつ入るかだ」

第二章 真理の籠

第八十八話 妖精の友

[王都・宿の部屋 学]


「――表示」


 宿の部屋で、小さくつぶやいた。


 姿見の中の、冴えない四十半ばの男が、ゆらりと揺らいだ。

 撫でつけた黒髪。

 切れ長の、赤い目。

 夜のように深い色の外套と、襟もとの銀糸。


 黒幕の姿だった。


「わざわざ、その格好で行くの?」


 肩の上で、モナが首をかしげた。


「あの子たちから見たら、僕だって人間だ。どうせ怖がられるなら、せめて、格好くらいはつけたい」

「格好つけたいだけでしょ」

「……それもある」


 幻の外套の下で、本物の上着の懐を、手で確かめた。

 硬い感触が、ずしりと重い。

 古道具屋で買ってきた、金切りばさみだった。


 あの鎖は、指でつまめば千切れそうに見えた。

 念のため、だ。


     ◇


[学院・温室の中 学]


 月のない夜だった。


 モナの転移で、景色がぐにゃりと歪んだ。


 次の瞬間、湿った土と、甘い蜜の匂いが、学を包んだ。


 温室の、中だった。


 背の高い葉の陰に、しゃがみ込んでいた。

 すぐ目の前に、腰ほどの高さの棚がある。

 素焼きの鉢と、花の杯。

 その中で、小さな体が、丸くなって眠っている。


 息を止めた。


 温室の正面のほうに、灯りが一つ、ぽつりと見えた。

 番の女だろう。

 椅子に腰かけて、うつらうつらと首を揺らしている。

 その腰に、ガラスの目の革の面と、小さな鍵束が、提げてあるのが見えた。


「大丈夫よ」


 耳もとで、モナがささやいた。


「あんたの熱も、音も、あたしが消してる。筒にも、お面にも、あの女にも、ここには何もいないことになってる。あの子たちが騒いでも、あの女には、寝息にしか聞こえないわ」


 学は、モナの横顔を見た。


 自分と学の熱を、仕掛けの目から消す。

 二人の跳ね返りを、仕掛けの耳から消す。

 番の女の目と耳からは、姿も声も消す。

 そのうえで、花の杯の中の妖精たちにだけは、二人の姿を見せる。


 いくつもの幻を、同時に、別々の相手に。


 モナは、何でもないような顔をしていた。


     ◇


 モナが、学の肩から、ふわりと飛び立った。


 棚の上に降りる。

 小さな羽が、闇の中で、ほんのりと光った。

 わざと、光らせているのだと、学にはわかった。


 花の杯の中で、一つ、また一つと、小さな頭が持ち上がった。


「……だれ?」

「鎖が、ない」

「外の子だ」

「外の子が、来た」


 ささやき声が、棚から棚へ、さざなみのように広がっていく。


 隣の棚から、羽の色のいくぶん深い妖精が、飛んできた。

 あの年かさの妖精だった。

 細い鎖を、銀の糸のように後ろへ引いている。


「あんた、どこから来たんだい」

「森から」


 モナは、まっすぐに答えた。


「ずっと遠くの、天井のない森から。あんたたちを、迎えに来たの。……帰ろう、森へ」


     ◇


 温室の中が、しんと静まった。


 葉の陰で、息をひそめて待った。

 歓声が上がるものだと、思っていた。


 上がらなかった。


 小さな体たちは、互いに顔を見合わせていた。

 誰も、花の杯から出てこようとしない。


「……外は、怖いところなんでしょう?」


 手前の鉢で、幼い妖精が言った。

 足首に、白い布が巻かれている。

 二十一番だった。


「外には、粉を欲しがる悪い人間が、いっぱいいるって。捕まったら、羽を切られちゃうって」

「ここにいれば、守ってもらえるよ」


 別の鉢から、別の声がした。


「蜜も、寝床も、ちゃんとある。ここの人たちは、優しいもの」

「森なんて、見たこともないし」

「おばあさんの、おばあさんの、そのまたおばあさんの話だもの」


 モナの羽の光が、ふっと揺らいだ。


 モナの横顔を見た。


 あの夜、学院の空に嵐を呼んだ顔ではなかった。

 言葉を、どこかに落としてきてしまったような顔だった。


     ◇


 葉の陰から、立ち上がった。


 小さな悲鳴が、いくつも上がった。

 花の杯の中に、小さな頭が、一斉に引っ込む。


 人間だ。

 黒い外套の、背の高い人間だ。


「怖がらなくていい」


 黒幕の声で言った。


「私は、君たちに手を出すつもりはない。……信じられないだろうが、私は、妖精の友なのだよ」


 花の杯の縁から、小さな目が、いくつも、おそるおそるのぞいた。


「十年。私は、果ての大陸の、妖精の森で暮らしていた。そこにいる、モルガーナに拾われてね。幻術というものを、骨の髄まで叩き込まれた」


 外套の裾を払って、棚の前に片膝をついた。


「おかげで、少しばかり、人をたぶらかすのがうまくなった。……今宵も、ここの人間たちは、誰ひとり、私に気づいていない」


 モナが、棚の上で、ちいさく鼻を鳴らした。

 それは、あたしがやってるんでしょ、という顔だった。


 見なかったことにした。


     ◇


「……森に、いたの?」


 二十一番が、花の杯の縁から、顔を半分だけ出した。


「いたとも」

「天井、ないの?」

「ない。空が、どこまでも続いている。夜には、星が降るように見える」


 果ての大陸を思い出しながら、ゆっくりと話した。


 人の頭ほどもある、大きな花。

 夜になると、足もとで淡く光る苔。

 見上げるほどの大樹の枝で、妖精たちが、好きなところに寝転んでいること。

 谷底には、ドラゴンが住んでいて、鼻息ひとつで人間を三回転させること。


「三回転?」

「私が、三回転した」


 くすっ、と、どこかの鉢で、小さな笑い声がした。


 それをきっかけに、小さな頭が、次々に花の杯から出てきた。

 棚の縁に腰かける者。

 鎖を引きずって、学のそばまで飛んでくる者。

 学の外套の銀糸を、珍しそうに指でつつく者もいた。


 陽気で、好奇心が強い。

 果ての大陸の森で、自分が十年見てきた妖精たちと、何も変わらなかった。


     ◇


 モナが、羽を広げた。


 ガラスの屋根の下に、ふわりと、緑が広がった。


 見上げるほどの大樹。

 幾重にも重なる枝と、葉のすき間からこぼれる、細い光の糸。

 足もとに、淡く光る苔。

 人の頭ほどの、白い花。

 そして、その上の、天井のない、どこまでも青い空。


 ほんの一瞬だった。


 幻は、すぐに、温室の暗がりに溶けて消えた。


 小さな体たちは、口を開けたまま、ガラスの屋根を見上げていた。


「……今の」

「森?」

「あれが、森?」


 モナは、棚の上に降り立った。


 それから、一つひとつの顔を、ゆっくりと見回した。


「森の仲間はね、年を取って死んだりしないのよ」


     ◇


 今度の静けさは、さっきとは違った。


 年かさの妖精が、モナを見つめていた。


「……なんだって?」

「死なないの。誰も、年を取って消えたりしない。あたしも、森のみんなも」

「わたしたちは」


 年かさの妖精の声が、かすれた。


「わたしたちは、二百年ほどで、消えるものだよ。わたしのおばあさんも、そのまたおばあさんも、みんな、そうだった。十四番も、去年の冬に」


 モナは、何も言わなかった。


 ただ、首を横に振った。


 棚の上で、小さな体たちが、互いの顔を見合わせた。

 誰も、何も言わなかった。

 けれど、その目は、もう、ガラスの屋根の向こうを見ていた。


     ◇


「……みんなで、話し合わせておくれ」


 しばらくして、年かさの妖精が言った。


「すぐには、決められない。わたしたちは、ここしか知らないんだ」

「わかってる」


 モナは、うなずいた。


 学は、上着の懐から、金切りばさみを取り出した。


「一つ、試させてもらえないか。この鎖が、どれほどのものか」


 年かさの妖精は、少し考えてから、自分の足首から伸びる鎖を、そっと持ち上げてみせた。


「わたしので、試しな」


 学は、差し出された鎖を、手のひらに受けた。


 足首の輪のすぐ先に、留め金がある。

 その留め金に、妙なものが、くくりつけられていた。


 親指の先ほどの、くすんだ真鍮の筒だった。

 細い糸で、留め金に何重にも巻きつけてある。

 結び目は、蝋で固めてあった。

 筒の尻から、髪の毛ほどの細い針金が伸びて、鎖に沿って棚を這い、床の暗がりへ消えている。


 銀色の鎖に、真鍮の色。

 いかにも、あとから、急いでくっつけたような代物だった。


 ガラス越しにのぞいたあの夜、こんなものは、なかったはずだ。


「これは?」

「おとといの昼にね、ローブの人たちが、大勢で来て、つけていったよ。わたしたち全員の留め金に。ずいぶん、急いでいたねえ」


 床へ消えていく針金を、目でたどった。


 その先は、見えなかった。


 針金に触れないように気をつけながら、鎖の、足首からいちばん遠いところに、刃を当てた。


 握りに、力をこめる。


 刃が、鎖に、わずかに食い込んだ。


 それだけだった。


 もう一度、両手で、全身の力をこめた。

 鎖は、きしりと鳴った。

 だが、切れない。

 細い銀の輪が、刃の間で、ほんの少し、ゆがんだだけだった。


 手を止めた。


 これ以上やれば、鎖が引かれて、年かさの妖精の足首を傷める。


     ◇


 金切りばさみを懐にしまった。


 あの頼りない見た目に、まんまと騙されていた。


 切れないなら、留め金を外すしかない。


 だが、その留め金には、あの真鍮の筒がくくりつけてある。

 外せば、針金が引かれる。

 針金の先は、床の下を通って、どこかへつながっている。


 どこへ。


 学には、わからなかった。

 わからない場所にいる誰かの目と耳は、モナの幻術でも、ごまかしようがない。


 一つ外せば、きっと、どこかで、誰かに知れる。

 二十か、三十か。

 その一つひとつを外しきって、連れ出すまでのあいだ、知らせを受けた者が、この温室へ駆けつけてこられないようにしなければならない。


 温室の正面の灯りを見た。

 番の女は、まだ、うつらうつらと首を揺らしている。


 学院じゅうの目を、どこか別の場所へ、引きつけておかなければ。


     ◇


「そろそろ、戻るわよ」


 モナが、学の肩に戻ってきた。


 年かさの妖精が、棚の上から、二人を見上げた。


「……次に来てくれたときに、返事をするよ」


 学は、うなずいた。


 立ち上がりかけたとき、視界の端で、外套の裾が、くい、と揺れた。


 見下ろすと、二十一番だった。

 布を巻いた足首から、鎖が、学の足もとまで伸びている。

 小さな両手で、外套の裾を、ぎゅっと握っていた。


「ねえ」


 二十一番は、学の赤い目を、まっすぐに見上げた。


「ドラゴンって、本当にいるの?」

第二章 真理の籠

第八十九話 テオドールの見取り図

[王都・琥珀の灯亭 学]


 分厚い革の装丁の本を、卓の上に置いた。


 テオドールの目が、まんまるになった。


「……本当に、持ってきてくださったんですか」

「約束でしたから」

「いや、その、こういう約束は、たいてい、酒の席の冗談で終わるものなので」


 テオドールは、両手を服の裾で拭ってから、おそるおそる本を引き寄せた。

 表紙を、指の腹でなでる。

 金の箔押しの題字が、琥珀色の灯りを受けて、鈍く光った。


「ひと月は、待たされると覚悟していました」

「僕には、三日で枕になった本ですけどね」


 テオドールは、声を立てて笑った。

 それから、ふと、笑いを引っ込めた。


 目の下の隈が、前に会ったときより、さらに濃くなっていた。


     ◇


「夜番が、増えたんですよ」


 二杯目の葡萄酒に口をつけながら、テオドールはこぼした。


「前は、七日に一度くらいだったんです。それが、急に、三日に一度。研究員全員です。学長の、お言いつけで」

「急に、ですか」

「ええ。学院の上で、妙な嵐があった夜からです」


 杯を持つ手を、止めないように気をつけた。


 肩の上で、モナが、身じろぎもせずに聞いている。


「シモンさん、聞いてませんか。学院の真上に、雲が渦を巻いて、稲妻が走って。研究棟の窓が、びりびり鳴るくらいの雷だったそうです。私は、ちょうど夜番でなかったので、見ていないんですが」


 テオドールは、首を振った。


「ところが、朝になってみたら、木の葉一枚、落ちていない。見た者は、みんな、夢でも見たのかと言っています。それから、警備は倍になるし、夜番は増えるし。私たちには、何の説明もない」


     ◇


 三杯目のころには、テオドールの舌は、すっかりなめらかになっていた。


「だいたい、真ん中の庭の警備が、大げさすぎるんですよ」


 テオドールは、杯の底に残った葡萄酒に、人さし指を浸した。

 それから、卓の上に、すっと線を引いた。


「ここが、本棟です。それで、真ん中に、こう、中庭があって」


 濡れた指が、卓の上に、四角を描く。

 その中に、もう一つ、小さな四角。


「これが、例の温室。薬草園です。裏手の、このあたりに、搬入口がある。私が、帳面をつけている扉です」


 黙って、卓の上の葡萄酒の線を見ていた。


 モナが空から見てきて、宿で紙に描き起こした配置図と、ぴたりと重なった。


「で、お面の連中が、塀に沿って、こう回るんです。真夜中の鐘と、明け方の鐘で、組が入れ替わる。入れ替わるときに、ちょうど、この搬入口の前で、ひとしきり立ち話をするんですよ。夜番の窓から、よく見えます」


 テオドールは、得意げに、搬入口の前を、指でとんとんと叩いた。


「あれで、よく警備が務まるものです」


 肩の上で、モナが、学の耳を、ちょんと引っぱった。


 聞いた? という合図だった。


 聞いていた。

 聞いていて、胃が、少し重くなった。


 この男は、自分が今、何を描いてしまったのか、まるでわかっていない。


     ◇


「それにね、シモンさん」


 テオドールは、急に声をひそめた。

 ひそめたつもりだろうが、葡萄酒のせいで、たいしてひそまっていなかった。


「あそこには、何かいるんですよ」

「何か、ですか」

「生き物です」


 テオドールは、真顔だった。


「夜番の夜に、温室の扉が、ちょっとだけ開いたんです。そのとき、聞こえたんですよ。歌が。小さな、高い声で、いくつも重なって。子守歌みたいな節でした」


 学は、葡萄酒をひと口飲んだ。

 今夜も、味がしなかった。


「警備の連中は、風の音だと言いました。でも、あれは、歌でした。……搬入口に届く荷も、変なんです。花の蜜の壺。親指の先ほどの、小さな皿や杯。人形遊びの道具みたいな」


 テオドールは、そこで、言葉を切った。


「妖精の粉の鑑定を、命じられたでしょう、私。それで、御伽噺を読み返していたら、頭が、そっちへ引っぱられてしまって。……馬鹿げてますよね」

「……さあ、どうでしょう」


 それだけ言った。


     ◇


 テオドールの横顔を見た。


 この男は、学院のことを、何ひとつ疑わずに生きてきた。

 平民の自分を拾い上げてくれた場所だと、ありがたく思ってきたはずだ。

 その学院の真ん中で、何が飼われているのか。


 それを知ったら、この男は、どうするだろう。


 巻き込むわけには、いかなかった。


 何気ない調子で言った。


「三日に一度だと、体がもちませんね。次の夜番は、いつなんです?」

「明後日です。その次が、そのまた三日後。……ああ、覚えなくていいですよ、そんなもの。私だって、覚えたくないんですから」


 テオドールは、また笑った。


 笑いながら、その日取りを、頭の中に書きつけた。


     ◇


 店の扉が開いたのは、そのときだった。


「シモン殿」


 聞き慣れた声に、振り向いた。


 カタリナが、入り口に立っていた。

 騎士団の制服ではない。

 落ち着いた色の、仕立てのいい外出着だった。


 カタリナは、学の向かいの席の男に気づいて、足を止めた。


「……お連れの方が、いらしたのですね。失礼しました」

「いえ、どうぞ。こちら、学院の研究員の、テオドール・シュミットさんです。古本屋で知り合いまして」


 テオドールは、慌てて立ち上がった。

 椅子が、がたんと鳴った。


 身なりと物腰で、相手がどういう家の娘なのか、ひと目でわかったのだろう。

 擦り切れた袖口を、さりげなく背中に回している。


「テ、テオドール・シュミットと申します。学院で、合金の研究を」

「王国騎士団の、カタリナと申します」


 カタリナは、家名を名乗らなかった。

 それから、少しだけ、声をやわらげた。


「どうか、お座りになってください。今夜は、私も、ただの客ですから」


     ◇


 卓を、三人で囲むことになった。


 テオドールは、最初のうちこそ、背筋を棒のように伸ばしていた。

 だが、カタリナが、偽物の銀貨の見分け方について、真剣な顔で質問しはじめると、目の色が変わった。


「銀貨の端を、蝋燭の火にかざすんです。本物の銀は、熱がすぐに全体へ回るので、反対の端をつまんでいる指まで、あっというまに熱くなる。偽物は、熱の回りが鈍くて、指のほうは、なかなか熱くならないんです」

「そのような見分け方が」

「まだ、両替商の方々に、試してもらっているところなんですが」


 テオドールは、照れたように頭をかいた。

 カタリナは、感心したように、何度もうなずいていた。


 二人のやりとりを、黙って聞いていた。


 どちらも、あの銀貨の事件で、ひどい目に遭った。

 二人とも、学の前では笑っている。

 けれど、学の見ていないところで、今もそれを背負っている。


     ◇


 ヘレーネが、新しい葡萄酒を運んできたときだった。


 テオドールが、杯を持ち上げて、しみじみと言った。


「こういう夜は、あの人のことを思い出します。前に、夜道で、命を助けてもらったことがあるんです。名前も知らない、黒い外套の人に。……結局、礼も言えずじまいで」


 カタリナが、手もとの杯に、目を落とした。


「……私にも、礼を言えずにいる方がいます」


 それから、カタリナも、静かに杯を持ち上げた。


「その方々の、ご無事に」

「ご無事に」


 二つの杯が、軽く触れ合った。


 葡萄酒を、盛大にむせた。


「シモン殿?」

「シモンさん、大丈夫ですか」

「だ、大丈夫です。ちょっと、気管に」


 肩の上で、モナが、羽を震わせて笑い転げていた。

 羽の縁が、ちらちらと光っていた。


 咳き込みながら、天井を仰いだ。


 二人がそろって杯を上げた当の男が、この卓で、一人むせている。


     ◇


[王都・ブルーノの店 学]


 それから、数日が過ぎた。


 鱗を売る用はなかった。

 それでも、ブルーノの店をのぞきに行った。

 鑑定の話が、何か動いていないかと思ったのだ。


 ブルーノは、学の宿を知らない。

 琥珀の灯亭に通っていることも、知らない。

 何かあっても、使いを出すことはできない。

 だから、こうして、学のほうから行くしかなかった。


 店の戸口の鈴を鳴らすと、帳場の奥から、ブルーノが、転がるように飛び出してきた。


 顔が、青かった。


「シモン様……! お待ちしておりました」

第二章 真理の籠

第九十話 招きの手紙

 ブルーノは、学を奥の椅子に座らせると、店の戸に閂をかけた。


 窓の鎧戸も、半分閉める。

 それから、帳場の引き出しの、いちばん奥から、一通の手紙を取り出した。


 両手で、捧げ持つようにして、卓の上に置く。


「今朝がた、学院のお使いの方が、お見えになりまして」


 ブルーノの声は、かすれていた。


「片眼鏡をかけた、痩せた学者様でございました。前にお見えになった、目つきの鋭い方々とは違って、それはもう、ご丁寧で。……かえって、それが、恐ろしゅうございまして」


 学は、手紙を見下ろした。


 上等な紙だった。

 封の蝋には、学院の紋が押してある。

 宛名は、ただ一行。


 ――粉の売り手殿。


     ◇


 封は、もう切られていた。


「わ、私宛てではないのですが、お使いの方が、目の前で読めとおっしゃって……」

「かまいませんよ」


 手紙を広げた。


 細く、角ばった字が、すき間なく並んでいた。


 ――過日、公爵家を経て当学院にもたらされし粉の件。

 ――検証の結果、その質、類を見ず。

 ――ついては、同等の品を、さらに求めたく存ず。


 ――価については、売り手殿の言い値に従う用意あり。

 ――ただし、取引は、仲立ちを経ずして、売り手殿と直に行うを望む。

 ――来たる四日ののち、夜半、当学院の正門にてお待ち申し上げる。


 最後に、署名があった。


 王立リュケイオン学院、学長。


 手紙から目を上げた。


 肩の上で、モナが、手紙をのぞき込んでいた。


「……なんて書いてあるの、これ。字が硬すぎて、読む気がしないんだけど」

「粉をもっと買いたいから、四日後の夜に、学院まで来いってさ」


 モナにだけ聞こえるように、小声で返した。


     ◇


「罠でございます」


 ブルーノが、卓に身を乗り出した。


「どう考えても、罠でございますよ、シモン様。前には、この店に、脅しに来た連中がいたのです。この店はよく燃えそうだ、などと。あれも、きっと学院の手の者でございましょう。それが急に、こんなに丁寧になって。言い値で買う、などと」


 ブルーノは、両手で頭を抱えた。


「それに、仲立ちを経ずに、とございます。仲立ちとは、私のことでございましょう。いえ、私など、どうでもよいのです。ですが、あの粉は、公爵閣下のお手を経て、学院へ渡ったもので。閣下を飛び越えて、売り手と直にお取引など、閣下のお耳に入ったら……」


 ブルーノは、身を震わせた。


「それに、妙なのでございます。公爵閣下には、学院は、まだ鑑定の途中だとお答えになっているはずなのです。閣下のお使いが、何度も催促に行かれて、そのたびに、まだだと。それが、この手紙には、類を見ず、と」


 ブルーノは、手紙の二行目を、震える指で指した。


「鑑定は、とうに済んでいるのでございますよ。閣下には、それを伏せたまま、売り手と直にお取引を……」


 学は、黙ってうなずいた。


 学院は、公爵に嘘をついている。

 そして、そのことを、公爵の取引先であるブルーノに、隠そうともしていない。

 ブルーノが公爵に何を伝えようと、かまわないということだ。


「閣下には、黙っているわけにはまいりません。あの方は、私の、いちばん大事なお得意様でございます。鱗のお代も、前もってお預かりしておりますし」

「公爵閣下に、お伝えするんですか」

「申し訳ございません。お伝えせぬわけには……」


 学は、少し考えてから、うなずいた。


「ブルーノさんの、お立場もありますからね。それは、かまいません」


 ブルーノは、ほっとしたように、肩を落とした。


     ◇


「それで、シモン様」


 ブルーノは、声をひそめた。


「どうか、旦那様に、お伝えくださいませ。決して、お出ましになってはなりません、と。学院などに行けば、何をされるか、わかったものではございません」


 手紙に、もう一度目を落とした。


 来たる四日ののち、夜半、当学院の正門にて。


 四日後。


 頭の中で、日を数えた。


 テオドールの夜番は、琥珀の灯亭で飲んだ晩の、明後日だった。

 その次が、そのまた三日後。

 その次が、さらに三日後。

 四日後の夜は、どちらでもない。


 学院に、テオドールはいない。


     ◇


 手紙を見下ろしたまま、考えた。


 罠だ。

 それは、わかっている。


 学院の学長は、あの庭の主だ。

 あの夜、空に嵐が渦を巻いたのを、知っている。

 留め金に、あの真鍮の筒をくくりつけさせたのも、きっと、この男だ。

 ロキが、庭を狙っていることも、とうに察しているだろう。


 その上で、正門から、招いている。


 正門から入ってくる客がいれば、学長は、その客から目を離さない。

 警備の者たちも、その客のまわりに集める。

 客が、何をしでかすかわからないのだから。


 応接室に、学院じゅうの目が集まる。


 そのあいだ、庭は、どうなる。


 ゆっくりと息を吐いた。


 塔の上の見張りも、残るだろう。

 庭の番の女も、残るだろう。

 それでも、目の数は、ふだんの夜より、ずっと少なくなる。

 何かあっても、駆けつけてくる者は、ずっと遅くなる。


 留め金を、三十、外しきるまでの時間を、稼げる。


     ◇


「……あんた」


 肩の上で、モナが、学の顔をまじまじと見ていた。


「今、ろくでもないこと、考えてるでしょ」

「ろくでもなくはない」


 小声で返した。


「あいつが、正門から招いてくれるなら、正門から行ってやればいい。僕が、学長の前に座って、目を引きつける。そのあいだに、モナが、あの子たちを連れ出す」


 モナは、しばらく黙っていた。


 それから、羽を、ぱたりと鳴らした。


「あんた、黒幕っぽいこと考えるようになったわね」

「黒幕だからな」

「最初のころは、平らなドラゴンしか作れなかったくせに」

「それは、関係ないだろ」


 モナが、くすくすと笑った。

 七日前の夜明け、窓辺で膝を抱えていたモナとは、別人のようだった。


     ◇


「シモン様?」


 ブルーノが、心配そうに、学の顔をのぞき込んでいた。


「旦那様に、お伝えいただけますでしょうか。決して、行ってはならぬと」


 学は、手紙を、丁寧にたたんだ。


 ブルーノの顔を見る。

 青い顔だった。

 三十年、この店を守ってきた男の、律儀な顔だった。


 この男にも、知らないうちに、ずいぶん迷惑をかけている。


 ブルーノに、穏やかに笑ってみせた。


「伝えておきます。……ですが、ブルーノさん」

「は、はい」

「たぶん、旦那様は」


 たたんだ手紙を、懐にしまった。


「喜んで伺うでしょう」

第二章 真理の籠

第九十一話 公爵の横やり

[王都・ゴルトシュタイン公爵の屋敷 公爵]


 その朝も、夜明け前に目が覚めた。


 ローデリヒ・フォン・ゴルトシュタインは、寝台の上で、しばらく天井を見上げていた。


 あの声は、もう、夢にはあまり出てこない。

 代わりに、近ごろは、別の顔を見る。


 長い白髪。

 明るい色のローブ。

 冬の湖の底のように、何ひとつ波立たない心。


 粉の売り手は、ロキだそうですな。


 天気の話でもするように、あの学者はそう言った。


 身を起こした。

 水差しから、杯に水を注ぐ。

 手の震えは、ひと月前より、いくらか大きくなっていた。


     ◇


 昼前に、買取商が来た。


 家令が告げに来たとき、わずかに眉を上げた。

 鱗の話なら、使いで済む。

 わざわざ本人が来るのは、何か、使いには任せられない話を抱えているときだ。


 小応接に入ると、ブルーノ・ケラーは、椅子から跳ねるように立ち上がった。


「か、閣下。このたびは、お耳に入れねばならぬことが……」

「座りなさい」


 穏やかに言って、向かいに腰を下ろした。


 ブルーノの心が、手に取るようにわかった。


 怯え。

 迷い。

 それから、何かを裏切るような、後ろめたさ。


 だが、その後ろめたさは、公爵に向いたものではなかった。


     ◇


 ブルーノは、つっかえつっかえ、話した。


 昨日の朝、学院の使いが店に来たこと。

 粉の売り手に宛てた、学長の手紙を置いていったこと。


 粉の質は、類を見ない。

 同じ品を、さらに買いたい。

 値は、売り手の言い値に従う。

 ただし、仲立ちを経ずに、売り手と直に取引したい。

 三日ののちの夜半、学院の正門で待つ。


 黙って聞いていた。


 類を見ない。


 公爵の使いが、何度、学院の正門で頭を下げたことか。

 公爵自身が、あの書架ばかりの寒い部屋で、あの学者と向き合ったときも。

 返ってきた答えは、いつも同じだった。


 未だ、途上にございます。


「……その手紙は、今、どこに」

「売り手の方が、持っていかれました。あの、売り手の、使いの方が」


 公爵は、ブルーノの心を探った。


 嘘は、ない。


     ◇


「使いの方、と言ったな」

「は、はい」


 ブルーノは、膝の上で両手を握りしめた。


「売り手のシモン様は、本当は、代理の方なのでございます。粉の本当の持ち主は、シモン様の、旦那様でして。黒い外套の、赤い目の……」


 公爵の指が、肘掛けの上で、止まった。


「その方が、以前、私の店に来た学院の手の者を、追い払ってくださったのです。その店主は、私の取引相手だ、と」


 黒い外套。

 赤い目。


 ずいぶんと、お顔の色が悪い。


 耳の奥で、あの声がした。


「シモン様には、旦那様をお止めくださいと、お願いいたしました。学院などに行かれては、何をされるかわからぬ、と。ですが、シモン様は……」


 ブルーノは、言いよどんだ。


「たぶん、旦那様は、喜んで伺うでしょう、と」


     ◇


 ブルーノが帰ったあと、ひとりで書斎にこもった。


 飾り棚に、赤銅色の鱗が四枚、並んでいる。

 その横に、絹の布を敷いた小さな台がある。

 本当なら、そこに、あの小瓶が置かれているはずだった。


 台は、空のままだった。


 窓辺に立った。


 東の空の下に、学院の塀が、小さく見える。


 学者どもは、鑑定を済ませていた。

 済ませたうえで、こちらには、途上だと言い続けた。

 そして今、こちらを飛び越えて、売り手と直に会おうとしている。


 言い値で、さらに粉を買う。


 あの学者どもが、なぜ、それほど粉を欲しがる。


 窓ガラスに映った自分の顔を見た。


 深い皺。

 落ちくぼんだ目。

 窓枠に置いた手には、しみが、また一つ増えていた。


 学院の応接室で、あの学者は、梟の名を口にした。

 誰の前で、誰の名を出しているのか、わかったうえで。

 あれは、挨拶ではなかった。

 こちらを、見下ろしていたのだ。


 あの学者は、自分と同じか、いくらか若いくらいに見えた。

 十年前に会った隣国の学院の長も、二十年前に会った別の学院の長も、皆、そうだった。

 誰も、年を取らない。


     ◇


 ロキが、粉の売り手。


 学院が、その売り手と、直に手を結ぶ。


 公爵の中で、二つの話が、一つにつながった。


 御前会議で、あの男は、こちらの背後に立った。

 そして、あの大広間を、ひとりで、ひっくり返した。

 そして今、あの男は、粉を持って、学院の前に現れる。


 学者どもと、ロキ。


 もし、手を組んだなら。


 粉は、学院の奥にしまい込まれる。

 二度と、こちらの手には戻ってこない。

 あの学者どもは、これからも、年を取らずに生き続ける。


 そして、自分は。


 窓枠の上の、しみの浮いた手を握りしめた。


     ◇


 学院に、正面から掛け合う手は、もう尽きていた。


 王に訴えるわけにもいかない。

 妖精の粉など、御前で持ち出せる話ではなかった。

 そもそも、あの小瓶は、自分が買い取るはずの品だ。

 国の物でも、誰の物でもない。


 だが、公爵には、こうしたときのために動く者たちがいた。


 表には出ず、名も残さず、命じられたことだけを、黙ってやり遂げる者たち。

 長い年月をかけて、自分が、金と信用で囲ってきた者たちだ。


 机に向かった。


 紙を一枚、取り出す。

 ペンを走らせる。


 短い手紙だった。


 三日ののちの夜半。

 学院の正門に、客が来る。

 学長は、その客に掛かりきりになる。


 そのすきに、預けた品を、取り戻せ。

 学長の研究室にあるはずだ。

 手荒になっても、かまわん。


 書き終えると、手紙をたたんだ。


 封の蝋に、印章を押そうとして、手を止めた。


 ゴルトシュタインの紋は、押さなかった。

 蝋に、何も刻まないまま、冷えて固まるのを待った。


 家令を呼ぶ。


「これを、いつものところへ」


 家令は、何も聞かなかった。

 深く一礼して、手紙を受け取り、出ていった。


     ◇


 扉が閉まると、書斎は、静かになった。


 空の台を見つめた。


 学者どもに、二度も頭を下げた。

 返していただくように、と念を押した。

 返ってきたのは、嘘だった。


 もう、頭は下げない。


「ロキでも、学者でも、かまわん」


 空の台の上の、絹の布に指を這わせた。


「あの粉は、私のものだ」

第二章 真理の籠

第九十二話 前夜

[王都・琥珀の灯亭 学]


 鶏の焼き物から、香草の香りが立ちのぼっていた。


 琥珀の灯亭の、奥のソファー席。

 いつものように、皿に手を伸ばした。


 向かいの席では、カタリナが、杯を両手で包んでいる。

 騎士団の制服の、襟もとだけをゆるめていた。

 今日も、市場の警邏だったらしい。


「西の市場で、小さな女の子が泣いていたのです。財布を落とした、と。一緒に、三つの通りを探して回りました」

「見つかりました?」

「見つかりました。ところが、その財布、女の子の母親のものだったのです。黙って持ち出して、飴を買いに行く途中で落としたそうで」


 カタリナは、まじめな顔のまま、杯に口をつけた。


「母親に、こっぴどく叱られていました。私まで、なぜか一緒に頭を下げることに」


 学は、笑った。


 肩の上で、モナも、くすくす笑っていた。


 いつもの夜だった。

 いつもの店で、いつもの皿を前にして、いつもの相手と、他愛もない話をしている。


 明日の夜も、こうしていられるかどうかは、わからなかった。


     ◇


 ヘレーネが、空いた皿を下げに来た。


「シモンさん。今日の味、わかります?」


 皿に残った鶏の皮を、もう一度口に運んだ。


 香草の香り。

 塩。

 それから、その奥に、ほんのかすかな、すっきりとした苦み。


「……柑橘の、皮ですか?」


 ヘレーネの目が、まんまるになった。


「あら」


 それから、ふっと笑った。

 いつもの、何かを確かめるような笑い方ではなかった。


「当たり。……ようやく、わかるようになったのね」


 ヘレーネは、皿を抱えて、帳場のほうへ戻っていった。

 足取りが、少しだけ、軽く見えた。


「何の話ですか?」


 カタリナが、不思議そうに首をかしげた。


「さあ。僕にも、よくわからないんです」


 正直に言った。


     ◇


 食後の焼き林檎が運ばれてきたころ、杯を置いた。


「カタリナさん。明日の夜は、少し用事がありまして。ここには、来られないと思います」


 カタリナは、匙を持つ手を止めた。


「用事、ですか」

「ええ」


 カタリナは、学の顔を、じっと見た。


 切れ長の目が、すっと細くなる。

 騎士の目だった。

 市場で、懐に手を入れたまま歩く男を見るときの目だ。


 焼き林檎に目を落とした。


「……シモン殿」


 カタリナの声が、少しだけ低くなった。


「危ないことでは、ありませんよね」


     ◇


 顔を上げた。


 カタリナは、まだ、学を見ていた。

 疑っているのではなかった。

 心配している顔だった。


 近衛を断ると決めた夜、この人は、同じ席で、学に聞いた。

 シモン殿は、違いますよね、と。


 そのとき、うなずいた。


「ちょっと、知り合いを迎えに行くだけです」


 穏やかに言った。


「ずいぶん長いあいだ、家から遠く離れたところで、足止めを食っていたもので。やっと、帰れることになったんです。夜遅くなりそうなので、それで」


 嘘は、言っていなかった。


 カタリナは、しばらく黙っていた。


 それから、肩の力を抜いた。


「……そうですか。それは、よかった」

「ええ」

「お知り合いの方が、無事に帰られますように」


 カタリナは、杯を持ち上げた。


 こちらも、杯を持ち上げた。


 肩の上で、モナが、何も言わずに、カタリナの横顔を見ていた。


     ◇


[王都・宿の屋根の上 学]


 宿に戻ると、部屋の窓から屋根へ這い出した。


 屋根を葺いた薄い石の板は、昼の熱を、まだほんのりと残していた。

 棟の近くまで這い上がり、腰を下ろす。


 王都の灯が、見渡すかぎりに広がっていた。


 大通りに沿って、灯りの粒が、川のように流れている。

 市場の広場のあたりは、まだ明るい。

 王宮の塔の窓にも、ぽつぽつと灯がともっていた。


 東のほうだけが、暗かった。


 学院だ。


 塀の内側は、黒々と沈んでいる。

 あの暗がりのどこかに、ガラスの屋根と、うなる塔と、花の杯がある。


「明日の段取り、もう一回、言っとくぞ」


 膝を抱えて、隣のモナに言った。


「夜半に、僕が正門から入る。学長と、応接室で向き合う。できるだけ長く、話を引き延ばす」

「あたしは、そのあいだに、温室に入る。留め金を、全部外す。それから、みんなを、いっぺんに転移で連れ出す」

「行き先は」

「王都の外れの、丘。羊の放してある、あのあたり」

「僕は、学長の前から、なんとかして消える。それから、丘で落ち合う」


 モナは、ふん、と鼻を鳴らした。


「なんとかして、ね」

「なんとかする」

「あんたの、なんとかするは、あてにならないのよ」

「今まで、なんとかなってきただろ」

「あたしが、なんとかしてきたの」


 学は、言い返せなかった。


「……ねえ」


 モナの声が、少しだけ、小さくなった。


「もし、あの子たちが、行かないって言ったら?」


 学は、すぐには答えなかった。


 花の杯の中から、こちらを見上げていた目を思い出す。

 外は、怖いところなんでしょう。

 ここの人たちは、優しいもの。


「そのときは、そのときだ」


 ゆっくりと言った。


「行きたくないって子を、鎖ごと引きずっていったら、あいつらと同じだ。……でも、たぶん、大丈夫だと思う」

「なんで、そう思うのよ」

「ドラゴンって、本当にいるのって、聞かれたからな」


 モナは、目をしばたたいた。


 それから、ふっと、笑った。


「……それ、来るって意味なの?」

「見てみたいって意味だよ。見てみたいって思ったら、もう、半分は外に出てる」


     ◇


 しばらく、二人とも、黙って灯を眺めていた。


 夜風が、屋根の上を吹き抜けていく。

 どこかの家から、子どもの笑い声が、かすかに聞こえた。


「……マーナ」


 モナが、ぽつりと言った。


「なんだ」

「さっきの、あの女騎士。あんたのこと、心配してたわよ」

「わかってる」

「嘘、つかなかったわね」

「つかなかった」


 モナは、膝の上に、あごを載せた。


「知り合いを迎えに行く、か」


 小さく、笑う。


「うまいこと、言うじゃない」


 学は、何も言わなかった。


 モナは、しばらく、東の暗がりを見ていた。


 それから、学のほうを見ないまま、言った。


「あんたと組むの、悪くないわね」


 隣のモナを見た。


 モナは、もう、そっぽを向いていた。

 羽の縁が、灯の中で、ほんの少しだけ光った気がした。


 東の暗がりに、目を戻した。


 あそこで、三十の小さな体が、花の杯の中で、明日を待っている。

 番号ではない名前で呼ばれる日を、まだ知らないまま。


「明日」


 静かに言った。


「全部、返してもらおう」

第二章 真理の籠

第九十三話 招かれた売り手

[学院・本棟の玄関の石段 学長]


 真夜中の鐘が、遠く、王都の空に鳴り終わった。


 本棟の玄関の石段の上に立っていた。


 正門まで、まっすぐに石畳の道が延びている。

 道の両脇に、角灯が等しい間をおいて灯されていた。

 今宵のために、灯させたものだった。


 客を迎えるには、明るいほうがいい。

 客がどこから来て、どこを見て歩くのか。

 それを、余さず見ておくためにも。


     ◇


 警備は、二つに分けてあった。


 半分は、応接室のまわりに。

 扉の外の廊下と、窓の下の植え込みに、梟の面をつけた者たちが、息をひそめて立っている。


 残りの半分は、庭に。

 温室を囲む塀の内と外を、騒ぎの前と変わらぬ数で回らせてある。

 鐘楼には、見張りを二人。

 温室の中には、番の者。


 そして、あれらの留め金には、細工がある。


 一つでも外れれば、鐘楼の鈴が鳴る。

 どれほど巧みな幻で目と耳を欺こうと、鈴は欺けまい。

 鈴の板は、温室の外の、塔の上にある。


 学長の背後で、片眼鏡の教授が、そわそわと身じろぎをした。


「……本当に、来ましょうか」

「来る」


 短く答えた。


「ですが、もし、正門には現れず、庭のほうへ……あの夜のような嵐を、また呼ばれでもしたら」

「あの嵐は、枝一本、折らなかった」


 正門のほうを見たまま言った。


「幻は、目と耳を欺く。だが、物を動かさぬ。恐るるに足らぬ」


 教授は、片眼鏡の位置を直した。

 それでも、落ち着かなげに、何度も中庭の暗がりのほうへ目をやっていた。


 それを咎めなかった。


 御前会議の大広間で、衛兵の姿から消えた男。

 騎士団の会議に、分隊長の顔で座っていた男。

 買取商の店で、帳面の文字を黒い羽に変えた男。

 そして、学院の空に、嵐を呼んだ男。


 恐れるなというほうが、無理だった。


     ◇


 ロキが、どちらの顔で現れるのか。


 粉の売り手として、正門から来るのか。

 それとも、庭を狙う盗人として、闇にまぎれて来るのか。


 どちらでも、かまわなかった。


 売り手として来るなら、話を聞く。

 あの粉を、どこで得たのか。

 光を失わぬ粉を生む、自由なあれらが、どこにいるのか。


 盗人として来るなら、鈴が知らせる。

 庭の者たちが、取り押さえる。


 いずれにせよ、あの男は、今宵、この学院の内に足を踏み入れる。


 ローブの袖の中で、指を組んだ。


 指先が、わずかに冷えていた。

 恐れではなかった。

 長いあいだ忘れていた、何かを待つ心持ちだった。


     ◇


 正門の外で、足音がした。


 一つだけだった。


 馬車の轍の音も、供の者の気配もない。

 石畳を踏む、落ち着いた靴音だけが、夜の静けさの中を、まっすぐに近づいてくる。


 門番が、門を開けた。


 角灯の灯りの中に、一人の男が、歩み入ってきた。


 背の高い男だった。


 艶のある黒髪を、きれいに撫でつけている。

 白い顔。

 切れ長の目。

 夜のように深い色の外套が、角灯の光を受けて、歩くたびに、わずかに色を変えた。

 襟もとの銀糸の繍(ぬい)が、細く光っている。


 エルンストの報告どおりだった。

 王宮の大広間の噂とも、寸分違わない。


 学長の横に控えていたエルンストが、梟の面の奥から、低くささやいた。


「……熱が、映っております。人です。一人だけです」


 学長は、わずかにうなずいた。


 幻ではない。

 あの男は、その身ひとつで、ここへ歩いてきている。


     ◇


 男は、石畳の道を、まっすぐに歩いてきた。


 左右の角灯にも、闇の中に並ぶ梟の面にも、目をくれなかった。

 中庭の奥の、木立の向こうにも。

 ガラスの屋根にも。

 塔にも。


 ただ、石段の上の学長だけを見て、歩いてくる。


 庭を知っている男が、庭を一度も見ない。


 そのことを、胸の内に書き留めた。


 男は、石段の下で立ち止まった。


 赤い目が、学長を見上げた。


「今宵は、お招きにあずかり、光栄です。学長殿」


 穏やかな声だった。

 丁寧で、どこか、聞く者を見下ろすような響きがあった。


「遠路、大儀であった」


 石段の上から言った。


「売り手殿、と呼べばよいか。それとも、別の名で呼ばれることを好まれるか」


 男は、口の端をわずかに上げた。


「名など、どうとでも。市井の者が勝手につけた呼び名なら、いくつか耳にしておりますがね」


 男は、石段を、ゆっくりと上ってきた。


 学長の横に並ぶと、男は、ふと振り返って、正門まで続く角灯の列を眺めた。


「ずいぶんと、明るいお出迎えだ。足もとが見えて、助かります」

「暗がりを好まれる客人と、聞いていたゆえ」

「おや」


 男は、愉快そうに目を細めた。


「それは、どなたから?」


 学長は、答えなかった。

 答える代わりに、扉のほうへ、手で道を示した。


 男は、小さく笑って、学長の半歩うしろを歩き出した。

 初めて足を踏み入れる学院の廊下を、まるで、自分の屋敷の廊下でも歩くような足取りだった。


     ◇


[学院・本棟の奥の応接室 学長]


 応接室には、蝋燭が灯されていた。


 壁という壁を埋める古い書架。

 火の入っていない暖炉。

 紙と石の匂い。


 公爵を迎えたときと、何も変えていなかった。

 茶も、出さなかった。


 男は、勧められる前に、向かいの椅子に腰を下ろした。


 外套の裾を払い、脚を組む。

 書架の背表紙を、ぐるりと一度だけ眺めた。

 それから、もう興味をなくしたように、学長に目を戻した。


 扉の外に、梟の面の者たちが控えている。

 窓の下にも。

 男は、それに気づいているのか、いないのか。

 少しも、気にしたふうがなかった。


 向かいに腰を下ろした。


 蝋燭の炎が、二人のあいだで、静かに揺れていた。


     ◇


 男の顔を、まっすぐに見つめた。


 三十を過ぎたころ、に見える。

 だが、蝋燭の灯りが揺れるたびに、もっと若くも見えた。

 そして、椅子の背に預けた肩の線には、その年には不釣り合いな、妙な落ち着きがあった。


 何者なのか。


 長い年月のうちに、多くの人間を見てきた。

 王も、貴族も、商人も、学者も。

 その多くは、一目見れば、何を欲しているのかがわかった。


 この男は、わからなかった。


 男が、ふと、口を開いた。


 まるで、ついでに思い出したことでも口にするように。


「粉を、ご所望と伺ったが」

第二章 真理の籠

第九十四話 真理の話

[学院・本棟の奥の応接室 学]


 蝋燭の炎の向こうで、学長が、ゆっくりと指を組んだ。


「粉は、たしかに求めている」


 低い声だった。


「だが、その前に、問いたい。売り手殿は、あの粉が何であるか、知っておられるか」


 脚を組んだまま、黙っていた。


 黙っていたのは、余裕を見せるためではない。

 何と答えればいいのか、わからなかったからだ。


 膝が、外套の下で、かすかに震えていた。


 肩の上は、軽い。

 いつもなら、そこで「しっかりしなさいよ」と茶々を入れる声が、今夜はない。

 モナは、今ごろ、あの温室に向かっている。


     ◇


「あの粉は、命を延ばす」


 学長は、学の沈黙を、答えと受け取ったらしかった。


「小指の爪の先ほどで、一年。御伽噺は、そう伝える。だが、我らは、御伽噺の先を知りたい。なぜ、あれは、命を延ばすのか。命を延ばすものの源を突き詰めれば、命そのものの根に、手が届くのではないか」


 学長の目が、蝋燭の灯りを受けて、静かに光っていた。


「生命の根源。それこそが、真理の、一つの扉だ。あの粉は、その扉の鍵になりうる。鍵を生むものもまた、得がたい素材だ。素材を得るためなら、払うべき犠牲は払う。真理に至る道に、犠牲のないものなど、ない」


 半分もわからなかった。


 ただ、鍵を生むもの、という言葉だけが、耳に残った。


 花の杯。

 細い鎖。

 番号。


 顔の筋ひとつ動かさないように、奥歯を噛みしめた。


     ◇


「真理、ですか」


 ようやく口を開いた。


 自分の声が、思ったより落ち着いていて、少し驚いた。


「ずいぶんと、大きなものを追っておられる」

「大きいからこそ、追う価値がある」

「なるほど。……それで、その扉の鍵とやらで、どこまで開きましたか」


 学長の眉が、わずかに動いた。


 前の世界で、二十年、会議室に座ってきた。

 わからない話をされたときは、相手に話を続けさせるのがいちばんいい。

 進捗はどうですか。

 どこまで行きましたか。

 それだけで、たいていの相手は、勝手に、しゃべり続けてくれる。


     ◇


 学長は、しばらく学を見つめていた。


 それから、組んだ指をほどいた。


「……扉は、まだ開かぬ」


 意外なほど、あっさりとした答えだった。


「粉が命を延ばす。その効験は、確かだ。だが、なぜ延ばすのかは、未だわからぬ。粉を細かく砕き、溶かし、焼き、あらゆる手で調べてきた。分けても、分けても、命の理は、その奥へ逃げていく」


 学長は、蝋燭の炎に目をやった。


「ゆえに、我らは、問いを一つ、手前に戻した。命の理を問う前に、物そのものが、何からできているのかを問う。粉も、肉も、骨も、つまるところは物だ。物の成り立ちがわからねば、命の成り立ちにも、手は届くまい」


 黙ってうなずいてみせた。


 うなずきながら、少しだけ、ほっとしていた。

 話が、粉と妖精から、離れていく。


「物には、最小の粒があるはずだと、我らは考えている」


 学長の声に、ほんの少しだけ、熱がこもった。


「水も、鉄も、塩も。細かく、細かく分けていけば、やがて、それ以上は分けられぬところに至る。我らは、その手前までは、見た。それぞれの物に固有の、ごく小さな粒。分子、と我らは呼んでいる」

「分子」

「だが、それが最小とは思えぬ。異なる物の分子どうしが、出会えば組み替わり、まったく別の物になる。ならば、分子もまた、より小さな何かの組み合わせであろう。分子を作る、大本の何か。我らは、仮に、それをアトモスと呼んでいる」


 学長は、学の顔を見た。


「分けられぬもの、という意味だ」


 学は、黙っていた。


 アトモス。

 アトム。

 原子。


 ――知ってる。


 その話なら、知っている。

 動画で、何度も見た。

 学者たちが、楽しそうに、ああでもないこうでもないと話していた、あの話だ。


     ◇


 組んでいた脚を、ほどいた。


「この世の物質の、最小の単位」


 ゆっくりと、言った。


「そこには、至っていますか?」


 学長が、目を細めた。


「貴方がたの言う、そのアトモス。私の知る言葉では、原子、と呼びます。……ですが、原子もまた、最小ではない。原子を割れば、さらに小さな粒が出てくる。素粒子、とでも申しましょうか」


 学長の指が、卓の縁で、ぴたりと止まった。


「貴方の体も、分解していけば、それになる。この卓も、この書架も、この蝋燭の炎も。すべて」


 ――見よ! 我がうろ覚えの真理を!


 心の中で、拳を握った。


 握った拳が、汗で湿っていた。


     ◇


「では、力の源泉は」


 たたみかけた。


 止まったら、負けだ。

 止まったら、ボロが出る。


「解明しましたか?」

「……力の、源泉」

「強い力。弱い力。電磁気力。そして、重力」


 指を一本ずつ立てていった。


「貴方の体を作る原子の、その芯。それを固めているのが、強い力です。その原子が、今の姿に至るまでの変化には、弱い力が関わっている。貴方が、こうして指を動かせるのは、電磁気力に由来する力を使えるからだ。そして、床に立っていられるのは、重力のおかげ」


 四本の指を立てたまま、軽く肩をすくめた。


「大分、雑な説明ですがね」


     ◇


 学長は、動かなかった。


 蝋燭の炎だけが、揺れていた。


「……電磁気、と言ったか」


 学長の声が、かすれていた。


「雷と、磁石を、ひとつの名で呼んだな」


 内心で、首をかしげた。


 そこに、引っかかるのか。


「小さな雷で、人の体が引きつることは、我らも知っている。だが、雷と、磁石が、同じ根から出た力だと。……そう、申されるか」


 学長が、身を乗り出した。


 あの、静かな顔を崩さなかった男が、卓の上に、両手をついていた。


「どこまで、知っておられる。雷と磁石は、いかにして結ばれる。弱い力とは何だ。原子の芯とは。その、素粒子とやらは、いくつある」


 学の背中を、冷たい汗が流れた。


 まずい。


 これ以上は、無理だ。

 動画は、そこまで詳しくなかった。

 いや、詳しかったのかもしれないが、自分が覚えていない。


     ◇


 ゆっくりと、椅子の背に体を戻した。


「我々は」


 声を、低く落とす。


「そこまで至って尚、真理には、遠く及ばない」


 学長の手が、卓の上で、止まった。


「答えを急がれますな、学長殿。真理なんてものは、一足飛びには届きませんよ」


 口の端を上げた。


 小さく作って、確かめて、積み上げる。

 二十年、画面の部品を作り続けて、身に染みた心得だった。

 いきなり全部を作ろうとすると、たいてい、全部が崩れる。


「一段ずつ、積み上げていくものでしょう」


     ◇


 学長の顔から、表情が消えた。


 ほんの、一瞬だった。


 怒りでも、驚きでもない。

 何かが、すうっと抜け落ちたような顔。

 蝋燭の灯りの中で、その顔は、急に、ひどく年老いて見えた。


 息を止めた。


 何か、まずいことを言ったのだろうか。

 ただの、仕事の心得だ。

 小さく作って、積み上げろ。

 それだけの意味しかない。


 学長の顔に、表情が戻った。


 戻ったときには、もう、さっきまでの静かな顔だった。

 ただ、その目だけが、さっきとは違っていた。


 学を、見ていた。


 恐れているのでは、なかった。

 何か、珍しいものを見つけた学者の目だった。


     ◇


 学長は、椅子の背に、ゆっくりと身を戻した。


「……一段ずつ、か」


 小さく、つぶやく。


 それから、ふと、窓のほうへ顔を向けた。


 耳を、澄ませているようだった。


 つられて、耳を澄ませた。


 夜の学院は、しんと静まりかえっていた。

 窓の外の植え込みで、虫が鳴いている。


 それだけだった。


 塀の上の筒の、耳に刺さる音は、聞こえなかった。


 学長は、しばらく、窓の外の静けさを聞いていた。


 それから、ほんのわずかに、眉を寄せた。


 何も鳴らないことが、腑に落ちない、という顔だった。

第二章 真理の籠

第九十五話 鳴らない音

[王都・テオドールの家 テオドール]


 今夜は、夜番ではなかった。


 それなのに、テオドール・シュミットは、真夜中の学院の、東の門の前に立っていた。


 夕方、研究室を出ようとしたとき、廊下で、同期の研究員に呼び止められたのだ。

 貴族の出の、いつもは口もきかない男だった。

 それが、妙に浮ついた顔で、声をひそめて言った。


「聞いたか、シュミット。今夜、学長が、客を招くそうだ」

「客?」

「ロキだよ。王宮に出た、あの。片眼鏡の先生が、そう漏らしたのを聞いた者がいる」


 家に帰った。

 夕食を食べた。

 寝台に横になった。


 眠れなかった。


     ◇


 ロキ。


 御伽噺の神の名だ。

 王宮の大広間に現れて、消えたという男。

 騎士団の会議に、分隊長の顔で座っていたという男。


 そして、テオドール自身が、その名で呼んだ男でもあった。


 学院のそばの、夜の路地。

 火の玉を突きつけられて、壁に背中を押しつけられていたとき。

 黒い外套の男が現れて、炎を打ち消し、少年に化けて、目の前で消えた。


 御伽噺のロキみたいなやつだったな、と、つぶやいたのだ。


 あの男が、今夜、学院に来る。


 礼くらい、言ってもよかった。

 琥珀の灯亭で、シモンさんにも、そうこぼした。

 騎士団のカタリナさんと、杯を合わせもした。


 寝台から起き上がって、上着をつかんだ。


     ◇


[学院・東の門の脇の通用口 テオドール]


 東の門の脇の通用口には、梟の面の警備が一人、立っていた。

 研究員の印を見せると、警備は、面の奥で少しだけ首をかしげてから、黙って通した。

 東棟の扉は、研究員なら、鍵で開けられる。

 忘れ物を取りに来た、とでも言うつもりだった。

 だが、廊下では、誰にも呼び止められなかった。


 学院の中が、妙だった。


 本棟のほうの廊下に、梟の面をつけた警備が、何人も立っている。

 窓の外の植え込みにも、黒い人影がうずくまっている。

 本棟の玄関から正門まで、角灯が、ずらりと灯されていた。


 あの男は、もう、来ているのだ。


 学長は、あの男に、何を話しているのだろう。


 君の関知するところではない。


 あの夕方の声が、耳の奥で、また響いた。

 自分は、何も知らされないまま、この学院で働いている。

 知らされないまま、搬入口の帳面をつけ、知らされないまま、光る粉を眺めている。


 本棟へは行かなかった。

 行けるはずもなかった。

 警備の壁の向こうに、学長と、あの男がいる。

 平民の研究員が、のこのこ顔を出せる場所ではない。


 渡り廊下の窓辺に立った。


 あの夜、温室の扉が開くのを見た窓だった。


     ◇


 中庭の暗がりで、何かが起きていた。


 木立の向こうで、角灯の灯りが、慌ただしく揺れている。

 人影が、四つ、五つ。

 温室の正面の扉の前に、集まっていた。


 窓を、細く開けた。


 声が、夜気に乗って、切れ切れに届いてきた。


「……鈴が、また鳴った。これで、四つ目だ」

「塔から、走ってきた。鈴の板が、次々に……」

「眼鏡には、何も映らん。中に映る人の熱は、番の婆さんの一つきりだ」

「筒は」

「鳴らん。一度も」


 鈴。

 何の鈴だろう。

 塔の上に、鐘はないはずだった。


 気がつくと、窓を離れて、階段を降りていた。


     ◇


[学院の中庭・木立の陰 テオドール]


 木立の陰まで来て、足を止めた。


 温室の正面の扉の前に、梟の面の警備が、五人、立っていた。

 いつもの夜より、ずっと少ない。

 残りは、きっと、本棟のほうに回されているのだろう。


 その中の一人に、見覚えがあった。


 背が低く、肩幅ばかりが広い、ずんぐりとした男。

 搬入口の警備で、何度か顔を合わせた男だった。

 紐で綴じた小さな帳面を、いつも懐に入れている。


「扉は」

「閂がかかっています。中から。番の婆さんに呼びかけても、返事がない」

「眠っているのか」

「わかりません」


 ずんぐりとした男は、扉を拳で叩いた。


「おい! 開けろ!」


 返事は、なかった。


 男は、梟の面の顔を、温室のガラスの壁に向けた。

 しばらく、じっと、中を見つめていた。


「……婆さんのほかは、何も、映らん」


 低く、つぶやいた。


 後ろで、若い警備が、隣の者に小声で言った。


「なあ。あのガラス、ただのガラスじゃないらしいぞ。梟の面でも、中が見えるように作ってあるんだと」

「ガラスなんだから、もともと見えるんじゃないのか」

「いや、ふつうのガラスだと、面には真っ黒に映るらしい。俺も、よくは知らんが」

「黙れ」


 ずんぐりとした男が、振り向きもせずに言った。

 二人は、首をすくめた。


     ◇


 扉の内側で、かたん、と音がした。


 閂が、外れる音だった。


 五人の警備が、一斉に身構えた。


 扉が、ゆっくりと開いていった。


 誰も、手を触れていなかった。

 両開きの扉が、まるで、内側から誰かに押されたように、音もなく、左右へ。


 その向こうに、誰もいなかった。


「……誰が、開けた」


 誰も、答えなかった。


 警備たちは、開いた扉の向こうを、面のガラスの目でのぞき込んでいた。

 しばらくして、一人が、戸惑ったように言った。


「中は……静かです。鉢が並んでいるだけで。何も、動いていない」

「番の婆さんは」

「椅子で、眠っています」


 ずんぐりとした男が、首をかしげた。


「……何も、ないのか」


     ◇


 木立の陰から、開いた扉の向こうを見ていた。


 警備たちの肩越しに。

 角灯の灯りの届く、温室の中を。


 何も、ないはずがなかった。


 温室の中では、灯りが、いくつも揺れていた。

 蛍のような、淡い光。

 それが、棚から棚へ、ふわりふわりと、飛び交っている。


 いや、飛び交っているのは、光ではなかった。


 目を凝らした。


 光の中に、形があった。


 小さな、人の形。


 手のひらほどの大きさ。

 背中に、薄い羽。

 細い銀色の糸のようなものを、足首から後ろに引いている。


 それが、一つではなかった。


 棚の上の、鉢の一つ一つに。

 花の杯の縁に腰かけ、立ち上がり、羽を震わせ、隣の鉢へ飛び移り。

 互いに、小さな手を取り合っていた。


 テオドールの耳に、かすかに、声が届いた。


 小さな、高い声。

 いくつもの声が、重なり合って、ささやき交わしている。


 あの夜に聞いた、子守歌の声と、同じ声だった。


     ◇


 木立の幹に、片手をついた。


 膝が、震えていた。


 警備たちは、まだ、扉の前で首をかしげている。

 何も、ないと言っている。

 静かだと。

 何も、動いていないと。


 だが、テオドールの目には、見えていた。


 花の蜜の壺。

 親指の先ほどの、小さな皿と杯。

 細い銀色の鎖。


 搬入口の帳面に書きつけてきた品々が、ひとつ残らず、形を結んだ。


 御伽噺じゃあるまいし、と、あの夜、自分は首を振った。


 御伽噺では、なかった。


「……妖精」


 声に、なっていたかどうかは、わからなかった。


 あそこで歌っていたのは、妖精だった。

第二章 真理の籠

第九十六話 鎖を外す

「二人、ここに残れ」


 ずんぐりとした男が、低く言った。


「温室のまわりを回って、ほかの扉と窓を検めろ。残りは、俺と来い。塔と、本棟に知らせる」


 警備たちが、散っていった。


 残った二人は、角灯を提げて、温室のガラスの壁に沿って、左右に分かれて歩き出した。


 開いたままの正面の扉の前に、誰もいなくなった。


 木立の陰で、息を止めていた。


 入れば、戻れない。

 研究員でさえ入れない場所だ。

 見つかれば、ただでは済まない。


 わかっていた。


 それでも、足が、勝手に動いていた。


     ◇


[学院・温室の中 テオドール]


 温室の中は、湿った土と、甘い蜜の匂いがした。


 扉をくぐった瞬間、ささやき声が、ぴたりと止んだ。


 棚の上の、いくつもの小さな顔が、一斉に、こちらを見た。


 自分も、動けなかった。


 近くで見ると、それは、もう光の粒ではなかった。

 小さな体に、小さな顔。

 小さな手と、小さな足。

 髪が、角灯の灯りを受けて、細い糸のように光っている。

 背中の薄い羽が、怯えたように、ぴたりと閉じられていた。


 人形では、なかった。

 生きていた。


 温室の正面の、椅子の上では、灰色のローブの女が、首を垂れて眠っていた。

 こんな騒ぎの中で、身じろぎもしない。


     ◇


 かちり、と、小さな音がした。


 すぐ手前の棚の、鉢の上だった。


 そちらに目をやった。


 小さな体の足首に、細い輪がはまっている。

 輪から伸びた銀色の鎖の、その継ぎ目。

 留め金が、ひとりでに、外れていた。


 誰も、触れていなかった。


 少なくとも、テオドールの目には、誰も見えなかった。


 留め金には、くすんだ真鍮の筒が、糸で巻きつけてあった。

 その筒の尻から伸びた細い針金が、外れた留め金に引かれて、するすると床の暗がりへ吸い込まれていく。


 その筒に、見覚えがあった。


 十日ほど前、搬入口の帳面に、自分の手で書きつけたのだ。


 ――真鍮の小筒、三十。

 ――針金、一巻。


 何に使うのかもわからずに。


     ◇


 かちり。


 また、別の鉢で、音がした。


 かちり。


 もう一つ。


 見えない誰かが、棚から棚へ、留め金を外して回っている。

 そうとしか、思えなかった。


 鎖を外された小さな体が、自分の足首を見下ろしていた。

 輪は、まだはまったままだった。

 だが、その先の鎖は、もう、どこにもつながっていなかった。


 小さな体は、誰もいない空中に向かって、こくりとうなずいた。


「……うん。行く」


 小さな声だった。


 隣の鉢でも、別の小さな体が、何もない空中に向かって、ささやいていた。


「行く。みんなで、行くって、決めたの」


 テオドールには、その相手の声は、聞こえなかった。

 姿も、見えなかった。

 ただ、小さな者たちが、見えない誰かに、一人ずつ答えていく声だけが、温室の中に、さざなみのように広がっていった。


     ◇


 すぐそばの鉢に垂れていた鎖に、そっと指を触れた。


 細い鎖だった。

 指でつまめば、千切れそうに見える。


 指先が、止まった。


 わずかに、温かい。


 この感触を、知っていた。

 搬入口で、初めてこの鎖を数えた日にも、同じことを思った。

 偽銀に、似ている、と。


 あのときは、気のせいだと思った。


 今は、どうでもよかった。

 これが何の金属でできていようと、これは、この小さな者たちを、ここにつなぎとめておくための鎖だった。


     ◇


 足もとで、小さな気配がした。


 見下ろした。


 手前の棚の、いちばん端の鉢。

 花の杯の縁から、幼い顔が、こちらを見上げていた。


 足首に、白い布が巻かれている。


 その幼い顔が、テオドールを見て、引きつった。


 小さな体が、花の杯の奥へ、身を縮めた。

 震えている。

 羽が、花びらの陰で、小刻みに揺れていた。


 人間だ。

 この子にとって、自分は、ここを守る側の人間なのだ。


 今、ここで、声を上げることができた。


 外には、警備の者が二人いる。

 大声で呼べば、すぐに駆けつけてくる。

 見えない誰かが、ここで何をしているのか、学長に知らせることができる。


 学院の研究員として、そうするのが、正しいことのはずだった。


     ◇


「おい」


 扉の外から、声がした。


 びくりと振り返った。


 警備の一人が、角灯を提げて、正面の扉の前に立っていた。

 梟の面の、ガラスの目が、テオドールに向けられている。


「……シュミットか? 搬入口の帳面係の」

「は、はい」

「何をしている。ここは、研究員の入る場所じゃないぞ」


 テオドールは、口を開いた。


 声が、出なかった。


 背後で、かちり、と、また留め金の外れる音がした。


 警備の男は、温室の中を、面のガラスの目でぐるりと見回した。

 棚の上の、小さな者たちの上を、その目が素通りしていく。

 何も、見えていないのだ。


「中に、何か、あったのか」


 背後の、花の杯の奥で震えている小さな体のことを、思った。


 君の関知するところではない。


 あの声も、思った。


 息を吸った。


「……異常、ありません」


 自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。


「扉が開いていたので、のぞいてみただけです。鉢も、いつもどおりです。番の方も、眠っておられます」


 警備の男は、しばらく、テオドールの顔を見ていた。


 それから、肩をすくめた。


「なら、さっさと出ろ。見つかったら、俺まで叱られる」


 男は、角灯を揺らしながら、ガラスの壁に沿って、また歩いていった。


     ◇


 その場に立ち尽くしていた。


 手のひらが、汗でびっしょりだった。


 背後で、かちり、という音は、まだ続いていた。


 そして、やがて、止んだ。


 温室の中が、しんと静まった。


 ゆっくりと振り返った。


 小さな者たちが、温室の真ん中の、いちばん広い棚の上に、集まっていた。


 二十か、三十か。

 どの足首にも、輪だけが残っている。

 互いに手を取り合い、羽と羽を寄せ合って、ひとかたまりになっていた。


 その中に、白い布を巻いた、あの幼い顔があった。


 幼い顔は、もう、震えていなかった。

 テオドールを、じっと見ていた。


 それから、小さな手を、ほんの少しだけ、振った。


     ◇


 次の瞬間、棚の上が、空になった。


 光も、音もなかった。


 ひとかたまりの小さな体が、まるで、夜の空気に溶けるように、ふっと消えた。


 あとには、何も残っていなかった。


 花の咲いた鉢。

 蜜を盛った小さな皿。

 床を這う、何本もの細い銀色の鎖。

 その先には、もう、何もつながっていない。


 空になった棚の前で、膝から崩れるように、座り込んだ。

第二章 真理の籠

第九十七話 返してもらっただけだ

[学院・本棟の奥の応接室 学長]


 窓の外は、静かだった。


 筒は、鳴らない。

 鈴の知らせも、来ない。


 窓から目を戻した。


 向かいの男は、椅子の背にゆったりと身を預けたまま、蝋燭の炎を眺めていた。

 退屈そうにも見えた。

 何かを待っているようにも見えた。


 一段ずつ、積み上げていくもの。


 その言葉が、まだ、耳の奥に残っていた。

 百数十年前に絶えたはずの、あの者たちの言い草だった。


「……売り手殿」


 口を開きかけたときだった。


 男が、ふと、首をかしげた。


 誰もいない肩口のほうへ、ほんのわずかに耳を傾けるような仕草だった。

 それから、口の端が、かすかに上がった。


     ◇


 廊下で、足音が乱れた。


 扉が、乱暴に叩かれた。


「が、学長!」


 返事を待たずに、扉が開いた。

 ずんぐりとした男とエルンストが、梟の面を額に押し上げたまま、肩で息をしていた。

 エルンストの顔は、青かった。


「申し上げます。塔の鈴が……鈴の板が、すべて、鳴りました」

「すべて」

「はい。それで、庭を、検めましたところ」


 ずんぐりとした男は、言葉に詰まった。


 エルンストが、代わりに言った。


「庭が、空です。鉢の上に、一つも、残っておりません」


     ◇


 その言葉の意味が、すぐにはわからなかった。


 空。


 鉢の上に、一つも。


 あれらが。


 百数十年前、各国の学院からこの学院へ集められ、それからずっと、この庭で育て、守り、増やしてきた、あれらが。


 ゆっくりと、向かいの椅子を振り向いた。


 男は、もう、立ち上がっていた。


 いつ立ったのか、わからなかった。

 夜色の外套の裾が、蝋燭の灯りの中で、静かに揺れていた。


 赤い目が、学長を見下ろしていた。


「貸していたものを」


 男は、穏やかに言った。


「返してもらっただけだ」


     ◇


 学長の手が、卓の縁をつかんだ。


 指が、白くなるほど、強く。


「……あれは」


 声が、出た。


 自分の声とは、思えなかった。

 かすれて、震えて、ひどく年老いた声だった。


「あれは、この大陸に残された、ただ一つの庭であったものを」


 男の目が、わずかに動いた。


 何かを、確かめたような目だった。


 自分が何を口にしたのかに、遅れて気づいた。


 長い年月のあいだ、誰の前でも崩したことのない顔が、今、崩れている。

 この男の前で。

 よりにもよって、この男の前で。


     ◇


「捕らえよ」


 立ち上がった。


「その者を、捕らえよ!」


 エルンストとずんぐりとした男が、腰の剣に手をかけて、部屋に踏み込んだ。

 廊下からも、梟の面の者たちが、なだれ込んでくる。


 男は、動かなかった。


 ただ、窓のほうへ、目をやった。


 そのとき、窓の外で、怒号が上がった。


「何だ、貴様らは!」

「どけ!」


 金属のぶつかり合う音。

 植え込みの枝が、折れる音。

 誰かが、石畳に倒れる音。


 梟の面の者たちが、一斉に、窓のほうを振り向いた。


     ◇


 窓に駆け寄った。


 本棟の前の中庭に、見知らぬ男たちが、なだれ込んでいた。


 十人か、それ以上。

 黒っぽい、目立たない身なり。

 顔の下半分を、布で覆っている。

 手に手に、短い棍棒や、鞘に入ったままの剣を提げていた。


 その先頭に、岩のような体つきの、首の太い大男がいた。


 正門のほうから、角灯の列を蹴散らして、まっすぐに本棟へ向かってくる。

 植え込みの陰にいた梟の面の者たちが、慌ててその前に立ちふさがった。


 棍棒と剣の鞘が、角灯の光の中で、にらみ合った。


「学院の者か」

「貴様らこそ、何者だ」

「どこの手の者だ」


 誰も、答えなかった。


 見知らぬ男たちの後ろのほうで、誰かが、低く叫んだ。


「研究室は、どっちだ。本棟の上だと聞いたぞ」


 古参派の警備も、見知らぬ男たちも、相手が何をしに来たのか、わかっていなかった。


 学長には、わかった。


 あの粉だ。


 あの小瓶を、返していただくように。

 公爵の家令の、くどいほどの念押しが、耳によみがえった。


 新参どもが、取り返しに来たのだ。

 よりにもよって、今夜に。


     ◇


「学長、あの男が!」


 エルンストの声に、振り向いた。


 応接室の扉が、開いていた。


 黒い外套の男が、廊下を、悠然と歩いていた。

 誰も、止められなかった。

 梟の面の者たちは、窓の外の騒ぎと、廊下の男とのあいだで、どちらへ動けばいいのか迷っている。


 男を追って、廊下へ出た。


 男は、本棟の玄関から、石段を降りていった。


 中庭の、角灯の灯りの真ん中へ。

 にらみ合う、二つの群れのあいだへ。


 棍棒を構えた見知らぬ男たちが、ぎょっとして、足を止めた。

 先頭の大男が、黒い外套の男を見て、細い目を、かっと見開いた。


「てめえ……!」


 黒い外套の男は、大男のほうを、ちらりとも見なかった。


     ◇


[学院・本棟の石段 学長]


 男は、石段の上の学長を、振り返った。


 角灯の灯りが、男の白い顔と、赤い目を、照らしていた。


 エルンストに向かって叫んだ。


「面で、見よ! その男を、見失うな!」


 エルンストが、額に押し上げていた梟の面を、引き下ろした。


 その瞬間だった。


 男の姿が、揺らいだ。


 角灯の炎が、風に揺れるように。

 水面に映った影が、さざなみに崩れるように。


 夜色の外套の輪郭が、闇に溶けていく。


「……映りません」


 エルンストの声が、かすれた。


「熱が……消えました。面に、何も、映りません」


 男が立っていたはずの場所には、何もなかった。


 角灯の光が、空っぽの石畳を、照らしているだけだった。


     ◇


 中庭は、静まりかえっていた。


 梟の面の者たちも、見知らぬ男たちも、得物を下ろすのを忘れて、立ち尽くしていた。


 石段の上で、動けなかった。


 鈴は、すべて鳴った。

 留め金は、確かに外された。

 それなのに、筒は、一度も鳴らなかった。

 面には、最後まで、何も映らなかった。


 そして今、男は、面の目の前で、熱ごと消えた。


 夜空を見上げた。


 雲の切れ間に、星がいくつか、光っていた。


 その下を、小さな鳥が一羽、学院の上を横切って、東の空へ飛び去っていった。


 その小さな影が、闇に溶けて見えなくなるまで、ずっと、見上げていた。

第二章 真理の籠

第九十八話 小鳥と木の実

[学院・学長室 学長]


 窓の外が、白みはじめていた。


 学長室の卓の上には、報告の束が積まれていた。

 その横に、分厚い革の装丁の本が一冊、開かれている。


『シュタインマルク諸邦口承説話集成』。


 書架のいちばん上の段から、学長自ら取り出したものだった。

 背の金の型押しは、すっかり擦り切れている。

 いつ、誰が古本屋から買い上げたのかもわからないまま、一度も開かれずにいた本だった。


 その一篇を、もう三度、読み返していた。


『消えた妖精の森』。


     ◇


 ――昔、人の国の森にも、妖精が住んでいた。


 ――妖精の女王の粉は、人に若さを与えると言われた。


 ――ある国の王が、老いを恐れた。

 ――王は、女王の住む森へ兵を差し向け、女王をさらって、宮の奥の籠に閉じ込めた。

 ――女王の粉を、毎夜、王の杯に落とすために。


 ――そのとき、一羽の小鳥が、宮の窓から舞い込んだ。

 ――小鳥は、ロキであった。

 ――ロキは、籠の中の女王を、一粒の木の実に変えた。

 ――そして、その木の実をくわえて、夜の空へ飛び去った。


 ――その夜を境に、人の国の森から、妖精は一人残らず消えた。


 本から目を上げた。


 窓の外の、明けかけた空に、ゆうべの小さな影が、まだ焼きついている気がした。


     ◇


 ロキは、妖精の味方だ。


 そう、声に出さずに思った。


 この本は、学院の書庫にも、学長室の書架にも、ずっとあった。

 だが、グラウクスの者で、これを真面目に読んだ者はいなかった。

 学生たちが、慰みに借りていくことはあっても。

 御伽噺は、平民の子どもが寝る前に聞くものだ。

 真理を求める者が、目を通すようなものではない。


 あの粉が、闇の中で光る。

 御伽噺に書かれていたその初歩の初歩を、平民の研究員に教えられたばかりだというのに。


 自分の手に目を落とした。


 老いを恐れた王。

 女王の粉を、毎夜、杯に落とした王。


 手を、ローブの袖の中にしまった。


     ◇


 学長の指が、一つの行の上で、止まった。


 ――王に、女王の森の在りかを教えたのは、誰であったか。

 ――それを知る者は、ない。


 物語の終わりに、ぽつりと添えられた一節だった。

 語り手が、首をかしげたまま書き残したような、収まりの悪い一行。


 妖精の森は、人には見つけられない。

 御伽噺は、どれもそう語る。

 それなのに、王は、女王の森へ兵を差し向けることができた。


 誰かが、教えたのだ。


 その一行を、長いあいだ見つめていた。

 答えは、どこにも書かれていなかった。


     ◇


 本を閉じて、報告の束を引き寄せた。


 エルンストの、たどたどしい字。


 塔の鈴の板は、すべて鳴った。

 留め金は、一つ残らず、確かに外されていた。

 それなのに、塀の筒は、一度も鳴らなかった。

 梟の面には、庭の中にも、まわりにも、最後まで何も映らなかった。


 報告の紙を、卓に置いた。


 あり得ないことだった。


 姿を消す幻なら、筒の音は欺けない。

 筒の音を欺く何かがあったとしても、面の目は欺けない。

 魔法で姿を隠しただけの者なら、どちらかには、必ずかかる。


 あの庭のからくりは、グラウクスの叡智を集めて、何十年もかけて組み上げたものだ。

 音の跳ね返り。

 目に見えぬ、熱の光。

 その仕組みを知らぬ者に、欺けるはずがない。


 仕組みを、知っていたのだ。


     ◇


 窓辺に立った。


 ゆうべ、あの男は、何と言ったか。


 一段ずつ、積み上げていくものでしょう。


 そして、ずっと前、騎士団の会議で、あの男は、分隊長の顔でこう言ったという。


 真理、ですか。

 愚かにも、まだ名乗っているのですね。


 目を閉じた。


 アトモスの、その先。

 原子を割れば、さらに小さな粒。

 強い力、弱い力。

 雷と磁石を、ひとつの名で呼んだこと。


 あの男は、それを、当然のことのように口にした。

 グラウクスが、まだ手の届かぬところを、あたりまえの景色のように。


 一足飛びに真理を名乗る愚かさを笑い、地道な積み上げを説いた、あの者たち。

 グラウクスを、表の世界から追い落とした、あの者たち。

 百数十年前に、絶えたはずの。


「……バトモスも、そこまで至ったか」


 声に出していた。


     ◇


 ロキ。


 あれは、名をかたっているだけではないのか。


 御伽噺の神の名を借りて、人目をそらす。

 その陰で、絶えたはずのバトモスの残党が、ひそかに積み上げを続けていた。

 そう考えるほうが、学者としては、よほど筋が通る。


 だが。


 卓の上の、閉じた本に目をやった。


 小鳥。

 木の実。

 籠の中の女王。


 ゆうべ、学院の上を、東へ飛び去っていった、小さな影。


 バトモスが、妖精を取り戻す理由が、どこにある。


 窓辺に立ったまま、二つの見立てのあいだで、動けなかった。


     ◇


 扉が叩かれて、片眼鏡の教授が入ってきた。


 一睡もしていない顔だった。


「新参の手の者どもは、研究室にたどり着く前に、退きました。小瓶は、無事です。……捕らえた者は、口を割りませんが、公爵家の差し金と見て相違ありません」


 窓の外を見たまま、うなずいた。


 新参どもは、粉を取り返そうとして、グラウクスの学院に、刃を持って踏み込んだ。

 もう、冷笑で済む話ではなかった。


「それから、学長。研究員のシュミットが、騒ぎのさなか、庭の中にいたそうです。警備の者が見とがめたところ、異常なし、と答えたと」


 教授は、言いにくそうに続けた。


「その直後に、庭が空になりました。何かを見ていたはずです。問いただしますか」


 学長は、しばらく黙っていた。


「……捨て置け」

「は」

「今は、それどころではない」


 教授は、何か言いたげに口を開いて、閉じた。

 深く一礼して、出ていった。


     ◇


 夜が、明けた。


 窓の外の空が、白から、淡い青に変わっていく。

 中庭のガラスの屋根が、朝の光を受けて、白く光っていた。


 その下には、もう、何もいない。


 袖の中の手を、強く握った。


 あの男は、何者なのか。

 ロキなのか。

 バトモスの後裔なのか。

 何を知り、どこまで至っているのか。


 何ひとつ、わからなかった。


 わからないまま、終わらせるわけにはいかなかった。


「あの男に」


 明けていく空に向かって、低く言った。


「もう一度、会わねばならん」

第二章 真理の籠

第九十九話 名前

[王都の外れの丘 学]


 景色が、ぐにゃりと歪んだ。


 次の瞬間、足の裏に、夜露に濡れた草の感触があった。


 王都の外れの、なだらかな丘だった。


 東の空が、ほんのりと白みはじめている。

 丘のふもとには、羊の囲いがいくつか、黒い影になって並んでいた。

 振り返ると、遠くに、王都の城壁と、その内側にそびえる学院の塔が、小さく見えた。


 大きく息を吐いた。


 膝が、今になって、がくがくと震えはじめた。


「……生きてる」

「当たり前でしょ。あたしがついてたんだから」


 肩の上で、モナが、ふんと鼻を鳴らした。


     ◇


 丘のてっぺんの、大きな岩の陰に、小さな光が、いくつも集まっていた。


 二十か、三十か。


 岩の上に、草の葉の上に、夜露の玉の上に。

 小さな体たちが、身を寄せ合って、空を見上げていた。


 足首には、まだ、細い輪がはまっている。

 だが、その先に、もう鎖はなかった。


 学の足音に、小さな顔が、一斉にこちらを向いた。


「あ」

「来た」

「黒い外套の人だ」

「妖精の友の人だ」


 岩の前で足を止めた。


 黒い外套。

 撫でつけた黒髪。

 赤い目。


 この子たちが知っているのは、この姿だけだった。


 少し考えてから、指を、ぱちんと鳴らした。


     ◇


 夜色の外套が、ほどけるように消えた。


 撫でつけた黒髪が、手入れの甘い、くたびれた髪に戻る。

 冷たく光っていた赤い目が、どこにでもある、眠たげな目に。

 白く冷たい顔が、少しくたびれた、人のよさそうな顔に。


 そこに立っていたのは、身なりだけはいい、どこにでもいる、冴えない四十半ばのおっさんだった。


 岩の上の小さな体たちが、ぽかんと口を開けた。


「……だれ?」

「黒い人は?」

「おじさんに、なった」


 モナが、肩の上で、腹を抱えて笑い出した。


「こっちが、ふだんの顔よ。あっちは、よそ行き」

「よそ行き」

「格好つけるときの顔ってこと」

「……まあ、そういうことだ」


 頭をかいた。


「こっちのほうが、楽なんだよ。肩がこらない」


     ◇


 羽の色のいくぶん深い妖精が、岩の上から、ふわりと降りてきた。


 年かさの妖精だった。


 年かさの妖精は、学の顔を、しげしげと見上げた。

 それから、ふっと笑った。


「どっちの顔でも、同じ目をしてるね」


 学は、何と答えていいかわからなかった。


 年かさの妖精は、小さな両手を胸の前で重ねて、深く頭を下げた。


「ありがとう。……人間に、礼を言うのは、生まれて初めてだよ」


 学は、慌ててしゃがみ込んだ。


「いや、僕は、学長の前で座ってただけで。やったのは、ほとんどモナで」

「あんたも、ちゃんとやったわよ」


 モナが、珍しく、まじめな声で言った。


「あんたが、あの学者を引きつけてなかったら、無理だった」


     ◇


「それにしても」


 ずっと気になっていたことを、口にした。


「よく、留め金が外せたな。あれ、金切りばさみでも切れなかったんだぞ」


 モナは、待っていましたとばかりに、胸を張った。


 それから、小さな手で、何かを掲げてみせた。


 小さな鍵束だった。

 モナの体の半分ほどもある輪に、小さな鍵が、いくつも付いている。


「あの留め金、鍵穴がついてたのよ。気づいてた?」

「……気づいてなかった」

「でしょうね」


 モナは、得意げに鍵束を振った。


「番の女が、腰にこれを提げてたの。だから、まわりの音も、何も感じないようにして、ぐっすり眠らせといたのよ。で、その隙に、拝借したってわけ」

「……番の人がいたのに、騒ぎにならなかったのは、それか」

「そういうこと。夢も見ないくらい、ぐっすりよ」


 学は、苦笑した。


 鍵穴にも気づかず、金切りばさみで力任せに挑んでいた自分が、少し恥ずかしかった。


     ◇


「ほかにも、捕まってる仲間は、いるのか」


 年かさの妖精に尋ねた。


 学長の、あの声が、まだ耳に残っていた。


 この大陸に残された、ただ一つの庭。


 年かさの妖精は、少し考えてから、首を振った。


「わたしの母さんの代にね、ほかの土地で捕まっていた仲間のうち、生き残った者は、みんな、あそこへ運ばれてきたそうだよ。遠くから、箱に入れられて。……だから、ほかには、もう、いないはずさ」


 ゆっくりと息を吐いた。


 ただ一つの庭。

 みんな、あそこへ。


 二つの言葉が、ぴたりと重なった。


 これで、全部だったのだ。


     ◇


 岩の陰から、小さな影が、そっと飛び出してきた。


 足首に、白い布を巻いている。


 二十一番だった。


 幼い妖精は、学の肩の上のモナの前まで飛んでくると、もじもじと手をすり合わせた。

 それから、意を決したように、顔を上げた。


「ねえ」

「なあに」

「わたしにも、番号じゃない呼び方がある?」


 モナは、目を見開いた。


 それから、学の肩から降りて、幼い妖精と並ぶように、草の葉の上に立った。


     ◇


 そのとき、丘の上を、風が吹き抜けた。


 夜明け前の、ひんやりとした風だった。

 草の葉が、一斉にそよいだ。

 夜露の玉が、こぼれて光った。


 幼い妖精の髪が、ふわりと持ち上がった。


 幼い妖精は、目を丸くして、空を見上げた。


 天井が、なかった。


 ガラスの屋根も、鉢も、鎖もない。

 ただ、白みはじめた空が、どこまでも、どこまでも続いていた。


 その頬を、風が、もう一度なでていった。


「……これが、風?」


 モナは、黙ってうなずいた。


 それから、幼い妖精の両手を、そっと取った。


「アウラ」


 モナは、静かに言った。


「古い言葉で、そよ風、って意味よ。あんたの名前。あたしが、あんたに贈るわ」


 幼い妖精は、まばたきをした。


「アウラ」


 小さな唇が、その名前を、確かめるように繰り返した。


「……アウラ」


 モナは、少しだけ、まじめな顔になった。


「いい? 妖精が名前を贈るのって、特別なことなんだからね。大事にしなさいよ」


     ◇


 少し離れたところで、その様子を見ていた。


 ほんの四か月ほど前、果ての大陸の森のはずれで、同じ言葉を聞いた。


 シモン。

 大事にしなさいよ。


 胸の奥が、じんわりと暖かくなるのを感じた。


 アウラの羽が、淡く光っていた。


 子供っぽいなどと、誰も思わない。

 ほかの小さな体たちも、つられたように、一つ、また一つと、光りはじめた。

 丘の上が、蛍の群れでも舞い降りたように、ぼうっと明るくなった。


 モナの羽も、光っていた。


 モナは、隠そうともしなかった。


     ◇


 東の空の端が、金色に染まりはじめた。


 モナが、羽を、ぴんと広げた。


 岩の上の、草の上の、夜露の上の、光る小さな体たちを、ぐるりと見回す。


「帰るわよ」


 モナは、言った。


「みんなで」

第二章 真理の籠

第百話 故郷の森

[果ての大陸・妖精の森 学]


 視界が、白く弾けた。


 今度ばかりは、モナも、派手にやりたかったらしい。

 光の粒が、雪のように降りそそぎ、それが、ゆっくりと晴れていった。


 最初に届いたのは、匂いだった。


 湿った苔。

 むせかえるほどの、花の香り。

 朝露を含んだ、濃い緑の匂い。


 それから、音。


 葉擦れ。

 どこか遠くの、水の流れ。

 名前も知らない鳥たちの、いくつもの声。


 目を開けた。


 見上げるほどの大樹が、枝を幾重にも重ねていた。

 その葉のすき間から、朝の光が、細い糸のように垂れている。

 足もとには、淡く光る苔。

 人の頭ほどもある花が、あちこちで、ゆっくりと開きはじめていた。


 果ての大陸の、妖精の森だった。


     ◇


 学の肩のまわりで、小さな体たちが、息をのむ気配がした。


 誰も、声を出さなかった。


 三十ほどの小さな顔が、そろって、上を見ていた。


 天井が、なかった。


 枝と葉のずっと上に、空があった。

 丘の上で見た、白みかけた空ではない。

 朝の光をいっぱいに含んだ、どこまでも深い、青い空だった。


「……これが」


 誰かが、かすれた声で言った。


「これが、森」


     ◇


 アウラが、学の肩から、ふらりと飛び立った。


 最初は、おそるおそるだった。

 足首には、まだ細い輪がはまっている。

 その先に、もう鎖はない。

 それなのに、アウラは、何度も足首を振り返った。

 どこまで飛べば、引き戻されるのか、確かめるように。


 引き戻されなかった。


 アウラは、大樹の幹に沿って、上へ、上へと昇っていった。


 枝をくぐり、葉の天井を抜けて、その上の空へ。


 朝の光の中で、小さな体が、きらりと光った。


 やがて、アウラは、ゆっくりと降りてきた。

 学の目の前の、花の上に、ふわりととまる。


 その顔が、不思議そうに、首をかしげていた。


「ねえ。体が、軽いの」

「軽い?」

「うん。ずっと、何か背負ってたみたいだったのに。ここに来たら、それが、なくなったの」


 アウラは、自分の手のひらを、じっと見下ろした。


「なんでだろう」


 学には、わからなかった。


 ただ、モナが、少しだけ目を伏せたのが、見えた。


     ◇


 森の奥から、羽音が近づいてきた。


 一つ、二つ、十、二十。


 枝の陰から、葉の陰から、花の陰から、森の妖精たちが、次々に飛び出してきた。


「モルガーナだ」

「モルガーナが帰ってきた」

「マーナもいる」

「……だれ、その子たち?」


 森の妖精たちが、ぴたりと止まった。


 学のまわりに、足首に輪をはめた、見知らぬ三十の小さな体。


 森の妖精たちと、温室から来た妖精たちが、宙に浮いたまま、互いに、まじまじと見つめ合った。


     ◇


「おや」


 うろのある大樹のほうから、落ち着いた羽音がした。


 羽の色のいくぶん深い、年かさの妖精だった。

 この森の、粉の器を守っている、あの妖精だ。


 うろの年かさの妖精は、見知らぬ小さな体たちを、一人ずつ見回した。


 足首の、細い輪。

 薄く、どこか色の淡い羽。

 空を見上げたまま、まだ口を閉じられずにいる顔。


 それから、モナを見た。


「……モルガーナ。この子たちは」


 モナは、口を開いた。


 人の国の学院のこと。

 ガラスの屋根の温室のこと。

 花の杯の寝床と、細い銀色の鎖と、番号のこと。

 妖精の粉が、毎夜、刷毛で集められていたこと。


 モナは、淡々と話した。

 声を荒らげることも、言葉に詰まることもなかった。


 うろの年かさの妖精は、一度も口を挟まなかった。


     ◇


 モナが、話し終えた。


 うろの年かさの妖精は、何も言わなかった。


 人の国の森には、もう仲間はいない。

 ずっと昔に、みんな引き上げた。


 前に来たとき、この妖精は、当たり前のことのように、学にそう言った。


 その「ずっと昔」から、ずっと。


 うろの年かさの妖精は、口を開きかけた。

 閉じた。

 もう一度、開きかけて、やめた。


 羽の深い色が、小さく震えていた。


 温室から来た年かさの妖精が、そっと、その前に進み出た。


 二人の年かさの妖精が、向かい合った。


 温室から来たほうが、深く頭を下げた。


「わたしの、おばあさんの、そのまたおばあさんたちから、ずっと聞いていました。森のことを。天井のない空のことを」


 うろの年かさの妖精は、何も言わずに、その小さな体を、両腕で抱きしめた。


     ◇


 学とモナは、少し離れた倒木の上に、並んで腰かけていた。


 森の妖精たちが、温室から来た妖精たちのまわりに、少しずつ集まっていく。

 最初は、遠巻きに。

 それから、近くに。


 花の蜜を運んでくる者。

 苔の上に寝転んで、空を指さしてみせる者。

 足首の輪を、不思議そうに指でつつく者。


 アウラは、森の妖精の子どもたちに囲まれて、何か、しきりに話していた。

 ドラゴン、という言葉が、何度か聞こえた。


 倒木の上で、大きく伸びをした。


 背中が、まだ、少し痛かった。


「……で」


 空を見上げたまま言った。


「今回は、悪戯じゃなかったな」


 モナは、隣で、膝を抱えていた。

 それから、くすりと笑った。


「そうね。今回は、ね」


 学は、横目でモナを見た。


 モナは、いつもの、いたずらっぽい顔をしていた。


 それ以上は聞かなかった。

 聞いたところで、どうせ、はぐらかされるに決まっている。


     ◇


「マーナ、顔!」


 森の妖精の子どもが、一人、学の目の前まで飛んできて、鼻の頭を指さした。


「顔が、また違う」


 学は、自分の顔に手をやった。


 この森に着くと、いつもの癖で、幻を解いてしまっていた。

 四十半ばのおっさんの顔ではなく、若返った、素のままの顔に。


 温室から来た妖精たちが、ぽかんと口を開けて、こちらを見ていた。


「……また、顔が変わった」

「黒い人、おじさんになって、また違う人になった」

「どれが、ほんと?」


 モナが、倒木の上で、腹を抱えて笑い転げた。


 学は、頭をかいた。


「……ここでは、これでいいんだよ」


     ◇


 日が高くなるころ、倒木から立ち上がった。


「さて。僕は、王都に戻るよ」


 モナが、顔を上げた。


「もう? 一晩くらい、泊まっていけばいいのに」

「そうしたいけど」


 森の向こうの、ずっと遠い空を見た。


 王都では、学長が、きっと今ごろ、頭を抱えている。

 公爵も、何かを企んでいるだろう。

 テオドールが、あの夜、夜番でなくてよかった。


 それに。


「カタリナさんに、何も言わずに、出てきちゃったしな」


 モナは、ふうん、と鼻を鳴らした。


 それから、羽を広げて、学の肩の上に戻ってきた。


「しょうがないわね。送ってあげる、相棒」

第二章 真理の籠

第百一話 三つの思惑

[学院・学長の研究室 学長]


 学長の研究室に、三人の教授が呼び集められたのは、その日の夕刻だった。


 片眼鏡をかけた、痩せた男。

 指先が薬品で黒く染まった、小柄な女。

 背を丸めた、禿頭の老人。


 誰も、口を開かなかった。


 窓の下には、ガラスの屋根が、夕日を受けて赤く光っていた。

 その下に、もう何もいないことを、四人とも知っていた。


     ◇


「ロキが、あれらを取り戻しに来た」


 静かに言った。


 片眼鏡の教授が、顔を上げた。


「取り戻しに、とは」

「『消えた妖精の森』を、読み返した」


 卓の上の、分厚い革の装丁の本に、指を置いた。


「老いを恐れた王が、妖精の女王を籠に閉じ込めた。ロキは小鳥に化けて、女王を連れ去った。その夜を境に、人の国から妖精は消えた。……昨夜と、同じだ」


 禿頭の老人が、鼻を鳴らした。


「御伽噺でございますぞ、学長」

「我らは、その御伽噺の初歩を、若年の研究員に教えられたばかりだ」


 老人は、黙った。


     ◇


「調べよ」


 短く言った。


「御伽噺に語られるロキの話を、残らず集めよ。リンデマンの元の版だけではない。各国の学院の書庫に眠る、口伝えの写しも。ロキと妖精が、どこで、どう結ばれているのか」


 指先の黒い女が、帳面にペンを走らせた。


「それから」


 窓の外に目をやった。


「バトモスを、洗え」


 三人の教授が、息をのんだ。


「……バトモス、ですか。あれは、とうに」

「絶えた、はずだ」


 振り向かなかった。


「だが、あの男は、バトモスの言い草を口にした。そして、我らの庭のからくりを、仕組みごと欺いた。我らの知らぬ、力の名まで知っていた。……絶えたはずの者たちが、どこかで、積み上げを続けていたのかもしれぬ。調べよ。百数十年前の記録から、すべて」


     ◇


 三人が出ていったあと、研究室の奥の戸棚を開けた。


 鍵のかかった、小さな引き出し。

 その中に、指の先ほどの硝子の小瓶が、いくつか並んでいた。


 その小瓶の数を、一つ、二つと、数えた。


 数え終えて、引き出しを閉めた。


 鍵を回す指が、わずかに震えていた。


 窓の外で、夕日が沈んでいった。


 新参どもは、今も、銀貨を数えているだろう。


 もう、それを笑う気にはなれなかった。


     ◇


[王都・ゴルトシュタイン公爵の屋敷の書斎 公爵]


 同じ夕刻、書斎で、一通の手紙を読んでいた。


 封の蝋には、何の紋も刻まれていない。

 いつものところから、届いたものだった。


 ――品は、取り戻せず。

 ――学院の中庭にて、学院の警備と行き合い、退く。

 ――一人、捕らわる。

 ――学院の者ども、何かを奪われたと、ひどく騒いでおり候。

 ――庭、庭、と叫ぶ声あり。

 ――黒い外套の男、中庭に現れ、目の前にて消ゆ。


 手紙を、ゆっくりとたたんだ。


     ◇


 飾り棚の、空の台に、目をやる。


 小瓶は、戻らなかった。

 戻らなかったばかりか、学院の奥で、何かが奪われた。

 その夜、黒い外套の男が、学院に現れていた。


 学院が、正門から招いた男だ。


 窓辺に立った。


 東の空の下に、学院の塀が、黒く沈んでいる。


 あの学者は、ロキと、何を取り交わしたのか。


 仲立ちを経ずに、売り手と直に。

 言い値で、粉を買う。

 そして、その夜、学院の奥から、何かが消えた。


 公爵の中で、いくつもの話が、一つにつながっていった。


 あの学者は、ロキに、粉の出どころごと、くれてやったのではないか。

 こちらに渡さぬために。

 ロキと組んで、こちらの手の届かぬところへ、粉を隠すために。


     ◇


 自分の手を見た。


 しみの浮いた手。

 太くなった指の節。


 あの学者どもは、年を取らない。

 こちらには、一度も分けようとしなかった。

 鑑定は途上だと、嘘をつき続けた。

 そして今、粉そのものを、ロキの手に渡した。


 確証は、なかった。


 だが、自分には、もう確証など要らなかった。


 たたんだ手紙を、暖炉の火の中に放り込んだ。


 紙が、黒く縮れて、燃え上がった。


「……学者どもめ」


 炎を見つめる公爵の目は、笑っていなかった。

 口もとも、もう、笑ってはいなかった。


     ◇


[王宮・王の執務室 宰相]


 翌日の昼、一束の報告書を携えて、王の執務室を訪ねた。


 王は、窓辺の椅子で、書状に目を通していたところだった。


「陛下。学院の件で、ご報告がございます」

「申せ」


 眼鏡をかけ、報告書をめくった。


「半月ほど前の夜、学院の上空に、嵐のようなものが現れたとの報せがございました。枝の一本も折れず、葉の一枚も落ちていない嵐でございます。……そして、おとといの夜。学院の中庭に、覆面をした男たちが踏み込み、学院の警備と揉み合いになりました。その男たちは、公爵家の手の者と見て、まず間違いございません」


 王の眉が、わずかに動いた。


「ゴルトシュタインが、学院に」

「何かを、取り返そうとしたようでございます。学院の側も、何かを奪われたと、大騒ぎをしておりますが、何を奪われたのかは、決して口にいたしません」


 一枚の紙を、王の前に置いた。


「そして、その夜。学院の中庭に、黒い外套の男が現れ、皆の目の前で、消えたそうでございます」


     ◇


 王は、その紙を、しばらく見つめていた。


「……あの男か」

「おそらく」


 眼鏡を外した。


「陛下。あの男が現れた場では、必ず、何かが暴かれております。贋金の企み。御前会議での、ハーゼンバッハの偽り。そして今度は、学院と公爵家の、何かは存じませんが、隠されていたもの」


 言葉を選ぶように、少しだけ間をおいた。


「暗部の調べでも、あの男の素性は、いまだ何ひとつ、つかめておりません。どこの誰かも、わかりません。何を欲しているのかも、わかりません。……ですが、それは、裏を返せば」


 王が、こちらを見た。


「ナハトラーベの家は、素性が知れ渡ったがゆえに、滅びました」


 静かに言った。


「あの男は、夜会で、自らナハトラーベを名乗りました。……陛下。あの男を、ナハトラーベとして、取り込めないものでしょうか」


     ◇


 執務室が、静まりかえった。


 王は、窓の外に目をやった。


 王都の屋根の向こうに、学院の塔が、小さく見えた。


「コンラート」

「は」

「そなたにしては、ずいぶんと、大胆な話だ」

「名に負けぬよう、心がけておりますので」


 王は、小さく笑った。


 それから、また、窓の外を見た。


「……あの男が、首を縦に振るかどうかだな」

第二章 真理の籠

第百二話 粉の売り手、シモン殿

[王都・琥珀の灯亭 学]


 琥珀の灯亭の扉をくぐると、香草の香りが、ふわりと学を包んだ。


 奥のソファー席に、見慣れた背中があった。


 黒髪を、高い位置で一つに束ねている。

 騎士団の制服の、襟もとだけをゆるめて、杯を両手で包んでいた。


 近づくと、カタリナは、顔を上げた。


「シモン殿」


 その声が、ほんの少しだけ、弾んで聞こえた。


「戻られたのですね」

「ええ。昨日の昼に」


 向かいの席に腰を下ろした。


 肩の上で、モナが、くすりと笑った。


     ◇


 鶏の焼き物が、湯気を立てて運ばれてきた。


 皿に手を伸ばした。


 香草の香り。

 塩。

 今日は、その奥に、ほんのりと蜂蜜の甘さがあった。


「……お知り合いは、迎えられましたか」


 カタリナが、杯を置いて、尋ねた。


 鶏を口に運ぶ手を、止めた。


 丘の上の、夜明けの風。

 空を見上げたまま、口を閉じられずにいた、三十の小さな顔。

 アウラ、と、確かめるように繰り返した、小さな唇。


「ええ」


 笑った。


「みんな、帰りました」


 カタリナは、学の顔を、しばらく見ていた。


 それから、ふっと、口もとをゆるめた。


「それは、よかった」


     ◇


「そういえば」


 カタリナは、声を少しだけ落とした。


「学院で、妙な騒ぎがあったそうです。騎士団でも、噂になっています」

「騒ぎ、ですか」

「夜中に、学院の中庭に、賊が入ったとか。学院の警備と揉み合いになって、一人、捕らえられたそうです。けれど、学院の側は、騎士団に引き渡そうとしないのです」


 カタリナは、眉を寄せた。


「学院の中は、ひっくり返したような騒ぎなのに、何を盗られたのかと尋ねても、何も盗られていない、の一点張りで。妙に口が堅い。分隊長は、どこか高い筋が絡んでいるのだろう、と」

「……へえ」


 葡萄酒を、ひと口飲んだ。


 今日は、ちゃんと、味がした。


「それから、テオドール殿のこと」


 カタリナは、少し言いにくそうに続けた。


「昨夜、ひとりで、この店に来ていたそうです。店主から聞きました。隅の席で、ずっと黙って、葡萄酒を一杯だけ飲んで、帰られたと。……ひどく、思いつめたお顔だったそうです」


 学の手が、杯の上で、止まった。


 昨夜。

 騒ぎの、翌日の晩だ。


 テオドールは、あの夜、夜番ではなかったはずだ。


「学院の騒ぎで、何か、嫌な思いをされたのでしょうか」

「……さあ。どうでしょう」


 杯を置いた。


 肩の上で、モナが、何も言わずに、学の横顔を見ていた。


     ◇


[王都・ブルーノの店 学]


 翌日、ブルーノの店を訪ねた。


 鑑定の話がどうなったのか、確かめておきたかった。

 それに、ほかにも、一つ用があった。


 帳場の奥から出てきたブルーノは、学の顔を見ると、ほっとしたような、困ったような、妙な顔をした。


「シモン様。ちょうど、お待ちしておりました」

「その前に、一つ、お願いがありまして」

「は、はい」


 学は、少し照れくさそうに頭をかいた。


「前に出していただいた、緑のお茶。あれを、少し分けていただけませんか。代は、ちゃんと払いますので」


 ブルーノの目が、まんまるになった。


 それから、顔じゅうで笑った。


「ええ、ええ、喜んで。あのお茶をお気に召すお方は、王都にはそうそうおりません。西の国の商人に、次の荷で、多めに頼んでおきましょう」


 ブルーノは、棚の奥から錫の缶を取り出し、紙に包んで、学の手に握らせた。

 代は、どうしても受け取ろうとしなかった。


     ◇


 茶の包みを懐にしまうと、ブルーノの顔から、笑みが消えた。


 ブルーノは、店の戸に閂をかけた。


 帳場の引き出しの、いちばん奥から、一通の手紙を取り出す。


 その手が、震えていた。


「今朝がた、また、学院のお使いの方が。あの、片眼鏡の学者様が」


 ブルーノは、両手で捧げ持つようにして、手紙を卓の上に置いた。


 上等な紙。

 封の蝋には、学院の紋。


 宛名を見た。


 ――粉の売り手、シモン殿。


     ◇


 学の背中を、冷たいものが這い上がった。


 シモン。


 前の手紙は、粉の売り手殿、とだけあった。

 学長は、売り手の名を知らなかったはずだ。


「わ、私は、申しておりません」


 ブルーノが、慌てて首を振った。


「シモン様のお名前も、お宿も、何ひとつ。誓って、申しておりません。お使いの方も、私に何も尋ねずに、これだけを置いていかれたのです」


 ブルーノの顔に、嘘はなかった。


 では、どこで。


 肩の上で、モナが、学の耳を引っぱった。


「マーナ。あんた、伯爵の夜会で、なんて名乗ったか、覚えてる?」


 学は、固まった。


 シモン・フォン・ナハトラーベ。


 黒幕の姿で。

 貴族たちの居並ぶ大広間で。

 高らかに。


     ◇


 手のひらで顔を覆った。


 モナに贈られた名前が気に入りすぎて、黒幕の姿でも、普段の姿でも、同じ名を名乗ってしまった。

 カタリナに「同じ名前の怪しい男」の話をされたときも、面倒だからと、そのままにしてきた。


 そのツケが、今、こうして回ってきた。


 学長は、黒幕の男の名として、シモンを知ったのだ。

 粉の売り手が、その黒幕の男だと、もうわかっている。


 だが、この店に出入りしている、冴えない中年のシモンが、その本人だとは、まだ気づいていない。

 だから、この店に、こうして手紙を預けた。

 あの男に至る、ただ一つの道として。


 学の宿は、まだ、誰にも知られていない。


「……シモン様?」


 ブルーノが、心配そうに、学の顔をのぞき込んでいた。


「大丈夫です」


 顔から手を下ろした。


「これは、旦那様に、お渡ししておきます」


     ◇


[王都の裏通り 学]


 店を出て、裏通りに入った。


 人けのない路地の、壁にもたれる。


 手紙を見下ろした。


 粉の売り手、シモン殿。


 学長の、細く角ばった字だった。

 あの夜、蝋燭の炎の向こうで、ひどく年老いた声で、ただ一つの庭、と漏らした男の字だ。


 肩の上で、モナが、羽を、ぱたりと鳴らした。


「どうする、相棒?」


 学は、しばらく、黙っていた。


 逃げることも、できる。

 この手紙を、燃やしてしまうこともできる。


 だが、あの男は、また何かを始めるだろう。

 そして、テオドールは、あの学院に、まだいる。


 ゆっくりと、息を吐いた。


 それから、封の蝋に、指をかけた。


 ぱきり、と、乾いた音がした。

閑話 第二章 こぼれ話

第百三話 椅子から二度落ちた男

[王都・買取商の店 ブルーノ]


 応接用の椅子の座面に、布を張っていた。


 目の粗い、ざらりとした麻の布だ。

 座面の板に、端から端まで、鋲で一つずつ留めていく。

 腰を下ろしたとき、尻が前へ滑っていかないように。


 最後の鋲を打ち込んで、椅子から一歩下がった。


 腰を下ろしてみる。

 尻を、ずらしてみる。


 滑らない。


「……よし」


 満足して、うなずいた。


 これで、三度目は、ない。


     ◇


 店を構えて、三十年になる。


 ドラゴンの鱗を見たのも、妖精の粉を見たのも、この三十年で、一度きりだった。

 いや、一度きりではない。

 同じ男が、二度も持ってきたのだ。


 最初は、春のことだった。


 身なりだけは上等な、どこか冴えない中年の男が、ふらりと店に入ってきた。

 懐から、無造作に包みを取り出して、卓の上に置いた。


 赤銅色の、手のひらより一回り大きな鱗だった。


 椅子から滑り落ちた。


 三十年、この商いで生きてきて、品を見て腰を抜かしたのは、あれが初めてだった。


     ◇


 二度目は、夏のはじめだった。


 同じ男が、今度は鱗を三枚と、親指ほどの小瓶を持ってきた。


 光を含んだ、銀とも金ともつかない粉。

 本で読んだとおりの、妖精の粉だった。


 また、椅子から滑り落ちた。


 一度目は、驚いて。

 二度目は、驚いたうえに、震えて。


 森で拾いました、と、男は言った。


 その言葉を、今でも信じている。

 信じるしかなかった。

 あの男が嘘をついているのなら、もっとましな嘘をつくはずだった。


     ◇


 あれから、いろいろなことがあった。


 学院の手の者が、店に来た。

 目つきの鋭い男たちが、売り手は誰だと詰め寄り、この店はよく燃えそうだ、と棚を眺めた。


 あのとき、生きた心地がしなかった。


 そこへ、あの方が現れた。


 黒い外套の、赤い目の紳士。

 その店主は、私の取引相手だ、と。


 男たちの帳面の文字が、黒い羽になって舞い散った。

 男たちは、青い顔で逃げていった。


 それ以来、あの方を、心の中で「旦那様」と呼んでいる。


 シモン様の、旦那様。

 粉と鱗の、本当の持ち主。


 シモン様は、旦那様のことを聞くと、いつも少し困った顔をする。

 ええ、まあ、そんなところで、と言葉を濁す。

 主人のことを軽々しく口にしないのは、よい使用人の証だ。

 ますますシモン様を信用するようになった。


     ◇


 帳場の引き出しを開けた。


 いちばん奥に、何も入っていない。

 学院の学長の手紙は、二通とも、シモン様に渡した。


 一通目は、粉の売り手殿。

 二通目は、粉の売り手、シモン殿。


 一通目を渡したとき、旦那様をお止めくださいと頼んだ。

 罠に決まっている、と。

 シモン様は、穏やかに笑って、喜んで伺うでしょう、と言った。


 それから四日、ろくに眠れなかった。


 五日目の朝、学院で夜中に大きな騒ぎがあった、と、通りの噂で聞いた。

 賊が入った。

 黒い外套の男が、皆の目の前で消えた。


 帳場で、思わず両手を組んでいた。


 二日後、シモン様は、何ごともなかったような顔で、ふらりと店に現れた。

 少しやつれて見えたが、目の色は、明るかった。

 緑のお茶を分けてくれないか、などと、照れくさそうに言った。


 旦那様は、ご無事だったのだ。

 それだけで、胸がいっぱいになった。


 二通目を渡したとき、シモン様の顔から、さっと血の気が引くのが見えた。


 あのお名前を、誰にも言っていない。

 学院のお使いにも。

 公爵閣下には、一度だけ、お伝えした。

 それも、シモン様のお許しをいただいてからだ。


 客の素性は、明かさない。

 それが、この商いの筋だ。

 三十年、そうやって生きてきた。


     ◇


 帳場の椅子に腰を下ろして、天井を見上げた。


 正直に言えば、これは、商人として、またとない好機だった。


 ドラゴンの鱗を、四枚。

 妖精の粉を、ひと瓶。

 あの方々は、それを、まるで庭の落ち葉でも拾ってきたような顔で、持ち込んでくる。


 あの方々と懇意にしていれば、いずれ、とてつもない利が転がり込んでくる。


 だからこそ、と思った。


 だからこそ、決して、不義理はできない。


 学院の学者様が、どれほど丁寧に頭を下げてこようと。

 公爵閣下が、どれほど大金を積まれようと。

 どちらのシモン様も、売り渡すことはしない。


 もっとも、と自分で自分に苦笑した。


 普段から、不義理などしたことはないのだが。


     ◇


 ブルーノには、夢があった。


 いつか、自分の手で、大きな商会を立てる。

 王都の大通りに、間口の広い店を構える。

 帳場に何人もの番頭を並べて、西の国からも、南の小国連合からも、品が流れ込んでくる。


 そして、それを、息子に残す。


 息子は、今、西の国の商人のもとで、見習いをしている。

 あの緑の茶を分けてくれる商人だ。

 手紙では、毎回、帳面の数字が合わないと泣き言を書いてくる。


 その手紙を、いつも二度読む。


     ◇


 目利きには、自信があった。


 三十年、鱗も、牙も、鉱石も、獣の皮も、山ほど見てきた。

 偽物をつかまされたことは、一度もない。


 だが、目利きだけで、大きな商会が立つとは、思っていなかった。


 それだけで上手くいくと思えるほど、もう若くはなかった。


 人とのつながりが要る。

 信用が要る。

 そして、ほんの少しの、運が。


 その運が、くたびれた中年の男の姿をして、ふらりと、この店に入ってきたのだ。


 応接用の椅子を見た。


 麻の布が、窓から差し込む光の中で、ざらりと光っていた。


     ◇


 店の戸口の鈴が、ちりん、と鳴った。


 帳場から顔を上げた。


 身なりだけは上等な、どこか冴えない中年の男が、戸口に立っていた。

 小脇に、何か、布にくるんだ包みを抱えている。


「どうも、ブルーノさん」


 男は、少し照れくさそうに、頭をかいた。


「ちょっと、見てもらいたいものがありまして」


 ブルーノは、帳場から立ち上がった。


 男に帳場の椅子を勧めると、自分は、麻の布を張ったばかりの椅子に、しっかりと腰を下ろした。


 尻の下で、布が、ざらりと鳴った。


 三度目は、ない。

閑話 第二章 こぼれ話

第百四話 近衛を断った後輩

[騎士団の詰め所 ヒルデ]


 朝の詰め所で、分隊長が、机の上の書類を、じっと見つめていた。


 剣帯を締めながら、その横顔を眺めた。


 書類を読んでいるのではない。

 書類の上に落ちた、一本の髪の毛を見つめているのだ。


 分隊長は、その一本を、指先でつまみ上げた。

 光にかざす。

 自分の額に、そっと手をやる。


 それから、深いため息をついた。


「……分隊長」

「わかっている。見るな、ハルトマン」

「何も見ていません」

「なら、いい」


 分隊長は、髪の毛を窓の外に放った。


 それから、ようやく、書類に目を落とした。


「学院の件だ。中庭に賊が入ったというのに、学院は、捕らえた賊をこちらに渡さん。何も盗られていない、の一点張りだ。……どこか、高い筋が絡んでいる」


 分隊長は、額を押さえた。


 髪のためなのか、学院のためなのか、わからなかった。


     ◇


 詰め所の奥で、ヴァイスフェルトが、若い騎士たちと何か話していた。


 夜警明けの男たちが、くたびれた顔で、パンをかじっている。

 ヴァイスフェルトは、その輪の中で、水差しを抱えて、一人ずつ杯に水を注いで回っていた。


「ヴァイスフェルト、俺にもくれ」

「はい、どうぞ」

「なあ、お前、昨日の市場の喧嘩、一人で止めたって本当か」

「一人ではありません。ハルトマン殿が、後ろで剣の柄に手をかけていらしたので」


 男たちが、どっと笑った。


 その様子を、戸口から眺めていた。


 ついこのあいだまで、詰め所の騎士たちは、ヴァイスフェルトを遠巻きにしていた。

 伯爵家の令嬢。

 王国の盾の娘。

 誰も、どう口をきけばいいのかわからなかった。


 それが、今は、平気で「お前」と呼ばれている。


 ヴァイスフェルトも、それを、少しも気にしていなかった。


     ◇


 近衛を断った、と聞いたのは、三週間ほど前のことだった。


 研修の最後の日、ヴァイスフェルトは、詰め所の戸口で、まっすぐにこちらを見て言ったのだ。


 近衛には、行きません。

 これからも、市井で働きます。

 ご指導、よろしくお願いします、ハルトマン殿。


 そのとき、呆れた顔をしてみせた。


「物好きなやつだ。王宮の近衛なんて、誰でも行けるところじゃないぞ」

「存じています」

「市場で、酔っぱらいの吐いたものを踏むこともあるぞ」

「それも、存じています」


 ヴァイスフェルトは、少しだけ笑った。


 それ以上、何も言わなかった。


 言わなかったが、その晩、ひとりで、安い酒場で一杯だけ多く飲んだ。


     ◇


[王都・西の市場 ヒルデ]


 その日の昼、西の市場で、騒ぎが起きた。


 果物屋の屋台の前に、立派な馬車が止まっていた。

 屋台がひっくり返り、林檎と梨が、石畳の上に散らばっている。

 屋台の主の老人が、膝をすりむいて、座り込んでいた。


 馬車の扉の前に、仕立てのいい服を着た若い男が立っていた。

 どこかの家の、次男か三男といったところだろう。


「騎士団だ。何があった」


 声をかけると、若い男は、こちらの顔と、日に焼けた腕と、平民の騎士の剣帯とを、順番に眺めた。


 それから、鼻で笑った。


「御者が、少し手綱を誤っただけだ。屋台の代なら、払ってやる。それで済む話だろう」

「この者が、怪我をしています。どの家の馬車か、名を伺いたい」

「平民の騎士に、名乗る筋合いはないな」


 若い男は、こちらに背を向けかけた。


     ◇


「名乗る筋合いは、ございます」


 すぐ横から、静かな声がした。


 ヴァイスフェルトが、一歩、前に出ていた。


 若い男は、振り返って、ヴァイスフェルトを見た。

 騎士団の制服。

 黒髪を束ねた、切れ長の目の娘。


 若い男の顔色が、変わった。


「……あなたは」

「王国騎士団の、カタリナ・フォン・ヴァイスフェルトです」


 ヴァイスフェルトの声は、少しも高くならなかった。


「こちらは、私の上官の、ハルトマン殿です。上官のお尋ねには、答えていただきます。どちらの家の馬車ですか」


 若い男は、口を開きかけて、閉じた。


 それから、ぼそぼそと、家の名を告げた。

 屋台の代と、老人の手当ての代を、その場で、きちんと置いていった。


     ◇


 馬車が去ったあと、果物を拾い集める老人の手伝いをしながら、黙っていた。


 ヴァイスフェルトも、黙って、林檎を拾っていた。


 林檎を一つ、籠に戻した。


 騎士として働くからには、貴族に話を聞かねばならないこともある。

 問いたださねばならないこともある。

 平民の騎士の言葉を、貴族は、なかなか聞こうとしない。

 わかっていたことだ。


 わかっていて、今、自分は、後輩に助けられた。


 それも、伯爵家の名を、盾にさせて。


 恥ずかしかった。


 ヴァイスフェルトは、あの若い男の前で、自分を「上官」と呼んだ。

 伯爵家の三女が、平民の叩き上げを、当たり前のように、上に立てた。

 部下として扱われて当然だという顔で。


 あれは、自分には、できないことだった。

 立場が逆なら、きっと、できなかった。


 林檎の土を、袖で拭った。


 このままでは、いけない。


 いつまでも、この後輩の家の名に、支えられているわけにはいかない。

 平民の言葉でも、貴族に口を開かせる騎士にならなければ。

 この後輩を、ちゃんと、上の者として導かなければ。


     ◇


[夕暮れの市場 ヒルデ]


 老人に礼を言われて、二人は、屋台を離れた。


 残りの警邏を終えて、夕暮れの市場を、並んで歩く。


 ヴァイスフェルトは、いつものように、こちらの半歩後ろを歩いていた。


「……さっきは、助かった」


 前を向いたまま言った。


「いえ。差し出がましいことをいたしました」

「差し出がましくはない。だが」


 少しだけ言葉を探した。


「次は、私が、口を開かせる。お前の家の名を、使わずにな」


 ヴァイスフェルトが、目を見開いた。


 言ってから、気づいた。


 お前、と呼んだ。

 言い直さなかった。


 ヴァイスフェルト殿、と言い直す気に、なぜか、ならなかった。


 気まずくなって、前を向いたまま、少し足を速めた。


 半歩後ろで、ヴァイスフェルトが、小さく笑う声がした。


「はい、ハルトマン殿」